9・答え合わせ
何が問題だったかと言えば、何もかもが問題だったとしか言う他ない。
誰が悪かったかと言えば、わたしが2番目ぐらいに悪かったのだろう。
でも、殺人事件において――一番悪いのは、やはり殺人を実行した犯人である。
わたしは、善悪の度数が本当に存在しているんだと、本気で思っているわけではない――そこに強弱や勝敗はないと考えている。でも、それはわたしがそう考えているというだけで、事実としては確かにそこに存在するのだ。
誰が一番悪いか、誰が正しくて、誰が間違っていて、誰が悪かったか。
そして結論から言えば、カノンを殺害した犯人が、カノンの部屋の隣人である波久礼稔さんだっただけである。
たったそれだけ。
わたしはきちんと理由を告げた。
「……言うのが面倒だっただけで、別に黙ってあげようとか、そういうことを思ったわけじゃないですよ」
「言うのは面倒だった? ならどうして、きみは警察に嘘をついたんだ? きみは――僕が作った偽のアリバイを、そのまま警察に伝えたじゃないか!」
……嗚呼、面倒なことになってしまった……。まぁ、これも予想できた展開ではあるが、それでも面倒なものは面倒である。
そう――わたしは警察に嘘の情報を伝えた。心当たりはないと答え、午前一時から午前四時の間はすやすや眠っていたと伝え、波久礼さんはその時アパートに居なかったと嘘をついた。
全て、嘘である――心当たりはきちんとあったし、午前一時から午前四時の間に一度わたしは起きているし、何ならその時玄関の外に出ているし、波久礼さんはその時アパートにがっつり居た。
「きみはあの日――あの日、僕とカノンさんが揉めた際の物音に反応して、目を覚ましたんだろう!? そして、その物音がカノンさんの部屋から聞こえていることを確認したきみは――何もせずに、ずっと見ていたんだ。下の階で何かが起きていると、親友に何かが起こっていると知りながら、ずっと! ずっと二階から、誰かが出てくるのを期待して見ていたんだろう!?」
その通りだと、わたしは波久礼さんを褒めてあげたくなった。
あの日、わたしはとある物音で起こされた――その音が、カノンの部屋から聞こえていることにも、気付いた。だから、外に出て様子を確認していたのだ――そして、カノンを見捨てた。
その結果――わたしは見たのだ。カノンの部屋から、慌てて飛び出す男を――波久礼さんのことを、見てしまったのだ。
そして、波久礼さんの方もわたしに気付いたのだろう。だからこそ、波久礼さんは今こうしている。
口封じ――わたしのことを、殺すために。
「……わたしを、殺すつもりなんですか」
「ああ、そうだよ。そうじゃないと、安心できないからね」
だから、これは――僕にとって。
波久礼さんは叫んだ。
「たった1つの――救済なんだっ!」
波久礼さんは、物凄い力でわたしの首を掴んだ。両手で、抜け出す暇もないほど強固に。
「か、はっ――!」
唐突のことで反応できず、わたしはピンチに陥った。身体をバタバタと動かし、抜け出そうと試みはしているのだが……、どうやら、かなり難しいようである。ああ、わたしはこんなにもあっさりと、ここで死んでしまうのか――呼吸が難しくなり、意識が朦朧としてきたところで、わたしは突然身体を起こす。
「なっ……!」
わたしが身体全体を使って抵抗していたことによって、波久礼さんはそれを押さえ付けるのに必死になっていた。だから――だからこそ、わたしは簡単に抜け出せた。わたしを押し倒す力を緩めてしまっていたのだ。
「おりゃっ!」
すぐに立ち上がって、逆に波久礼さんを押し倒そうとする。頭がぐらぐらと揺れるが、そんなのは関係ない。
しかし、流石に男女差というものがある――体重も、身体の大きさも、何もかもが違う。
実は、わたしという人間はかなり力が強いタイプの女の子である。でなきゃ、いくら脆いとはいえ人の耳を素手で引き千切ったりはできないし、しようとも思わないだろう。
だから力自体は互角と言っていい――そして力が互角であれば、当然身体の大きい波久礼さんの方に軍配が上がる。
「抵抗、するなっ!」
抵抗できず、無理矢理突き飛ばされるわたし。そのまま後ろの壁に激突し、穴が開いてしまった。背中を強く打ったことで、一瞬呼吸が止まる。その一瞬は、相手の付け込む隙になる――のはあくまでもバトル漫画においての話であって、現実の話ではない。
だから、息ができるようになって、わたしは普通に立ち上がった。背中の激痛と、未だに朦朧とする意識。そして――恐怖。
わたしは震えていた。
「……あ、は」
当たり前のことだが、わたしにも怖いという感情はある。だからわたしは、死にたくないと思っているのだ。
自分の倍大きい身体をした、正気じゃない男を目の前にして――普通の女の子であるわたしが、恐怖しない道理はなかった。
もちろん、本気で自分のことを普通の女の子だと思っているわけではないが……。しかし、精神面に限って言えば、わたしはそこまで平均を逸脱した人間ではないのだ。
「あは、ははは……」
笑うしかないような状況である――どうして、こんなことになったのか。
そもそも、こんな仕事をするべきじゃなかったのかもしれない。それなら、少なくともカノンは死んでいなかった――そんな未来だった。
だから、カノンが死んだのは本当にわたしのせいなのかもしれない。責任はなくても、きっかけを作ったのはわたしで、悪くなくても、理由と原因はわたしにあるのだ。
そればかりは、他の誰にも譲れない。
「ははっ、あはは、は、はっ!」
「……何がおかしいんだい」
苛立ちを含んだ声色で、波久礼さんは言った。怒っているし、焦ってもいるが、さっきよりは冷静になったらしい。
「別に、何も、おかしくないです。本当に笑えない」
だから、笑っているんです――わたしはそう言った。笑えないからこそ、笑うしかない。そんな状況なのだ。
逃げられない、という恐怖。相変わらず身体は震えているし、声だっておかしい。何なら、どうして泣くのを我慢できているのか、不思議なぐらいだった。
普通なら、涙を流して懇願するべき状況だ。「助けてください」、「おねがいします」、というように。
そんなんで助けてくれると思えるほど、楽観的にはなれないが。でも、そこには生きようとする意志が確かにあるだろう。
なら、わたしはどうだろう。
生きようとする意志がなく――ただ、恐怖から逃げているだけ。
そのように思える。そのようにしか、映らない。
「……はは、は」
ごちゃごちゃ言っても、分かりづらいだけなので、簡潔に言うと――要するに、わたしは恐怖でおかしくなっているのだ。
殺されたくない。殴られたくない。叩かれたくない。蹴られたくない。突き飛ばされたくない。押し倒されたくない。潰されたくない。触られたくない。恐れたくない。泣きたくない。恥をかきたくない。
痛いのは、嫌だ――怖い。
それが、結局は全て。
一歩一歩、波久礼さんは距離を詰めてくる。距離を詰めようが詰めまいが、近くに居ることには変わりがないのだが。そんな中、わたしはもう諦めかけていた。
「……大丈夫だよ。今回はちゃんと、楽に殺してあげるから――」
そんなことを言いながら、波久礼さんはまたわたしを押し倒した。今回は抵抗しなかった。
波久礼さんは、わたしの首を絞め始めた――その瞬間。
唐突に、ドンと大きい音が鳴った――そしてすぐ、
声が聞こえた。
「ねぇ、うるさいんだけど!」
その女の声は、玄関から――ドアの外から、聞こえた。
「っ!?」
驚いて、波久礼さんが玄関の方を向く。それは明らかに隙だったが、わたしは動けずにいた。
わたしも驚いていたのだ――とはいえ、別に予想外というわけでもない。冷静に考えれば、分かることだ。
「……常盤さん」
その声は――常盤さんのものだった。
上の階の住人であり、わたしの部屋の隣人であり、プロの水泳選手でもある――常盤ほたるの声だった。
「な、なんで……」
波久礼さんは呆然としている。無理もないが、流石に隙を出し過ぎている。
動けなくても、声ぐらいなら出せるのだ。
「常盤さんっ! 助けてっ!」
「お、お前っ!」
状況を理解してから、わたしはすぐに叫んだ。すると、波久礼さんは目を剥いて、わたしにまた襲い掛かってくる。
波久礼さんは奇声を発しながら、わたしの頬を殴った。1回、2回、3回――そしてそこで、波久礼さんの動きが止まった。わたしは殴られていて目を開けられなかったので、何が起きたのかすぐには分からなかったが――音。
それは、轟音だった。
バキ、という人間の身体から鳴らしてはいけないような音が聞こえた。一瞬、あばらを折られたのかと錯覚したが、それはわたしの身体から鳴った音ではなかった。
わたしはまだ目を開けられていない。いつ、追撃が来るかも分からなかったのだ。
そして次に聞こえたのは、ぐちゃぐちゃ、という音。これも、人の身体から出た音であり――わたしの身体から出た音ではなかった。
なら、誰の身体から?
最後に聞こえたのは、がらがらがら、というまるで建物が崩壊しているかのような音だった。それは流石に、人間の身体から出た音ではなかったが――え、なにこの音?
頬が痛い。十歳以上も年上の男に3回も殴られれば、そりゃ痛い。痛いけど、それでも、アドレナリンが出ていたのか、その痛みは本来よりは緩和されていた。
追撃が、二秒以上来ない――変な音が聞こえる――状況を理解できずに、目を開けると。
目の前に居たのは、波久礼さんではなく、常盤さんだった。
「……常盤、さ――」
「もう大丈夫だから」
三点リーダーもなしにそう言って、常盤さんは優しくわたしのことを抱きしめてくれた。
「……あの」
「寝ていいよ」
「……」
そう言われると、急に意識が沈んでいく――ぐらぐらするし、なんだかぽわぽわする。痛いのか熱いのか、どっちなのかはよく分からなかったが、どちらにせよどうでもよかった。その痛みを、その熱さを、感じているのかすら分からない。
それは不思議な感覚だった。
わたしは常盤さんに完全に身を委ねて――そのまま、意識を失った。
夢を見ていた。
「……あれ、ミラじゃないか。どうしてこんなところに居るんだい?」
そこは、真っ暗闇だった――わたしは言われるがまま、カノンの声に返事をする。
「カノン、ここはどこ?」
「地獄」
カノンの声は――カノンは即答した。わたしが「え」と間抜けな声を漏らすと、カノンは笑って言った。
「冗談だよ。地獄じゃない」
冗談じゃないよ――そう、文句を言いたい気持ちになったが、言えなかった。意思と行動がリンクしていない。ここは夢の中なので、リンクも何も全て意思なのだが。
まるで、一人称視点の映像を見ている気分である。
「カノンが居るなら、天国なのかな」
わたしはそんなことを言った。普段なら、絶対に言わないであろうことを。いや、言うかもしれないが、それはけして本音ではないだろう。
ミラがそう思うなら、ここは天国だよ――そんなことを言いながら、ケラケラと笑ってわたしを見遣るカノンの姿。
カノンが、いつの間にかこちらをじっと見つめている。
――ここは、夢の中なの?
その質問を口に出すことはできなかった――彼女に問うことはできなかった。
わたしの身体がそれを拒んだ。
「久しぶりだね、ミラ」
「うん。とっても久々だーね」
勝手に、わたしはそう返した。
「私が死んでから、どうだい? 上手くやれているかい?」
「ぜーんぜん。ダメダメだよ」
彼には逃げられちゃうし、カノンの遺書はつまんないし、頭はぼうっとするし、正直もう、死んでもいいかもしれないぐらいのコンディションだ――と、わたしは口に出した。わたしの意思とは全くの無関係に。
「それは色々とつらいね。可哀想に」
カノンはわざとらしくそう言った。明らかに、わたしを馬鹿にしている――でも、それがどこか心地よかった。
怒る気にはなれない。
「つらいよ、カノンが死んで」
カノンが死んでから、ではなく。
カノンが死んで――つらい、のだ。
「置いてかないでよ」
「置いていったつもりはないよ。元々別の道を走っていたんだからね」
カノンは、にやけていた。どうしてそんな顔してるんだとか、どうして今ここにカノンが居るんだとか、一体何を伝えに来たんだとか、言いたいことばかりだったが、しかしその言いたいことは、何一つ言えないようだった。
代わりに――言えるのは、本音だけ。嘘も、誤魔化しも、使えない。
「なんで、死にたかったの?」
「自殺に理由は必要じゃない。少なくとも、私はそう思うよ」
それは、答えになっていなかった。わたしは噓をつけないし、誤魔化すこともできないのに。ズルいな、と思いながらも、わたしは笑っていた。
意思ではなく、勝手に。でも本来、笑顔なんて勝手になるものだ。
「いい笑顔だね。私といれば、面白いだろう?」
「うん」
わたしは嘘偽りなく答えた。
そう、悪友と遊ぶのは楽しいものである――悪いことをしたり、軽口を叩いたり、一緒にいたり。
「カノンは、わたしの唯一の悪友だからね」
わたしは満面の笑みで、そう言った。しかし、カノンの反応はあまり芳しくなかった。
どこか、不満があるようだ。もしかして、カノンもわたしのことが嫌いだったりするのだろうか。将来の夢にわたしを支えることを選んだカノンが、わたしを嫌っているとは思いづらいが、それはわたしが思いたくないだけのことなのかもしれない。
「……嫌なの? わたし、ちょっと傷付いた」
「ミラはすぐ傷付くよねぇ。いや、違うよ。別に、嫌ではないけど」
でも、満足はしないな――と、カノンは言った。満足?
どういう意味かと、わたしの意思とは全く関係なく、わたしは訊いた。でも、訊かない方がよかったのかもしれない。
「親友にはなれないのかな、と思ってね」
「……親友?」
ただ、相手の言葉を反復するだけ。これは、たとえわたしの意思が正常に作動していても、同じことをしていただろう。同じ声で。
親友って、親友って一体なんだ?
わたしは言った。
「そんなの、くだらないことじゃない」
「そう。くだらないことなんだよ」
でも、大事なことだ。カノンはそう言った。
理解ができない――というのは、わたしがわたしについている噓であり、実際のところわたしはその気持ちを理解していた。
「……それは、確かに、残念だね」
「別に残念とは言っていないだろう? まぁでも、確かに残念だけどね」
「ごめんね」
その謝罪には、きちんとわたしの意思も伴っていた。だからなんだよっていう話だ。
「謝るなよ。余計、悲しくなるじゃないか」
「悲しませたいだけだから、心配しないでよ」
本音である。本音だとは、自分でも思いたくないが……。
流石に性格が悪過ぎる。こんな自分は、知りたくなかった。それでも、わたしの口は勝手に動く。
「身内を不幸にするのは簡単だからね」
「そう。ミラが私を不幸にするのは簡単だ――なら、その逆もあり得るだろう?」
カノンの言葉に、わたしは何も返さなかった――別に、あり得なくはないというだけである。
カノンがわたしを不幸にするのは、容易なのかもしれない――でも、違う。
それとは全然違うのだ。わたしが不幸になることは、難しい。
性格の話か、精神的な話か、メンタルの話か、人生経験の話か――どれも違う。それはただ、ただ単に、わたしがそういう人間であるというだけだ。
不幸にならない代わりに、幸せにもなれないし、周りを不幸にするし、蔑まれる。蔑まれても、不幸だと思えない。
あくまでも、受け手の問題だ。
「話がよく分からなくなってきたよ。私、ミラと違ってそこまで頭がよくはなかったからね」
そんなことを言われても、わたしはあまりピンと来ない。カノンは学年でも上位の成績だったはずだし、わたしの頭はそこまでどころかめちゃくちゃ悪い。悪くなかったとすら言えないレベルの頭脳である。
そう返そうとするが、やはり口は動かない。本音と事実は違うということか?
それとも、もしかしたらわたしは、自分で自分のことを『悪くない』と思っているのかもしれない――だとしたらあまりにも痛過ぎる。まだ高校一年生なので、そういうナルシスト的なところがあっても、仕方ないのかもしれないが。
「ああ、学力の問題じゃないよ。全く別のところさ」
「……」
よく分からなかった。カノンの言っていることが、全然理解できないのだ。
「……別の話がしたいな」
本音でそう言ったら、カノンはさらっと話を切り替えてくれた。本当なら、わたしが主体的に話題を作るべきなのかもしれないが、残念ながらわたしは好き勝手に喋れない。
本当に欠陥仕様だ――つくづく自分の残念さ加減に腹が立つ。
「リストカットでもしようかな」
「やめてくれよ。私はミラが傷付いているところなんて見たくない」
どの口が言ってんだか。わたしはカノンに呆れてしまいそうだった。それこそ、どの口というか、完全にブーメラン発言であるような気はするが。
「リストカットが手首を切るって意味なの、実はちょっと意外じゃない? 手首って、英語でリストなの!? みたいに思ったりしない?」
「……それはちょっと、よく分からないけど」
理解はできるよ、とカノンは気を遣ってくれた。ありがた迷惑という言葉を思い出した。
「ミラが自傷行為をするのは嫌だな。なんていうか、魔法少女ものを見ている気分になる」
カノンはそんなものを見たことがあるのか――どういうものなのかは見たことがないので知らないが、なんだかオタクみたいな印象があって抵抗がある。まぁ、要するに偏見である。
多分、殺人よりも罪深い。
とりあえず、わたしは言っていた。
「なら、しないよ。カノンの言うこと、聞いてあげる」
「ありがとね」
お礼を言われてしまった。照れそうだ。実際、人生で照れたことなんてほとんどないのだが。
「いえいえ、どういたしまして」
「ふふ」
わたしの言い回しがおかしかったのか、カノンは笑ってしまった。別に、笑わせようと思っていたわけではないのに。
でも、笑ってくれたのならよかった。最近のカノンは、あまり笑ってくれなかったから――いや、笑っていたか。
カノンが夢を語る時は、笑っていたか――よく分からない感性である。
「夢、かぁ」
わたしは言った。
「夢なんて、見たくなかったなぁ」
「幸せじゃないのかい?」
「幸せじゃーないよ……」
じゃあない。
他人と会話を交わして、こんなに楽しいことなんて、他にないじゃないか。
そう――思い知らされた気分である。しかしながら、これは夢で、現実ではない。
現実よりも、夢の方が楽しいだなんて、本当に生きる意味を見失ってしまいそうだった。もっとも、生きる意味なんて元から存在しないのだが。さっさと死にたいと思っている一方で、本当に死にたくないと思っている。
恐怖が欲求に勝ってしまっている。それは本来、非常にいいことなのかもしれないが――わたしにとっては全然よくない。
ダメダメである。
「もうやだ」
そして、わたしは本音で言った。
「もうやだよ、カノン」
「どうして?」
「カノン――どれだけわたしを嫌な気分にすれば気が済むのさ」
文句であり、文句でしかない――八つ当たりでしかない。
ただの憂さ晴らしで、カノンは全然悪くないと、頭では分かっているのに――心は、本心はそれを否定する。
「やっと、面白くなりそうだと思ったのに。カノンと一緒に居たら、そんなの忘れちゃうじゃん」
さっさと、カノンを忘れさせてよ――わたしは、言った。意思通りに、本音で。
カノンさえ居なければ、わたしは自分を幸せだと錯覚さえできたかもしれないのに、カノンが居るせいで、わたしの心の中に居るせいで、全然ダメなのだ。
幸せより、楽しいを知ってしまった――楽をしてしまったら。
もう、戻れない。
「……なら、よかったよ」
そしてカノンは言った。
「ミラの中に居る私は、一生消えないだろうから」
もしかしたらカノンは、わたしなんかよりもよっぽど性格が悪いのかもしれない。
そう思ったら、なんだか笑えてきた。
目を開けると、そこは見知らぬ天井だった。どうやら、現実に戻ってきたみたいだ。
「あ、大丈夫……?」
近くから声が聞こえたので、わたしは左右に首を動かす。すると、左に常盤さんが座っているのが見えた。どうやら、ここは病室のようだ――と気付いたところで、わたしはぎょっとする。
「あれ、びょ、病室?」
「うん。病室だよ。おはよう……」
「おはようございます……」
病室って、流石に大げさだろう。大げさじゃないとしたら、むしろそっちの方がマズいのだが。
なんか、重い病気でも見つかったのか……? それとも、後遺症が残ったのかしら? 不安になっていると、常盤さんが答えてくれた。
「いや、大丈夫。後遺症とか、そういうのはないみたいだから。病気は、検査しないと分からないけれど、大丈夫じゃないかな……?」
その声は、かなり優しかった。恐らく、わたしのことを気遣ってくれているのだろう。その気遣いに感謝しながら、わたしはとりあえず状況を整理する。
波久礼さんに襲われて、突き飛ばされて、首を絞められて、殴られて――確かに、それなら病室で目を覚ましたとしてもおかしくはないのかもしれない。
成人を超えた男性に全力で暴力を振るわれたのだ。女子はそこまで丈夫じゃない。
とりあえず、わたしは訊いた。
「今、何日ですか?」
窓の外が明るいので、恐らく日は変わっているだろう。波久礼さんに殴られたのが、十一月十四日で、今日は十五日といったところか。
「それで合ってるよ……今は、十一月十五日」
珍しく文末に三点リーダーを付けずに、常盤さんは答えてくれた。
「今は午前十時十分だよ……」
「あちゃ、なら学校は遅刻ですね」
「遅刻じゃなくて普通にお休み……」
救急車に運ばれて、十何時間も目を覚まさなかったとなれば、学校は休まざるを得ないだろう。元から休んでいたが、それでも学校を休む動機を得られるというのは嬉しいものだ。
罪悪感が薄まる。
「罪悪感を抱いたことなんてないくせに……」
常盤さんは、分かったようなことを言った。しかし今回は、本当に分かっていなかったようだ。
別に、罪悪感を抱かないというわけではない――わたしは存外、人の心に溢れた人間なのだ。問題は、その人の心という概念自体が悪いものであるということだが……。
共感性や感受性はないが、その代わりに人の心がある――感情がある。
恐らく、それこそが、わたしの最大の欠陥なのだろう。
「ふうん。よく、分かんない……」
わたしの拙い説明を聞いて、常盤さんはそう言った。分からなくても、気を遣ってくれればいいのに、と思った。
まぁ、気を遣われたらそれはそれでイラつくかもしれないが。乙女心は複雑なものである――誰が相手でも、平等に。
いつの間にか常盤さんが病室を出ていった。わたしの目が覚めたことを医者に伝えようと思ったのかもしれない。でも、それならナースコールというものがあるだろうに……。まぁ、ナースさんへの気遣いだろうか。
よく分からなかったが、とりあえずわたしは待ってみることにした。すると、一分程度で常盤さんと一緒に医者らしき人物がやってきた。
それから、何個か検査をした。それは一応で、別に必要性はないらしい――そして、診察と治療。治療と言っても、手術をするレベルの怪我は負っていなかったので、お医者さんに絆創膏を貼ってもらっただけである。
それにしても、本当に病院は嫌いだ。男の前で服を脱がなければならないし、身体を触られるし。まぁ、彼――桃花くんの前では普通に脱いでいたわたしが言うのはおかしいのかもしれないが。
それに、そうでなくたって、どちらにせよどの口なのである――だから、文句を言うつもりはない。
入院ということにはならなかった。三発も殴られて、よく大怪我にならなかったなと思う。もしなっていたら、どうだろう。
ちなみに、病室は常盤さんが手配してくれたらしい。なんでそんな権力を持っているのかは知らないが、偉そうな人がわたしの目の前で常盤さんに媚びを売っていたので、かなりの権力者であることに間違いはないだろう。
水泳よりも、他のことで稼いでいそうだ。裏社会。
そんな常盤さんが、帰りは車で送ってくれるらしい――優しさもあってお金もあって権力もあって能力もあるって、よくよく考えたら羨まし過ぎる。そんな心の声はどうやら漏れていたようで、隣の運転席でハンドルを握る常盤さんは言った。
「羨ましがるものじゃないよ……」
「えー。恨めしいですよ」
おっと、噛んでしまった。もちろん、わざとではない。羨ましいと間違えたのだ――結構失礼な部類の間違いである。
「私は気にしないけれど……」
「そう言ってくれると助かります」
実際本当に気にしないだろうし、そんなことをいちいち気にするような人間は、二十歳を超えるその前にとっくに自殺していることだろう。気にすることが多いだけ、生きづらい――それが人間というものだ。
「もしくは、わたしのようにだらだら生きているか。まぁ、わたしはまだ二十歳にもなっていないけど」
「さっきから何一人でぶつぶつ話しているの……?」
隣に人が居ることを、うっかり失念してしまっていた――それこそ無礼である。わたしはすぐに謝り、会話に意識を集中させる。自分の思考もとい妄想に囚われると、現実が見えなくなってしまうのだ。
本当に馬鹿みたいな話である。
「なんでもありません。気にしないでもらって結構」
「気になるけれど、気にしないよ……」
それなら、よかった――わたしはほっと胸を撫で下ろす。常盤さんが優しい人で助かったとしか言いようがないだろう。
「私は、優しくなんてないよ……」
「え、そうですか? そんなこと言って、ホントは優しいんじゃないですか?」
「優しくなんてないよ」
繰り返されてしまった。優しいと呼ばれることに、抵抗があるのかもしれない――だとしたら、あんまり呼ぶのも失礼か。
「ごめんなさい」
「どうして、謝るの……?」
あれ、戸惑わせてしまった。もう、常盤さんに気を遣うのは諦めようと思った。
「なんでもありません。気にしないでもらって結構」
「気になるけれど、気にしないよ……」
そのやり取りは2回目だった。
そこから、話は変わる。
「常盤さん、彼氏とかっていないんですか?」
「……別に」
ここでは、常盤さんは三点リーダーを文末に付けなかった。若干、アクセルペダルを踏み込む力が強くなった気もするが――常盤さんは言った。
「その気になれば、いくらでも」
「……」
その気になれていないというのは、モテないことよりもよっぽど重要な問題である――なんせ、人間として異端なのだから。
種を残す動きというのは、要するにただの本能である。人間は本能的に、子供を作る生き物なのだから。
そんな常識は、最近の若者達によって打ち砕かれたりもしているみたいだが――どうなのだろうか。どうもなにも、どうでもいいとしか思えない。
「なら、仲間ですね。わたしも彼氏彼女いたことないですし」
「……」
わたしが言うと、常盤さんは不満げな表情をしていた。どうやら、わたしと仲間になるのは嫌だったらしい。その反応は少しだけショックである。
「彼氏なんて」
常盤さんは言う。
「彼氏なんて、必要ないもん……」
「そうですねぇ」
とりあえず同調しておく。それに、常盤さんの言っていることは別に間違っていない。彼氏だろうが彼女だろうが、人生において必ずしも必要なものではない。
「でも、欲しくならないものなんですか?」
「私には必要ない……」
金もあるし、友達もいるらしい。常盤さんは人生に、十分満足しているようだった。
正直、そういうのはとても羨ましい。カノンのせいで、わたしは人生に満足できなくなってしまったのだから。
あの夢は完全なるわたしの妄想であり、実際のカノンとはかけ離れた存在であることは間違いがない。でも、だからこそ、夢の中でカノンが言っていたことは、完全なる真実だった。
わたしは、今まで自分に対して嘘をつき続けてきた――積み重ね過ぎたのだ。だから、わたしの本音が、わたしに本音を認めさせるために、嘘に自分を塗り重ねられないように、夢を見せたのだ。カノンに、自分の全てを代弁させて。
だから、夢に出てきたカノンは、わたしだった。現実ではなく、本当のわたしだった。
「……そうですか」
一度考え出したら止まれない。だからわたしは一度、思考をリセットするために、常盤さんの答えに返事をした。そんな適当な気持ちで会話していることを、申し訳なく思う気持ちもあるが、他人よりは自分が優先だ。
常盤さんがわたしにとって他人なのかは、わたしにも分からないが――これも、嘘なのだろう。
「……」
それから、しばらく無言が続いた。少なくとも、わたしから話すことはなくなったのだ。話すことがないからと言って、わざわざ黙る必要はないのだが、わたしは根本的にコミュ障なのだ。話題がないと、上手く話せない。
しばらく――数分ぐらい経ってから、この空気に耐えられなくなったのか、常盤さんが口を開いた。少し気まずかったから、助かった。
……助かった、と一瞬だけ思った。
「ミラちゃん、売春してんの?」
「……」
三点リーダーもなしに、投げかけられた疑問――わたしはその質問に、無言で頷いた。運転に集中している常盤さんだって、わたしが頷いたことぐらいは認識できるだろう。
きちんと伝わったらしく、常盤さんは少し嫌な顔をした。まるで、汚らわしいものを見るかのような目で、わたしに視線を移す。あくまでもそれは一瞬のことだったが、すぐに『こりゃ嫌われたな』と察した。その察しが合っているかどうかはさておいて。
「……それが、どうしましたか」
常盤さんが何も言わなかったので、わたしはそう訊いた。逆に、わたしの方が無言に耐え切れなくなったのだ。こういう空気は本当に嫌いだった。
「いや、勝手にすればいいけれど……」
常盤さんは慎重ではなくとも、言葉を選んでいるみたいだった。気を遣っているわけではなく、汚い言葉を使うのを我慢しているようなものなのだろうか。そう思ったが、その推測は間違っていた。
「はっきり言って気持ち悪いよ。ごめん」
「……そうですか」
できれば三点リーダーを文末に付けて欲しかった。そこまではっきり言われるとは思っていなかった。別に、嫌われてもいいのだが、気持ち悪がられるのはやっぱり傷付く。
自業自得だとしても。
「別に、事情があるならいい。よくはないけれど、文句を言える立場に私はないから……」
常盤さんは、わたしに説教をしているみたいだった。まるで、大人が、大人みたいに。
「でもね、きみに身体を売らざるを得ない事情があるとはどうも思えないんだよね」
「どうしてですか?」
「だって――」
常盤さんは、三点リーダーを付けずに言った。
「カノンちゃんにもさせてたんでしょ? それ」
「……」
悪友――悪いことを一緒にする友達。だから、仕方なかった。
身体を売ることがカッコイイのかと言われればそれは分からないが、高校生がする悪いことであれば、まぁそんぐらいはするだろうと思っただけだ。元々、わたしはお金が欲しかったので、都合もよかった。とはいえ、お金が絶対に必要だったわけでもないのだが。
このボロアパートであれば、親からの仕送りでも十分に生活できるのだから。だから、確かに事情はない。
カノンにお客さんを――お客さんとしての波久礼さんを紹介したのにも、特に理由はない。ただ、思っただけだ。
こんな悪いことを――独り占めするなんて。
ズルいんじゃないか。
「……それは、わたしの自由じゃないですか?」
「別に、カノンちゃんが嫌がってないならいいんじゃない? そこら辺は、知らないし……」
だけれど――と、常盤さんは言った。
「それが原因にはなったよね」
「……そうですね」
殺人事件の原因に。
「これは、ただの推測だよ。根拠なんてありやしない……」
常盤さんは、運転をしながら、わたしに問う。
「カノンちゃんって、悪いことするの嫌がってなかった……?」
「……はい」
わたしは正直に答えた。嘘をついてもよかったのだが、そんなことをしてもどうせバレるだろうと思ったのだ。
大人に嘘をつく意味のなさは、これまでの会話で十分に分からされている。
「じゃあ、売春ももうやりたくなかっただろうね……」
段々と、常盤さんは答えに近付き始める――いや、もしかしたら、もう辿り着いていたのかもしれない。
ずっと前から。
「だからカノンちゃんは、波久礼さんに関係の解消を申し出たんだ――そして波久礼さんは激昂した」
だから殺した――なんて。そんな、本当にしょうもない理由で。
「波久礼さんが激昂した理由については、正直よく分からなかったんだけれど……。昨日、やっと分かった。ただの保身だよね」
そういうことである。波久礼さんは、カノンがこの関係を外部に、警察に漏らすのではないかと不安になったのだ。疑心暗鬼に陥って、陥って、それだけ――それだけで、波久礼さんは人を殺した。
「たったそれだけのことで、人を殺す。そんなのって、ありですか」
「面白いよね、人間って……」
わたしの言葉に、意味の分からない返事をする常盤さん――大人。
大人は、気味が悪い。そう思ったが、そうじゃないのか? 気味が悪いのは、大人ではなく、常盤さんなのかもしれない。
「そしてその物音に反応したのが、ミラちゃんだった」
……どうしてそれを常盤さんが知っているのだろうか。そう思ったが、それは愚問だった。
常盤さんは、わたしと波久礼さんの会話を、あのアパートでの会話を、ドアの外から聞いていたのだ。
わたしが殺される寸前で、常盤さんはわたしを助けに来てくれた――でも、実際は、それよりも前から常盤さんは事態に気付いていた。その上で、黙ってドアの外から会話を盗み聞いていたのだ。
いや、そうだとしても、常盤さんを責める理由はないのだが。
「はい」
「でも、ミラちゃんは外に出るだけで、特に何もしなかった。カノンちゃんの部屋から、とんでもない音が聞こえていたにもかかわらず」
とんでもない音、か。常盤さんがそれを知っているということは、常盤さんもその音を聞いていたのか。あの、悲鳴も。
聞いていながら、黙っていた。わたしと同じじゃないか。
「真下の階だからね……。でも、その時は疲れてたし」
疲れていたから、殺人を見逃した――ということになるのだろうか。まぁ、過ぎたことである。どうでもいい。
それより、わたしは訊いた。
「あなたには、波久礼さんが犯人だと分かっていたんですか」
「うん……」
きみ達が波久礼さんといけないことをしていることは、前々から分かっていたからね――常盤さんはそう言って、ハンドルを切る。カーブだった。
「……」
そこまで知っていて、それでも尚何もしなかった。警察にも、何も言わなかった。
わたしも同じことをしているのだから、常盤さんを責める資格はないのだが。それでも、何かを言いたくなった。随分と自分勝手なわたしである。
「物音に反応して外に出たミラちゃんは、証拠を片してカノンちゃんの部屋を出ていく波久礼さんを目撃した、ってことになるのかな」
「全部合ってますよ」
だからその時点でわたしは、既に犯人を知っていた。だから、わたしは犯人捜しという面白そうなことをしなかったのだ。
「まぁ、見ていなくても、分かっていたとは思いますよ」
「だろうね。波久礼さんとカノンちゃんの関係を知っているミラちゃんなら、真相に辿り着くことは容易い……」
……しかし、疑問は残る。どうして警察はカノンの部屋から、犯人の足跡を見つけることができなかったのか。そこまで周到な隠蔽が、波久礼さんにできたとは思わない。
でも、常盤さんはそれについて、全く言及しなかった。
「それが真相で、それだけ。波久礼さんがきみのことを殺そうとしたのは、単なる口止め目的だろうね……」
最後に分かりきったことを言って、常盤さんはそのまま話を打ち切った。これ以上を話す必要はないと言わんばかりに。
常盤さんも、わたしも、最初から真実を知っていた。結局、現実でミステリじみたことが起こっても、名探偵が颯爽と登場するなんてことにはならないのだろう。
大した真相じゃない。
「……」
不思議は、いくつもある。
推理小説なら見逃せないレベルの、大きな不可思議が。
でも、現実は推理小説じゃない。現実の殺人が、面白いわけがない。
ただただ笑えない話として、この事件は深くわたしの記憶に残るのだろう。
ただのバッドエンド。救済はなく、胸糞悪いだけで、全てが終わる。
他の誰の記憶にも残らずに、汚く幕を閉じる。
なら、わたしだけは覚えていよう。
この事件と、カノンのことを。
あと、カノンの代わりも探さなきゃ。




