地平線で再開した君
新作です
それは、幼い頃の記憶……。
窓のあいた室内には、外から心地良い風とともに近くの公園で遊ぶ子供たちの声が入る。
しかし、室内にいる僕と君には聞こえない。
まるで夢に揺蕩うようなピアノの音色が君の指から溢れ、僕は目を閉じながら君の奏でる音色に身を任せる。
「~♪~♪……ねえ、今日はどうだった!?」
「今日も凄く綺麗だったよ」
「ありがとっ」
先程までの美しい指の動きと可憐な音色はどこへやら……まるで跳ねるように傍のソファで聴き入っていた僕の隣へ座る。
幼馴染の彼女の自宅には大きなピアノが置いてある。
それは彼女の母親が原因不明の全盲症になり離れた場所で療養するまで弾いていた家族の記憶。
それが錆びないように、彼女は毎日ピアノを弾いていた。
今は離れて暮らす母親に聞かせたいのだと、上手になった姿を見てもらいたいのだと、毎日横に僕を座らせて聞かせ続けた。
最初は、今だけだろうな。なんて僕は思って聞いていたが、毎日一生懸命にピアノへ向き合い続ける彼女の姿と徐々に上手くなるピアノの技術に見惚れるように離れることは出来なくなっていた。
「……もう、お母さんにも聞いてもらえるかな」
「大丈夫だよ。今度会うときに聞かせてあげなよ」
「うん……それとね……」
「ん?なに?」
いつもの陽気な彼女が影に染まるように表情を俯かせる。
パッと何か覚悟を決めたのか彼女は顔を上げて僕をまっすぐに見つめる。
僕は、何かしたのだろうか。またお菓子でも欲しいのかな。なんて考えてしまっていた。
彼女の一世一代の覚悟を決めるような告白は——。
「わたし、ピアニストになりたいの!」
「……え、うん。そうだと思ってたよ?」
「……そうなの?」
きょとんと首を傾げ僕を見る彼女に僕も決めていたことを告げた。
「きっと君はピアニストになる。だから僕はお医者さんになるよ」
君がお母さんを追いかけピアノを弾くのなら、僕は君のお母さんを苦しめた病を治すのだと。
僕は心に決めていた。
「じゃあ、わたしはピアニストで」
「僕はお医者さんとして」
「「二人でわたしの(君の)お母さんを治そう」」
その誓いは今も色褪せずに、心の記憶に残ってる。
その誓いを抱いた僕は、大人になった今、海の先にある地平線を眺めながら呟いた。
「もう少しで……君に追いつくよ」
彼女は10代で世界的ピアニストとして海外へ渡った。
僕は日本で医師となり、経験と実績を積んで明日から海外の病院へ向かう。
恩師の先生に紹介してもらい、より多くの症例、より多くの経験と技術を学ぶために、
海外へ渡ってからの毎日は目が回るように過ぎていった。
発達した医療技術、数多くの症例、振り回されるような日々を過ごしながらも堅実に経験を積み、信頼を重ね、日本人初の海外での医学賞を取ることも出来た。
時折聞こえる彼女の名前、テレビから流れる彼女の音色。
今も彼女は頑張っているのだと思えば、僕はそれ以上に頑張ることが出来た。
そんな中、信じられないニュースを聞くことになる。
『天才ピアニスト、全盲になる。復帰は絶望的か』
そのニュースが流れるテレビの中心には、かつて有名なオーケストラでピアノを弾いていた彼女や、数々のコンクールで賞を取る彼女の姿が流れていく。
どうして。
なぜ。
そう考えるのは簡単だった。
でも僕が最初に考えたのは「彼女は今どこにいるのか」であった。
自分の心を落ち着かせるために僕は彼女を探し続け、ついに居場所を知った。
難しいことではなかった。
天才ピアニストのために世界中の有益な情報を持っていそうな医師へ連絡が回ったのだ。
何しろ、突然、完全な全盲症になるなんて、有り得ない。
彼女の母親もそうだ。
そのときは何も出来なかった。
涙を流す彼女に声をかけることも、呻く彼女の肩を支えることすら。
でも、今の僕は違うだろ?
何のために医療を学んだ。
何のために海外へ来た。
彼女との誓いを守るため、彼女の母親を治すため、今の彼女を救うため。
僕は一人の医師として、彼女を救う。
————————————
突然、前が見えなくなった。
これまで見えていた景色が、これまで自然に触れていたピアノが、何もかもが分からない。
真っ暗な世界で、わたしは見えない涙を流した。
暗闇の中、希望も未来も全てが見えなくなってしまった。
ピアニストであるわたしの為に世界最高峰の医師の方々が手を尽くしてくれているらしい。
でも、分かっていた。
ピアニストとして音に触れ続けてきたわたしだから分かってしまった。
わたしを診る先生たちの声音が語っていた。
「これは、どうにも出来ない」と。
わたしも母さんと同じなのか。
ピアニストを目指したのは無駄だったのか。
入院先の病院で、そんな無駄なことばかり考えてしまう。
泣き続け、涙が枯れて、疲れたように眠る寸前。
思い出すのは、いつも決まって同じ光景。
幼い頃、わたしの我儘にいつも暖かい笑顔で寄り添ってくれた男の子。
下手くそな頃から聞き続けてくれた優しい男の子。
誓いあった、あの男の子は今どこで何をしているのだろう。
そんな優しい想い出とともに眠るのだ。
景色が、ピアノが見えなくなってから数ヶ月。
わたしを担当していた医師の先生が声を荒らげて病室に入ってきた。
「起きてるかい!……君の治療法が見つかったかもしれない!詳しいことはまた言うが、受けるかい!?」
どういうことだ。
同じ病に掛かっている人は数少なく、これまで不治の病として考えられていたと聞いたはず。
その治療法がたった数ヶ月で見つかっただなんて、まるで治療法を見つけた人だけが不治の病を治せると信じ続けていたかのようで……。
動揺するわたしだったが、答えは決まっていた。
「——受けます」
まるで流れる風のように、わたしは治療を受けられる病院に移動し、心地良いほど流されるように手術が決まった。
それまでお世話になった先生に聞いた話では、治療法を見つけたのは若い日本人の先生で、わたしと同い年ということであった。
運命にも似たそんな出逢いに感謝しつつ、目を治したあかつきにはきっとその先生に恋をするだろうな、なんていつの間にか心に少し余裕を持っていた。
どうしてだろうか。
全く知らないはずなのに、わたしはその先生を信頼していた。
きっと治してくれるだろうと。
暗い影を落とす瞼。
手術は終わったようだ。
でも目を開けるのが怖い。
もし、瞼を持ち上げた先が、また暗闇だったら……。
不安なわたしは手術を勤めた先生に成功したのか失敗したのか聞くため目を閉じたまま暗い中で、ナースコールを手元で探そうとした。
「~♪~♪……」
聞こえてきたのは……かつて弾いていた懐かしいピアノ。
下手くそで、だけどずっと聞いていたいと思えるほどに心地良い音は。
あの日の想い出をリピートするように、病室の窓から流れ込む風とともにわたしの耳へ届いた。
「……その曲……」
そう呟いたわたしの声に応えたのは、温かさを含んだ優しい男性の声。
言葉を発する前に大きく息を吸う癖も、その温かい声も、わたしは知っていた。
「……ようやく、ここまで僕も弾けるようになったんだ」
「……あなたは、いえ、もしかして……」
「目は完治しているかな?久しぶり、少し遅くなったし、日本から離れて地平線の先まで来ちゃったけれど、君との誓いを守りにきたよ」
「…………ばかっ。せっかく治ったのに……見えないでしょっ」
ぼんやりとする視界に入ってくる光、その陽光の中で、大人びた、かつての少年は微笑んでいた。
でもわたしには、まだ見えない。
潤んだ目を拭い、わたしは彼に抱きついていた。
「……また、君のピアノが聞きたいな」
「何度でも聞かせてあげるわよ!」
わたしの瞳には波打つ涙の波紋に浮かぶピアノしか映らない。
でも、もう大丈夫。
この指で奏でる記憶があれば。
この心で感じる彼の温かさがあれば。
わたしは心を癒すピアニスト。
わたしの心は隣で聴いてくれる貴方が癒してくれるから。
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