第十六話 「銀の拳」
ゴゴゴゴゴ……
空気が、震える。
竹林が、まるで巨大な檻のように、デルタ-7と、一台のセダンを、完全に閉じ込めていた。
異形の“人間”たちが、じり、じりと、包囲の輪を狭めてくる。その動きには、一切の感情も、躊躇もなかった。ただ、命令に従う、完璧な、殺戮人形。
「シキさん!こいつらは、一体何なんだ!?」
カイが、絶叫に近い声で尋ねた。
「……説明している時間はない!」
シキは、アタッシュケースを胸に強く抱きしめながら、叫び返した。
「言えることは一つだけだ!こいつらの身体組成は、狼人と酷似している!――つまり、“銀”は、有効だ!」
その言葉を待っていたかのように、助手席に座っていたカゲヤマが、静かに、ドアを開けた。
彼の表情は、先程までの、部外者を見下すような、冷たいものではなかった。
それは、これから、ただ、そこに在る“害虫”を駆除する、専門家の顔だった。
彼は、懐から、鈍い銀色の輝きを放つ、一つの武器を取り出した。
――銀色の、メリケンサック。
「……では、少し、京都支部の流儀を、お見せしましょう」
カゲヤマは、そう呟くと、もう片方の手で、小さなガラス製のバイアルを取り出した。中には、不気味な紫色の液体が満たされている。彼は、躊躇なく、その中身を、自分の首筋に突き立てた。
ブスリ、と、鈍い音。
次の瞬間。
カゲヤマの、スーツの袖から覗く腕、そして、首筋に、バキバキバキッ!と、血管が、蚯蚓腫れのように、浮き上がった。その身体から、異常な圧力が溢れ出す。
彼は、僅かに、身をかがめた。
そして。
ドォンッ!!
彼が立っていたアスファルトが、蜘蛛の巣状に砕け散る。
カゲヤマの姿は、そこには、もうなかった。
あったのは、残像と、衝撃波だけだ。
「なっ……!?」
カイが、目を見開く。
次の瞬間、包囲していた“人間”たちの、一体の、胴体が、爆散した。
ドシャアアアッ!と、黒い血と、肉片が、竹林を汚す。
その背後に、銀色の拳を構えた、カゲヤマの姿があった。
彼は、止まらない。
一体、また一体と、異形の群れの中を、まるで、嵐のように駆け抜けていく。その拳が振るわれるたび、一体の“人間”が、上半身と下半身が分離した、ただの“肉塊”へと変わっていく。
それは、もはや、戦闘ではなかった。
一方的な、殺戮。あるいは、解体作業。
「……………」
シロも、サキも、そして、カイも。
その、あまりにも、圧倒的な光景に、言葉を失い、立ち尽くしていた。
これが、京都支部の、エリート。
これが、自分たちと同じ、“討伐特化”の、戦闘員……?
やがて、カゲヤマの動きが、ふと、止まった。
彼は、肉片と、血の海の中に、静かに立っていた。その顔の半分が、返り血で、赤黒く染まっている。
彼は、自分の眼鏡に、血飛沫が付着しているのに気づくと、やれやれ、といった風に、息を吐いた。
「やれやれ……どうやらメガネが汚れてしまったようだ」
彼は、懐から、真っ白なハンカチを取り出すと、レンズを丁寧に拭き始めた。その、あまりにも、場違いで、あまりにも、冷静な仕草。
そして、彼は、何でもないことのように、再び、殺戮の宴へと、身を投じた。
「――いつまで、呆けているつもりだ!君たちも、始めろ!」
シキの怒声が、三人の硬直を、解いた。
「……行くぞ!」
カイの号令。
サキが、獣のように、車から飛び出した。
シロもまた、銀の刀を抜き放ち、その後を追う。
だが、敵の動きは、彼らが今まで戦ってきた、どの狼人とも、違っていた。
彼らは、個として、襲いかかってこない。常に、複数で、完璧に連携し、一人の隙を、別の者が突く。まるで、一つの、巨大な、群体生物のように。
「くそっ、こいつら、鬱陶しい……!」
サキの蹴りが、一体を吹き飛ばす。だが、即座に、別の二体が、その隙を埋め、左右から、彼女の腕に、食らいついてくる。
「サキ!」
シロが、刀で、一体の腕を切り裂く。銀が、その肉を焼き、悲鳴が上がる。
カイもまた、数少ない“銀の雨”を、敵が密集している地点へと撃ち込み、内部から、数体をまとめて、破壊していく。
凄惨な戦いが、数十分、続いた。
やがて、最後の一体が、カゲヤマの拳によって、頭部を粉砕され、その場に崩れ落ちた時、竹林には、再び、静寂が戻った。
残されたのは、夥しい数の、異形の死体と、肩で息をする、デルタ-7の、疲弊しきった姿だった。
「……はぁ……はぁ……終わった、のか……?」
カイが、膝に手をつきながら、呟く。
その、一瞬の、気の緩み。
それが、命取りだった。
「――助けて……」
茂みの中から、か細い声が聞こえた。
見ると、そこには、旅行客のような格好をした、若い女性が、足を怪我して、座り込んでいる。先程の、事故の、巻き添えだろうか。
運転手のナギが、それを見て、慌てて車から駆け寄った。
「だ、大丈夫ですか、お嬢さん!」
その、あまりにも、善良で、あまりにも、無防備な行動。
カゲヤマの顔色が変わった。
彼だけが、その女から放たれる、微かな、しかし、決定的な“違和感”に、気づいていた。
「逃げろ、ナギ!そいつは、人間じゃない!!」
カゲヤマの、絶叫。
だが、遅かった。
ナギが、心配そうに、カゲヤマの方を、振り返る。
その、緊張した顔。
次の瞬間、彼の目の前にいた“女”の背中から、ブシャアアアアッ!と、何本もの、骨のように鋭く、そして、禍々しい、関節状の突起物が、射出された。
ザクザクザクザクザクッ!
ナギの身体が、頭頂部から、股下まで、一瞬にして、何本もの杭によって、貫かれた。
「……あ……」
彼の口から、意味にならない声が、漏れる。
「――てめええええええっ!!」
カゲヤマの怒号。
ドゴォォォォンッ!!
彼の拳が、女の顔面に、炸裂した。もはや、それは、殴るというより、爆破に近かった。女の上半身は、跡形もなく、吹き飛んだ。
カゲヤマは、串刺しになったナギの身体を、慎重に、引きずり出した。
ナギの口から、ゴポッ、と、大量の血が、溢れ出す。
「……カゲ……ヤマ、さん……」
途切れ途切れの、声。
「……頼みが、あります……。俺、もう、ダメみたい、なんで……。明日、娘の、誕生日……なんです。大きな、人形、買ってやるって……約束、しちまって……」
ナギは、血塗れの手を、ゆっくりと、空へと、伸ばした。
その、虚ろな瞳には、青い空と、愛しい、娘の笑顔が、映っているようだった。
「……愛してるぞ……ミカ……」
ぽつり、と、彼の目から、一筋の、涙が、零れ落ちた。
そして。
す、と、彼の手が、力なく、地面に落ちた。
その瞳から、光が、永遠に、失われた。
「……………」
カゲヤマは、何も言わなかった。
ただ、その場に、拳を、一度だけ、強く、強く、叩きつけた。
そして、優しい手つきで、親友の、開かれたままの瞳を、そっと、閉じた。
やがて、応援部隊の車両が、サイレンを鳴らしながら、到着した。
カゲヤマは、立ち上がった。その顔は、既に、いつもの、無表情な、エリートの顔に戻っていた。
「……ご愁傷様です」
隣に立っていたシキが、静かに、言った。
「……これが、俺たちの仕事だ」
カゲヤマは、吐き捨てるように、言った。
「いつ、誰が、命を落とすか、分からない。それだけのことだ」
到着した処理班が、異形の死体を、そして、ナギの亡骸を、手際よく、回収していく。
「……シキ分析官」
カゲヤマが、言った。
「あの化け物たちの正体……支部に戻ったら、詳しく、説明してもらいます」