第十一話 「初陣、そして最初のアルファ」
「――以上だ」
ブリーフィング室の空気は、凍りついていた。
ハヤマの声には、いつものような軽薄さのかけらもなかった。モニターには、K地区の寂れた工業倉庫街の地図と、そこで消息を絶った偵察部隊の最後の通信記録が表示されている。
『……目標、一体。異常な速度と、知性……まるで、人間のように……こちらを、観察して……ぐあっ!』
そこで、通信は途切れていた。
「任務内容は三つ」
ハヤマは、シロ、カイ、サキの三人を、一人ずつ、鋭い視線で射抜いた。
「第一に、目標の発見。第二に、その無力化。そして、最も重要な第三……」
彼は、そこで言葉を切った。
「――全員、生きて帰ってこい。以上だ」
その言葉は、命令であり、そして、彼が初めて見せた、先生としての、あるいは、一人の先輩としての、切実な願いのようにも聞こえた。
装備室の空気は、鉄と覚悟の匂いがした。
シロは、無言で、自分の愛刀である銀の刀の刃を確かめている。その切っ先は、闇を切り裂くために、冷たく輝いていた。
サキは、太腿と背中に、複数のコンバットナイフを固定していく。彼女のしなやかな筋肉は、これから始まるであろう死闘を前に、静かに張り詰めていた。
そして、カイは。
彼は、弾倉に、一発、また一発と、“銀の雨”を装填していた。完成したばかりの、彼の希望であり、切り札。その弾丸の重みが、ずしりと、彼の責任の重さとなって、指先に伝わってくる。
装甲車に乗り込み、現場へと向かう。
車内は、沈黙に支配されていた。誰も、口を開かない。ただ、互いの目を見て、静かに、しかし、強く頷き合うだけだった。
もう、訓練ではない。
これから始まるのは、本物の、命の奪い合いだ。
K地区の倉庫街は、まるで巨大な鉄の墓場だった。
夕日が、錆びついた建物の間を、血のような色で染め上げている。
三人は、完璧な連携で、音もなく進んでいく。シロが先頭で、感覚を研ぎ澄ませる。カイが、後方から周囲を警戒し、通信機で指示を送る。サキは、いつでも飛び出せるように、影のように二人に追従する。地獄の三人四脚訓練が、彼らの動きを、一つの生き物のように変えていた。
やがて、彼らは、目標の車両を発見した。
それは、巨大な缶詰が、中身ごと抉り出されたかのような、無残な姿をしていた。装甲版が、紙のように引き裂かれている。
「……なんて、力だ……」
カイが、息を呑む。
その時、シロが、ハッと顔を上げた。
「……この匂い……!」
それは、遊園地で嗅いだものとは、比べ物にならないほど、濃密で、攻撃的で、そして、邪悪な知性を感じさせる、獣の匂いだった。
匂いは、一際大きな、多層構造の倉庫の中へと続いていた。
三人は、武器を構え、ゆっくりと、その巨大な廃倉庫へと侵入する。
内部は、迷路のように入り組んでいた。山と積まれたコンテナ、錆びついたキャットウォーク、そして、巨大な機械の影。
その時だった。
ヒュッ、と風を切る音。
頭上のキャットウォークから、巨大な鉄製のコンテナが、三人の頭上へと落下してきた。
「散れ!」
カイの叫び。
三人は、コンマ数秒の差で、その場から飛び退く。
ゴオオオオンッ!!
凄まじい轟音と共に、コンテナが地面に叩きつけられ、床が砕け散った。
「(……試しているのか、俺たちを!)」
キャットウォークの暗がりから、二つの、赤く爛々と輝く光が、彼らを見下ろしていた。
ゆっくりと、その巨体が、闇の中から現れる。
それは、彼らが今まで対峙してきた狼人とは、明らかに、次元が違っていた。
一回りも、二回りも巨大な体躯。鋼のように硬質化した、黒銀の体毛。そして、何よりも違うのは、その瞳。そこにあるのは、飢えや本能ではない。冷酷で、残忍な、計算高い“知性”の光だった。
「……あれが、“アルファ”……!」
アルファは、咆哮した。それは、ただの威嚇ではない。開戦の狼煙だった。
最初に動いたのはサキだった。
「しゃあ、オラァッ!」
彼女は、壁を蹴り、弾丸のようにアルファへと突進する。だが、アルファは、まるでその動きを読んでいたかのように、僅かに身を捩るだけで、サキのナイフをかわした。
「なっ……!?」
空を切ったサキの体勢が、僅かに崩れる。その隙を、アルファは見逃さなかった。鋼の爪が、サキの肩を薙ぐ。
「しまっ……!」
ガキンッ!
横から割り込んだシロの刀が、その爪撃を受け止めた。火花が散る。
だが、アルファの力は、シロの想像を遥かに超えていた。
「ぐっ……重い……!」
シロは、じりじりと後ろへ押し返される。
「今だ、カイ!」
シロが叫ぶ。
カイは、その一瞬の隙を見逃さなかった。銃口が、正確にアルファの心臓を捉える。
(頼む……効いてくれ……!)
パーンッ!
“銀の雨”が、アルファの胸部に着弾する。
クポッ、と内部で破裂する、独特の感触。
「グルアアアアアアアアアッ!!」
アルファが、初めて、苦痛の咆哮を上げた。その巨体が、たたらを踏む。
「やったか!?」
カイが叫ぶ。
だが、違った。
アルファは、致命傷を負っていなかった。その胸からは、黒い血が流れている。確かに、ダメージは与えた。だが、その生命力と耐久力は、カイたちの想定を、遥かに、遥かに上回っていた。
そして、傷を負った獣は、より一層、凶暴になる。
アルファの瞳が、憎悪と殺意で、赤黒く染まった。
そこからの戦闘は、一方的な蹂躙だった。
アルファは、その巨体からは信じられないほどのスピードで、倉庫内を縦横無尽に駆け巡る。コンテナからコンテナへと飛び移り、影に潜み、予測不能な角度から攻撃を仕掛けてくる。
サキの腕が、深く切り裂かれた。
シロの刀は、アルファの爪と何度も打ち合ううちに、刃こぼれを起こし始めていた。
カイは、必死で援護射撃を繰り返すが、その度に、貴重な“銀の雨”が消費されていく。
「くそっ、キリがねえ!」
コンテナの影に隠れながら、カイが悪態をつく。マガジンに残された特殊弾丸は、あと三発。
その時、アルファが、大きく咆哮し、負傷しているサキへと、最後の爪撃を繰り出そうとしていた。
「サキ!」
シロが、サキを突き飛ばし、身代わりになるように、アルファの前に立った。
だが、連戦で、彼の体力も限界に近かった。
アルファの爪が、シロの無防備な胴体へと迫る。
「(……これまで、か……)」
シロが、死を覚悟した、その瞬間だった。
彼は、最後の賭けに出ることを決意した。それは、常軌を逸した、自殺行為とも言える作戦。
「カイ!」
シロは、通信機に向かって絶叫した。
「俺の合図で……俺を、撃て!」
「なっ……何を言ってるんだ、シロ!?」
カイと、腕を押さえているサキが、同時に叫ぶ。
「いいから、やれ!サキは、動ける準備をしておけ!」
シロの説明を待たずに、アルファの爪が、彼の心臓目掛けて振り下ろされる。
「今だ、カイーーーーッ!!」
シロの、魂の絶叫が、廃倉庫に響き渡った。
カイは、震える手で、拳銃を構えた。
その銃口が向けられているのは、目の前の怪物ではない。
傷だらけで、死の淵に立っている、たった一人の、親友だった。