第九話 「鏡の迷宮」
遊園地の喧騒が遠のき、古城を模したお化け屋敷の入り口が、まるで巨大な獣の顎のように、三人の前に口を開けていた。内部からは、不気味な効果音と、先程まで客が上げていたであろう悲鳴の残響が微かに聞こえてくる。
「……俺たちを、誘い込んでいる」
シロが、低い声で言った。
「ああ、見え透いた罠だ。だが、乗るしかねえ」
カイは、拳銃の安全装置を静かに外し、覚悟を決めた顔で言った。
「行くぞ。ここからは、本当の暗闇だ」
三人は、吸い込まれるように、暗い通路へと足を踏み入れた。
内部は、ひんやりとした空気が漂い、カビと埃の匂いがした。壁には安っぽい骸骨の飾りが吊るされ、床はわざと歩きにくく作られている。普段なら一笑に付すような子供騙しの仕掛けが、本物の脅威が潜む今、不気味なリアリティを帯びていた。
『カイ、匂いが拡散している。この建物全体に、薄く広がっているようだ』
シロが、通信機を通して囁く。
『チッ、厄介なことを……。やつ、動き回って俺たちを撹乱しているのか』
彼らは、シロの嗅覚だけを頼りに、暗闇を進んでいく。角を曲がるたび、扉を開けるたび、三人の緊張は高まっていった。いつ、どこから、あの男が――いや、あの“狼人”が襲いかかってくるか分からない。
やがて、彼らは一つの広間に出た。
その部屋に入った瞬間、三人は息を呑んだ。
そこは、壁も、天井も、床の一部までもが、無数の鏡で覆われた「鏡の迷宮」だった。非常用の薄暗い照明が、乱反射を繰り返し、どこまでが現実で、どこからが虚像なのか、全く区別がつかない。自分たちの姿が、無限に、そして歪に映り込んでいる。
『最悪だ……』
サキが、悪態をつく。視覚を頼りに戦う彼女にとって、この空間はまさしく地獄だった。
その時、迷宮の奥から、くすくす、と笑い声が聞こえた。
そして、無数の鏡の中に、あの野球帽の男の姿が、一瞬だけ映っては消えた。
「挑発しているのか……!」
「落ち着け、サキ!」
反射的に飛び出そうとするサキを、カイが制した。
「奴の思うツボだ。この空間では、目は役に立たない。むしろ、最大の敵になる」
カイは、ゆっくりと目を閉じた。
『シロ、頼れるのはお前の“鼻”と“耳”だけだ。もう一度、匂いの中心を探れ』
『……やっている。だが、この部屋は空気が淀んでいて、匂いが乱れている。もう少し時間が必要だ』
シロもまた、目を閉じ、全神経を聴覚と嗅覚に集中させる。
水の滴る音。自分の呼吸音。仲間たちの衣擦れの音。そして、その全てに混じる、微かな獣の匂いと――敵の、足音。
サキは、苛立ちを隠せずにいた。自分の最強の武器である視覚を封じられ、ただ仲間の指示を待つしかない。それが、彼女のプライドをひどく傷つけた。鏡に映る自分自身の姿が、嘲笑っているように見えた。
(……クソッ!)
彼女は、思わず目の前の鏡に映った敵の幻影に殴りかかりそうになり、すんでのところで拳を止めた。
『サキ、気を逸らすな。カイ、何か策は?』
シロの静かな声が、通信機から聞こえる。
『ああ。原始的な方法だが……』
カイは、ポケットから百円硬貨を一枚取り出した。
彼は、それを迷宮の奥へと、軽く放り投げた。
カラン……コロン、キンッ。
硬貨が床と壁に当たる音。その反響で、カイは瞬時に空間の広さと、壁の本当の位置を把握しようと試みた。
『……思ったより、複雑な構造だ。だが、大体の位置は掴める』
『カイ、聞こえるか』
シロの声が、再び響いた。
『……左、十時方向。距離は、約十五メートル。三枚目の鏡パネルの、裏だ』
『!』
『間違いない。風の流れ、音の反響、そして、匂いの濃度。やつは、そこに潜んで、息を殺している』
シロの言葉には、絶対の確信がこもっていた。
カイは、もう迷わなかった。
『サキ、聞こえたな。俺の合図で、シロが示したパネルを、全力で破壊しろ。シロ、お前はサキのフォロー。俺は、やつの逃げ道を塞ぐ』
三人の間に、再び緊張の糸が張り詰める。
『……3、2、1……今だ!』
「はああああああっ!!」
カイの合図と同時に、サキが動いた。彼女は、もはや迷わない。シロの感覚を、カイの指示を、信じる。
一直線に、指定された鏡へと突進し、渾身の蹴りを叩き込んだ。
バリーンッ!!
凄まじい音を立てて、鏡が粉々に砕け散る。
その向こうに、息を呑んで隠れていた、野球帽の男の姿があった。
「なっ……!?」
男は、まさか自分の位置が特定されるとは思っていなかったのか、驚愕に目を見開いている。
その一瞬の隙を、シロが見逃すはずはなかった。
彼は、砕けた鏡の破片を駆け抜け、男の懐へと一気に潜り込む。
「逃がすか!」
シロは、男の腕を掴み、関節技を仕掛ける。
サキも、体勢を立て直し、男の背後へと回り込む。
カイもまた、拳銃を構え、男の逃げ道を完全に塞いでいた。
包囲は、完璧だった。
「ま、待て!話を聞け!これは――」
男が何かを叫ぼうとする。
だが、アドレナリンが最高潮に達している三人に、その声は届かなかった。
彼らの頭にあるのは、ただ一つ。
――目の前の、市民を危険に晒した狼人を、無力化する。
サキの強烈な蹴りが、男の脇腹に叩き込まれる。
「ぐふっ……!」
男の口から、空気が漏れる。
シロは、男を地面に組み伏せ、首に腕を回して締め上げる。
カイも、駆け寄って、男が抵抗できないように、その足を抑え込んだ。
「待……て……これ、は……テス……」
くぐもった声が、シロの腕の中から聞こえる。
だが、彼らは聞かない。聞けない。ただ、効率的に、そして、容赦なく、敵の戦闘能力を奪っていく。訓練通りに。
その、あまりにも一方的な制圧劇が、数分間続いた後だった。
最初に異変に気付いたのは、カイだった。
「……待て、二人とも、止めろ」
「なんだ、カイ。まだ抵抗するかもしれないだろう」
サキが、さらに追撃しようとするのを、カイが手で制した。
「……おかしい。こいつ、人間だ。狼人特有の、身体能力の向上が見られない。ただの、普通の人間が、一方的に殴られているようにしか見えない」
その言葉に、シロとサキの動きが、ぴたり、と止まった。
言われてみれば、そうだ。目の前の男は、ただただ、赤子のようにやられているだけだった。
三人が、困惑して顔を見合わせた、その時だった。
迷宮の入り口から、のんびりとした、間の抜けた声が聞こえてきた。
「おーい、やってるやってる?……ありゃ、思ったよりボコボコにしちゃったか。ちょっと遅かったかな、へへへ」
そこに立っていたのは、腕を組み、ニヤニヤと笑う、ハヤマの姿だった。
その姿を認めると、地面に伸びていた男――シキは、顔を上げ、その目にみるみる涙を溜めて、叫んだ。
「へへへ、じゃありませんよ、ハヤマさん!こ、こんなに殴られるなんて、聞いてませんよぉ!ただのテストだって、言ったじゃないですかぁ……!」
――数時間前。月影機関・廊下。
分析部のシキは、報告書を手に、廊下を歩いていた。
すると、向こうから、ハヤマ教官が、なぜかバケツを持って、楽しそうにこちらへ走ってくるのが見えた。
(ん?ハヤマさん?なんだか、やけにご機嫌だな……何してるんだろう?)
次の瞬間、シキの思考は、冷たい衝撃によって中断された。
バシャーーーンッ!
ハヤマは、すれ違いざま、バケツの中身を、シキの頭から見事にぶっかけたのだ。
「なっ、ななな、何をするんですか、ハヤマさんっ!?」
びしょ濡れになったシキが抗議する。
すると、ハヤマは、バケツを放り投げ、ガシッ、とシキの肩を掴んだ。その顔から、いつもの笑顔が消えている。真剣で、ドラマチックな、追い詰められた英雄のような表情だ。
「……お前にしか、頼めない任務があるんだ、シキ」
(……え?俺に?あのハヤマさんが、こんなに真剣な顔で……?初めて見た……。これは、よっぽど重要な任務で、俺を頼ってくれてるんだ……!)
シキの心に、熱いものがこみ上げてきた。
その時、ハヤマは内心でこう思っていた。
(うひゃひゃ、こいつ、絶対俺がマジだと思ってるぜ。なんて単純な奴なんだ。面白すぎだろ)
感動で打ち震えるシキが、力強く頷いた。
「……その任務、俺にやらせてください!何ですか、ハヤマさん!」
「うん」とハヤマは頷いた。
「今すぐその服を着替えて、遊園地に行ってくれ。俺の教え子たちの、テストの相手を頼みたい」
「…………はい?」
シキは、宇宙の真理でも聞かされたかのような顔で、固まった。
「え……それだけ、ですか?あんなに真剣な顔で、俺、てっきり世界の危機でも救うのかと……」
「んじゃ、よろしくな!」
ハヤマは、シキの肩をポンと叩くと、再びいつものヘラヘラした笑顔に戻り、スキップでもしそうな勢いで去っていく。そして、去り際に、こう言い放った。
「あ、そうだ、シキ君!悪役になりきって、思いっきり嫌な奴を演じてくれよな!」
――そして、現在。お化け屋敷・鏡の迷宮。
シロ、カイ、サキの三人は、目の前で起きている状況が理解できず、完全に固まっていた。
やがて、カイが、おそるおそるハヤマに尋ねた。
「ハヤマ、せんせー……。この人、知り合い、ですか?」
「ん?ああ、こいつはシキ。機関の分析部の人間だ」
ハヤマが、あっけらかんと言う。
「で、ですが、匂いは……!」
シロが、信じられないといった顔で言う。狼人の匂いは、本物だったはずだ。
「ああ、それな」
ハヤマは、指をパチンと鳴らした。
「俺がさっき、狼人の体液サンプルを混ぜた水を、こいつにぶっかけておいた」
「な……なんのために、そんな手の込んだことを……」
今度は、サキが、わなわなと震えながら言った。
「はぁ?」
ハヤマは、心底不思議そうな顔でサキを見た。
「お前、馬鹿なのか?サキ。言っただろ、抜き打ちの最終試験だって。それとも、ゴリラ並みの腕力と、ハエ並みの脳みそしか持ってないのか?」
「……っ!!」
サキの顔が、怒りで沸騰する。
その横で、シロが、静かに肩を震わせ、口元を押さえた。
「……ぷっ」
ほんの僅かに、だが確かに、笑い声が漏れた。
ハヤマは、満足げに頷くと、パン、と手を叩いた。
「というわけで、今回の最終試験、お前たちの合格を宣言する!」
彼は、どこから取り出したのか、三本のわたあめを、三人に差し出した。まるで、言うことを聞いた子供にご褒美をあげるかのように。
「ほら、よく頑張ったな」
その子供をあやすような態度と、満面の、しかし最高に腹の立つ笑顔に、サキの怒りは頂点に達した。だが、何も言えない。なぜなら、自分たちが、ただの分析部員を、半殺しにしてしまった後だからだ。
シロとカイは、困惑しながらも、そのわたあめを受け取った。
こうして、四人(と、鼻血を出しながら床で呻いている分析部員一名)は、静まり返った遊園地の中で、奇妙な達成感と、それ以上の疲労感、そして、とてつもない気まずさに包まれていた。