優しく抱きしめてもくれないし、頭を撫でて慰めてもくれない
「……どうして? どうしてなの……?」
それは意図せずして漏れ出した呟きだった。チェルの唇は無意識に、不条理への嘆きを紡いでいた。
カイナは黙って聞いていた。焚火の火で照らされるチェルの涙を、静かに見ていた。
「髪を切られて……トマトも食べられなくて……今度は虫……? どうして、こんな目に遭わないといけないの? 僕、王子様だったんじゃなかったの? 聖剣の勇者様じゃなかったの……? 知らない人に怯えて、お店で物を買うこともできなくて……どうして、こんなひもじい思いをしないといけないの?」
イクスガルドで民に追われ亡命して早一日。城とは比べ物にならない過酷な状況に、チェルの心は潰れかけていた。
質素な食料によって栄養が不足する身体。虫すら食べなければならない状況にすり減らされる精神。
好きだった自身の長髪は呆気なく兄の手によって奪われ、そんな優しくない兄に頼らないと今日を生きることもままならないジレンマ。
聖剣の加護を得た最強の王子様だったチェルは、今では盗人に身を落としかねない最弱の子供だ。そのギャップが、より一層チェルの心を苦しめていた。
「ツケを払っているだけだろう。好き勝手にしていた分の自由を拘束されているだけ……人の命を脅かしていたのだから、逆に脅かされる状況になっても文句は言うべきじゃないな」
カイナの言葉は冷たかった。チェルが弱音を吐いても、挫けそうになっていても、その態度は変わらない。
優しく抱きしめてもくれないし、頭を撫でて慰めてもくれない。カイナはただ正しい言葉をチェルにぶつけるだけであった。
カイナは良くも悪くも城に居た頃から変わっていないのかもしれない。チェルを年相応の子供として甘やかせてくれた人は、数年前に死んでしまってそれっきりだ。
「何それ……? それじゃあ、僕が悪者みたいじゃん……。皆のことを痛めつけて、脅して、怯えさせて……身勝手に殺していたって言うの……? ……カイナ兄は、僕のことをそう思ってるの?」
「イクスガルドから逃げ出した時の光景をもう忘れたのか? 浴びせられた声は? 聖剣という後ろ盾を失ったチェルに対し、どれだけの人が城が押し寄せていた? チェル自身はどう思っているんだ?」
「っ……それ、は……」
容赦の無いカイナの言葉は、チェルの本能が忘れようとしていた記憶を無理矢理に思い起こさせた。
ハリボテの聖剣を投げただけで恐怖に慄く人々の姿が、今も脳裏にこびりついている。民にとって、チェルはいたずらに人を傷つけるような存在だった。
憤怒に塗れた糾弾の声が、今も耳の中で反響して止まらない。彼らの腹の底に、チェルへの親しみは微塵も存在していなかった。
視界を埋め尽くすほどの人の声によって、チェルの背と心には殺人鬼という汚名が刻まれてしまった。もはや、チェルは国の仲間ですらなく魔物も同然だった。
答えなど、カイナが語るまでもなく定まっている。今のこのチェルの状況が、皆からどう思われていたかを如実に表しているのだから。




