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二度目の眠りは夢を見た。その夢の中では彼女と俺が海辺の一軒家に住み、小さな店を経営していた。キッチンからのコーヒーの匂いで目覚め、リビングへ眠気で覚醒しない意識の中足を運ぶ。トーストの横に並ぶカップは色違いで視界に入ったそれを見て思わず笑みが溢れる。そんな自分を見て彼女はおはようの挨拶とともに抱きついてくる。背中に腕を回し、少し低い位置にある頭に何度か口づけを降らす。くすぐったいと動くその体をしっかりと抱きしめ、自身の口からもおはようと告げる。上を向いた彼女は、ん、と口を尖らし求めてくる。お互いに言葉にするのは苦手だが、その分性格を熟知した行動にすべてを表す。差し出された唇へ近づき触れるだけの口づけを交わす。ふたりとも口角が上がっていることに気づくとどちらともなく笑ってしまった。少し頭を下げて額を当てる。限りなく近づいたその顔は太陽が照らす海よりも輝いていた。程なくして、食べようか、と言われ机に向かい合って座る。朝は彼女のほうが強く、いつも起きてくるとご飯の用意がされている。不甲斐ないと最初の頃は思っていたが、コーヒーを入れながらにこやかにキッチンに立つ彼女をふと見てしまったときにこれが幸せかと思い、これでいいのかもしれないと思うことにしている。朝食を食べ終わったあとは、隣接する小さな食堂へ仕込みに向かう。店は午前中からお昼までは食堂として開き、おやつ時から喫茶店として開いていた。自分は喫茶店で出すためのお菓子作りとコーヒー豆の用意を、彼女は食堂の今日の献立の用意をしている。すべての準備が終わったのは開店一時間前で、一息つくために裏口から海に向かった。靴だけを脱ぎ、足首まで海水に浸ける。制作に燃えていた頭が少しずつ冷えていく。お互いに何かを作ることに熱中しやすいため、一段落つくと二人で海に足だけ入りに来ている。無言のまま数分がたっただろう頃に彼女の方を見ると視線が重なった。その黒く芯のある瞳に映るのが自分であること、それが生きる証であり、意味で糧であった。そろそろ戻ろうか、そう彼女に言われ差し出された手を取る。濡れた足のまま店の裏口へ行き、準備しておいたタオルで拭く。隣に座る彼女の肩に触れるたびにその熱に安心する。今日も一緒に居られることに、今も隣に居られることに。タオルは拭くのに使われる使命を終えた頃、洗濯機に入れられた。店を開店させるまであと十分。彼女は調理場へ、自分はフロアの方へ向かう。時間だね、と二人の声が揃い開店の合図を出す。外にはこれから漁へ出る漁師さんを始めとして数人の列ができていた。すべての人に挨拶をして店内へ入ってもらう。そこからお昼すぎまでは怒涛に店を回した。一息つけたのは三時からの喫茶店を開くために一度店を閉めたときだった。今日もたくさん来てくれたね、少し疲れた顔で調理場から彼女が顔を出す。そうだね、いつもありがたいね、と机を拭きながら返答する。あと一時間ほどすれば今度は自分が調理場に入りコーヒーを入れる。ホールを彼女に任せ日中とは逆の立ち位置をとる。賄として彼女が作ってくれたパスタを食べ、二人しかいない店内を見渡す。あれほど栄えたとしても一度閉めてしまえばそこはただの箱にしかならない。騒がしいのも嫌いではないが、二人だけの箱というのも実に考え深いものである。なんて意識が浮遊していると向かいに座る彼女がそろそろ準備をする時間だと告げる。何を考えているのか聞いてこないあたり、やっぱり一緒になって正解だと思う。ありがとう、と返し二人分の皿を持って調理場に戻る。洗い物を軽く済ませ、朝作ったお菓子たちを確認する。どれも自信を持って出せるもので、自分で作っておきながら自画自賛だなとお菓子を見ながら笑みが溢れる。するとホールで準備していたはずの彼女が、なんかニヤニヤしてて幸せそう、と調理場の入り口から声をかけた。ニヤニヤしてるのは余計だろ、と軽く反論するが否定できないのも事実である。ま、それだけうまくできたってことだもんねと言いながら彼女は戻っていった。特別にプロでもなければ、製菓学校を出たわけでもない。そんな自分が好きという気持ちだけでここまでやってこれたお菓子にやっと自信を持てるようになった。そのすべてが彼女のおかげであり、彼女のためでもあった。再び開店十分前になると今度はピアノジャズを店内に流した。二人でヨーロッパへ足を運んだ際やっぱり喫茶店をやるならお洒落にしたいと意見が一致し、静かすぎるのも良くないなとジャズを選んだ。彼女は昔ピアノを習っており、どうせならピアノジャズにしたいということで喫茶店になる時間からはかけることになった。店を開店する合図を出し、数分で入店するベルが聞こえた。ここからは時の流れを気にすることなく落ち着いた時間が過ぎる。注文のコーヒーとお菓子のセットを彼女が運び帰ってきたトレーに今度は別の注文を乗せる。食堂のときとは打って変わり、急ぐことはない。ちらりと見えた彼女はトレーを運ぶ天使のように見え、自分の作ったもので人々に幸せを運ぶ、そんな天使に見えて他ならなかった。またニヤニヤしてたのか、受け取りに来た彼女に頬を指で指された。少し恥ずかしくなって視線を合わせられない。少し笑うとトレーにお菓子を乗せ、そんなに私ばかり見ないで働いてください、とおどけて言う。もっと恥ずかしくなり、足早に奥へ戻る。背中から笑い声が聞こえるあたり、すべてがバレているのだろう。そこからは気持ちを抑えるために制作に心を委ね一心に作り続けた。一日の営業が終わったのは夕方五時。残った材料を隣の家へ持って帰り夜ご飯を作る。二人共お酒を嗜まないため、食べ終わった傍らにはコーヒーが置かれている。そっと寄り添いながら開いた海側のドアの先を見つめる。テレビもラジオも何もつけず、ただ波の音を聞くだけのこの時間が一日の中で最高の至福だった。うっすらと香る海の匂いと、色濃く香るコーヒー。そのすべてを纏い包むのは二人だけの空間。何かを語ることなく、言葉にすることなくただ肩を寄せ合い互いを確認するだけ。今があるという幸せと、手にあまるほどの安心を。空になったカップをサイドテーブルに置き、顔を見つめ合う。先に目を閉じたのは彼女の方で自分すら写っていないその先の瞳を捉え口づける。彼女の瞳に最後に映るのが自分であることを願いながら何度もその唇に触れる。深くなるのは時間か、快感か。