嫌いだよ、チェル
「……まさか、チェルのこんな姿を見ることがあるとはな。人生とはわからないものだ。あまり、気にしすぎるなよ……チェルはまだ逃げ続けなきゃいけないんだ。足を止めて後悔するよりも、前を向いて歩き続けるんだ……わかったな?」
「無理……一人じゃ無理だよ……カイナ兄が居てくれないと、僕生きていけないもん……」
「それはそうだろうな。だから、チェル……人を頼れ。俺以外にも、助けてくれる人間は居るはずだ。聖剣はあくまで道具だ……頼るなら人を頼れ。大事なのは感謝と謝罪……憶えてるな?」
「憶えてない……カイナ兄じゃないとやだ……。僕を助けてくれるのは、カイナ兄だけだもん……カイナ兄だけが……死なないでよ、カイナ兄……」
カイナの顔から生気が失われていくほどに、チェルの心も折れていった。カイナの死を意識するほどに、これからの一人ぼっちを意識してしまい心が絶望していった。
カイナの言う通り、チェルは一人では生きていけない。カイナは人を頼れと言ったが、悪魔と蔑まれるような人間を助けてくれる人がいるとは思えない。
そんなチェルを見て、カイナは溜息を吐いた。優しく慰めるのではなく、カイナはチェルに呆れていた。
「それでいいのか? チェルがなんと言おうと、俺はもう死ぬ……それなのに、弱音を吐いて泣いてていいのか? 最後に聞いておきたいことは無いか? ここでの後悔は、それこそ取り返しがつかないぞ……」
最期の時が迫っていても、カイナは変わらなかった。優しくなくて。チェルへの好意なんて微塵も感じられなくて。ただひたすらに正論ばかりをぶつけてくる。
だからこそ、わからなかった。今この時になっても、チェルには理解できなかった。
どうして、カイナはチェルを命をかけて守ってくれたのか。
「ねえ……カイナ兄?」
それは知りたいけれど、聞きたくはないこと。予想はしているけれど、間違いであって欲しいこと。
だけどカイナの言う通り、後悔だけはしないように。チェルは、カイナに問うた。
「カイナ兄は……僕のこと嫌い?」
「……好きだと思うか?」
「そうじゃない……誤魔化さないで……ちゃんと、言って?」
「……」
涼やかな川のせせらぎでも洗い流せない重たい沈黙。チェルの瞳を見つめながら何か考えている様子のカイナだったが、やがて瞼を数秒だけ閉じてから、もう一度チェルを正面に見据えて話し出した。
「まあ、最期だからな……嫌いだよ、チェル。俺はお前のことが、もうこの数年の間はずっと嫌いだ」
何でもないことのように、呟くように、まっすぐにチェルを見つめながら、はっきりとカイナは告白した。好きではなく、好きではないのでもなく、嫌いなのだと。
「っ……そっか……そう、だよね……」
心の痛みに呼応したかのように、鼻の付け根がきゅぅっと痛んだ。
カイナを死へと追いやった原因。度重なる忠告にも耳を貸さず、言う事も聞かず、勝手に死地に飛び込んだ挙句に兄を身代わりにした弟。それがチェルだ。
カイナにとっては悪魔よりも性質の悪い死神であり、好かれるなんて以ての外。嫌われていることは予想できたことであり、わかりきっていたことであり、それでも直接言葉にされるのは堪えた。
今のチェルは、カイナの事を好ましく思っていたから。
「わがままで、自分勝手で自由気ままで……そのくせ正義感だけはやたら強くて、意固地で……聖剣の加護まであって、俺は雑魚同然の扱い……兄としての威厳も、面子も、お前は全部俺から奪っていった……」
「っ……それなら、どうして? どうして、カイナ兄は嫌いな僕の事を守ってくれたの? 嫌いな僕なんかの為に、命を懸けてくれたの? ……やっぱり、お父さんに言われたから?」
嫌いな人間の為に命を懸ける人間なんて居ない。カイナがチェルを守ったのはチェルのためではなく、父のため。フートラ・ユーリィに頼まれたから、カイナはチェルをその身に代えて守り通した。
そう考えたチェルであったが、カイナはそれを否定した。
「ご当主の意思は関係無い。仮にご当主が俺以外の人間をチェルの亡命に付き添わせようとしていたなら、俺は全力で反対しただろうな……お前を守ったのは、あくまでも俺自身の意思だよ、チェル」
「わかんない……。だって、僕のこと嫌いなんでしょ? ただの照れ隠し……? ほんとは僕のこと好きなの? だから守ってくれたの?」
「嫌いだよ……チェル。俺はお前のことが嫌いだ……でもな――」
カイナは左手を持ち上げると、人差し指でチェルの頬を撫でた。カイナの手で切った輝く金髪をさらさらと流しながら、柔らかな頬を感じるように。
そしてカイナは、チェルの顔を見据えながら、告白した。
「――お前が居なければと思ったことは、ただの一度も無いよ」
「っ!」
その声から。その顔から。その手から。
その吐息から、その表情から、その指先から。
その息遣いからも、瞳からも、仕草からも。
その全てから伝わってきた。兄が弟を想う気持ちが、チェルの心の奥底に反響して全身に伝播した。
どうして、今この瞬間まで、気づけなかったんだろう。そんな後悔が、チェルの瞳から溢れ出した。
「ずっとお前の傍に居続けたのは、俺自身がそうしたかったからだ。今この瞬間も、俺は俺自身の意思でチェルの傍に居るんだ……。本当は、もっと傍で守ってやりたかったが……ごめんな、弱いお兄ちゃんで……」
「そんなことっ、ないっ……ありがとうっ……カイナ兄……守ってくれて、ありがとう……。僕のお兄ちゃんで居てくれて、ありがとう……」
カイナは薄く笑みを浮かべながら、満足気に深く息を吐いた。
「聖剣が戻ったとはいえ、油断はするなよチェル……所詮はたった1本だ。俺の死体も気にしなくていいから……すぐに荷物をまとめて西の方へ向かうんだ。俺は、もう傍に居てやれないから……お前のことは、もう守ってやれないからな……」
「違うよ……カイナ兄はずっと僕の傍にいる……。たった1本じゃない……カイナ兄の意思が宿った、大切な一振りが……ずっと傍にいてくれるから……絶対、僕のこと守ってくれるもん……」
チェルはカイナの左手をしっかりと両手で握った。その指先に、第二関節に、手の甲に、チェルという存在を刻みつけるように頬を寄せた。もう感覚も薄れているカイナでも、しっかりとチェルを感じ取れるように。
「そうか……そうだといいな……。頑張れよ、チェル……」
「カイナ兄っ――っ!」
カイナの瞼が落ち、意識も落ちた。その瞼は二度と開くことはなく、カイナが意識を取り戻すことも無い。
いつもチェルの名前を呼んでいた唇も、最期まで優しくチェルの頭を撫でることは無かった掌も、二度と動くことはない。
「ありがとうっ……ありがとうっ、カイナにぃっ……ごめんねっ……ごめんねぇっ……ひっ、くっ――!」
泣きすぎて涸れていたと思っていた涙がわんわんと溢れ出す。身体を流れる血液が全て涙に変わり果てても、それでも止まらないと思えるほどに。
カイナの魂を喰らい、意志を受け継いだ聖剣はただチェルの傍に浮き続けていた。カイナが死んだこの瞬間も、チェルを守り続けていた。剣からは優しさなんて微塵も感じられないけれど、チェルを守るという意思だけは明確で、それが余計にカイナの死を感じさせた。
「うっ……ううぅっ……うわああぁぁ――っ!」
カイナの遺体に縋りつくチェル。心の底から湧き出て止まらない悲しみを、後悔を、感謝を、悼みを、ただ湧き出るままに放出し続けた。
血を分けた兄に告げる最初で最後のお別れ。聖剣は静かに、チェルを見守り続けるだけだった。




