士の商い
1 美濃屋
「殿」
襖の向こうから男の声がする。
「調所か」
殿、と呼ばれた男が薄ら返事を返しつつゆっくりと瞼を挙げると、襖をあけて敷居をまたぐ男の姿が目に入った。調所はそのまま室内に入ると平伏し、言を続ける。
「殿。美濃屋と申す道具屋が、殿にお目通りを請うておりますが……」
戦乱の世が終わり早数年。戦乱の世というものは良くも悪くも身分秩序を破壊し、階級の流動化を招くものである。その才覚次第によっては太平の世では思いもつかない立身出世を遂げる者も中にはあろう。例えば、かの太閤秀吉公などはその顕著な例である。
天下泰平の世となった今では、戦国の世にあった大名小名どもの多くが没落し、あるいはまた多くが栄達を遂げていた。そして階級が移動すれば、それに伴い品々がその所在を変えるのも当然のことである。没落貴族は父祖伝来の品々を手放すことで日々の糧を得る一方、その身分を示すためにこれらの宝を集める新興貴族どもがいるのであるから。所詮商いなどというものは売手と買手があって初めて成立するものではあるから、例えばこの美濃屋などがその仲介を果たしているのであろう。庶流とは言え西上州で五万石の領地を統べる国人領主の家に生まれ、今では加賀前田家にて八千石の知行を得るこの身のことを、はてさて件の美濃屋とやらは、果たして没落貴族と見たものか、はたまた新興貴族か。
しかし男は、調所の問いには応えず、ただ一言のみ返す。
「殿はよせ。儂は最早……」
近頃では士農工商などとも言うらしい。士は農民や商人よりは身分が上とされているのであるが、しかし……
男は調所の問いには応えぬまま、再び瞼を閉じた。
2 内応
下座で平伏しつつ客人を待っていた男は、上座から聞こえる衣擦れの音を合図に更に頭を低くする。やがて上座の主が言を発っした。
「面を挙げよ」
軽く頭を上げる男に、上座の男が続ける。
「此度の貴公の申し出、誠に以って重畳至極。今後の上州ならびに関東制圧における貴公の働きに期待する」
百五十年に及ぶ戦乱の世を通じて上州の地には、ついぞ一国を統べる太守は現れなかった。ここでは各地に国衆と呼ばれる国人領主達が割拠し、時として互いに協力し、あるいは互いに牽制し合いながら、それぞれの領地を守ってきたのである。尾張や甲斐あるいは薩摩のように上州統一を成し遂げる勢力が現れなかったことには、他の国人領主を圧倒するだけの力をどの領主も持ち得なかったこともあろうし、他の国人領主の風下に立つことを良しとしない上州人の気風も影響したことであろう。またあるいは上州が親王任国、すなわち親王しかその国守になれないと定められた国であったことも影響していたかもしれない。しかし何より上州の地政学的環境、つまり、中山道と北陸道の関東への入口に上州が当たっているという事実が大きな要因を占めていたことだけは確かである。
応仁の乱が戦国時代の幕を開けた、とは良く言われることだが、関東ではそれに先立つこと十余年、享徳の乱がその役を果たしていた。もともと関東の地は鎌倉公方とそれを補佐する関東管領が統べていたものが、時の公方と管領の間の諍いが関東の領主達を巻き込みこれを二分化した結果、親兄弟ですら互いに相争う戦国の世が関東に現出したのである。やがて関東管領家が衰えその家名を越後の大名に譲ると、上州の地は北陸道の上杉、中山道の武田、東海道の北条が代わる代わる侵攻を繰り返しては奪い合う時代に突入した。そしてその都度上州の国衆どもは、生き残りを賭けて寄騎する相手を変えてきたのである。つまり言い換えれば隣国の大名、すなわち、上杉、武田、北条に一家で対抗するだけの力を持つ領主が上州には育たなかった、という事実が上州統一を阻んでいたのである。
男の家も他の国衆どもと何ら変わるところはない。祖父の時代には管領山内上杉家に仕えていたものが、上杉家が北条家に追われると甲斐の武田に付き従って各地を転戦するようになる。男の父は駿河で武田のために討ち死にし、男の伯父は後に武田二十四将の一人に数えられる程度には、彼の家は武田家中で認められていた。何より男自身が甲斐の虎の縁戚に連なることがその証であろう。その武田家が織田家の甲斐侵攻により滅亡するとその関東申次の軍門に降り、後に本能寺の変が起きると、織田勢を関東から追い出した北条家に臣下の礼を取った。こうして男の家は生き延びてきたし、上州の国衆どもにとってそれは当たり前のことであった。忠誠心を切り売りして、家と所領の安堵を贖うことは。
「御意」
男は一言発して再び平伏する。儀式はこれで終了した。
「わざわざお越し頂き恐縮至極に存じます。肥前守様」
上座を降りて西面する加賀前田家の家臣篠原肥前守に対して、こちらも座をずらした男が謝意を述べる。
「いやいや我らこそ、上州一の弓取りとも名高い弾正殿のご助力を頂けるのであれば、我が主も大層満足しておるところ」
小田原の北条家を討伐するために、太閤殿下が諸国の兵を集めた。弾正と呼ばれた男の家も北条家に臣従している以上、小田原勢としてこの戦に参加することになっており、宗家を継いだ弟は既に小田原入りしている。そして庶流である実家を継いだ男は国元に残り、ここ宮崎の城に拠っていた。また父祖伝来の国峯城には父の末弟が入りこれを守備しており、つまり男の家は一家を挙げて豊臣家に対抗する構えを見せているのが現状である。
しかし、と男は思う。強い方につき父祖伝来の地を守り抜くのが上州人の流儀であれば、我が忠誠心をより高く買ってくれる方に就くべきことに異論はなかろう、と。無論、敗けた側に男を買う余裕などはないであろうから、要するに豊臣と北条と、どちらが勝ち馬であるか見極めねばならない。この点において男に迷いはなかった。
小田原の城はかつて、武田勢にも上杉勢にも囲まれたことがある。そしてそのそれぞれを退けた実績が今のところは小田原に与する者どもを勢いづかせているようであり、現に彼の実弟は小田原に詰めている。男の家のみならず、上州の多くの国衆が同じ判断をしていた。だが此度は異なる、と男は考えていた。やはり小田原勢は城に籠もって敵を迎え討つ心積もりであろうが、籠城などは所詮、万端の準備を整えた大軍の敵するところではない。まして相手は城攻めの名人と呼ばれる秀吉であれば、北条方には万に一つの勝ち目もなかろう、と。
「北陸の太守たる前田様に太閤殿下へのお取りなしの労を賜れるのであれば我が一族郎党も安心して槍働きが適いましょう」
それは男の本音である。味方を裏切る、などというのは城将一人が決断したところで、将兵がそれに従わなければ画餅にすらならない。男には彼に付き従う者どもに対する説明責任がある。我らの忠誠心を勝ち馬たる前田家に買ってもらい、以って父祖伝来の地を我らの手に守り抜くのだ、と。
「我が主は太閤殿下とは竹馬の友。主の申添えあらば必ずや太閤殿下も、国峯の城は貴家のものとしてお認めになること必定」
若干の安堵を含む表情を男の顔に見た篠原は、少し声の調子を落としながら続ける。
「しかし国峯のお城は、弾正殿御自らの手にてお取りにならなければ、それも叶いますまいが……」
篠原は言下に、叔父を討ち国峯城を奪還することを条件としてつけた。篠原は、あるいはこの条件が男に苦渋の決断を強い、そのことが後に悪い影響を及ぼすのではないか、と有力していたのではあるが、今度は顔色一つ変えずに断言する男を見る限り、それも杞憂に過ぎなかったようである。
「無論、我らも武人にあれば、己が城は自らの手によってこれを取るべき道理であることは承知の上。肥前守様のご懸念には及びますまい」
これで、篠原としては殆ど役目を終えたことになる。敵将の内応を約するための会談など、何度経験しても慣れぬものではなかろうが、少しく安堵した表情を浮かべながら篠原が応答する。
「それは重畳。何、もし人数が必要であれば我らも助勢しましょうぞ」
「いや、それには及びますまい。この地は元より我らの地なれば、攻め方も落とし方もまた、我らの良く知るところなれば……」
篠原の申し出に軽く礼を返した後、男は別の条件を付け加える。
「ですが肥前守様には一つお願いしたき儀がありますれば……」
瞳に警戒の色を浮かべながらも、篠原はことさら鷹揚に返辞する。
「弾正殿の頼みとあらば何なりと」
「さらば……我が実弟のことにつき……」
再び頭を下げながら発する男の言を、篠原はしばし待つ。
「肥前守様小田原着陣の折には、我が実弟に、前田家へのお味方を促して頂きたく」
要するに、弟にも自分と同じように前田川への内応を約するよう働きかけて欲しい、という願いである。無論、これは篠原としては全く問題のない条件であった。内応するもしないも相手次第であれば、篠原はただ、働きかけをしたという事実だけ作ればよいのである。また仮に働きかけをしなかったとしても、何しろ此度の小田原攻めは数十万の攻城軍が取り囲む、まさに蟻一匹入るすきのない包囲陣の展開が予想されるところであり、城内と連絡を取ることは困難であった、と後から弁明する余地も残るであろう。男の申し出に篠原は確と頷いた。
「その約束、必ず果たされることでありましょう」
こうして男は前田方に寝返り、叔父を討ち取ってその国峯城に入った。此度の方針は宗家を継いだ弟の方針には反することであり、あるいは後に、小田原詰めの弟から詰問されることもあろう。しかしこれで、父祖伝来の地と城を守ることはできるのだ。弟もその結果に納得せざるを得まい。無論、戦後この国峯の城は弟に明け渡す所存である。自分は庶流を継ぐ身として、また宮崎の城に戻ればよい。そう、今までそうであったように。
3 戦後
小田原の戦は男の読み通り、豊臣方の圧勝に終わった。男も、かつて武田家中で轡を並べた真田家とともに、前田家配下の北陸方面軍の一員として、八王子城攻めに参加して勲功を挙げたりもした。北条方の本陣である小田原城には、陸、海とも何重もの包囲網が布かれ、北条方も暫くの間はよく耐えたとは言え、ついには開城の憂き目にあう。幸い、事前の内応策が功を奏したものか、あるいは男の勲功が評価されたものか、弟は城内ではそれなりの立場にあった者とは言え助命された。ここまでは男の見立て通り、と言えるであろう。男は自分の忠誠心を売ることに成功したのである。
しかし、その後の論功行賞の行方など、男には端から読めるはずもなかった。無論男は、西上州の父祖伝来の彼の家の地と城は、男の家に残されるものと思っていた。そう期待したからこそ前田家に内応し、国峯城を攻めて叔父を討ち、あるいは八王子城攻めにも参戦したのである。だが、男の期待は結果として満たされることはなかった。
小田原の役の戦後、関八州二百四十万石、すなわち伊豆、相模、武蔵、上総、下総、常陸、上野、下野の八カ国は、徳川家康に与えられたのである。西上州にある男と男の家の領地も取り上げられ、国峯城には徳川家の家臣が入城した。いくら前田家と領地安堵の内約を交わしていたとしても、前田家がその仕置きをすること適わないのであれば、その領地が男のものになる道理はない。最早、関東のどこにも、男と男の家の拠るべき領地はなくなってしまったのであった。
そんな男を哀れんだものか義心を発し知行を約してくれた前田家に、男は士官することに決した。金沢に還る前田軍に同行して、男は男の家臣を引き連れて金沢入りをする。結局、男は二度と故地に戻ることはなかった。山がちで、決して米が豊富に実る恵まれた土地ではなかったとは言え、土地の物はみな男を慕ってくれており、風雲急を告げ外敵が寄せてくるとなれば、士分も百姓もなく、皆で力を合わせて土地を守り抜いた男の領地。男はその地を離れる決意をしたのである。
4 商い
「殿」
調所が再び男に声をかける。男が再び瞼を開けるのを確認した調所が、改めて問う。
「殿。して、美濃屋のことは如何?」
近頃では士農工商などとも言うらしい。士は農民や商人よりは身分が上とされているのであるが、しかし……風の噂によれば、かつて共に協力し合い、あるいは牽制し合った上州の国衆どもの、その多くは刀を置き、帰農したという。彼らと自分は一体何が違うのであろうか。そもそも彼ら国衆は父祖伝来の地を守るために武器を取って立ち上がったものの、さて、天下泰平の世にあっては、果たしてどのように生きるのが正しいのであろう。士であることを守り抜くのか、あるいは、土地を守り抜くのか。父祖が伝来してきたことの、士分を子孫に遺すべきなのか、あるいは……
帰農した彼らは上州の地に留まり続けているという。一方で男は、八千石を知行される身上とは言え、それは雪深いここ金沢の地でのことである。また彼の知行地とは言うものの男自身、実際のところ彼の領地に足を運んだことなどは一度もない。いやそもそも、八千石の知行地などという固まりなどは初めから存在せず、前田家の有する百万石に相当する年貢のうちから計数的に知行石地分の給米を受け取っているだけのことである。書類上、どの郡のどの村のものが男の知行地とされているか一応は明示されているものの、それは、それぞれの代官が治める飛び飛びの地の、十石、五十石と細かく区分された土地どもの合計八千石分の寄せ集めに過ぎないのだ。それは既に、自分の土地と言えるものではないだろう。冬になると上州の空っ風が恋しくなるのは、金沢の深雪のためばかりではないであろう。
「殿、何をお考えでいらっしゃいますか……?」
調所の問いに、男は今度は正面から答える。
「いや何、来し方、というものをしばし……」
弟も今や金沢で何がしかの知行を受けている。そのことについて弟は何も言わないが、本心ではあの小田原の際に男が寝返ったことを恨んでいるのであろうか。それも詮無きことと思う男は、続けてこう口にした。
「儂は……商いには向いておらぬよ……」
「殿、それは……」
調所の言いたいことも解る。八千石は決して少身ではない。いや、前田家中にあっては外様の家としては、破格の厚遇だと捉えることもできよう。しかし、西上州にあっては五万石の家にあったものとして、その家臣たちを養うにはやはり不足がちなのである。無論、上州時代の家臣の全てを金沢に連れてきた訳ではないが、それにしても手元不如意なことに変わりはない。父祖伝来の、天下泰平の世となっては必要とされなくなった武具や刀などを売れば、幾ばくかの足しにはなろう。当家の財政事情を口の端に乗せるような無粋とは無縁の調所の忠義に応えるように、男は口を開く。
「調所よ。商いに最も肝要なものとは何と心得る?」
商いなどにはこれまで無縁であった調所ではあるが、居住まいを正し一礼した調所が下問に応じる。
「品の良しあしを見極め、適切な価格を見抜くこと、にありましょうや?」
「それも正しい」
男は軽く頷いた後、人生経験に裏付けられた、男にとっての真理を調所に披露する。
「だがな、調所よ。儂は商いに最も肝要なのは、商いする相手を見極めることじゃ、と思うておるのよ」
あの時男は、自分を売る相手を間違えたのだ。男は正しくは、徳川家に対して商いをするべきであったのだ。そうであれば……
「調所よ……儂に商いは向いておらぬ、という所以よ」
小幡元弾正左衛門尉信氏の、それは苦い苦い商いの経験であった。