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8・はぐれる

 波久礼さんとの初対面。

「やあ。きみ達が、えーと……、大家さんが言っていた、新しい住人かい?」

「はい」

 ボロアパートに引っ越してきたその当日。わたしとカノンはまず、カノンの隣の部屋の住人である、波久礼稔という人間に挨拶することにした。アパート唯一の男と交流を持っておけば、いずれ役に立つかもしれないという、中学生が頑張って捻り出したような打算によるものだった。

 実際、この時はギリギリ中学生だったはずである――三月三十日。既に中学校は卒業しているのだが、高校にはまだ入学していない。

 引っ越しも入試も何もかも、本当に大変だった。二人で北海道に進学しようと決めたのが去年の十一月だったため、いきなりの進学先変更に、親と中学が頭を抱えていた。受かったからいいものの、受からなかったらどうなっていたことか……。

 勉強もした(させられた)し、親や先生の説得、行く先の選択、書類の提出から何から何まで、かなり忙しかった。そしてようやくここに辿り着いたというわけである。

 そしてカノンの隣の部屋の住人――波久礼さんの第一印象は、普通で気さくな人というものだった。

「よろしくね、ミラさんと……カノンさん?」

「よろしくするよ。えーと……」

「波久礼稔、だよ。カノンさん?」

「あぁ、よろしく。波久礼さん」

 カノンと波久礼さんが握手を交わす様子を、わたしはモヤモヤしながら見ていた。もしかすると、わたしは波久礼さんに嫉妬していたのかもしれない。

 わたしも、カノンに倣って名前を呼ぶ。

「……波久礼、さん」

「うん。よろしくね、ミラさん」

「はい。よろしくお願いします」

 意外に思われるかもしれないが、実はカノンよりもわたしの方が礼儀は正しいのだ。きちんと敬語を使えるという点においてだけは、わたしが唯一カノンに勝っている部分である。無論、そんなものが役に立つ世界ではないのだが。

 この世界に、正解はないのだから。

「えーと、これ、つまらないものですが……」

 わたしは、持っていた紙袋を目の前の波久礼さんに差し出す。波久礼さんは驚いた顔をして言った。

「すごいね。最近の中学生――いや、もう高校生なんだっけ。最近の子は、礼儀正しいみたいだ」

 わたし達を最近の子の基準にしないで貰いたい……。粗品について、用意した方がいいと教えてくれたのはわたしの母親である。

 だから、褒めるならわたしの母親を褒めて欲しい。しかし、そんなことをわざわざ言う必要はないので、わたしは照れるような表情をして、頬をかいた。

 紙袋を受け取った波久礼さんは訊いてきた。

「中身はなんだい?」

「うなぎパイだよ。こういうのは、消えものの方がいいかと思ってね」

 カノンは堂々とそんな嘘をついた。実際、そう思ったのはカノンでもわたしでもなく、わたしの母親である。

 というか一般常識でもある。まぁ、今時はそもそも挨拶回りをしないというのが一般的なのかもしれないが……。

「へぇ、そういうものがあるんだね……。ありがとう。大事に食べるよ」

「とっても美味しいので、ぜひ」

 わたしは人当たりのよさそうな笑顔を浮かべ、そう言った。


 北海道北斗市のボロアパートに引っ越してから、およそ数ヶ月が経った八月――もう、完全に夏である。わたし達は元々、静岡県の浜松市に住んでいたので、その時と比べればかなり快適に夏を乗り切ることができるだろうとひそかに期待していたのだが、残念ながら普通に暑かった。浜松市と比べれば、何度かは下がっているようなのだが……、しかし、それは何度かだけである。

 気温が30℃だろうが25℃だろうが、暑いことに変わりはないのだ。

「マジであっつい! 暑いし暑いですよ波久礼さん!」

「うるさいなぁ」

 八月一日、夏休みの真っ只中――わたしは、波久礼さんの部屋の中に居た。

 波久礼さんと二人きりである。

「夏は平等だよ。暑いのはミラさんだけじゃない」

「それはそうですけど……」

 わたしはわりかし、波久礼さんに懐いていた。甘えていた、と言った方がいいのかもしれない。

 そう――わたしは年上の彼女持ちの男に甘えていたのだ。いや、これはかなり言い方が悪いようにも思えるが、しかしわたしと波久礼さんの関係を言葉で表すのであれば、こうなることは必至だった。

 カノンを除いて、わたしと一番仲のよかった人間は波久礼さんだったのだ。ちなみに、カノンは殿堂入りである。

「夜なのにどうしてこんな暑いんだろ……。しかも、北海道なのに。波久礼さん、知らない?」

「僕には分からないな。ごめんね」

 ちなみに、現在時刻は午後の二十時である。どうしてこんな時間にわたしが波久礼さんの部屋に居るのかと言うと、お寿司を食べさせてもらっていたのだ。

 何を言っているのか分からないという人もいるかもしれないが、そのままである。波久礼さんは普通に変人なので、一人暮らしで一人であるにも関わらず、何故か五人前の寿司を頼んだのだ。このアパートの住人が全員集合しても余ってしまう量だった。

 そして案の定困った波久礼さんが、唯一暇だったわたしに助けを求めたというわけだ。カノンは病院、常盤さんは仕事でこのアパートには居ない。

 しかし運の悪いことに、わたしは度を越した小食だった。それでも頑張って、四貫食べ切ったことを評価して欲しい。

 別に、本気を出せば普通分ぐらいはいけるけどね。でも、人の不幸は蜜の味である。

 完食しようと苦しみながらも頑張ってる波久礼さんが大好きだよ、とわたしは馬鹿にしながら言った。

「……馬鹿にしてるよね?」

「うん」

「……もう、完全に舐められているみたいだね」

 もう諦めた、と言わんばかりに波久礼さんは箸を置いた。まぁ、どうせ二人もいつかは帰ってくるのだ。フードロスにはなるまい。なったとしても、だから何だという話ではあるが。勿体ないとは思うが、それはわたしに関係ない話である。

「冷たいね」

「その分、体温が高いんですよ。触ってみますか?」

「彼女持ちにその質問はアウトだよ」

 アウトギリギリだと思うのだが、しかし悪意はあったのでわたしは何も言い返せなかった。

「人の彼氏を寝取るのが趣味なのかい」

「いや、人を不幸にするのが好きなだけですよ」

「より悪質だね」

 もちろん、冗談である。他人を不幸にするよりも、自分達が不幸になった方が早いのだ。だから、わざわざ他人を不幸にしてやる必要はない……、もっとも、わたし達は不幸にすらなれないのだが。

 身内を不幸にする方が早い、と言い換えた方がいいかもしれない。

「より最悪だよ」

「最悪が売りなんです」

 そんな軽口を叩き合いながら、もうすっかり完食を諦めて、波久礼さんは言った。

「……ねぇ、ミラさん」

「はい?」

 何か真剣な話かな、とわたしは身構えてみる。しかし、そんなことに意味なんてないだろう。

 だって――どうせ、驚かないのだから。

「僕、結婚するんだ」

「そうですか。おめでとうございます」

 それはあまりにも口だけの祝い言葉だった。言祝ぐ、という動詞がこれほどまでに似合っていない人間も珍しいだろう。

 人を祝う、人の幸せを喜ぶという概念が理解できないわたしに、似合うはずもないのだが。

「ありがとね。でも、思ったより驚いてはくれなかったな」

「結婚するんだろうなとは思っていましたから」

「何が?」

 波久礼さんのその問いかけは、あまりにも適当だった。わたしの言葉に意味不明でない部分は見当たらない。

 もちろん、わたしは何も答えない。何故なら、わたしの言葉は波久礼さんとは違う意味で適当だったからである。いい加減なことしか言わないのがわたしであり、もしミステリ小説の語り部なんかになったら、速攻で信頼できない語り部の仲間入りである。

 しかしこの時、実際にそんなミステリじみたことが起こるとは思っていなかった――が、それは置いておいて。

 わたしは訊いた。

「結婚式はいつなんです?」

「まだ未定かな。何なら、やるかどうかも分からないよ」

「えー、やりましょうよ」

 結婚式は人生で一番幸せな日になるかもしれない重要なイベントだ――と、ネットで見たことがある。

 実際どうなのかは、結婚したことがないので知らない。でも、人生で一度(個人差)の晴れ舞台だ。お嫁さんのためにも、式は挙げた方がいいと思う。他人事だけど。

「うーん、どうなんだろうね。僕はそこまでやりたいと思わないけど、ちな――妻がどう思うかだね」

「お嫁さんは気を遣っちゃうでしょ。てか、まだ結婚してないのに妻呼びですか」

「あはは」

 ラブラブだなぁ、とわたしは笑った。その笑みは、嘲笑だったのかもしれないし、ただ面白かったから笑っただけなのかもしれない。どちらにせよ、純粋な笑顔ではないと思う。

「でも、本当によかったですね。おめでとうございます」

 わたしは改めて、お祝いの言葉を告げた。

「うん、ありがとね。ミラさんも、いずれ結婚するのかな」

「ダルい親戚ノリやめてください。わたしはしませんよ」

 そう断言したわたしだが、実際そうなのかと言われればそれは違うと思う。結婚ごときで縛られるようなわたしではないので、何か理由があればすぐに結婚するのかもしれない。

 まず、相手を見つけろって話なのだが。見つかる気がしないし、付き合ってくれるかも怪しい。

「子供とか、作りたくないですし。男遊びもしたいですからね」

「超欲張りだね。でも、子供を作りたくないってのはちょっと分かるかもな。妻は、どちらかと言えば乗り気みたいだけど……」

 でも、そこまでこだわりはないかな――と、波久礼さんはどうでもいいように言った。いや、そこはこだわれよと思わずアドバイスしそうになった。わたしにそんな資格はないのだが、そんないい加減に決めていいものでもないだろう。

 とことん非常識なわたしでさえ、そう思う。

「いや、その時になったらちゃんと考えるよ」

「遅いですよ」

 結婚を舐めすぎている。……でも、案外みんなそんなもんなのかもしれない。少なくとも、わたしの両親がきちんと考えて結婚したとは思えないし、カノンの両親も、まぁ……。

「今後の人生に関わることですよ」

「まさかミラさんにまともなことを言われるとは……。いや、分かってはいるんだよ」

 でも、面倒じゃん。波久礼さんはそんなことを言った。

「……」

 そしてわたしは、全く反論できなかった。わたしも面倒事からは逃げるタイプなので、どんな正論を言っても『どの口が言うとんねん』みたいになるのだ。

 というか、わたしがそう思う。だからダメだ。何も言えない。

「うぬぬ……。ズルいですよ、その手札」

「手札って。僕はただ、思ったことを言っただけだよ」

 本当に、どうして結婚できたんだろう、この人。

「顔じゃない?」

「……うーん」

「どうしてそんな微妙な反応するのさ。冗談だよ」

 整ってはいるのかもしれないが、残念ながらわたしのタイプではなかった。そもそも、わたしにタイプなんてものがあるのかは置いておいて、いや、イケメンなんじゃない?

「適当だね」

「人の顔にそこまで関心を持ったことがないものですから……」

 案外、わたしみたいな奴が一番ルッキズムから遠い位置にいるのかもしれない。ルッキズムが悪いとは、一概に言えないのかもしれないが。

 わたしは顔で得をしてきた人間でもある。少なくとも、初対面相手には……。

 まぁ、最近はちょっと自己評価が揺らいできているのだが。もしかしたら、全然可愛くないのかもしれない。

「ルッキズム云々じゃなくて、ミラさんはただ人に興味がないだけじゃないの?」

「……」

 そして波久礼さんも可愛くない。元々、可愛いだなんて思っていなかったけど。

 的を得ているどころか、貫通して心を折りに来ていた。もしかして、波久礼さんってわたしのこと嫌いだったりするのかなとネガティブになってきたが、冷静に考えて波久礼さんに好かれていいことなんて一つもないよなと思い直し、わたしは元気を取り戻した。

「そうですねー」

「なんでそんなに不貞腐れてるんだい?」

「うるさい」

 子供扱いが嫌いな年頃である。まぁ、いくつであっても子供扱いされていい気分になることはないだろうが。

「わたしのことナチュラルにガキ扱いしないでください。波久礼さんだってまだ二十代じゃないですか」

「ミラさんが十七歳なら、十は離れてるかな」

 思ったよりも大人だった。二十七歳か……。

「お嫁さんが一個下でしたっけ?」

「そうだね」

 ふうん、としかならなかった。正直、わたしはこの話に飽きていたのだ。

 それを察したのか、波久礼さんは言った。

「そういえば、もうそろそろ彼女が来るから、帰ってくれない?」

「……」

 はぁ。

「言っときますけど、このアパートめちゃくちゃ壁薄いですからね。なんかやってたらすぐに分かっちゃいますからね!」

「こんなところで何もしないよ……、じゃあ、気を付けて帰ってね」

「気を付けるも何も、同じアパートですけどね。じゃあ、また」

 ため息をつきながら、わたしは波久礼さんの部屋を出る。ぶつぶつと一人文句を呟きながら、自分の部屋に帰宅した――懐かしい思い出である。


「……はぁ」

 桃花くんがどこかに行ってしまった。わたしに何も言わなかったということは、恐らく出ていったのだろう。

 彼が居なくなると本当に暇なので、仕方なくわたしは学校へ行くことを決めた。

 そして、現在時刻は午前十時――わたしは、汽車に乗っていた。

 学校の準備をしたはいいものの、結局面倒になってしまったので、無断欠席することにした。鞄とかそういう、無駄な荷物を持ってこなくて本当によかった。

 道中のコンビニでお酒も買ったので、サボる準備はばっちりである。

 しばらくして、〇〇駅に到着した。もちろん、〇〇に用なんてものはないし、遊ぶお金を持ってきているわけでもない。ただ、お酒を飲みながらその辺をうろつきたいだけだ。ちなみに、お昼ご飯はコンビニで済ますつもりだ。

 スーパーやコンビニに完成されたご飯が売っているのに、わざわざ作ったりする理由が分からない。コストパフォーマンスというヤツだろうか。しかし、わたしはそんなことを考えられるだけの知能を有していない。

「……」

 〇〇駅を出発し、知らない方向へと足を進める。とはいえ、恐らく赤レンガ倉庫がある方向に向かっているのだろう、と頭の中で昔見た地図の記憶を引っ張りだし、推測する。推測はそこまで外れてはいなかった。

 金森赤レンガ倉庫――ラッピが密集している地帯というイメージしかない(実際はそこまで密集もしていない)のだが、実は結構有名な観光スポットらしいのだ。もちろん、行ったことはない。

「……おいしっ」

 お酒を飲みながら、〇〇を徘徊する。傍から見れば不審者だし、実際のところは本当に不審者だった。

 ただ、すれ違う人々はみんな、わたしの方を見向きもしない。やはり、人間という生命体は全体的にスルースキルが高い傾向にあるようだ、とわたしは地球に侵入している宇宙人みたいなことを考えながら歩いていた。

 目的もなければ、何もない。

 強いていうなら、憂さ晴らしだろうか。

「……せっかく楽しくなれるかもって思ったのに」

 彼となら、楽しく暮らせるかもしれない――わたしは、そんなことを思っていた。でも、それは違った。

 元から嫌われていたのか、それとも――飽きられたのか。無論、それ以外の可能性も考えられる。だが、可能であるというだけで、特にわたしは考えなかった。

 どうせ、どうでもいいことだ。

 勝手に期待して、裏切られただけ。よくあることだ。

「そう、よくあることなんだ」

 これは特別なことじゃない。この世界のありとあらゆる、ありふれた話――だから、必要以上に気にする必要はない。それはそれとして、憂さ晴らしは憂さ晴らしで必要なのだが。

 ……今、そんなことを考えても楽しくないか。

「別のはなし、別のはなし……」

 ぼうっとするなら、もうちょっとくだらないことを考えるべきである。ぼうっとしながら外を歩くというのは、かなりの迷惑行為なのかもしれないが。もし、誰かにぶつかったら、どうしようかな。

 まぁ、相手がまともな人であれば避けてくれるだろう。問題はまともな人でない場合だが、その場合はもう逃げるしかない。まともな人じゃない同士の対決なんて、あまりにも馬鹿らしい。

 波久礼さんについてでも、考えてみようか。これから結婚を控えている、二十七歳男性。そういえば、どこで働いているのだろうか――職業については全く分からない。どのぐらい稼いでいるのかも定かではない。結婚できているというなら、それなりに頑張っているはずだが……。

 どんな仕事をしているのか、わたしは少し気になったが、後で訊こうと思った。後回しにすると、ほぼ確で忘れてしまうのだが……。

 人間の脳みそが欠陥品であることについて一人で声を荒げながら、わたしは足を止めずに歩き続ける。

 波久礼さんの話に戻るが、カノンが死んでも、波久礼さんに哀惜の念は特にないようだった。それはわたしも同様で、もしかしたらわたしと波久礼さんはわたしとカノンよりも同一なのかもしれない。

 なら、相性はいいのかな。

「どうでもいいけど……」

 今日の夜、わたしは波久礼さんと会う予定だった。何の話をするのかの予想はついているので、特に心配はいらない。

 何か身構える必要は、ないだろう。

 しかし波久礼さんと会うのであれば、今日は学校に行っておけばよかったのかもしれない。綱茶先生――ではなく、波久礼先生と一度話しておきたかったのだ。

 まぁ、面倒だったのだからしょうがないだろう。わたしだって、面倒じゃなければ休んじゃいなかった。

「……あ、コンビニ……」

 コンビニの前を通りかかったので、わたしは寄ることにした。トイレにも行っておきたいし、喉も乾いた。ついでに、小腹も空いてしまった。今日は結局、朝ご飯を食べなかったのだ。

 理由は面倒になったからである。

 丁度空になった缶をわざと車道に投げ捨てる。わたしは捨てた缶がどうなったのか確認もせず、店内に入っていった。

 用を足してから、トイレだけ借りるのは流石に非常識(らしい?)ので、追加のお酒を何缶か買った。身分証明書の提示を求められたので、わたしは偽の免許証を使って年齢確認をクリアした。一度、偽免許証を使ってみたかったのだ。

 というか、免許証の偽造って犯罪になるのかな。常識的に考えればなりそうな気もするが。

「どっちでも同じか」

 そう結論付けて、それで終わった。買ったのは時々飲むストゼロ缶である。酔いたいわけではないが、少し暑くなりたい。体温を高くしたいのだ。

 缶を開け、口を付けて傾けると、中身が一瞬だけ口腔を満たし、そのまま喉の奥へと流れていく。なんだかくっ、となって、胸の奥が熱くなってきた。

 同じことをもう一度繰り返して、繰り返して、繰り返して、繰り返しながら前に進み続ける。歩くだけの作業は退屈なので、ついついお酒が進んでしまうのだ――これはいけない。

 身体に悪いどころの話ではない。わたしは早死にするだろう。

 そもそも、いつもはゆっくり飲み進めるタイプのわたしなのだ――この飲み方は、明らかによくない。クレイジーな自殺志願者としか思えない。

 結局、食べ物は買わなかった。これについては特に理由があったわけではなく、ただただ忘れていただけである。

 空腹――三大欲求すら無視するのなら、わたしは人間として、もう終わっているようなものだろう。

 欲求とはつまり、夢や目標のことなのだから――だから。

「そんで、なんだっけ……?」

 段々と、意識が朦朧とし始める。視界がぼやけて、歪んで、跳ねている。いつの間にか、わたしはその場に膝をついていた。

 ああ、わたしはここで死ぬのか――そんなことを言いながら、わたしは意識を手放した。

 その場に倒れた。


 目が覚めた――景色は、変わっていなかった。どうやら、誰もわたしを助けたりはしなかったらしい。当然である。

 これに関しては〇〇の人が冷たいだとか、そういうことではなく――たとえ北斗市だろうが浜松市だろうが、東京だろうがアメリカだろうが、わたしのような人間を助けようと思う人間はいないだろう。

 とりあえず、財布もスマホも無事だったので、結果オーライということにしておこう。お酒は遠くに転がっていたが、これ以上は飲む気になれなかったので、そのままにしておくことにした。

 スマホのカメラ機能で自分の顔や身体を確認。もしかしたら、誰かに悪戯されているかもしれない。油性マーカーで顔に落書きなんかされていたら最悪だ。

 幸運なことに、そんな形跡はなかった――それならよかった。

「……」

 立ち上がって、ふらつきながら来た道を戻る。どうやら、また随分と寝てしまったらしい――現在時刻は午後十六時だった。

 路上で熟睡できるわたしのメンタルには自分でも驚愕してしまう。疲れが積み重なった身体に、今までにないレベルで一気にお酒を入れたから気を失った――というのが真実なのだが。熟睡というか、ほぼ死んでいた。

 どうせなら、通りかかった誰かがわたしの意思なんて関係なしに、わたしのことを殺してしまえばよかったんだ。わたしはそんな、文句なのかどうかも分からない独り言をぼやきながら、〇〇駅に戻ってきた。

 切符を買って、改札でピヨピヨと音を鳴らして、駅のホーム。わたしの降りる駅に改札はないので、頑張れば無賃乗車も可能なのかもしれない。だが、〇〇駅では改札を通らないと電車に乗ることができないので、やっぱり不可能だった。

 改札を飛び越えるなんて荒業を実践する気にはなれないし、なったとしてもやらないだろう。というか、無意識に切符を買っていたので、わたしに無賃乗車という犯罪はできないのかもしれない。

 桃花くんの父親を殺そうと決意したことがあるくせに、無賃乗車はできないのかと疑問に思うかもしれないが、殺人と無賃乗車にそこまでの大差はない。どちらも、人に迷惑をかける系の犯罪であり、法律違反なのだ。

 大差がないならむしろできるだろうと思った人は頭がいい。

 つまり――いつも通り、適当なことを言っているだけだ。口には出していないが。

「そんなことを口に出してたらヤバい奴じゃんすかー」

 周りに人がいないので、存分に話せた。もちろん、周りに人が居たとしても、わたしは声を出していただろう。

 そして馬鹿にされて、動画に撮られてネットに晒されるのだ――だから、わたしはああいうネットのおもちゃについて、可哀想だなと思うことがある。

 同情ではなく、共感だ――わたしに共感されるという時点で、それはネットに晒されるよりもだいぶ嫌な話だが。

 しかし、普通が集まった集団の中で、普通じゃないことをしていれば、そりゃそうなるだろうという話でもある。だから、結局は自業自得なのだ。

 人間は異端を嫌う。異端は、徹底的に差別され、虐められるか阻害されるかの二択だ。そんな話を昔、なんかの本で読んだ記憶がある。

 本に書いてあることなんて、大抵は噓なのにね。

「……なんて言ったら、怒られちゃうかな」

 わたしの周りに本好きはいないので、わたしを怒る人間はいない。だから、好き勝手言っても大丈夫だろう。

 そもそも、わたしの周りにいないのは人なのかもしれないが――それは置いておいて。

「……あ、電車もう来てたんだ」

 ちなみに汽車である。わたしに違いは分からないが、数ヶ月前、なんの気なしに『電車だー』と呟いたら、近くに居た人から『汽車だ!』と凄い形相で指摘されたことがある。

 今覚えば、ああいう人間がネットで晒されるような人間なのだろう――と、わたしは自分のことを棚に上げて思う。

 汽車に乗り込み、空いている席に座る。今日は空いていたので、かなり快適に過ごせそうだ。

 ……でも、今って下校時刻だよな。

 どうして空いているのか、とわたしは不思議に思った。

 しばらくして電車――じゃなくて汽車が出発した。どっちでも同じだろと言いたい。どうしてそんな些細なことを気にしなければならないんだ。

 そんなことを言うと、詳しい人が怒りそうだけど――でも、わたし別におかしいことは言ってないよね。

「うん。わたしはおかしくない」

 再確認するため、呟く。電車の中であることを考えれば少し大きめの声だったが、誰も気にしないだろう。現に、誰も反応しない。いや、近くに居た人がわたしの声を聞いてぴくりと動いてはいたが、そんなものは誤差の範囲だ。

「……ふう」

 さて、〇〇で酷い目に遭ったので、誰かに八つ当たりをしたい気分です。しかし、わたしはそれを必死に抑える。

 流石に、見ず知らずの人に八つ当たりをするほどわたしも愚かではない――そこまで自己中心的な考え方をしているわけではない。

 自分さえよければそれでいいとはならないのだ。自分さえ悪ければそれが悪いとはなるかもしれないが。

 だから、わたしはこっそりと前の椅子を蹴った。人が座っていないことは確認済みなので、容赦はいらない。全力で蹴ったら、少しだけ傷がついた。それだけだった。

 それだけで少し満足してしまったので、わたしは電車を降りることにした。

 丁度、タイミングよく電車が止まったので、わたしは席を立つ。切符を運賃箱に投げ捨てて、下車。

 そこは、知らない駅だった――もしかしたら、降りる駅を間違えたか? いや、違う。自分で決めたんだった――自分の頭の悪さには、ほとほと嫌気がさす。改札がないタイプの駅であることは間違いがない。

 さて、どうやって帰ろう。実を言うと、わたしは方向音痴なのだ――迷う自信しかない。迷う自信ならある、と言うべきなのかもしれないが。どちらにせよ、帰宅は絶望的なのかもしれない。

 とりあえず駅を出て、わたしはまっすぐ歩いた。すると、段々見覚えのある景色が見えてきた。

 先にあったのは、漁港だったのだ――それも、この前カノンが飛び降り自殺を図った漁港。懐かしいなと思いながら、わたしは足を進める。

 漁港ではなく、近くのコンビニへと向かった。喉が渇いたのだ。

 店内に入り、わたしは炭酸飲料コーナーの前で立ち止まる。もちろん、お酒じゃない。流石にこのコンディションでお酒を飲む気にはなれないし、それは本当に命に関わるかもしれなかった。自分の身体に悪いことをするのはいいが、命を投げ出してまで悪いことをしたいとは思わない。

 わたしは案外、人の命を重んじるタイプである――だからといって、カノンに対し哀惜の念があるわけでもないのだが。お祝いの気持ちと同様に。

 人間が抱く感情の中では、そこまで優先度が高くなさそうな2つである。なくたって、さしたる苦労はしないだろう。

「……オレンジジュースだ」

 隣の棚にオレンジジュースがあったので、それを手に取りわたしはレジへと急ぐ。別に、急ぐ必要はないのだが。

 値段は大体120円ぐらいだった。スマホ決済で支払って店を出る。ペットボトルの蓋も開けないまま、わたしは漁港に向かった。

 少し高い防波堤の上に登り、身体を海に向けてわたしは座った。それは、懐かしい光景だった。まだ、あれから一週間も経っていないようだが――いずれ一週間経過する。だから、どうだろうが同じことだ。

「……ふふ」

 現在時刻は、午後十七時――それなりに人は居るが、わたしは気にしない。大声を出そうかとも思ったが、流石にやめておいた。

 独り言のようなものを呟く。

「流石に誤魔化せなくなってきちゃった。もう限界かも」

 その言葉に、意味なんてものが果たしてあっただろうか――わたしにはさっぱり分からなかった。

「まぁ、別にわたしは悪くないわけだし。責任はあるけどさー」

 常盤さんなんかがこの話を聞いたら、どう思うだろうか。そう思ったが、それはくだらないことだった。

 どうもこうもないだろう。

「カノンもちょっと悪かったんじゃないのかな。いや、被害者を叩きたいってわけじゃないんだけど……ネットの人達とは違って」

 そんなジョークを交えながら、わたしは独りで会話を続ける。

 独りよがりな会話を続ける。

「でも、完全に被害者ってわけじゃなかったもんね。三十六策とは言っても、逃げることは加害だから」

 どっちにしろ、カノンは加害者になり得る存在だった――そうなってしまったのは、もちろんわたしの責任であるのだが。

「うーん、だからといって犯人が被害者ってわけじゃ絶対にないんだけどさ。今回の場合は、珍しく……」

 可哀想なカノン、とわたしは思ってもいないことを呟いた。恐らく、カノンが生きていたら海に突き落とされていただろう。

 溺死は、かなり苦しそうなイメージである。経験はないので、確かなことは何一つ言えないが……。

 もし、カノンがここで飛び降り自殺に成功――生きることに失敗したとして、カノンがパニックになりながら苦悶の表情で手足をばたばた動かして、余計に沈んでいって、叫ぶこともできず、ただ死んでいくような光景を、わたしは直視することができたのだろうか。

 全然興奮できそうな妄想だったが、それは一旦堪えて、わたしは別のことを考えることにした。カノンが溺死でないことだけは間違いないのだから、そんなことを考える必要はないのだ。

 翫歳愒日――日々を無意味に暮らし、世界の一部を無駄に消費するわたしにぴったりの言葉である。

「……ふう」

 オレンジジュースを一口飲んで、気持ちを整える。

 毎日を無為に過ごす。ふらふらと何もせず、何も生まず、ただ壊す。いい加減にしろ、と自分でも思ってしまう。もちろん、変わる気なんてない。

 一昨日ぐらいなら、あったかもしれないが。もう諦めた。

「……さて、と」

 一息ついて、わたしはそろそろ帰ろうと思った。どうやって帰ろうか。

 歩いて帰れる距離ではない――いや、頑張ればできなくはないが、頑張ってもしたくない距離なのだ。

 電車を使えばそれほど時間はかからないだろうと思い、わたしは駅に向かう。徒歩十分程度で駅に到着した。そういえばと思い駅名を確認するが、漢字が読めなかった。普段は全く来ない場所なので、仕方ないだろう。

 電車の時刻表を見る。次の時間は十七時四十五分だった。あと、十五分ぐらいである。

 駅に設置されているベンチに腰を下ろすと、わたしは携帯を取り出す。現在時刻は十七時半。

「……」

 波久礼さんに電話をかけようと思った。約束の時間は十八時。駅からアパートまでが徒歩で二十分ほどかかるので、集合時間は守れないと判断したのだ。いや、本当にこんなはずじゃなかったのに。

 ぷるるる、ぷるるる。電話の音が鳴って、少し待つ。

 いずれ、画面が通話中のものに切り替わった。

『もしもし?』

「もしもし、波久礼さん」

『ミラさん。どうしたんだい?』

 波久礼さんはいつもの調子だった。現在のわたしとは大違いである。

 今日のわたしはちっとも本調子じゃない。調子がよかったことはないが、その中でも今日は調子が悪い日なのだ。

「あの、十八時ってことなんだけど……少し、遅れそうなんです」

『そうなんだ。今、どこ?』

「アパートの最寄りの駅の隣の隣の隣の駅です」

『……ああ、〇〇駅か……』

 わ、分かるの……?

「すごいですね波久礼さん。満点あげますよ」

『いや、北斗市に住んでてそれは流石に……、いや、まだ引っ越してきたばかりなんだっけ』

 ミラさん達が馴染み過ぎてて忘れちゃった、と波久礼さんは言った。

 達、と。

「……とりあえず、もうすぐ電車が来るので」

『どうせなら、駅まで迎えに行こうか?』

「いいんですか?」

 あ、ついお願いしますと言いかけてしまった。別に、迎えに来てくれるのはいいんだけど、借りは作りたくない。

 人に借り以外のものを作ったことがないわたしですら、波久礼さんに借りを作るのは躊躇する――だって、返さないと怒りそうじゃないか。

「……いや、大丈夫です」

『そう? じゃあ、気を付けて帰ってきてね。無事に』

 ぶつん、と通話が切れた。

 本当に無事でいたいなら、何もしなければいい。気を付けるぐらいなら死ね、というわたしの美学に基づいて、わたしは気を付けずに帰宅することにした。

 しばらくすると、時刻表通りに電車が来た。そしてここで、切符を買い忘れたことに気が付いた。もう、切符を買う暇なんてない。仕方なく、わたしはそのまま電車に乗り込んだ。

 整理券を取れば、現金で支払いは可能なのだが……、しかし残念なことに、わたしの財布に入っているお金は合計で100円だった。子供料金でだって、あと10円足りない。いや、最近値上げしたから残り30円足りないのか。

 30円ぐらいなら、見知らぬ人から貰えそうな気もするが……、そんなコミュニケーション能力があれば、生きるのに苦労はしていない。

 しょうがない、降りる時にダッシュしよう――わたしは普通にそう思った。

 しばらくして目当ての駅に到着した。わたしは既に、ドアの前で待機していた。車掌さんなのか運転士さんなのか助役さんなのかは分からないが、運転席には人が二人居た。しかし、二人はわたしのことなど気にも留めていない。

 ついにドアが開く。わたしは自然に堂々と、お金を払わずに下車した。早歩きのままホームを抜け出し、後ろから聞こえてくる怒鳴り声に構わず、わたしは無賃乗車をした。

「……あは、は」

 悪い遊びは、楽しい――久しぶりに思い出した。

 やっぱり、カノンを亡くしたのは痛い。わたしの唯一の悪友を、亡き者にした――そんな犯人に、ふつふつと怒りが湧いてくる。

 今日の朝の時点で、警察はカノンの部屋から撤収していた。もう部屋に手がかりはないと思ったのだろう――だが、ならどこをどうやって調べるつもりなのか。

 簡単に諦めやがって、ふざけるな。ふとそう思い、わたしはそこら辺にあった看板を蹴り倒した。やはり、ストレスは路上に立っている()()で発散するに限る。

 現在時刻、十八時――あと、二十分ぐらいで帰宅できる。二十分遅刻は流石に怒りそうなので、何かいい言い訳を考えておいた方がいいかもしれない。

「おばあちゃんが車に轢かれたからとどめをさしてあげたんですよぉ~。……いや、ダメだね」

 喋り方がムカつくので、これはダメだ。この言い訳は流石にない。内容は完璧なだけに、実に惜しい――なんてくだらないことを考えている内に、いつの間にかわたしはアパートの前に立っていた。

 二十分、特に何も考えずに歩いていただなんて、あまりにも危険過ぎる――危機感がなさすぎる。

 現在時刻は十八時十九分。

 パトカーがないことを確認し、わたしはとりあえず波久礼さんの部屋に向かった。

 ドアの前まで歩き、わたしはインターホンを押す。すぐに反応があった。

「鍵かけてないから、入っていいよ」

 波久礼さんの声だった。了承を得たので、わたしは部屋に入る。脱いだ靴を整えることは忘れずに。

 部屋の中には、電気がついていなかった――十一月のこの時間帯は既に暗い。だから一瞬、戸惑った。

「……暗いですけど、電気つけてもいいですか?」

「構わないよ」

 わたしは部屋の照明のスイッチを押す。すると、途端に視界が明るくなって、わたしは思わず目を瞑る。先程まで暗闇だったせいか、落差が酷いのだ。

「……あの」

「何かな」

 波久礼さんは布団の上に座っていた。座っていて、座っているだけだった。携帯を触ることもせず、ただただわたしのことを待っていた、という――つまり。

 わたしは、波久礼さんをめちゃくちゃ怒らせちゃったかもしれない――だとしたら、あまりにも絶望的だ。

 いや、絶望というほどでもないのだが。

 面倒事になるのは嫌だったので、わたしは謝ることにした。

「……ごめんなさい、遅れてしまって」

 礼儀正しいとは到底言えないぐらいの、心ない謝罪。受け入れてくれるだろうかと不安になったが、それは杞憂だった。

「いや、遅刻については、いいんだ。きみが僕との待ち合わせに、遅刻しなかったことなんて一度もないじゃないか」

 ……杞憂ではないかもしれない。波久礼さんは、本当に怒っていそうな声で言った。

「慣れているよ」

「……本当に、ごめんなさい」

 次は、頭も一緒に下げてやった――波久礼さんは慌てて、

「ああ、違う。本当に、怒っているわけじゃないんだ」

 と、何故か言い訳するような感じで言った。実際、それは言い訳だったのかもしれない。

 それについてはよく分からなかったし、別に分かりたいとも思わなかった。興味を持てなかったのだ――だから、早く終わらせたくて、わたしは訊いた。

「じゃあ、なんなんです? 言いたいことがあるなら言ってください」

「言いたいことはないな」

 わたしの質問に、まともに答えてくれない波久礼さん。もしかしたら、本当に本当のことを言っているのかもしれないので、追及もできない。しつこいと思われるのは避けたいのだ。

 だから、わたしはため息をついて、嫌々確認する。

「先にシャワー浴びてもいいですか」

「いや、そのままで」

「……そ、そうですか」

 まさか断られるとは思っていなかった。本音を言えば、先にシャワーを浴びたかったのだが……。

 まぁ、仕方ないか。

 割り切り、()()()()()()()()()()()()――そして、脱いだセーラー服をハンガーに掛けようと横壁にある箪笥の方を向いたその瞬間だった。

「っ!?」

 波久礼さんは勢いよく、わたしを床に押し倒した。

 押し倒され、背中を床に強く打ったわたしは、思わず「ぐえっ」というような声をあげた。幸いにも、意識が飛ぶようなことはなかった。

 だが、困惑は抑えきれない。たとえ押さえられていても。

「は、波久礼さん?」

 戸惑い、疑問、不明、矛盾――様々な単語が、わたしの頭の中を駆け巡る。それが初めての感覚だったので、「これ、走馬灯じゃないよな……?」と少し不安になった。

「……ねぇ、ミラさん」

 波久礼さんは声を発した。その声は、どこか焦っているようで――明らかに普段通りではなかった。

 なにが『いつもの調子』だよ。調子なんてどこかに捨て去ってしまっている。そのぐらい、今の波久礼さんは変だった。恐らく、わたしよりも。

「どうして、なんだい?」

 今の状況は、どうなっている? ()()()()()は、事前に知らせてくれないと困ると昔に言ったはずなのに。

 何もかもがおかしい。壊れてしまっている、誰かに破壊されている、そうでないと辻褄が合わない――そんな気がした。

 どうして? どうしてって、なんなんだよ。

 波久礼さんは狂ったように繰り返す。

「どうして、どうして、どうして、どうして――」

 それを聞きたいのは、明らかにこちらだった――だが、そんなことを答えてくれるとは到底思えない。

 だからわたしは、とりあえず訊いた。

「なにが、どうしてなんですか?」

 この時点で、わたしは既に答えを知っていた。

 答えを知っていたことを、知らなかったというだけで。

 明らか過ぎて、明かす必要すらもなかっただけで。

「きみは、きみは、きみは――!」

 波久礼さんは、思い切りわたしを責めるような口調で言った。

「どういうつもりなんだ!」

 わたしを責めていて、そして憎んでいて、そして恐れているような――そんな雰囲気を出していた。

 あの、波久礼さんが。

「どうして――」

 どうして、なんで、どうして、なんで、と繰り返したその先、その最終地点にて――波久礼さんはついに言った。

「なんで、きみはずっと黙ってるんだよ――僕が、犯人だって」

 カノンさんを殺した、犯人だって。

 波久礼さんは相変わらず、わたしを責めるような口調と目付きで、憎んでいるような表情で、そして怯えているかのような顔で――言い切った。

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