無垢すぎる正義と、圧倒的な力を持ち合わせてしまった聖剣に愛されし子
『……?』
誰もが状況を正しく理解できていなかった。随伴していた兵たちも、目を逸らすことを許されていなかった民たちも。ダズの家族も、吊られていたダズ自身も。カイナも……そしてチェルですらも――いや、聖剣の主であるからこそ、誰よりもチェル自身が状況を把握できていなかった。
ダズを吊っていた聖剣。それが突然地に落ちた。当然吊られていたダズも地面へと落下し、受け身も取れずに倒れ伏していた。
「……チェル、疲れているからといって気を抜くな」
疲労によってチェルが聖剣の操作を誤ったのだとカイナは思った。寝ている時ですらチェルは聖剣を落としたことは無かったが、それでも気を抜いたのだとしか考えられなかった。聖剣を操る感覚などわからない人間では、そこまでの理解が限界であった。
「? ……うん。えっと……?」
チェルが聖剣を操作するのに身振りも手振りも必要無い。視界に収めている必要すらなく、チェルはただ意思のみを以て聖剣を従えている。
それ故に、チェルが困ったような様子を見せていても誰もが気にも留めていなかった。ただ、早くいつものように聖剣を動かせばいいのに、としか考えていなかった。
「……チェル?」
「? …………? ねえ、カイナ兄……あの聖剣、何か――」
まるで助けを求めるかのようにカイナの名を呼んだチェル。その言葉が言い終わらぬ内に、今度はカイナの身に剣の雨が降り注いだ。
「なっ!?」
チェルに付き従うように浮遊していた6本の聖剣が一斉に石畳へと落下し、その凶刃がチェルの近くに居た者に降りかかる。
カイナは腕を落下する聖剣によって浅く裂かれ、その手から手綱を奪われた。
チェルを乗せていた馬は尾の付け根に聖剣が刺さり、制御を失ったままに暴れ始めた。
「えっ? わぁっ!?」
暴れ跳ねる馬の背の上のチェルは、今にも落馬しかねない様子だった。手綱を握ることもできずに鞍の上で丸まろうとしているが、体重が軽すぎるせいか鞍にしがみつくことすらできていない。馬が跳ねるのに合わせて、ただ上下に揺さぶられるばかりだ。
「チェル! 何でもいいからとにかくしがみつけ! 絶対に落ちるなよ!」
暴れ始めた馬をチェルの細腕で抑えられるはずもなく、落馬して頭を踏まれるようなことなどあっては致命傷になりかねない。カイナは馬をなだめようと荒ぶる手綱を掴み直したが、その時には既にチェルの身体は宙へ放り出されていた。
「ふぎゅぅっ!?」
受け身など取れるはずもなく、チェルは尻から着地すると石畳の上を転がった。そのあまりに身軽な身体はゴロゴロと転がってカイナの元から離れていき、やがて満身創痍の男の元へとたどり着いた。
「っ!?」
「痛い……」
突如目の前に現れたチェルに目を見開いたダズ。一方のチェルはまだ事態を把握しかねているのか、目の前に殺意むき出しの男が居るというのに呑気に痛みに身悶えしている。
「チェルっ……ダズ、止めろ! 死にたいのか!!」
一度裏切りに身を落としたダズがカイナの忠告に耳を貸すはずもない。ダズは身構えることすらしないチェルの襟を掴むと、右手を振りかぶった。
「……」
自分は今殴られようとしている。それを理解しても尚、チェルに慌てる様子はない。ただ落馬の痛みで涙を滲ませた瞳を、無感情にダズに向けているだけであった。
眼前で大剣を振り下ろされようとも、チェルは目を瞑ることすらしなかった。仮に目を瞑っていようとも、その身は聖剣の自動守護によって守られてきた。チェルの反応は至極当然のものであり、それは周囲の人間も理解していた。
チェルを信奉する者たちは、目の前で振るわれる聖剣の絶技を期待して目を輝かせていた。
チェルに恐怖している民たちは、人が殺される瞬間を見ていられず目を背けていた。
ダズの家族は、眼前で命を張る男の無事を心の内で祈った。
ダズ自身は、ほぼ自殺に等しい心持ちで拳を握っていた。
チェルの兄であるカイナは、間に合わないとはわかっていても止めに入らざるをえなかった。
その場に居る全員がダズの死を予期していた。誰もがダズの死を揺るぎないものとして捉えていて、誰もが心の内にただ一つのひっかかりを感じていた。
チェルが落馬に至った原因。拘束されていたはずのダズがチェルの胸倉を掴めてしまっているその起因。いつだってチェルを守るように浮遊していた聖剣が、一つ残らず地に落ちたという事実。
「その御命、頂戴するぞ! チェル・ユーリィ!!」
イクスガルドの全域にまで響かんばかりの咆哮。ダズ・ブラウンの魂を込めた遺言。守るべき家族の居る男に、裏切り者としての汚名を背負って死ぬことを選ばせた、幼い少年の名前。
無垢すぎる正義と、圧倒的な力を持ち合わせてしまった聖剣に愛されし子。カイナの目の前で、手の届かない場所で、また一人チェルの犠牲が増え――
「っ!?」
その驚愕は、ダズの口から漏れていた。切り落とされた己の手首――ではなく、振り抜けてしまった己の拳を、ダズ自身が信じられていなかった。
いつもは果実の汁で汚れているばかりだったチェルの頬。その白い肌に、赤黒い血がべっとりと付着していた。




