第八話 「群衆の中の獣」
「……この匂い……」
シロのその一言で、遊園地の喧騒が嘘のように遠のいた。カイとサキの顔から、ついさっきまでの弛緩した表情が消え、瞬時に戦闘前の緊張が走る。
「匂いって……まさか」
カイが、信じられないといった顔で聞き返す。
「ああ。間違いない。俺たちが狩るべき対象――“狼人”の匂いだ」
シロの黒い瞳が、獲物を探す猛禽類のように、鋭く人混みを射抜いていた。
サキは、そのシロの横顔を見て、緊張と皮肉が混じった声で言った。
「……へえ。どうやら、このチームには優秀な“猟犬”がいたらしいな」
「今は、軽口を叩いている場合じゃない」
シロは、サキの挑発を意にも介さず、匂いの源を探ることに全神経を集中させていた。それは、様々な匂いが混じり合うこの遊園地の中で、一本だけ異質な赤い糸を手繰り寄せるような、繊細な作業だった。
「クソッ、最悪のタイミングだ……!」
カイが自分の服装を見下ろしながら悪態をつく。三人とも、今日は完全な私服だ。シロの刀も、カイがメイに作成を依頼している特殊弾丸も、ここにはない。カイが護身用に隠し持っている拳銃一丁と、全員が緊急用に装備している数本の銀製ナイフ。それが、今の彼らの全武装だった。
「どうする、カイ!」サキが問う。
こういう時、最初に頭が働くのはカイだった。彼の脳は、地獄の訓練によって、パニック状態でも最適な行動を導き出すように鍛えられていた。
「落ち着け。まず、本部に連絡する。ハヤマ教官に……」
カイはそう言って、スマホ型の通信機を取り出す。だが、その指は一瞬ためらった。あの男が、まともな指示をくれるとは到底思えなかったからだ。しかし、他に選択肢はない。カイは簡潔に状況を報告するメッセージを送った。
『緊急事態。遊園地内で狼人の匂いを感知。指示を求む』
返信は、ほぼ即座に返ってきた。あまりにも早すぎるほどに。
カイは、スマホの画面を見て、固まった。
『へー、そりゃ大変だ。抜き打ちの最終試験ってことで、よろしく。頑張れよ(~ ̄▽ ̄)~』
画面の最後に添えられた、ふざけきった顔文字が、三人の神経を逆撫でした。
「あのクソ教官……!」
サキが、本気で怒りの籠った声を出す。
シロは、黙ってその画面を見ていたが、その表情は「やはりな」と語っていた。
最初から、期待などしていなかったのだ。
「……つまり、俺たちだけで、やるしかないってことか」
カイは、ぐしゃり、とスマホを握りつぶしたい衝動を抑え、深呼吸した。
「……ああ、そうだ。やるぞ」
彼の声には、もう迷いはなかった。司令塔としてのスイッチが入ったのだ。
「作戦開始だ。シロ、お前が“鼻”だ。匂いを追え。ただし、絶対に怪しまれるな。人混みに紛れながら、できるだけ自然にだ」
「わかっている」
「サキ。お前はシロの右後方。俺は左後方。シロを護衛しつつ、周囲の群衆を警戒しろ。挙動不審な人物、異常に周りを警戒している人間、どんな些細なことでもいい、見つけ次第報告しろ」
「了解」
「装備は最低限だ。敵を発見しても、絶対に単独で交戦するな。まずは、敵を特定し、市民から隔離する。それが最優先事項だ。いいな?」
「「了解」」
三人の間に、緊張の糸が張り詰める。それは、地獄の訓練で培われた、チームとしての最初の“絆”だった。
彼らの短い休暇は、終わった。ここからは、戦場だ。
人々の笑い声、アトラクションの駆動音、甘いお菓子の匂い。その全てが、今の三人にとってはただのノイズでしかなかった。
シロは、目を閉じ、嗅覚に意識を集中させる。
(……匂いは、風に乗って、あっちから流れてきてる。強くはない。だが、確実に“いる”。ポップコーンと、香水と、汗の匂い……その奥に、微かな血と獣の腐臭……)
彼は、人波を縫うように、自然な足取りで歩き出す。まるで、次のアトラクションを探しているかのように。だが、その歩みには、一切の迷いがない。
カイは、通信機で囁く。
『シロ、状況は?』
『匂いは途切れていない。少しずつ、だが強くなっている。この先だ』
カイは、サングラスの奥で、鋭く周囲を観察していた。
(怪しいやつは……いない。誰もが楽しそうだ。だが、その“普通”が、逆に不気味だ。この中に、獣が紛れている。羊の皮を被った、狼が……)
彼の視線は、一人一人の顔、手、服装、歩き方をスキャンしていく。戦場の指揮者として、彼は群衆という名の“地形”を読み解こうとしていた。
サキもまた、神経を研ぎ澄ませていた。
(イライラするな……。私の仕事は、斬ることだ。こんな風に、こそこそと嗅ぎ回ることじゃない。だが……)
彼女は、前を歩くシロの背中を見る。彼は、あれだけ嫌っていた人混みの中を、今は先頭に立って歩いている。彼のその並外れた感覚が、今はこのチームの唯一の生命線だった。
(……あの“猟犬”、本当に鼻が利くじゃないか……)
悔しいが、認めざるを得なかった。
『カイ、三時方向。黒いパーカーの男。さっきから、挙動が不自然だ』
サキからの報告。
『観察を続けろ。だが、目を合わせるな』
カイが即座に指示を返す。
シロは、そんな二人のやり取りを聞きながら、さらに匂いの源へと近づいていく。
匂いは、パークの中心部ではなく、少し古びた、人気のないエリアへと彼らを導いていた。
『……止まれ』
シロが、短く呟いた。
三人が足を止めたのは、西洋の古城を模した、巨大な「お化け屋敷」の前だった。入り口からは、子供たちの悲鳴と、不気味な音楽が聞こえてくる。
『この中だ。匂いは、ここから一番強くする』
『屋内か……最悪だな』
カイが舌打ちする。暗闇、狭い通路、そして、何も知らない大勢の客。狼人にとっては、最高の狩場だった。
『どうする、カイ。突入するのか?』サキが問う。
『馬鹿を言え。中でパニックが起きたら、大惨事になる』
カイは、お化け屋敷の壁に設置されていた、施設の見取り図を睨みつけた。
(……非常口は三つ。客の動線は一方通行。だが、内部には無数の隠し通路や、従業員用のバックヤードがあるはずだ……)
彼は、数秒間、高速で思考を巡らせた。
『……一つ、手がある』
カイは、意を決して言った。
『このアトラクションの、火災報知器を、外部から誤作動させる』
『なんだと?』
『火災報知器が鳴れば、客は係員の指示で、一斉に外へ避難するはずだ。パニックを最小限に抑えつつ、中の人間を炙り出せる。だが、当然、敵にも俺たちの存在がバレる。一か八かの賭けだ』
それは、あまりにも危険な賭博だった。だが、他に手はない。
『……やろう』シロが静かに言った。『群衆の中で変身されるより、遥かにマシだ』
『……分かった。あんたの作戦に乗ってやる』サキも覚悟を決めた。
『よし。俺が報知器をなんとかする。シロとサキは、正面と、あっちの非常口に分かれて待機しろ。避難してくる客の中に、必ず“やつ”がいる。絶対に見逃すな』
カイは、建物の裏手にある、サービス用のパネルボックスへと向かった。彼はポケットから、キーホルダー型のマルチツールを取り出すと、慣れた手つきでパネルをこじ開けた。
その横顔は、射的ゲームに興じていた時の、真剣な「狙撃手」の顔だった。
数分後。
ジリリリリリリリリリ!!
けたたましい警報音が、アトラクション全体に鳴り響いた。
『火災が発生しました!火災が発生しました!お客様は、落ち着いて、係員の指示に従い、速やかに屋外へ避難してください!』
お化け屋敷の出口から、客たちがぞろぞろと吐き出されてくる。ほとんどは、これも演出の一部だと思っているのか、笑っている者さえいた。パニックにはなっていない。
シロとサキは、それぞれの持ち場で、群衆の一人一人に、鷹のような鋭い視線を送っていた。
(どこだ……どこにいる……!)
人の流れが速い。顔、顔、顔。無数の顔が、目の前を通り過ぎていく。見つけ出すのは、不可能に近い。
シロは、再び嗅覚に全神経を集中させた。
(匂いが、混じり合っている。恐怖、興奮、汗……その中で、あの獣の匂いを探せ……!)
その時だった。
シロの視線が、ある一点に釘付けになった。
避難する人の流れに、逆らうようにして、ゆっくりと歩いてくる一人の男。
ごく平均的な身長。何の変哲もない、野球帽を目深に被った男だ。
だが、彼だけが、この状況で、笑っていた。捕食者が獲物を見つけた時のような、残忍な笑みを、その口元に浮かべていた。
男の目が、シロの目と、ぴたりと合った。
その瞬間、シロは確信した。
匂いだ。この男から、獣の匂いが、奔流のように溢れ出している。
男は、シロに向かって、ほんの僅かに、嘲るように頷いてみせた。
そして、くるりと踵を返し、今や誰もいなくなった、暗いお化け屋敷の中へと、再び姿を消した。
まるで、「さあ、ここまでおいで」と、彼らを誘うかのように。
シロは、震える指で通信機のスイッチを入れた。
『……見つけた』
その声は、静かだったが、これから始まる死闘を予感させる、重い響きを帯びていた。