第十二話 「信頼、嘲笑、そして……」
「今だ、カイーーーーッ!!」
シロの絶叫が、廃倉庫に木霊した。
カイの指が、引き金にかかる。銃口の先には、友の姿。その友を殺そうとしている、怪物の姿。思考が、一瞬、停止する。
――本当に、撃つのか?
だが、シロを信じる、と、彼の心は、疾うに決めていた。
その、カイが引き金を引く、コンマ一秒にも満たない刹那。
アルファの爪が、シロの心臓を抉らんと迫る、その瞬間。
シロの動きが、変化した。
彼は、防御を捨て、身を捩り、握りしめた刀の軌道を、僅かに、しかし、決定的に変えた。刃が、アルファの振り下ろされた腕の下をすり抜け、その巨体の、最も無防備で、そして、最も屈辱的な一点へと突き立てられた。
股間。
「(どれだけ硬かろうが……ここなら、効くはずだ!)」
ザクッ、と肉を抉る、鈍い感触。
「グギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!?」
アルファの咆哮が、苦痛と、驚愕と、そして、雄としての尊厳を砕かれた、悲痛な絶叫に変わった。
その巨体が、一瞬、完全に硬直する。防御が、がら空きになる。
「撃てええええええええっ!!」
シロは、好機を逃さなかった。
その声に、カイも、寸分の遅れなく反応した。
パーンッ!
放たれた“銀の雨”は、アルファのがら空きになった胸の中心、心臓の真上へと、吸い込まれるように着弾した。
アルファは、自分の胸に空いた、小さな穴を見た。一瞬、何が起きたのか、理解できていないようだった。
だが、次の瞬間。
クポッ、と内部で何かが破裂する音。
アルファの胸の中心から、銀色の亀裂が、蜘蛛の巣のように、その全身へと、爆発的に広がっていく。
「がああ……あ……ぎ……ぎぎぎぎぎ……!!」
声にならない悲鳴を上げ、アルファはその場に崩れ落ちた。強靭な肉体が、内側から、銀の毒によって、完全に破壊されていく。黒銀の体毛は抜け落ち、鋼の筋肉は萎み、その巨体は、みるみるうちに、人間の姿へと戻っていった。
やがて、そこには、血の気を失い、青白い顔をした、一人の男が横たわっているだけだった。彼は、ぜえ、ぜえ、と浅い呼吸を繰り返しながら、最後の力で、言葉を絞り出した。
「……これで、終わりだと、思うな……俺は、この力を、制御できなかった、ただの……クズだ……」
それが、彼の最期の言葉だった。
男の瞳から、光が消えた。
シーン……。
廃倉庫に、静寂が戻った。
残されたのは、荒い呼吸を繰り返す、三人の若者と、一体の亡骸だけだった。
サキは、腕に走る深い傷の痛みに、顔を顰めた。彼女は、男の亡骸の頭を、ブーツの先でコツン、と蹴り、吐き捨てるように言った。
「……てめえが付けたこの傷、どうしてくれるんだ、この野郎……」
その横で、シロが、ぽつりと、低い声で呟いた。
「……それは、少し、意地悪じゃないか」
「ああん?」
サキの、匕首のような鋭い視線が、シロに突き刺さる。
「……何か、言ったか?」
「いや……別に、何も」
シロは、ぷい、とそっぽを向いた。
その後、到着した機関の医療部隊によって、シロとサキは応急処置を受けた。幸い、傷は深かったが、命に別状はなかった。
そして、三人が本部のロビーに戻ると、そこには、腕を組んで、彼らを待っているハヤマ・センセイの姿があった。
彼は、三人のボロボロの姿を見ると、ぷるぷると肩を震わせ、必死に笑いを堪えているようだった。
だが、それも、数秒しか持たなかった。
「……ふっ……ふふっ……」
「ぶっふぉおおおおおおおおおおおおおっ!!ふぁーははははははは!ふぁーはははははは!!」
ハヤマ・センセイは、腹を抱えて、その場に崩れ落ち、床を転げ回りながら、大爆笑し始めた。その笑い声は、ロビー全体に響き渡った。
やがて、涙を拭いながら、彼はゆっくりと立ち上がった。
「あぁ〜……でもさ、君たち、めっちゃボコボコにされてたよね〜」
彼は、ふらふらとカイの肩に寄りかかると、シロとサキを、からかうような目で見た。
「カイ君は、よくやった。最後、アルファを仕留めたのは、紛れもなく君だ。俺が、ドローンで、ちゃーんと見てたからな。君がいなかったら、どうなってたことか」
「い、いえ……そんな、大したことじゃ……」
カイは、照れくさそうに、頭の後ろを掻いた。
「ほーらほら、照れちゃって、このシャイボーイめ!」
ハヤマ・センセイが、カイの頭をわしゃわしゃと撫でた、その時だった。
フワッ……。
突如、何の脈絡もなく、世界の空気が変わった。
背景が、淡いピンク色になり、どこからともなく、純白の花びらが、きらめきながら舞い始めた。
カイとハヤマ・センセイの周りだけを、金色の光の粒子が、キラキラと照らし出す。まるで、二人は、魔法の国の王子様か、何かのように。
カイは、自信に満ちた表情で、すっと片手を天に掲げた。
その隣で、ハヤマ・センセイは、我が事のように、誇らしげな笑みを浮かべている。
全ての動作が、過剰に、そして、ドラマチックに演出されていた。
ハヤマ・センセイが、熱のこもった声で言った。
「カイ君のスキルは、まさに天下一品!彼は、天才だ!」
カイは、そっと目を伏せ、クールな笑みを浮かべた。
「……俺は、ただ、最小限の努力をしただけですよ」
その、あまりにもキラキラしすぎた光景を、少し離れた場所から、シロとサキが、見ていた。
彼らの周りだけ、世界の彩度が、ゼロになっていた。全てが、色褪せた、灰色の景色。
サキが、虚無の目で、呟いた。
「……なんだ、これ……」
シロもまた、絶望的な声で、囁いた。
「……ああ……そうらしいな……」
その時、カイの視線が、遠くの二人と、合った。
一瞬の、奇妙な沈黙。
次の瞬間――
ペッ!
ペッ!
シロとサキは、完璧なシンクロで、それぞれ、あらぬ方向に向かって、同時に、地面に唾を吐いた。その顔には、心の底からの、最大級の軽蔑と、嫌悪が浮かんでいた。
その、あまりにも無慈悲な意思表示を見た瞬間。
カイの周りの、ピンク色の世界が、音を立てて崩れ落ちた。
花びらは消え、金色の光は霧散し、彼の背景もまた、シロたちと同じ、虚無の灰色に染め上げられた。
カイの瞳から、光が消えた。
彼は、その場で、石のように、凍りついた。
「…………あれ……?」
か細い、困惑した声が、静まり返ったロビーに、ぽつりと、響いた。