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ねぇ奏兄ちゃん、僕と付き合ってよ  作者: きなこともちお
18/18

全編

分割してないものです

一気に読めるのかなと思いました

1から17をまとめるとこれになります

ねぇ奏兄ちゃん、僕と付き合ってよ。



奏太は地元に帰ってきた。都会とは違う配色の景色は懐かしさで溢れて溢れた。

駅から一歩踏み出すとそこには旅立った日と同じ人が立っていた。

だがその見た目は百八十度変わっていた。肩まであった髪の毛は男の子のように耳に触れないほど短くなり、着ている服もスカートからズボンへと。

彼女は自分に気づくと駆け寄ってくる。

「何で知ってんのよ。お前が。」

「おばさんが教えてくれた。奏兄ちゃんおかえり!」

そう言って奏太に抱きついた。時間がたったとしても中身は変わらない彼女。成長したその身体は丸みを帯びていた。

「ねぇ奏兄ちゃん、僕と付き合ってよ。」



「はぁ!?何いってんのお前。」

「もう一回言ったほうがいい?」

首を少し傾け下から除くように問う。というより、付き合うって意味を理解しているのだろうか。

「いや、2度も同じ衝撃を食らうのはごめんだ。」

少し後ずさりながら彼女を見る。何もおかしなことがないと顔に書いてあった。

「でも、お前彼氏いただろ。隣のクラスの何とか君。仲良くしてたじゃないか。そんなことよりも、僕って。」

話を変える方法を探して出てきたのはそんな昔のことだった。

「あれから何年経ったと思ってんの?とっくに別れた。そんなに好みでもなかったし。成り行きってやつ?お年頃なのよ。」

女心は分からないな、と呆れながらもそれがこいつらしいと言えてしまう間柄であった。

初めての彼氏だったはずなのに、今ではこう言われよう。恋愛ってのはやっぱり難しいものだとどこか他人事に思えた。

「あっそ、それで今度は俺ってこと?」

「そんな軽い女じゃないってば。ちゃんと片想いしてたんだから。」

少しずつ小さくなるその声では最後まで奏太には届かなかった。

「片思いって。お前俺のこと好きだっけ。」

「本命には伝わりにくいんです。乙女ってもんは。」

ヤケクソに言葉を投げられる。受け取る側としては扱いに困る内容だった。僕と言っておきながら乙女心とは、色々と混ざっている気がする。それに分からないのが、こいつからそんなものを感じたことすらなかった。

「何か変なもんでも食った?この時期に食中毒とかあるのか。」

巡り巡って心配になってきた。すこしベクトルの違う話になっている気がするが、こいつはこんなことを言うやつじゃない。少なくとも俺の前では見たことがない。僕という一人称についても違和感は薄いものの気にはなる。ジロジロ上から下へと往復して見るような視線に、なっていたのか彼女はいきなりそっぽを向いた。

「そんなに見るなよ、変態。」

「そんなやつに告白してきたのは誰だよ。」

あ、そっか。と自己完結した彼女は向き直り、口を開く。

「それでこのあとどーするの?ホテルとか取ってんの?」

自分から言ったにも関わらず、エッチと小さく言う彼女。恥ずかしがるのか、振り切るのかどちらかにしてほしいものだ。

一応予約はしてきたが、このままだとついてくるに違いない。なんとか誤魔化そうと思考を巡らすが、

「どうせ、南町の角のところでしょ?静かだし、安いし。」

すぐにバレてしまった。長い付き合いというのも随分不便のようだ。

「来るか?」

ため息と共に出た言葉は案外優しさを持っていた。

「行く!絶対!行こ!」

荷物を持っていない方の手を握って歩き出す。ふと見上げた空には星が輝いていた。




「あれ、何座だっけ。この前習った気がする。」

彼女が空を指差す。その先には7つの輝く星々があった。

「7個だろ?北斗七星かオリオン座だな。俺はメガネ忘れたからはっきりとは見えないけど。」

「もったいないし、ありえない。こんな綺麗なの見ないなんて。」

メガネを作り直そうかなと考えるが、そのためには度数を測り直したりしなくてはならないため、手間と時間がかかる。生活の範囲では困るほど見えないわけではなく、あくまでも遠くがぼやけてしまうほどで、眼鏡を生活で使用する人の中では軽度のほうだろう。

「作るのめんどい。生活はできるし別にいいだろ。」

「奏兄ちゃんっぽい。」

そろそろホテルに着くね。言われた視線の先に目的地はあった。

「その前に海行こうぜ。いつもの。」

「いいよ。じゃあ左に曲がって。」

砂浜に入る前、履物を脱ぎ捨て素肌に粒子を感じる。冷たい砂が細胞を歓迎し、奥深くへと迎え入れる。肌のもつ感覚全てを海という場所に捧げた。

冷たい。冬だしね。

なんて当たり前のことを言い合う程思考は低下していたのだろう。このまま一つになりたい。夜の闇夜に包まれた誰もいないこの場所が神聖なところに思えてしまった。

「なにぼーっとしてんの。冷えるよ。」

いつの間にか視界の先からいなくなった彼女は隣にいた。

「お前、タオルある?俺ない。」

「あるはずがないよね。僕、手ぶらで来たし。」

濡れた足が乾くまで砂浜の上にあるベンチに座ることにした。

「何でお前僕って言ってんの?」

少し時間が作れることに気づき彼女の方を向かず話す。

「それに、髪も切ってるし。服装も男っぽいし。もしかして。」

「いや、奏兄ちゃんが考えているほど大事じゃないよ。単純に女の子するのあんま好きじゃないな、って思っただけ。それに昔からイケメンとか、かっこいい人とかばかり見てたでしょ?だから、理想とか憧れる対象が男の人になったってだけ。ざっくりと言うと、かっこいいに憧れたってところ。」

自分の知らなかった彼女の一面に触れた気がした。きっとそれは、彼女の言葉や言動に現れるよりも前から心のなかで変わり続けた何かで、隠すのがうまいことが功を奏し、今になって完成形が露呈したのだろう。

「そうか。なら今度俺の服もやるよ。大したものはないけどな。」

「知ってる。センスすごいもんね。」

どういう意味だ、と足元の砂を蹴る。その砂は既に乾いた彼女の足を撫でて落ちた。蹴った自分の足はまだ乾いておらず包むように砂が付いてしまった。

「ほら、砂だらけ。僕に、かけようとした罰だよ。」

「もういい。裸足でホテルに行く。お前荷物持ってくれないか。」

片手に靴を持ち反対で手を繋ぐと荷物を持つことは不可能になる。

「いいよ。行こうか。」

今度こそホテルの道を進んだ。田舎といえども道路整備くらいは行われているため、裸足で歩いてもさほど痛みはなかった。フロントにいた女将さんに声をかけ鍵をもらう。ホテルに着く頃には濡れていた足は乾き、付いた砂は落ちていた。荷物とともにソファにいた彼女の元へ行き、歩いて乾いた足に靴を履かせる。荷物と彼女を両手に持ち、部屋へと向かう。

「はぁ、疲れた。やっぱりここのベット最高。」

部屋に入るなり一番にベットへ飛び乗った。彼女からは数分で寝息が聞こえてきた。

「おやすみ。」

薄っすらと明るみが見え始めた空を見ながら、カーテンを閉め部屋に暗闇を作る。彼女がベットで寝てしまったため自分はソファで寝る。彼女が起きた頃に起こされるのが目に浮かびながらその意識を手放した。


「起きて!お腹空いた!」

やっぱり。どうせ起こされるのだ。いつものことだし対策はできている。被っていた上着から口元だけを出す。

「キャリーケースの中にカップ麺入ってる。食べていい。」

端的に内容だけ伝え再び眠ろうとするが、また起こされる。引き剥がされた上着はサイドの机に乱雑に投げられた。

「一緒に食べよ!一人じゃやだ。」

これが千年に一度の美女とかだったら飛び起きるだろう。だが、それでも馴染みの時間はなんとも代えがたい力を持っている。仕方ないなと体を起こしてカップ麺を開ける。お湯はどうやら沸いているようで、準備の周到さが感じられる。3分待つ間に今日の予定を立てようと考えを巡らす。勢いで来てしまったため何も計画がない。やりたいこともなく、やることもない。そんな日々を過ごすのも悪くないかもな、なんて思えてしまうほど今は心が落ち着いている。行動を起こす前に彼女にはしっかりと言っておくべきことがある。

「俺さ、実家にはあんまり帰りたくない。あと、できれば親戚とかにも会いたくない。詳しくは言えないけど、わかってほしい。」

言っていることはアバウトなのに、何一つ質問することなく頷きながら彼女はラーメンを食べる。

「わかった。とりあえず今日はどうする?」

まだ半分も入っているラーメンをお腹いっぱいと渡しながら彼女は問う。

「何も決めてない。逆に何したいとかある?」

顎に手を当て考える素振りをすること一秒。隣町の映画館に行こうよ。準備をしていた答えのようにすんなりと口から出てきた。

「いいよ。何見る。」

ラーメンをスープまで飲み切るとゴミ箱へ水を切り捨てる。映画なんて何年見ていないのだろう。映画館に足を運ぶなんていつからしなくなっていた。

「そりゃ、もちろんラブでしょ。」

「はぁ!?俺とお前で見るのか?」

ありえない、なんてリアクションを起こした。が、逆に他に見るものが思いつくかと言えば出てこない。ミステリーを見て理解できるほどの学力がお互いにあるとも思えず、だからといって、コメディーは普通に笑って見れるように家で見るタイプの二人で妥当なのはやはりラブだろう。

今上映している一覧表をスマホで見せてくる。恋愛モノは2つほどやっているようだ。先生と生徒の禁断の恋、消えてしまった彼女を忘れられない男の幻想劇。

「僕は2つ目がいいな。先生のやつなんかエロそう。」

「お前の偏見だろ。ま、どっちでもいいけど。それじゃ行くか。」

ホテルの宿泊は長く一週間取ってある。お金の心配をしたくなかったため、気にしなくてもいいほど用意してある。

ホテルを出て隣町へ歩く。奏太はタクシーでも拾うのがいいと提案したが、できるだけ人に会わない道があると彼女が言って譲らなかったため歩くこととなった。

「お前、本当に大丈夫かこの道。」

今、足を進めているのは大通りから逸れた先にあったトンネル。お昼前であるのにも関わらず空気は澄んでいて冷たかった。

「大丈夫。怖かったらくっついてあげてもいいよ。」

こいつ俺が苦手なものをわかった上で連れてきたな。奏太がわかった頃にはもう遅かった。前を見ないように、何も感じないように彼女にしがみつきそのトンネルを後にした。視界が光で満ちるところまで来ると、面白いものを見るように覗き込んでくる彼女。

「本当にビビるとは思わなかった。嘘だと思ってたんだけどな僕。本当は奏兄ちゃんおばけ怖くないと思ってた。」

「あんな恥ずかしいこと嘘でも言うかよ。なんか疲れた。飲み物買おうぜ。」

トンネルを抜けた先は隣町の入り口ですぐに街が見えた。道路沿いにあった自販機を見つけ、恥ずかしさを隠そうと足を向けると彼女に腕を引っ張られる。

「街まで待ってよ。おすすめのお店あるから一緒に行きたい。」

今日はとことん付き合ってやるかと決め、向いた足を直しその掴まれた手を握り歩き始める。横で小さく息を吸う声が聞こえた気がした。

連れてこられたお店は外にある出店のようなところで、レモネードが売られていた。彼女がお手洗いに行くと言うのでその間に二人分を購入して少し離れたところで待つ。ただのレモネードではなくほんのりとはちみつの香る甘みがあった。飾りで置いてあるミントがただの甘さの中に鋭さを放っていた。光に当たった氷が更に多くの光を生む。太陽にかざしたカップから水滴が頬に落ちる。手がふさがっているため、手の甲で拭い前を見るとそこには着替えをした彼女がいた。片手に大きめの紙袋を持って。

「お前、洋服なんて持ってきたのか?」

「ううん。前からいいなって思ってた洋服屋さんで買ってきた。あ、お金なら気にしないでね、お小遣い貯めてたし。」

そうか。それで会話は終わった。深く問い詰めることでもないだろう、年頃の女の子だし、色々思うこともあるはず。

「ほら、これ。持っててやったぞ。」

「奏兄ちゃんって素直なのか何なのかわかりにくいよね。」

映画館へ歩きながら彼女が言う。思ったことを百パーセント伝えていないだけで、どちらかと言えば素直に近いはずだと思っている。

「どうだろうな。ただ、俺は自分が不器用だと分かっているから言葉を選んでいるだけだ。」

「ふーん。そうなんだ。うまく行かなくても思ったことを全力で伝えてみたら?何か変わるかもよ。」

「お前に何がわかるんだよ。おこちゃまが。」

そう言ってレモネードを飲み干す。幸い近くにゴミ箱があったためそのまま捨てる。丁度彼女も飲み終わり二人分のカップがゴミ箱に添えられた。

着いた映画館は人も疎らで空いていた。それは当たり前で、平日の昼時。そんな時間に映画を見ている人など限られる。

二人分の座席を買うと飲み物とポップコーンも買い座席に座る。上映まであと五分ほどある。

「ねぇ、奏兄ちゃん。明日何するか決めようよ。まだ始まらないし。」

「そうだな。俺は。」

そこまで言いかけて言葉に詰まってしまった。彼女と出会ったことで、白紙だった計画に色が載り始めた。それは、赤や青、黃、緑。それだけでなく、花柄や星、マーブルや蛍光色のようなものまで。色んなものがあり、なんでもあった。

「お前が行きたいところならどこでもいいよ。」

咄嗟にでた言葉はそんな無責任な発言にまとまった。

「別にどっか行きたいわけでもないし。だから、明日はホテルで一日過ごそうよ。料理とか一緒にやりたい。帰りに材料買わないとだよね。近くにスーパーあったかな。」

彼女特有の話の進み方がどうも懐かしく感じる。離れていた時間は少しだったはずなのに、随分と昔の記憶を辿っているようだった。昔は、人の話を聞いているようで聞いていないとよく言われていたが今も顕在で、安心する。

「あ、でも人が多いのいやだよね。」

伺うようにそっとこちらを見た。人のことを気にかけられるようになったのはやはり成長なのだろう。

「買い出しくらい行ってやる。人が多くなる前に行けばいいだろ。」

「分かった。ありがと。」

会話の終わりが上映の始まりだった。照明が落ちるとともに正面を向き直る。

映画の内容は予告やあらすじ以上に性的な表現が多かった。途中でたまに心配になり横を見るが、こちらが気を使いすぎていると勘違いしそうになるほど何も変化はなかった。まるで自分だけが思春期の高校生に戻ったようだった。勝手に気まずくなりそうだと勘違いして、恥ずかしくなる。自分もまだ若いかもしれない、と勝手に結論づけ視点を正面に戻す。映画の中の男は亡くなった恋人の幻想を追いかけ、一人で思い出の場所を旅していた。道中で何度も蘇る感情が彼を幸せの苦しみへと縛り付けていった。物語が進むほど精神の正気を失っていく男は見ているこちらも苦しくなるようだった。大切な人ほど、失った実感を受け入れるのは難しい。特に彼は恋人の最後に立ち会えなかった。治らない病気にかかり、迷惑をかけたくないと彼に恋人が伝えなかったのだった。ドラマやアニメでよくあるシナリオだが、そのすべてがハッピーエンドになるとは限らない。この映画の男のようにその優しさが永遠の苦しみを生むこともある。

映画が終わり視界が明るくなる。鮮明に見えた彼女は水分の多い瞳をこちらに向けていた。

「めっちゃ泣いた。」

「言わなくてもわかる。落ち着いたら出ようぜ。」

小さく頷いた彼女の肩を優しく叩く。いつも笑顔溢れる顔が涙に濡れている。新たな一面を見ることができたようで嬉しいと感じてしまった。傍らにあるポップコーンは綺麗に完食されていた。それも昔を思い出させる影で、慰めるように撫でる肩に力が入る。変化が大きくないというのが、これほどまで嬉しいとは、まるで心が若返っているようだった。

彼女が案外落ち着くのは早く、まだ劇場内に人が残っているうちに退場することになった。お昼前に見始めたため、終わった今はすでに昼食時間を過ぎていた。

「昼飯食べるか?」

「今はいいかも。ポップコーン食べたしそんなにお腹すいてない。夜ご飯の材料買わないとだね。」

そうだな、と言いホテルへ戻る途中にスーパーへ寄ることにした。籠を片手に商品を見ながら話しかける。

「何作るんだよ。俺そんなに料理できないけど。」

「そうだっけ。でもキャリーケースの中のカップ麺を見る限りじゃ、それも納得できるわ。それじゃあ、何食べたい?」

「何でもいい。」

はいきたー。と指を指しながら彼女は、それが一番迷惑だと指した指で腕をつついてくる。

「どうせ俺の金なんだからお前の好きなもん作ればいいだろ。俺に食べさせたいやつとかないのかよ。」

「いいの?」

「いいよ。んで、何作るんだ。」

別に、今更食の好みがわからないわけでもないのだ。どちらかと言えば、知りすぎているほどの仲であるため、意地悪でもしない限り失敗することはないだろう。

その問いかけには答えず彼女はささっと材料を探しに行ってしまった。数分後戻ってきた彼女の腕の中には明らかに豚汁を作る材料が収められていた。

「豚汁か。」

「なんで分かっちゃうかな。そういうのは完成するまで言わないもんだよ。」

「知らねえよ。ほら会計すんぞ。」

帰りは彼女と自分の片手ずつに買い物袋が、その反対ではお互いに手を繋いでいた。小さい頃から二人で手をつなぐことが多く、この歳になってやってもなんの不思議も感じなかった。お互いに学生時代を過ごし少しは思春期などによる変化を受けると思っていたが、手をつなぐことに対する抵抗感は生まれなかった。そんなことを思いながら繋がれた手を見ていた。

「そう言えばさ、まだ返事もらってなかったんだけど。」

ホテルまでの道中、トンネルを抜けたところで彼女が口を開く。

「何が。」

「告白。僕、結構勇気出した気がするけど。」

左にいる彼女は自分と同じ方を向いて落ちていく夕日を見ていて表情を伺うことは不可能だった。でもほんのりと赤く色づいたように見える耳たぶが感情を表してしまっている。

自分にとって彼女は、都会へ出る前、つまりこの地にいた頃誰よりも一緒にいた仲である。何度か、恋愛の対象として見ることはあったが、近すぎるが故に本当のところが分からず、一歩を踏み出すことが出来ていなかった。さらに、少し特殊なこの街でただ一人の頼れる相手としても絶対的な信頼を置いていた。その気持ちが友情を超え、愛情へ移り変わっているのか考えたこともある。

でも、数年間の空白を数日で埋められるのはきっとこの先も彼女しかありえないだろう。駅で会った時、無意識に入っていた力がふっと抜けた。上がっていた肩も下がり、食いしばってしまっていた歯もゆっくりと離れた。

こうなれば答えは一つ。

「いいよ。」

自分がこちらを向いていないと思っていたのか勢いよく振り返った彼女は真っ赤に顔を染めた。

「なんでこっち向いてんの!?びっくりするじゃん。」

「知らねえよ。お前こそ勢いよく振り向くなよ。」

だって、と口ごもる彼女を見て不覚にも守りたいと思ってしまった自分がいた。見た目や言葉の節々に女の子ではない雰囲気を感じるが、自分から見た彼女はやはり昔のままだった。いくら容姿や言葉を変えようともその人がその人であることまでは変えられない。

歩行が止まり、下を向いてしまった彼女の手を離す。はっと息を吸いその手の行く先を目線で追ってくる。顔が自分の方へ向いた瞬間優しく頬を片手で包み、唇に触れた。目を開けている自分とは対照的に固く閉じた彼女はいじらしく愛らしい。そっと顔を離すと視線は泳ぎ落ち着きがない。

「お前初めてかよ。」

悪いかよと言わんばかりの顔でこちらを見つめてくる。どうやら言葉にならないらしい。はくはくと動く唇さえも愛おしい。

「帰るぞ。俺のために作ってくれるんだろ。」

大きく二回頷き、差し出す自分の手を勢いよく握った。

そこからホテルに着くまでの会話はなかった。自分の勢いでの行動だったと少し反省が生まれてしまったのと、外側を向く彼女の表情がいまいち読み取れなかったからである。

もしかしたら急ぎすぎたのかもしれないなどとさらなる反省を生みかねない考えがでてきたため、深く考えるのを一度やめた。その間に部屋には着き、食材を冷蔵庫へしまう。入り口に彼女は立ち止まってしまい、まだ気が抜けているようだ。彼女の持っていた袋の分までしまい終わり、ソファーに腰を下ろす。話を始めたのは廊下からとてとてと音が出そうに歩いてくる彼女だった。

「初めてだよ。だって僕彼氏いたことないし。」

それをさっきの答えと理解するには少し時間がかかった。でも、唇を尖らせながら恥ずかしそうに話す姿を見るとあの夕日に染まる彼女がフラッシュバックする。

「え、でも別れたって。」

「嘘だよ。そもそも付き合ってないし、一方的に付きまとわれてただけ。それを見たおばさんたちが勝手に騒いだの。というか、付き合ったからと言って誰でもキス…するわけでもないし。」

途中から早口になった。おばさんたちに関しては、やりかねない性格の人たちだ。情報を鵜呑みにした自分にも負い目はある。ということは自分がこの街を離れる前から彼女は好いてくれていたということになる。

「お前、俺のこと好きすぎだろ。」

顔の筋肉の緩みなど気にもとめず立ち上がり腕を引く。抱きしめたその体は少し自分より小さく、でも触れる要所要所に時の流れを感じた。

「大好きだよ。ばーか。」

馬鹿はないだろ、と少し下にある頭に向かって言う。垂れていた腕は自分の背中に向かい、しっかりと包まれる感触があった。

「俺もだ。」

こんなにも一緒に居て苦のない人がいるだろうか。互いが互いを思いやり、好意を寄せることがこれほど快感であるとは知らなかった。この感覚に名前をつけるならばそれは幸せだろう。

抱きしめる腕を先に離したのは彼女だった。名残惜しそうに、でもどこか恥ずかしそうに離れる。俯きながら、ごはん作る、と言いその場を後にした。残された俺は腕に残る暖かさを噛み締めた。

材料を切り、鍋を回す姿を夕日越しに見る。いつまでも子供のように見えたその姿は一人の人間として少しずつ確実にときを重ねているように見えた。それはお互い様かもしれないが、記憶の中の彼女と今目の前にいる人が時の流れを明確に示している。

奏太は彼女が料理を作ってくれている間にお風呂を沸かし先に入った。ご飯の前にお風呂に入るのが幼い頃からの習慣である。彼女も出来上がった頃に交代で入った。

「お風呂出たよー。ご飯よそっておいてほしい。」

バスルームから聞こえた声に返事をし米を盛る。隣のコンロで湯気を踊らす豚汁からはとても懐かしい匂いがした。盛り終えた頃、不意に後ろから抱きしめられた。

「おいしそうでしょ?」

「ああ、そうだな。楽しみだ。」

ホテルの小さな机に二人分の夜ご飯が並ぶ。

いただきますと手を合わせた二人は同時に豚汁をすすった。何か特別なものが入っているわけでも、高級な食材を使っているわけでもないこの料理が一生忘れられない味のように感じられる。

「おいしい。お前料理できたんだな。」

これまで見てきた彼女は真面目で不器用といった面が多かった。もしかしたら自分の知らない他の輝きを持つ面がまだあるのかもしれない。

「料理くらいできます。僕だって御飯作るときあったんだから。」

そうか食べてみたかったな、と心のなかで言ったはずが口にしていた。音にしてから恥ずかしがるのが一番ダサくて恥ずかしい。またもや会話がなくなってしまった。視線を上げることもできず、視界いっぱいに食事を映す。黙々と食べるとお米と豚汁だけではすぐに底が見えた。

「また作ってくれよ。楽しみにするから。」

食べ終わった食器を洗おうと立ち上がり言い逃げるように水道へ向かった。こんな一日で心も頭も彼女のことでいっぱいになってしまった。何かから逃げるようにやってきた地元だが、案外リフレッシュにはいいのかもしれない。そんなことを考えていると横に気配を感じた。食べ終わった食器を彼女が持ってきて水道に置いた。洗っている俺を真っ直ぐに見つめ口を開く。

「分かった。また作るね。何食べたいか考えておいて。」

一つ一つの言葉を大切に並べる彼女に少しの違和感を感じたが、それ以上に次があることに心の浮つきを覚えた。そんな自分がまた恥ずかしくなり、おう、と小さく返事をしただけになってしまった。

駅で会ったときとはテンションの差が大きく落ち着きを持っている彼女は、真新しく瞳に写りこの彼女を知っているのが自分だけなのだと思うとどこかくすぐったい気もしている。

小さい頃から知っているため、どのような人柄なのか熟知している自負はある。家での姿、友達といるときの姿、学校での姿、一人のときの姿。そんな中、俺との二人の姿が新しく更新され続けている。他では見ることのない姿に安心を覚える。

洗い終わり、視線を向けた先のテレビを見ていたはずの彼女は疲れているのか眠りに落ちていた。手の水気を拭き取りながら近づき、短く切られた髪の毛に指を通す。十センチほどの距離で終わってしまうその動作を何度も繰り返す。耳まで降りてきた手を今度は頬を伝わせ包み込む。反対側にも手を添え、丁寧に壊れないように唇を寄せる。ほんのりと暖かさを持つ皮膚は魅惑的で何度も求めてしまいそうになる。そっと手を離し、自身も寝る準備を始める。電気を消し、ソファーの彼女をベッドまで運ぶ。2つの体に布団をかけ、明日やるはずことが終わってしまいまた予定を建て直さないとだなと少し明日が楽しみになっている心の弾みを感じ目を閉じた。時計が明日を告げるにはまだ三分の一以上も残っていた。

先に目を覚ましたのは彼女ではなく自分だった。まだ太陽が一端を見せ始めているだけの頃、意識が覚醒するとともに体も起き上がる。こんな時間に起きるのは久しぶりでいい思い出はない。隣で小さく眠る彼女が愛おしく見えて仕方がなく、腕の中に収めるように再び起こした体を寝かした。身じろぎを少ししたものの、再び一定の呼吸で落ち着いた。そんな彼女を抱きしめているうちに温かい体温が伝わってきたせいか眠りに誘われ瞳は閉じていった。

二度目の眠りは夢を見た。その夢の中では彼女と俺が海辺の一軒家に住み、小さな店を経営していた。キッチンからのコーヒーの匂いで目覚め、リビングへ眠気で覚醒しない意識の中足を運ぶ。トーストの横に並ぶカップは色違いで視界に入ったそれを見て思わず笑みが溢れる。そんな自分を見て彼女はおはようの挨拶とともに抱きついてくる。背中に腕を回し、少し低い位置にある頭に何度か口づけを降らす。くすぐったいと動くその体をしっかりと抱きしめ、自身の口からもおはようと告げる。上を向いた彼女は、ん、と口を尖らし求めてくる。お互いに言葉にするのは苦手だが、その分性格を熟知した行動にすべてを表す。差し出された唇へ近づき触れるだけの口づけを交わす。ふたりとも口角が上がっていることに気づくとどちらともなく笑ってしまった。少し頭を下げて額を当てる。限りなく近づいたその顔は太陽が照らす海よりも輝いていた。程なくして、食べようか、と言われ机に向かい合って座る。朝は彼女のほうが強く、いつも起きてくるとご飯の用意がされている。不甲斐ないと最初の頃は思っていたが、コーヒーを入れながらにこやかにキッチンに立つ彼女をふと見てしまったときにこれが幸せかと思い、これでいいのかもしれないと思うことにしている。朝食を食べ終わったあとは、隣接する小さな食堂へ仕込みに向かう。店は午前中からお昼までは食堂として開き、おやつ時から喫茶店として開いていた。自分は喫茶店で出すためのお菓子作りとコーヒー豆の用意を、彼女は食堂の今日の献立の用意をしている。すべての準備が終わったのは開店一時間前で、一息つくために裏口から海に向かった。靴だけを脱ぎ、足首まで海水に浸ける。制作に燃えていた頭が少しずつ冷えていく。お互いに何かを作ることに熱中しやすいため、一段落つくと二人で海に足だけ入りに来ている。無言のまま数分がたっただろう頃に彼女の方を見ると視線が重なった。その黒く芯のある瞳に映るのが自分であること、それが生きる証であり、意味で糧であった。そろそろ戻ろうか、そう彼女に言われ差し出された手を取る。濡れた足のまま店の裏口へ行き、準備しておいたタオルで拭く。隣に座る彼女の肩に触れるたびにその熱に安心する。今日も一緒に居られることに、今も隣に居られることに。タオルは拭くのに使われる使命を終えた頃、洗濯機に入れられた。店を開店させるまであと十分。彼女は調理場へ、自分はフロアの方へ向かう。時間だね、と二人の声が揃い開店の合図を出す。外にはこれから漁へ出る漁師さんを始めとして数人の列ができていた。すべての人に挨拶をして店内へ入ってもらう。そこからお昼すぎまでは怒涛に店を回した。一息つけたのは三時からの喫茶店を開くために一度店を閉めたときだった。今日もたくさん来てくれたね、少し疲れた顔で調理場から彼女が顔を出す。そうだね、いつもありがたいね、と机を拭きながら返答する。あと一時間ほどすれば今度は自分が調理場に入りコーヒーを入れる。ホールを彼女に任せ日中とは逆の立ち位置をとる。賄として彼女が作ってくれたパスタを食べ、二人しかいない店内を見渡す。あれほど栄えたとしても一度閉めてしまえばそこはただの箱にしかならない。騒がしいのも嫌いではないが、二人だけの箱というのも実に考え深いものである。なんて意識が浮遊していると向かいに座る彼女がそろそろ準備をする時間だと告げる。何を考えているのか聞いてこないあたり、やっぱり一緒になって正解だと思う。ありがとう、と返し二人分の皿を持って調理場に戻る。洗い物を軽く済ませ、朝作ったお菓子たちを確認する。どれも自信を持って出せるもので、自分で作っておきながら自画自賛だなとお菓子を見ながら笑みが溢れる。するとホールで準備していたはずの彼女が、なんかニヤニヤしてて幸せそう、と調理場の入り口から声をかけた。ニヤニヤしてるのは余計だろ、と軽く反論するが否定できないのも事実である。ま、それだけうまくできたってことだもんねと言いながら彼女は戻っていった。特別にプロでもなければ、製菓学校を出たわけでもない。そんな自分が好きという気持ちだけでここまでやってこれたお菓子にやっと自信を持てるようになった。そのすべてが彼女のおかげであり、彼女のためでもあった。再び開店十分前になると今度はピアノジャズを店内に流した。二人でヨーロッパへ足を運んだ際やっぱり喫茶店をやるならお洒落にしたいと意見が一致し、静かすぎるのも良くないなとジャズを選んだ。彼女は昔ピアノを習っており、どうせならピアノジャズにしたいということで喫茶店になる時間からはかけることになった。店を開店する合図を出し、数分で入店するベルが聞こえた。ここからは時の流れを気にすることなく落ち着いた時間が過ぎる。注文のコーヒーとお菓子のセットを彼女が運び帰ってきたトレーに今度は別の注文を乗せる。食堂のときとは打って変わり、急ぐことはない。ちらりと見えた彼女はトレーを運ぶ天使のように見え、自分の作ったもので人々に幸せを運ぶ、そんな天使に見えて他ならなかった。またニヤニヤしてたのか、受け取りに来た彼女に頬を指で指された。少し恥ずかしくなって視線を合わせられない。少し笑うとトレーにお菓子を乗せ、そんなに私ばかり見ないで働いてください、とおどけて言う。もっと恥ずかしくなり、足早に奥へ戻る。背中から笑い声が聞こえるあたり、すべてがバレているのだろう。そこからは気持ちを抑えるために制作に心を委ね一心に作り続けた。一日の営業が終わったのは夕方五時。残った材料を隣の家へ持って帰り夜ご飯を作る。二人共お酒を嗜まないため、食べ終わった傍らにはコーヒーが置かれている。そっと寄り添いながら開いた海側のドアの先を見つめる。テレビもラジオも何もつけず、ただ波の音を聞くだけのこの時間が一日の中で最高の至福だった。うっすらと香る海の匂いと、色濃く香るコーヒー。そのすべてを纏い包むのは二人だけの空間。何かを語ることなく、言葉にすることなくただ肩を寄せ合い互いを確認するだけ。今があるという幸せと、手にあまるほどの安心を。空になったカップをサイドテーブルに置き、顔を見つめ合う。先に目を閉じたのは彼女の方で自分すら写っていないその先の瞳を捉え口づける。彼女の瞳に最後に映るのが自分であることを願いながら何度もその唇に触れる。深くなるのは時間か、快感か。



はっと目を覚ましたのは。起きるのに適している時間で、隣の彼女も丁度目を覚ましたようだった。

「おはよう。朝ごはん食べようよ。」

寝起きの彼女はどこかふわふわしており、とりあえずご飯というのがらしかった。

「俺、なんか買ってくるよ。近くにコンビニあった気がするし。」

昨日食べたカップ麺を改めて考えると朝ごはんがカップ麺というのはいかがなものなのかという結論に至った。布団から出て、着替える。上着を着てしまえばどんな服装でも構わないなと思いが伝わったのか、その服ダサいと横槍を入れられる。だが、チャックを閉めた時諦めたのかため息が聞こえた。

「僕はメロンパンお願い。」

わかった、と返事をし財布をポケットにしまい部屋の鍵を持ち部屋を出る。先程まで見ていた夢はうっすらと残影しか見えず、悪い目覚めでなかった感覚しか残っていなかった。良い目覚めというのも良すぎると怖い。深く考えたところで結論が出るものでもないため、考えるのをやめコンビニへ入る。彼女に頼まれたメロンパンと自分が食べる焼きそばパンを片手に持ち、反対の手には紅茶のペットボトルを持つ。コーヒーが飲めない彼女のためだ。すべてをかごに入れ自分用のコーヒーも追加で入れる。レジへ向かう途中、目にとまるお菓子があった。スノーボールクッキー。真っ白の丸いクッキーが視界に入った。特に深い理由はないが、あいつが喜びそう、という理由だけで手に取ってしまった。

レジでかごを渡し精算する。一つのビニール袋に収まった朝ごはんはしっかりと重みがあり、手ではっきり感じることができる。昨日の買い物もそうだったが、久しく手で荷物を持つことが無かった気がする。仕事に行くときは専らリュックで出勤していたため、手に何かを持つことは少なかったからだろうか。

ホテルに戻ると彼女は寝ていたベッドを整え、ソファーでテレビを見ていた。

「おかえり。朝ごはんありがとう。」

「ただいま。お前なんか素直すぎて怖い。」

少し生意気で、でも憎めない、それが彼女だと思っていた。でも、たった一日二日程度でこんなにも印象が変わってしまうとは。俺はきっとよほど彼女に会いたかったのかもしれない。

「ほら、紅茶も買ってきてやったぞ。」

机に置いてやり、やったーと言う姿は自分の見たかったものと一致し、思わず口角が上がる。

「いただきます。」

律儀に言ってから食べるところ、メロンパンの砂糖が口についているところ、そのすべてが愛おしく思える。

「俺、おかしくなったのかもな。」

正面にいる彼女に思わず口を開く。正面を向く動きで、砂糖が落ちる。

「なんでよ。いつも通りだけど。」

「いや、こんなにもお前のことが好きだ、って思う日が来るなんて。おかしくなったんだなって。」

一緒にいると安心する、気を使わなくていい、楽しく過ごせる。この全ての項目をクリアしている相手は、きっと彼女しかいない。それが頭のどこかで、確信を持って居座っている。焼きそばパンは半分がお腹に入っていた。

「僕のことが好きなことはおかしくないでしょ。というか好きなんだったら堂々としてよね。僕だってちゃんと好きなんだから。」

「そうだよな。俺が帰ってきた理由ってお前に会いたかったのかもな。」

柄にもなく思ったことを言葉にしてみる。言ってから恥ずかしくなるが、素直な気持ちも伝えなければ伝わらない。沢山の大人から言われてきたことだ。

「なら、会いに来てくれて嬉しいよ。僕は。」

はにかみながらも真っ直ぐにこちらを見て言ってくれる彼女は朝日で輝いていた。

「さて、今日はどうする。まだ朝早いしいろんなことできるぞ。」

「そうだな。」

何しよっかな、と頬に手を当てて考える彼女。自分としてはやりたいことは特にないため、一緒に居られればそれで満足だな、と思い彼女を見つめる。

「それじゃあ、水族館と動物園行こうよ。この前新しくできたんだって。ちょっと遠いけどどうかな?」

「行くか。別に気にすることもない。どこでも行ってやるよ。」

一日ホテルにいるんじゃないのかよ、と思ったが口には出さず彼女を見つめる。その表情などを見る限り、ただ忘れているだけのようだった。

目的地が決まれば向かうだけ。朝ごはんのゴミを袋に詰め捨てる。

部屋を出て、鍵を閉める。歩き出すとともに彼女の手を握る。しっかりと握り返されたその手は自分より一回りほど小さかった。

遠出のため電車を2つほど乗り継ぎ目的地にはついた。最初に向かったのは動物園で、平日ということもあり先日の映画館同様人が少なかった。

「長くてもお昼までだな。水族館も行くんだろ?」

「うん!分かった。」

入場して見える景色は幼心を思い出させ、隣りにいるのが彼女だと思うと随分と時の流れを感じる。鮮やかな緑だった記憶の中のベンチは、古びて茶色くなってしまっていた。

「僕、ライオン見たい。行こうよ。」

手を引かれてライオンの前に行く。先程まで引いていた手は連れ回されているとも言えるほど引かれていた。そこには気品と獰猛さを兼ね備えているはずの獣がいた。

「やっぱりかっこいいな。前に来たときよりもすっごい大きくなってるね。僕が最後に来たのはいつだったかな。」

「俺と来たのが最後ならお前が卒業する前だな。」

そっか、と言い、そう言えばと話題を変えられる。

「奏兄ちゃん好きな動物なんだっけ。」

「俺はトラだな。よく俺とお前でライオンとトラが並ぶ前で動かないっておばさんたち困らせたことあったよな。」

「そうだね。せっかくだし、トラも見に行こうよ。」

その動物園ではトラとライオンは離れていてどちらも一緒に見ることは叶わなかった。一般的には隣や近くにあることが多いこの二種は、どうやら引き離されていた。

「やっぱりトラもかっこいいな。ライオンとは違う威厳というか、なんだろうね。僕の言葉じゃ足りないや。」

「確かにな。お前だって勉強頑張ってるんだろ。もう少し生活に生かしていけよ。」

奏太は自身が学生だった頃を懐古する。やんちゃまでは行かないにしろ、それなりに遊んで楽しかった記憶が蘇る。

「なあ、お前学校って今行ってるのか?」

なんの事?と言い残し園内の屋台へ走って行ってしまった。何かが自分の頭をかき乱す。決して忘れてはいけないこと、覚えておかなければならないこと。今あそこにいる彼女はもう、

「奏兄ちゃん、僕これ飲みたい!買って!」

少し遠くから聞こえるその声によって思考は止まり、顔を上げる。そんな不確定なことを考えるよりも今そこにいる彼女のことを考えたい。それが上回った。

「分かった。待ってろ。」

屋台で二人分のホットココアを買う。さすがに冬の朝から外にいると体が堪える。俺も年をとったんだなと、身にしみて感じた。

「何か渋い顔してたけど、大丈夫?」

さっきの自分を見ていたのだろう。年下に気を使われるとは、不覚だった。

「いや、別に。お前が甘い物食べすぎて太りそうだなって思っただけだ。」

「気にしてるのに!もう、それは僕に言う言葉じゃないでしょ。デリカシーってもん知らないの?」

「気にしてるのか。なら慎むんだな。」

どんなこいつだろうと今更心は変わらないけどな。言葉にはしてやれないが、態度で示すことはできる。落とされては困るカップを片手で取り、ムキになってこちらを見ながら話す彼女の唇を奪う。急なことにまたもや頭が追いつかないのかフリーズする。その姿すらも可愛く思わず抱きしめる。抱きしめたことが少し恥ずかしくなり、気持ちが落ち着くまで顔が見えないように腕を離さなかった。

「あのさ、そのままで良いから聞いて。僕さ、今すっごい幸せ。奏兄ちゃんとこんなところに来たり、付き合ったり、キスしたり。ありえないって思ってたから、本当に嬉しい。だから、ってことでもないんだけど、奏兄ちゃんがいる一週間僕にくれないかな。」

少しゆっくりと言葉を話すその様子が珍しく思えた。こちらを伺いながら、恐る恐るのようにも見えた。

「良いに決まってるだろ。俺だって、特別な幼馴染のお前がこんなにも大切な人だと思ってるなんて気づきもしなかったんだ。でも、お前が勇気を出して俺に声をかけてくれたから自分の気持ちに気づけた。俺も幸せだよ。」

落ち着いてきた気持ちを確認し、体を離しお互いに見つめる。思わず笑みが溢れ二人で笑い合う。

「なんだろう、笑えてきちゃう。幸せすぎてかな。」

幸せすぎて笑えるにはいくつかの理由があると言う。幸せすぎるが故に喜び、しかし一方で膨大過ぎる幸せを恐怖と感じるが故のこともあるという。きっと俺たちが感じているのは前者だろう。嬉しいという感情が共存していることが何よりの証拠だった。カップを返しお互いに飲み切る。

「さて、お昼になるし水族館行こうか。僕お腹空いてきた。」

「昼飯何にする?近くに店とか無かった気がするが。」

そうだね、と言い少し二人で考える。

「それじゃあ、水族館についてから食べようよ。あそこならレストランとかあった気がするし。」

「それもそうだな。」

ん、と彼女から差し出された手を握り動物園をあとにする。途中でカップを捨て空いた手が大きく振られていてそれを見るだけで顔が緩むのを抑えられなかった。

揺られる電車の中、窓から差し込む光が彼女の瞳を美しく淡く、輝かせていた。

水族館に着いてレストランに向かう。早めのお昼の時間で人が少なかったため、テラス席へ通してもらった。

「何食べようかな。」

輝きのある目をメニューへ向け、あれがいい、これがいいと楽しそうに選んでいる。そんな姿に見とれていると、ひょこっと顔をあげた彼女と視線が重なる。

「僕のこと好きって自覚してから見すぎじゃない?そんなに好き?嬉しいけどさ、恥ずかしい。」

「好きだ。多分お前が思ってるよりも。」

こんなところで言うことじゃないでしょ、と言いながらその赤らめた顔はメニューに沈んでいった。

「俺は決めたけど。お前何食べるんだ。」

空気を変えるために咄嗟に会話を切り替える。

「僕はこのパスタにする。」

小声で指したメニューを確認し、店員を呼び注文する。少し不思議な顔をされたが、仕方ないのだろう。男の子っぽい格好をしている彼女と自分が恋人のような会話をしているのだ。まだ現代において少しばかり違和感が残るのだろう。

「先に夕飯を決めるか。何か食べたいものあるか?せっかくだ、俺が作ってやる。」

そう問うと顎に手を当て考える彼女。空腹のうちに考えておかなければならない、満腹になってからでは、ご飯について考えることが難しくなってしまう。考えるときは口が少し尖る。今まで何度も見ていた姿なのに知らないことを知れた気がした。

「そうだな。オムライス食べたいかも。前に奏兄ちゃんと二人でお留守番したとき僕に作ってくれたよね。あれ、おいしかったな。」

そんなこともあったか。詳細は思い出せないが、オムライスくらい作れるだろう。わかったと返事をする。

そのタイミングで料理が運ばれ手を合わせ、いただきますと言う。よほどお互いにお腹が空いていたのか食べている間に会話はなかった。ごちそうさまが重なると、顔を見合わせ思わず笑えてしまった。

「後で買い物に行かないとね。卵とかないし。」

「昨日豚汁だしな。早めにスーパーに行こう。」

食後の休憩も終わり、会計を済ませ園内へ向かう。日中の明るい雰囲気とは変わり、日の落ちた景色の中でライトに包まれた後ろ姿は儚さを纏っていた。館内に入り、泳いでる魚を見ながらおいしそうと言うタイプの彼女は蟹に見とれている。自分の目の前には深海魚の水槽がある。館内で特に暗いこの深海のゾーンは少し目を離したら姿を捉えることができなくなり不安になる。言葉にするのが恥ずかしさでできず、もどかしくなり手を掴む。きっと赤く見える頬は照明のせいで、繋いだ手が温かいのは空調のせいだろう。何も言わずその手を握り返してくれる彼女は暗さのせいで表情までは見えなかったが嬉しそうだった。

深海のゾーンを抜けて次に見えたのは淡水魚だった。トロピカルを感じる展示は暖かさがあった。普段見ることのないピラニアなどにテンションが上がっている彼女は、足取り軽く跳ねているように見えた。

「ピラニアだよ!かっこいいなあ。」

深海のところでは無かった会話が起こる。水音一つなかったあの場所では一言が大きく響いてしまいそうで憚られた。でもここなら水音もあり言葉の全てまでは伝わらない。多少はかき消してくれる。

「あそこにワニもいるぞ。ワニって魚だったか?」

「どうだろう。ってあれ置物だけど。」

奏太が指さしたところを彼女も指をさす。水槽の角の方に、照明に当たらない何かがある。

「そんなはずは、って本当だ。」

「奏兄ちゃん本当にそういうところあるよね。どこか天然っていうか。他の人の前で天然を出しちゃだめだからね。僕の前だけだからね。」

天然と言われる覚えはなかった。今まで言われたこともなかったし。それよりも言葉の最後の方に見せた独占欲とも取れる発言のほうが衝撃が大きい。

「天然の自覚はない。でも、まあこんなに気を抜いても居られるのはお前とだけだしな。」

「随分と素直ですこと。僕といるからなのかな?」

少しからかうように肘で突きながら寄ってくる。下から覗くように顔も寄せている。その行動が愛しさを生み、視線を合わせられなくてそっぽを向く。

「俺のこと見てて良いのかよ。魚見るんだろ?」

「分かってないな。水族館に来る目的が魚見るのカップル本気でいると思ってるの?」

「違うのかよ。だって水族館でできることって言ったらそれくらいだろ。」

当たり前だろ、という気持ちで言ったのにも関わらずありえないの一蹴。

「カップルってのは水族館に来て魚なんて見ません。じゃあせっかくだし問題。カップルは水族館に来て何をするでしょうか。」

ほらほらーと煽るようにして握っていた手を離し先へと進む彼女。考えながらあとを追うと、そこには円柱状の水槽があり中にクラゲが入っていた。

その周りでくるくる回りながらきれいっと漏らす姿を見て、答えが分かった気がした。近くまで行き、クラゲしか映らない瞳に自信を割り込ませる。

「びっくりした。いきなりどうしたの?」

「答え分かった。水族館に来てカップルがすることは相手を見ることだ。」

しっかりとその輝く瞳を捉え、真っ直ぐに伝える。そうでもしないと、羞恥心が言葉を隠してしまいそうだったから。

「何だ、少しアバウトな気がするけど。それもご愛嬌ってことで正解!」

だから僕のこと見ててよね、そう言って今度は彼女から手を取ってくれた。その後も、じっくりと一つ一つを見て、感想を言い合ったりなんて時間はあっという間に過ぎていった。最後まで見終わった外は、夕日の赤みに染まっていた頃。近くにあった時計を見て隣りにいる彼女の肩に手を置く。

「オムライス作るんだろ。早く買い物行くぞ。」

出口でそう言うと嬉しそうに微笑み、うん、と大きく頷いた。

帰りの電車の中、一日はしゃいだのが響いたのかすぐに自分の肩に頭を預け寝てしまった彼女。首元に触れる髪の毛が心をくすぐったくし、温度が安心させる。

「次で降りるぞ。」

少し揺らしながら起こすと、しっかり開いていない目で俺を捉える。行くぞ、と声をかけると、うんと返事だけをして手を伸ばしてくる。焦点の定まらない頭で動く身体は幼子のようで、庇護欲を掻き立てられた。伸ばされた手を握り返し、駅を出てスーパーへ向かう。買い物をする頃にはしっかり目も覚め、一緒に荷物を持ってホテルへ帰った。

部屋に入るなりソファーへ走り出す彼女は勢いよく飛び乗る。

「はぁー、疲れた。楽しすぎて何か疲れた。それとも幸せ疲れ的なのかな。」

「それはよかったな。俺も楽しかったぞ。夕飯できるまで、また寝ててもいいけど。」

電車では十分に寝れなかったはずだしな、と思い買ってきたものを冷蔵庫へしまう。ソファーで寝っ転がっている彼女は仰向けに体勢を変えるとこちらを向いた。

「いや、奏兄ちゃんのそんなにできないがどれほどなのか見届けたいな。」

「さすがにレシピ見れば作れるからな。」

ま、どうせ作ってるうちに寝るだろうと気にせず作り始める。以外にも、卵を焼く用意をしている頃までは起きていたが、その後ぐっすりと寝てしまっていた。無理に起こすのも可哀想だと思い、起きてから卵は焼くことにして寝ている彼女を眺めることにした。こんなにも非生産的な時間を過ごすことに幸せを噛みしめていた。寝ているのを良いことに面を向いて言えないことを伝えることにした。

「俺はお前のことが本当に好きだ。ふとした瞬間に目があったり、外で手を繋いで歩いたり。俺には一生無縁だと思っていたことをこんなにも好きな人とできて、今毎日が楽しい。お前を愛しいと思うし、守りたいと思ってる。そのためには俺が強くならないとな。一人で壊れないように。お前が俺の隣で安心し続けられるように。これからもずっと一緒にいてくれよな。俺、お前居ないと生きていける自信ねえよ。好きになってくれてありがとうな。地元に来て逃げたつもりだったが、案外悪くなかった。俺を救ってくれてありがとう。」

起きねえか、これだけ喋ってもピクリともしない彼女の頬に口を寄せ、触れるだけの親愛を込めた口づけをする。床に座りソファーに背を預ける。起きるのを待つ間、明日のことを考える。今度は何か自分の方からアクションを起こしたい。しかし、交際経験がない自分としては相場が分からないため、立案は困難を極めた。するとふとホテルの雑誌が目に入った。それぞれの部屋ごとに少し置かれているもので、この部屋には観光地がまとめてあるものがあった。それをめくりデートできる場所を探す。

「イルミネーションか。」

良いものを見つけた、とばかりに場所を確認する。ホテルから乗り継いで2つ隣の街にそのイルミネーション施設はあった。明日の夜はここで過ごそう、それまでの時間は近くにあるカフェでも巡る時間にすればいい。自分の立てた計画が完璧に思えてしまい、無自覚に口が緩む。これまで楽しませてくれた彼女に少しでも返せるのなら、と嬉しさで心が満たされた。

「何ニヤニヤしてんの。もしかして僕のことでも考えてた?」

後方から声がする。調べたりしているうちに音を立てていたらしく彼女が目を覚ました。

「そうだな。お前のこと考えてた。明日の予定は決まったぞ。」

まさか、本当に言ったとおりだとは思わなかったのか豆鉄砲を食らった鳩のように目が開かれた。

「あ、そう。どこ行くの?」

「カフェ巡りだ。2つ隣の街にカフェがたくさん立っているところがある。そこでゆっくり過ごそう。」

イルミネーションは最後のお楽しみにしてもいいな、そう思って言わないことにした。

「奏兄ちゃんにしてはいい案だね。僕気に入ったよ。」

そう言えば夜ご飯を起きたら作ろうと、思っていたことを伝えキッチンに向かう。

「ごめんね、僕が寝ちゃったから。先に食べててもよかったのに。」

「別に、お前と一緒に食べようと思ってたからな。」

そっか、と頬を少し赤くする彼女を卵を焼く俺は見ることができなかった。

「いただきます。」

ケチャップライスの方は温め直し、焼きたての卵を乗せたオムライスは上出来に思えた。

「どうだ?」

「うん、特徴もなくおいしい。」

褒めてるんだかどうだかわからないが、悪くないならそれでよかった。目の前でケチャップを頬に付けながら頬張る姿が見れただけで満たされたからだろう。でも、素直になれない自分の口からはそっけない言葉しか出てこない。

「普通においしいでいいだろ。」

「まあね、でも奏兄ちゃんならもっと美味しく作れると思うんだ。」

何を根拠に、と口に出そうだったがスプーンによって阻止された。お互い食べながら話すことが苦手なので、やはり食べている間は無言が続いた。しかし苦痛な時間にはならず、無言であっても一緒に居て辛くなかった。今までなかった体験が重ねられ、厚みを増していく。

「ごちそうさまでした。」

「今日の片付けは僕がやる。昨日はやってもらったからね。ソファーで座って休んでてよ。」

ありがたく言葉に甘えソファーに腰を下ろす。キッチンで食器を洗う姿はまるで新婚だな、なんて重症とも捉えられる考えが脳裏を過り思わず笑みが溢れる。最近微笑む回数が増えた気がする。なんでもないことでも口角があがり、ちょっとしたことで笑顔になっている。数日前の自分では考えられない。それもすべて帰ってきたからだろう、この地に。

「先にご飯食べちゃったね。お風呂どうしようか。」

「あ、そうだったな。食べてすぐ入るのは辛いし、落ち着いたら沸かそう。それともシャワーで済ますか?」

「シャワーでいっか。寝る前に交代で入ろう。」

洗い物が終わった彼女を引き寄せ自分の膝の上に座らせる。夢ばかりを見ていてはならない、脳裏の隅っこへ追いやったその考えは冷静になった今、目の前に立ちはだかった。気持ちを落ち着かせ、言葉が揺れないようにまとめ、腕に力を込める。

「明日で俺がこっちに帰ってきて三日目だな。ここまで人生で一番楽しい思い出を作れている。別に思い出を作るために帰ってきたわけではないが、忘れられないものを作れていると思う。

俺、お前に聞きたいことあるんだけど。聞いてもいいか?」

「いきなりどうしたの?明日のこととか?」

背中を向かせ座らせているため顔を見ることができないのが功を奏した。ずっと聞かなかった、というより聞けなかったことを口にしようと震える心を抑える。

「お前、今何歳だ?」

「え。」

「最初から異変に気づくべきだったんだ。あんな深夜の時間に駅に迎えに来ることをおばさんが許してくれるはずがない。それにあの日からお前は家に帰っていない。」

何故か溢れる涙を隠しながらその背中に抱きつく。感情のコントロールができていない。溢れるままに現れていた。

「本来お前はそんな姿じゃなかったはずだ。だって年齢差を考えればお前は大学生のはずだろう。なのに中身も見た目も高校生のときのままだ。」

それに、と言葉を続けようとするが、それは彼女の口によって封じられた。膝の上に居たはずの彼女は向き合う体制に変え、頬に手を当てながら優しく触れてきた。まるで、その先を拒むようだった。二度触れたあと、言葉の出ない俺の流れる涙を拭うように口づけを顔に降らす。

「奏兄ちゃん。ごめん、今はそれに答えられない。でも明日、最後に僕の行きたいところに付き合ってくれるんだったら僕も覚悟を決める。」

「分かった。どこに行きたいんだ?」

震える声で尋ねると、先程まで自分が見ていたパンフレットを持ち指さした。それは、自分が見ていたページの2つめくった先にあった写真だった。

「花火大会。ここらへんは冬でもやってる行事だからね。いつか奏兄ちゃんと行きたかったんだ。」

その会場はイルミネーションの施設から近くにあり、時間帯を考えれば自信の予定をうまく噛み合わせることができると考えた。

「分かった。一緒に行くし、きちんと話してほしい。本当のことを。」

「約束するよ。」

まさか、泣くなんてね。ポロッと彼女から溢れた言葉に顔が熱くなる。不安で泣くなんて子供じゃあるまいし、醜態を晒してしまった。でも、恥ずかしいや怖いよりも、彼女なら大丈夫だという安心があったから思わず行動に写してしまったという方が正しいだろう。

「お前の前だからだよ。なんとか取り繕おうと思ってもできない。恥ずかしい限りだな。」

「何いってんの。今更だね。どんな奏兄ちゃんでも僕は大好きだよ。」

ああ、こいつはこういうやつだった。記憶の中の幼い彼女からは少しからかいの含む言葉しか出てこないくせに、今目の前にいる彼女はほしい言葉をストレートにくれる。歳を重ねれば重ねるほど難しくなることをそれとなくやってのけている。

「僕、眠くなってきちゃった。先にシャワー入ろうかな。」

「行って来い。その後交代な。」

タオルを持ってバスルームへ向かう後ろ姿を見届けるとソファーに背を預け横たわる。きっと本当のことを知ったら何かが変わってしまうのだろう。知りたいという気持ちと知らないほうがいいのではという気持ちがせめぎ合い、頭が纏まらない。ぐるぐると混ぜられ、目眩がするようだった。

「俺、どうしたいんだ。」

思考がまとまらなくなってきたころ、視界も狭くなり始めた。まだ、若いと言えども一日動けばそれなりに体力は消耗する。完全に瞳は閉じてしまい意識が途切れるのも時間の問題になっていた。

夢を見ている。そう実感するには時間はかからなかった。しかし、その夢はどこも不鮮明で見にくかった。暗い闇の中で彼女らしき人影が倒れている。思わず声を上げて叫ぶが届かない。手を伸ばそうとしても届くはずもない。それでも少しでも届くと信じて全身で彼女を求める。たとえそこにどんな結末があったとしても。途端に自分へ苦しみが襲ってくる。息ができなくなるようなそんな苦しみだった。ひどい頭痛も発症し始めた。夢の中なのに随分とリアルなものだなと一瞬思ったがすぐにのんきなことはかき消された。苦しい、苦しい。でも、俺よりもあいつのほうが何百倍も何千倍も苦しいのに。

「どうして。」

俺は、


「朝だよ!起きて!」

叩き起こされたようでベッドから落ちていた。

「どうして、じゃないでしょ。朝だから起きるの。それだけじゃん。」

ああ、と頭を掻きながら落ち着かない心を鎮める。なんだったんだ。夢は起きたら忘れやすいと聞いたことがある。実に不便だ。

「何かうなされてたけど、大丈夫?」

「大丈夫だ。おはよう。」

奏太は自分がソファーで寝ていたことを思い出す。彼女にここまで連れてくる力があるとは思えなかったが、薄っすらと肩を持たれる記憶が蘇り、納得した。

「先におはようだったね。朝ごはんどうする?」

せっかくカフェ巡りの予定があるし、ブランチとかどう?と提案を受け飲むことにした。少しずつ夢の記憶が薄くなり気持ちも落ち着いてきた。

布団を出て着替える。彼女は寝室で、奏太はリビングで着替えを済ませ部屋の入り口で合流する。

「行こっか。」

彼女に引かれて部屋を出た。朝早い電車には都心方面しか人がおらず、逆向きに乗る自分たちの列車は空いていた。

「どこのカフェから行こうかな。何食べたい?」

「俺は何でも良い。お前が決めろ。」

やっぱりパンかな、でもあそこの朝ごはんも美味しそうだったなとパンフレットを思いだして微笑む彼女を見ると強制的に心が穏やかになる。窓から射す朝日が加速をかけ、今まで考えていたことがくだらないことのように思えちっぽけに見える。

駅の近くにイートインできるパン屋さんがあったことを思い出し伝えると、朝ごはんはそこで食べることになった。

電車を降り、パン屋へ向かう。道中、猫がたくさん集まっているのを見かけた彼女が駆け寄った。

「うわー、猫だ!かわいいなぁ。僕、来世は猫になりたいな。」

「お前、猫になりたいって小さいときから言ってたよな。」

「うん、だって自分の世界で生きてるように見えるからね。」

自分の世界、か。人間はどう頑張っても社会という世界でしか生きていけない。それに疲れてしまうときだってある。ないものねだりというものだろう。それにしても、猫とともに視界に映る彼女は特段に愛らしさに拍車がかかっていた。直視というか、凝視というか。何というか。まあ、そんなところだった。

「ほら、行くぞ。腹が減った。」

「はーい。じゃあね、猫さん。」

律儀に手を振るところは幼い頃から変わっておらず、先に歩き始めた奏太の後を追って走ってきた。

パン屋に入ると彼女はクリームパンを、自分はフレンチトーストを飲み物とともに買った。朝日の当たる外の机に座ると肌触りの良い風が吹いた。寒いが、温かい飲み物を手にしていれば耐えられない温度ではなかった。

「いただきます。」

ハンド用のフレンチトーストは砂糖の甘みだけでなくはちみつがふんわりと香り、ブラックコーヒーにとても合った。途中で彼女のパンと自分のパンを交換して食べたが、クリームパンはバニラエッセンスがしっかり入っていて甘さが控えられ、上品さを持つクリームでとてもおいしかった。

「このあとどこから回ろうか。お腹はいっぱいになったからウィンドウショッピングとかしたいな。」

食べ終わったごみをまとめながら、テラスの先の店を見ながら彼女は話す。

「いいな。せっかくだしお前の服を買ってやりたい。」

「やった。奏兄ちゃんのセンスは信じられるから楽しみ!」

そう言われて、地元のおばさんたちの服のセンスを思い出す。なかなか形容しがたいセンスをしていた気がする。それに若い人が自分たちくらいしか居なかったため、逆に異点であったのだろう。

訪れた店街はいくつもの洋服屋さんが並んでいるところで、メンズからレディース、キッズまで全てが揃っていた。奥へ進むと洋服だけでなく、小物まで専門的においてある店もあり時間を潰すには十分に備わっている。

最初に入ったのは手前の方にあったクラシカルな店内のお店で、彼女がメンズ服がほしいと言っていたのでメンズ服のある店を選んだ。

「これとかどうだ?」

彼女の前に見せたのは、オーバーサイズのロングシャツだった。ワインレッド一色のそのシャツは大人っぽさを持っている。

「かっこいい!やっぱセンスあるね。」

瞳を輝かせシャツを写していると、じゃあこれほしいな、とすぐに返事が来た。彼女の言う、奏太のセンスが信じられる。というのは、あくまでも奏太のセンスが良いのではなく、感性が似ているというだけであり、一般的に好まれるかどうかは別であった。

「そんな簡単に決めていいのかよ。」

「だってこれだけじゃないでしょ?買ってくれるの。」

お前なあ、と口にしそうだったが、着てほしいと言った手前引き下がることもできない。とりあえずレジへ向かい購入を済ませる。1つ目の袋を片手に持ち彼女と手をつなぎながらいくつか服屋を巡る。次々に増えるのは喜びか楽しさか紙袋か。

お昼の時間を迎える頃には片手のギリギリまでが袋の紐で埋まっていた。何故ならば、彼女が欲しがった洋服の系統がメンズであったことと、特にオーバーサイズを好んでいたことがさらに荷物の容積を増やす要因である。

「やった。こんなにたくさん買ってもらえたのは本当に嬉しい!ありがとう奏兄ちゃん。」

満面の笑みで感謝を告げる彼女を見ると、荷物すべてを持っていることすら許してしまいそうになる。

「本当にありがとうって思ってるなら少しくらい荷物をお前も持て。」

「やだなあ、僕って言ってても中身は女の子。か弱いんだから難しいな。」

口元を緩めながら話すその顔は、持つ気はないと書かれていた。

「おい、置いてくぞ買った服たち。」

ごめんと焦りながら袋を受け取ろうとする腕を離した手で引き腕の中に収める。

「え、どうしたの。」

「なんてな、俺が好きで買ってるんだから別に気にすることねえよ。」

ほらさっさと昼飯行くぞと、手を引く。

人目を気にせず触れ合う人々を恨めしく思った時期が自分にもあった。でもいざ自分がその状況になってみると抑えられなかった。愛おしいと思う人には触れたくなる、もしかしたらそれが人間の摂理かもしれないと思ってしまうほどに。

最後に訪れた店の2つ隣にステーキ屋さんがあった。動き回ってお腹が空いたと二人の意見が一致したためそこに入ることになった。

「今のステーキ屋さんはレパートリーが多いな。こんなにあるのか。」

「何か奏兄ちゃんの発言おじさんっぽい。」

メニューを見てポツリと溢れてしまった言葉を拾われた。心のなかで思っただけのはずだったのに。

「そんなにお前と年離れてないだろ。お腹へったし早く注文するぞ。」

自分の注文するものが決まり、メニューを畳み立ててしまう。

「早くない?待って決めるから。」

急いで決めようとしたらしいが、迷いに迷い決まらず結局同じものを2つ頼むことになった。

「俺と同じでよかったのかよ。他にも迷ってるやつあったんだろ?」

「これでいい。」

注文した品が来るまで午後の予定を話す。

「この後は夕方までゆっくりしないか?夕方から連れていきたいところあるんだ。」

「分かった。花火大会は行くよね?」

「もちろんだ。」

どこに連れて行ってくれるんだろうなー、なんて楽しそうなのが揺れる足から伝わる。花火大会、このワードが現れた瞬間空気が変わった気がした。なんてことないこの言葉が終焉を表しているようで。

ステーキが届いてからはいつもどおり無言でひたすらに食べた。柔らかくジューシーで食べごたえがあった。正面でガッツリ食べている彼女をたまに見上げると、生き生きとして輝いているように見えた。

「ごちそうさまでした。」

二人で小さな声で告げる。ほぼ同時に食べ終わったらしく、重なった声は笑い声まで続いた。

「はぁ、お腹いっぱい。すんごい食べた気分。よくよく考えたら奏兄ちゃんと同じ量食べたんだもんね。そりゃ沢山だわ。」

「まあな。よく食ったな。お前も。」

ステーキ屋さんを出た後は小物屋さんへ向かい、帽子やアクセサリーを買った。日が次第に姿を消し始めた頃。寒さが増してきて、マフラーを追加でお揃いのものを買った。

「そろそろ良い時間だな。よし、イルミネーション見に行くぞ。」

少し唐突になってしまったが喜んでくれると思っていた、しかし彼女からのリアクションがなく、読めない。手を繋いで隣にいるのに、その表情が何を表しているのか分からない。

「嫌か?」

不安が現れ思わず嫌なのではと脳裏を走る言葉が浮かんでくる。しかし、即答で首を横に振る彼女。そのレスポンスで心を撫で下ろす。

「いや、何というか。嬉しすぎて固まっちゃった。」

「何だ、びっくりさせるなよ。ほら行くぞ。」

日が落ちてきた外は肌寒さが増してきている。手を繋ぐだけだった日中と比べ腕を絡ませ、それぞれのポケットに手を入れて歩く。肌に触れる面積は少ないが物理的距離感がより近いため自然と寒さは無くなっていった。そこからは、20分ほど歩いたところにイルミネーションはあった。

視界いっぱいに広がる電飾。その全てが彼女をかき消す勢いで光を放っていた。

「うわぁ、すごい綺麗。こんなところあったんだ。」

「三年前くらいに出来たらしいぞ。」

入り口から歩いて中心へ向かう。二人を囲む電飾がその足取りを加速させていく。視線の先には、雪の結晶をモチーフにした白と青、ピンクが溢れていた。

「ここで写真撮ってもらおうよ。せっかくだし。」

そう言って彼女は近くにいた若い女性に声をかけに行った。自身のスマホを渡すと戻ってきて腕を再び組む。

「それじゃあ、お願いします!」

いきますよー、の掛け声とともに腕を引かれ抱きつかれた。

そこから何度か振り回されるように写真を撮られた。

「なんだろう、疲れた。」

膝に手を付きながら大げさに伝える。すると軽く背中を叩かれた。

「もう、おじさんじゃないんだからさ。もっと若く行こうよ。これからもあるんだからさ。」

「そうだな、もっと奥まで行くか。」

一番奥にあったモニュメントは大きなハートを模して、その周りに華やかに花や星などを表した装飾が飾られていた。一目見ると駆けて行く彼女。その後ろ姿を見ながらカメラを向ける。短くなった髪が走る振動を受け大きく揺れる。まるでそれは子犬の尻尾のようで愛らしさが心を埋め尽くした。

「すっごいね。こんなにも輝いてると他のものがかき消されそうだね。」

「ちょっと感傷的じゃないか。鮮やか過ぎるのも儚さがあるものだな。」

「そうだね。あの真ん中で写真撮ってもらおうよ。」

そう指さしたのはハートのモニュメントの真ん中にある座席の広いブランコだった。まるでおとぎ話の中から出てきたかのようなブランコで、白とピンクで塗装されていていかにも女の子が好きそうなものである。彼女は再び撮ってもらえる人を探しに行った。

「お願い出来たー。座ろうよ。」

気分の浮つきが足取りに現れながらこちらに帰ってくる彼女。歩いたところから音符が出てきそうだった。

「お前どっち側座りたい?」

「僕は右かな。それでもいい?」

「いいよ。」

椅子に座り向き合う。今、お互いの世界には愛する人しか写っていない。左耳から聞こえる、はいチーズの声。それが現実へと引き戻る魔法の言葉だった。スマホを渡した人は全体を撮ってもらうために数メートル離れたところに立っている。

「好きだ。愛してる。」

小声で言えば周りの人には聞こえないだろうと思い、自分でも驚くくらい大胆な発言をした。目の前で真っ赤に頬を染める彼女。しかし、彼女のほうが一枚上手だったのかさらに顔を近づける。

「僕のほうが愛してるよ。世界中のなによりも。」

ふっと笑うと顔を離し、「ありがとうございましたー」とスマホを回収しに行った。

呆気にとられていると、微笑みながら彼女は帰ってきた。

「他のところも見に行こうよ。」

「そ、そうだな。」

向かって左側には併設されているガーデンとともに装飾が施されている。彼女はトンネルのようになっているところを気に入ったようだった。右側は若手芸術家の作品とのコラボのようになっている。個人的には無地の立方体や直方体にシンプルな電飾をつけているのに心を引かれた。

「これで全部かな?僕、お花のところ結構好きだな。」

「テンション高かったな。お前。」

「奏兄ちゃんこそ、作品のところ沢山写真撮ってたじゃん。気になったんでしょ?」

まあな、とそっけなく返すとニヤニヤしながら腕を引かれてさらに足を進める。

一通り全て見終わると再び入り口に向かい彼女のスマホで自撮りをする。すでに沢山写真は撮っている気がしていたが、どうやら女子の心というものはそれだけでは収まらないらしい。

「まだ、足りないくらいだけど。ま、いっか。」

「沢山撮っただろ。まだ、何を撮るって言うんだよ。」

スマホの画像フォルダを満面の笑みで見つめる彼女へ問いかける。

「奏兄ちゃんとのツーショット。何したとか全部記録にしたい。」

「そういうものなのか。俺にはわからないな。」

もう、それだから女の子に顔ではモテても中身ではモテないんだよ。余計なお節介だといつもなら言い返すが、今更別の人間に好意を寄せられても何も感じないだろう。

「お前以外見てないからな。別にいいだろう。」

「そういうことさらっと言えるところ。大好きだよ僕は。」

行こっか、手を取られ出口をくぐる。今の二人には言葉の持つ力を理解できないのだろう。周りにいた少女たちが頬を赤らめていることなんて、つゆ知らずである。

次に向かう花火大会の会場は歩いて行ける距離だった。

「せっかくなら浴衣とか用意したかったな。あ、男の子だと袴?」

「袴はまた別だ。甚平とかじゃないのか?」

なんて少しおバカな会話をしながらあっという間に会場である川沿いの公園についた。赤とオレンジの光に包まれた中から屋台の看板が顔を出し、人の気を引いている。

「僕、りんご飴食べたいんだよね。」

「食べたことないのか?」

「それがないんだよね。これまでお祭りとか何回も来てるけど一回も食べたことは無くってさ。だから楽しみにしてるんだよね。」

屋台の並ぶ長い一本道を逸れないように腕を組みながら進む。左右を見渡しながらお目当てを探す。

「あ、あったぞ。」

二人で屋台の前まで行き、2つりんご飴を買う。その場では人が多くて食べられないため少し道を反らし進む。

「いただきます。」

パクっと効果音が聞こえてきそうなくらい大きくかぶりついた彼女はとてつもなく可愛かった。中のりんごも外の飴もどちらもお気に召したようで、時間はかかったが全てを食べ終えた。

「おいしかった。奏兄ちゃん食べるの早くない?」

同じ時に食べ始めたが自分のほうが早く食べ終わり、美味しそうに食べる彼女を見ていた。

「お前が食べるの下手くそなだけだ。」

次はご飯になるもの買うか、と声をかけ再び腕を組む。赤とオレンジに占拠されたその空間は冬なのに暖かさを感じられるほど人が行き交っていた。

「やっぱここは、焼きそばだよね。」

「そうだな。あの道は人が多いから、お前はここで待ってろ。買ってきてやる。」

「…分かった。できればついでに、僕の好きなやつもお願いしたいな。」

分かった、大人しく待ってろよと軽く頭を撫でながら言う。早く買って彼女と二人で静かなところから花火を見たい。そしてあの口から真実を聞きたい。事前に調べたベストスポットでその後誰にも邪魔されず二人だけの美しい時間を過ごすんだ。そのことで頭は埋め尽くされ、無我夢中で人をかき分け歩いた。

しかし、夜の人、さらには花火大会に訪れている人というのはどうもすんなり行かずかなり全てを買うまでかなりの時間を使ってしまった。花火が始まるまでもうあと数分というときに、人の波に流され彼女が待つところから引き離されてしまった。やっと落ち着いたと思った頃には、空に宝石のように光を放つ火の花が咲いていた。その地をも揺らすような大きな響きが心まで届き、急な不安に襲われた。この光の中に彼女が消えたのではと。あの美しい光の中で消えていってしまうのではないかと。ありえないと分かっていても、すでに脳内は軽くパニックになっており、呼吸も浅くなる。目に見えているものが本物かさえ区別がつかなくなり始めた頃、人混みの中で彼女を見つけた。

「ごめんね。」

無数の人と音で混ざりあっているはずのあの場ではっきりと聞こえた。

「なに、が。」

激しくなる呼吸の中絞り出した言葉は掠れていて、自分ですら聞こえないほどだった。瞬きしたら幻覚だったと思ってしまいそうで必死に見つめた。しかし、それを分かっているのか背を向けて彼女は人混みへと消えていってしまった。次第に乾き始めた目に涙が溢れる。揺れる視界で見えた後ろ姿には、買ったマフラーが後ろ髪を引かれるようにたなびいていた。

そこで意識は途切れ、目を覚ましたら公園の街灯の下で寝かされていた。きっと祭りに来ていた人が運んだのだろう。親切な人だったようで、焼きそばも彼女の好物の綿あめも二人分きっちり袋に入ったまま近くに置いてあった。目が覚めてもすぐには体が起き上がらず、数分目を開けたまま横になった。そこから、体が徐々に力が入るようになり放心したままホテルへと帰った。もし、あの人混みに消えた彼女が幻覚だったとしても待ってろと言ったあの場所にはもう居ないだろう。そんな気がして、ホテルに戻ればいるのではと淡い期待を抱き帰路についた。情緒が安定せず、思考が纏まらない。ほんのりと見えた光は指を通り落ちていく。

ホテルについて早くなる心臓を抑えながら扉を開ける。だが、彼女はいなかった。それだけでなく彼女の居たという形跡さえも跡形もなく消え去っていた。一緒に食べた夜ご飯のゴミや、一日目に着替えた洋服。何もかもが無くなっていた。言葉にならない絶望が一気に襲ってくる。体の力は再び全くなくなり靴も脱がず、閉まった扉に体を預け浅くなる呼吸によって再び意識を失った。


はっと意識が戻ると隣には彼女がいた。

「お前、どこにいたんだよ。心配しただろうが。」

以外にもすんなりと声は出て、さらにその声が力が籠もっていることで自分が少し驚いてしまった。

「どうしたの?奏兄ちゃん。」

少し怒りの籠もった口調で攻めるように話してしまったことに不思議に思ったのか、首をやや傾けながら言う。

「どうしたも、こうしたも。お前がいなくなるから。」

「ごめん、さっきから話が見えないんだけど。なんの事言ってるの?僕、ずっと一緒にいるじゃん。」

え、と腑抜けた声が出た。一緒にいた?そんなはずはない、だって確かにホテルへ戻ったとき彼女はいなかった。ホテル?ここはホテルじゃない。

周りを見渡すとそこは海辺だった。こっちに来た日の夜訪れた海のベンチに二人で腰掛けていた。

「俺、ホテルに居たはずじゃ。」

パニックになり、頭を抱える。再び息が浅くなっていく。彼女は心配になったのか、背中をさすりながら声をかけてくれる。

「大丈夫?」

「大丈夫なはずないよね。全部僕が悪いんだけどさ、奏兄ちゃんのためにって思ってたはずが、まさかこんなことになってるなんて思いもよらなかったから。だから、ごめんね。もう楽しい時間は終わり。僕のこと忘れて他に楽しいこと見つけようよ。囚われながら苦しんで生きてる姿、もう見てられないよ。乗り越えられないなら、忘れようよ。そうするしかないんだよ。」

「でも、もし乗り越えられる少しの希望があるなら。今まで二人で行ったところ、絶対に忘れないで。お願い。」

浅い息を必死に抑えながら、最後まで話を聞いた。言っていることがほとんど理解できなかった。でも、きっとこれが本心でこれ以上の言葉はないのだろう。力の入らない体を無理やり起こし、彼女の肩を掴んで向き合う。

「分かった。待ってろよ。」

そう言葉にした瞬間意識が無くなった。



頬に感じるカーペットが現実を告げる。どうやら夢を見ていたようだった。とりあえず、着ていた服を脱ぎ、シャワーが温まるのを待たずに浴びる。冷えた体に鞭を打つようだったが、何も感じなかった。シャワーから上がり、タオルを首にかけたままソファーへ体を沈めた。

落ち着いて考えろ。何が現実で何が夢で。区別をつけるんだ。

しっかり拭ききれなかった水滴が体の体温を奪っていく。風のない部屋の中で動かない空気は冷えで自分を包んだままだった。夢だと分かっても、思い出すことができるのは隣りにいた彼女で、触れた肩の温もりだけは水に流されずずっと手に残っていた。夢ではないと思えてしまうほどはっきりと温度を感じた。

しかし、そう思えば思うほど思考は絡まり合っていく。ふと、彼女の言葉を思い出した。

「今まで二人で行ったところ、忘れないで。」

二人で行ったところを近くの紙に書き出してみた。

・海

・映画館

・レモネードのお店

・動物園

・水族館

・レストラン

・カフェ

・イルミネーション

・花火大会

文字に起こしてみると沢山の思い出がフラッシュバックしてきた。鼻に香るはちみつの匂い、混ざり合う獣の生活臭。空と水面を繋ぐような暗闇、光に埋め尽くされる一面の広大な土地。抱きしめた少し小さな体、繋いだ手、組んだ腕から感じる体温。

思い出すのは事実だけで当時の思いは指の間から落ちていった。時計を見ると日がまたぐ頃だったため、布団まで行くのは億劫だったからそのままソファーで背を倒した。次第に瞼は閉じていき、体温も下がっていった。


次の日目が覚めたのは朝の八時。窓から差し込む太陽の光によって視界は明るくなっていた。数日間隣りにあったはずの温もりがないことが違和感で少し身じろぎをする。寝て落ち着いた脳内で今日の予定を考える。特出してやりたいことはない、だがこのままではいけないきがした。なにか行動を起こして、昨日までのことを記憶に焼き付けなければならないと。そうするとやることは自ずと絞られてくる。昨日ほどの取り乱す感覚はなく、驚きよりも悲しみや寂しさのほうが心の大半を占めている頭で決めたのは、再び昨日まで訪れたところへの再訪だった。ベッドを出て何か食べようと考えたが、食欲はなく水しか喉を通らなかった。食欲がないというよりかは、物が喉を通れなかったという表現のほうが適切だろう。数日栄養を摂らないほどで死ぬくらい弱い作りはしていないはずだと体について少し考え、着替えを済まし部屋を出る。どうにも海には足が向かず、最初はレモネードの店へと向かうことにした。途中にあったトンネルも持てる勇気を全て振り絞って壁伝いに目をつぶって歩いた。一人で見た抜けた景色はまるでモノクロだった。記憶を辿って店を探す。思ったよりも遠く、着く頃には少し足が疲れてしまった。

黄色だったのかと、ふと看板を見上げて思う。二人でいたときは映らなかった物が、はっきりと主張を強めてこちらを向く。

「すみません、少し話聞いても大丈夫ですか?」

レモネードを一つ注文して作ってもらっている間、ワゴンのいる彼に話しかけた。

「久しぶりだね。奏太くん。見ないうちに随分大人になったかな。」

「え、久しぶり?」

ここは初めて訪れた店だった。それに、彼女に教えてもらうまで存在すら知らなかった。

「そうだよ。俺のこと忘れちゃった?ほら、仲良くしてたじゃん。…の兄だよ。」

名前の部分が水が耳に溜まったように聞こえない。慌てておかしなところがないようにと、言葉をまとめる。今、深く聞かれても答えられない。

「ごめんなさい。久しぶりすぎてあんまり思い出せないみたいです。」

「そんなに他人みたいにしなくていいのに。そうだよな、あれから三年だもんね。奏太くんがここを出てからは六年か。記憶の中も更新されてくもんね。」

三年、六年。確かにこの街を出たのは六年前。そこから上京し都内の会社へと就職した。だが、そこから三年後何があったのだろう。

「あの、三年前って何があったんですか?俺、思い出せなくて。」

「えっと…。ほんとに?」

心配するように彼は首を傾けた。話し方からして随分自分と仲が良好だったのだろう。ならば、自分の知らない何かを教えてくれるはずだ。そう期待して聞いてみたが反応に手応えはなかった。

「はい、本当です。」

「だとしたら、俺からは話せないかな。」

「そうですか。お時間ありがとうございました。」

心のもやもやは消える気配すらなく、その頭角を現し始めた。黒く詳細があやふやだったそれは輝きを放っていた。礼を告げたあと、映画館へと向かう。

「あの子。って誰だ。」

歩きながらふと、ちゃんと聞いてくればよかったなと思ったが、次にも訪れる場所があるしと息を吐き歩き出す。映画館のカウンターでは見慣れた顔があった。

「あ、おばさん。お久しぶりです。」

自分の声に気づいた相手が、目を見開き振り向く。詰めるように寄ってきて、その勢いに一歩下がる。

「奏太くん、なの?本当に?」

「はい、そうですけど。」

駆け寄り掴まれた腕が痛い。寄せてきた圧に負けてさらに一歩下がる。

「どうして、急に?何かあった?」

「えっと、あの。」

立て続けに起こる問題提起に頭が追いつかず、話を整理しようとおばさんを落ち着かす。

「大丈夫ですから、落ち着いてください。」

「大丈夫なはずないでしょう。急にこっちへ来て、どうしたの?言ってごらん。」

確かにそれもそうだ。何か理由をたてないとならない。さすがに仕事で病んで逃げてきたとは言えないし。

「久しぶりに休暇が取れたんです。だから、ちょっと。」

「あ、あら、そうなの。そうだったの。」

ありきたりな答えだったが、うまく返せたようだ。納得しているようには見えなかったが、それでいいと思ったのだろう。

「はい、そうなんです。それで、実は聞きたいことがあって。」

先日彼女と来た話をし、その後再び訪れてないかと聞いてみる。しかし、それを聞いたおばさんは息を呑み、周りに居た他の近所の人たちを呼び集め何かを話し合うと、言いづらそうにこちらを振り向いた。

「そうねえ、来たわね。昔はよく。」

含みを持ったその言い方が気になったが、あれだけ話してこの答えなのだったら深く聞くことはできない。

「そう、ですか。」

納得できるようなものではない答えが返ってきたが、何も情報がないのならばもうこの場所に用はない。

「それでは、失礼します。」

軽くお辞儀をして映画館を後にする。後ろから、何か声をかけようと手をのばされていることなど、奏太は気づかなかった。

次に訪れた動物園は、中に入らず入り口まで行き立ち止まった。

「入れないな。」

今日の動物園の受付係は訪れたときと人が変わっていて、話を聞くことはできなかった。中に入ればよかったのかもしれないが、足に力が入らず歩みを進められなかった。仕方ないと諦め、水族館へと向かう。電車で揺られる途中で雨が降り始め、そう言えば傘持ってきてなかったなとバッグを上から触り思った。日中で明るいはずの外はいつの間にか暗くなり、電車内は電気を付けていないと薄暗いようだった。

水族館は休館だった。しかも、定休日とかではなく急に決まった休みである。

「あ、ないのか。」

結構聞こえる声で言ったが周りに誰も居なくて、おかしいと思っているのは自分だけだった。雨はそこから二時間止まず、雨宿りするところの心当たりもなかったため、ただ歩きながら、濡れながら、イルミネーションを目指した。頬を伝う水が、首を流れ心臓へ注がれる。その水路は枝分かれをし、全身へと染み渡るように水を行き渡らせて行った。雨は強くなる一方で、すでに洋服は街灯で輝くほどだった。だが、雨天中止のその場所は闇に包まれ曇った空によって霞んでいた。

「俺のこと嫌いかよ。」

開いた口に水は我先にと入ってくる。飲み込まれた水を異物と捉えた胃は吐き出そうと必死だ。吐き出そうとする生理現象を抑えきれず、口からは異臭のする液体が押し出される。それは水といくら混ざろうと自我を保ち続けた。う、は。言葉にならないそんな音が口から出る。早くなる呼吸と薄くなる脳内の酸素。限界を迎えるのが早かったのは酸素のようで、意識を失ってしまったようだった。はっと目を覚ました時、見える景色は最後の景色から45度ずれて上むいていた。

この場所に訪れる人は自分以外いなかったようで。所持品は何も失われていなかった。遠くに立つ時計を見る限り、二時間ほど意識が飛んだようであった。

「    」

「帰るか。」

最後は花火会場に向かおうと思っていた。しかし、冷えた頭を暖めようと働く中で冷静に判断は下せないと僅かな理性が正当な行動を提示してきた。このままでは電車にも乗れない、というかそもそも体が起こせない。どうせ誰も来ないのならば、もう少し現状を維持してもいいかと思い起こした頭を再び地面に付けた。ふとスマホを思い出す。あ、壊れたな。なんて今更なことを思ってみる。大した人間の連絡先もない、親には壊れたと事情を話せば穏便にしてくれるはずだ。腕の力、足の力、肺の力、お腹の力、首の力、その全てを手放す。

雨が止むまでは、何も考えたくなかった。柄にもないが、全てを流してほしいと心から命をかけて願った。

雨が止んだのは、そこから30分後で嘘のようにきれいな夕焼けが顔を出していた。

「雲の先は晴れ。な。あいつがいつも言ってた。」

赤とも橙とも言えるその色はまるで彼女の振り返った笑顔のようだった。彼女が振り返るとまるで儚い太陽の光を放つようで、こちらが照らされていた。

「      」

意地悪だったな、と心の中で続けて立ち上がる。雨が止んだところで服が瞬時に乾くわけもなく、上着を脱ぎ絞る。軽く肩から羽織り、近くのベンチへ座る。見上げた空には先程気づかなかった月が共存していた。

彼女はもしかしたらあの月にいるのかもしれない。

ここでいくら待ったところで彼女は来ないし、服も乾かない。そう思い、立ち上がり再び空を見る。見ても何も変わらないと分かっていても。

結局花火大会の開催された公園へは行くだけ行った。雨上がりの公園はぬかるんでいて中までは入らなかった。入り口を流れる泥水が排水溝へ落ちていくのを少しばかり見届け、ホテルへと帰路に着く。どちらにしろ、徒歩で帰るには時間がかかるため中まで入ることはなかったが。

ホテルに着くと、雨に降られたと事情を話しタオルを借りる。拭きながら部屋へ戻ると、そこには見慣れた靴が。慌てて中まで入り部屋を見渡す。しかし、そこに人影はなかった。振り返り入り口を見るとそこにあったはずの靴もなかった。

「ここまでか。」

自分の行動に苦笑が溢れる。あざ笑うように出た息を置いて、濡れた服とともにシャワーへ向かう。冷えた体にシャワーはよく染み通り、脱がずに入った服は再び重さを増した。このまま温かいものに包まれて意識を失い、起きたら全て夢でした。なんてことにでもなってしまえばいいのに。目をつむり、顔をシャワーヘッドに向けながら考える。

そこから数分動かなかったが、さすがにそのままともいかないため服を脱ぎ洗面台へ置いた。シャワーから上がってきた後、窓から海を見た。始まりの日、暗い夜の中訪れたあの海は半分に切られた太陽によって業火に揺れていた。

自然と足は海へと向かった。あの日とは違い、空と海の境界線ははっきりしている。足に触れる砂を感じて靴を履いてきていないことに気がついた。冷たい砂はどこか優しく、慰めるように包み込んできた。

「なぁ。帰ろうよ。」

波の音に流されたその言葉はきっと彼女のいるところまで届く。海は届けてくれる。ふっと膝の力が抜けてしまい崩れ落ちる。咄嗟に手をついたが、受け止めきれずそのまま倒れる。砂の上に寝転がるなど周囲からすれば狂気の沙汰だろう。ましてやこんな冬に裸足である。加えて上着も着ていない。触れる砂の状態からして、さっきまでの雨はこっちの地方では降っていなかったようだ。だから、倒れても濡れないし冷たくない。そっと目を閉じた。波の音、風の音。潮の匂い、遠くの雨の匂い。体を包む砂、それを遮る洋服。五感の全てを埋め尽くす、不可抗力の影響たち。


「帰ろう。」

日が落ちる前にホテルへ戻った。今度は裸足で砂まみれ、きっとフロントの人は驚いただろう。気にすることでもないため、ホテル側へは申し訳ないと思いながらも直接部屋へと帰った。ご飯を食べる気にはなれず、ソファーに身を投げる。沈む感覚は先程までとは違い、風の通る感覚があった。横になりながら自然と視界に入るのは調理スペースだった。あそこに立っていた彼女は永遠と勘違いしていたのだろうか。思い込んでしまったのだろうか。確かにあったあの笑顔を幻想と思うしかないのか。

大切なものは失ってから気づく。

昔の人は大切なことをずっと教えてくれていた。何よりも大事なことを。自分が愚かであることがなによりの証明となった。

「明日で最後か。帰りたくねえな。」

心の中にあった言葉を形にすれば堰き止められていた何かは、勢いを増す。言わなければよかったといくら後悔しても、ときはすでに遅い。

「荷物まとめないとな。」

落とした涙さえも持って帰らねばならないのだ。キャリーケースの中にそんな余地はない。形のない思い出だけはいくらでも入るのに。

「帰りたい。」

溢れる涙を抑えきれず、顔を横切り、持つ涙の比重は左に傾いた。寂しさ、苦しさ、辛さ、それらで埋もれた心の片隅に、理性の持った自分がいる。大の大人が何泣いているんだと。

「分かってる。」

「帰りたくない。」


泣きつかれて寝るなんて何年ぶりだろうか。昨日の服のまま、少し砂を纏っている。後数時間でチェックアウト。部屋は散らかったままだった。ちらりと時計を認識して目を閉じる。もう何もかも投げ出したかった。持っているもの全てを、あの海へ投げ捨てたかった。


「起きて。お腹すいた。」

待ってろ、確かキャリーケースの中にカップ麺が。

「は。」

目を開く。口を開ける。

「なんでお前。」

やっと口から出たのはそんな言葉で、他にも聞きたいことがあるのに。知りたいことがあるのに。

「なんでって、起きて早々失礼だな。だって今日チェックアウトでしょ?片付けを手伝ってあげようと思って。優しいからね僕は。」

スラスラとまるで台本のセリフのように滞りなく言ってのけた。一人舞台でスポットライトを浴びて輝くそんな風で。

「ちょっと居なかっただけでこうなるの?本当に僕が居ないとだめなんだから。奏兄ちゃんは。」

落ちている服を拾いながら話す。その姿は確かに彼女である。会いたくて苦しくて、好きで大好きで愛している。その形を実像で捉えることが今、できている。

「ペットボトルばっかり、買わないほうがいいよ。水筒とか持ちなよ。洗うの面倒かもしれないけど、コスパいいよ。あとは、御飯作ったりできたんだし疲れてもコンビニ弁当ばかりにならないように。週末とか作り置きすれば?洗濯は週に一回で足りるでしょ。布団も週末干す。そして部屋の空気を一掃。」

次々に片付けながら話す彼女。彼女の話す言葉のピースが自分の体を形作り、その姿を鮮明化する。ペットボトルを一通りまとめた袋を閉じ、部屋の窓を開ける。

「してあげたいな。」

「え。」

海に向かって放たれたその一言を奏太は逃さなかった。

「あ、そっか。お前まだ学生だもんな。」

「…そうだね。」

あと数年すれば迎えに来れる。だから大丈夫と安心した。光に当たって出来る影に目を落とすと、その影が動き正面で止まった。

「はい、ごみはまとめ終わったよ。あとは、そこに集めた洋服をしまうだけかな。そういえば、何で奏兄ちゃん砂ついてんの?」

「えっと、砂場で寝てた。」

信じられないと言わんばかりにこちらを見つめ、手をひかれる。起きた体をシャワールームへと突っ込まれた。

「着替え出しといてあげるから、シャワー浴びてね。」

もう、本当に僕がいないと何も出来ないのかな。ドア越しに聞こえたその声に心は浮いた。

シャワーを浴び終わり濡れた髪のまま彼女の元へと戻る。ソファーに座りながら外の海を見る彼女はまるで映画のワンシーンのようで儚さと可憐さ、現実味の薄い存在のように見えた。手を伸ばさなければ消えてしまいそうで思わず後ろから抱きしめた。

「わっ、びっくりした。出たなら声かけてよ。」

回した腕に彼女が触れる。暖房を入れていたはずの部屋なのにその肌は冷たかった。勢いで水滴が飛ぶ。

「お前、この部屋寒かったか?」

「ううん、ちょっとベランダ出てた。」

冬の朝は寒さが特に厳しくなるこの地域。少し外へ出ただけでもこれほど冷えてしまう。まるで人間でないような。

「冷えすぎると風邪引くからな。気をつけろよ。」

「じゃあ、奏太が温めてよ。」

遠慮と羞恥と勇気と愛情が込められた自分の名を初めて聞いた。返事のように後ろからソファーへ乗り上げその体を包み込む。体を倒し全身で彼女の存在を感じる。

「お前、意味分かってるのかよ。」

なんの事?と首を傾げる仕草を見る限り分かっていないのだろう。

「だろうな。子供が背伸びしたと思えば、そういうもんだよな。」

「何?意味って寒いから暖かくしてってことだけど。それ以外にあるの?」

いいやそれでいい。これから作っていけばいいんだ、そういう時間も。

「ないな。ほら落ちるぞもっとこっち来い。」

さらに抱き寄せる。彼女の背をソファーの背もたれへ移動させ、髪を解くように撫でる。

「こっち向けよ。」

聞きたいことあったはず、でもそれらは全てどこかへ流れていってしまった。吸い寄せられるような純粋な透き通った瞳に鎖に寄って囚われた自分は、彼女の頬へ手を添えて口づけた。お互いに目を開けていて、世界中の誰よりもお互いに一番近いところにいた。皮膚が触れるだけの口づけは次第に深淵を見せ、幸福へと落ちていった。何も考えられないほどの幸せと興奮が、安心を産んでいた。


「これって、大人のちゅーってやつ?」

言葉にされると急に恥ずかしくなり、体を引くとソファーから落ちた。

「そ、そうだけど。あんまり恥ずかしいから言うなよ。そういうの。」

お互いに顔が赤いのを本人は知らない。艶めいた彼女の唇を見ると、その輝きが妖艶さよりも神聖さを持っているようで美しかった。

「もうそろそろ時間だね。」

視線を上げた彼女が時計を指さした。


フロントへ鍵を返し、駅へ向かう。来た道とは違い海沿いをひたすらに歩く。

「なあ、お前都心に出てこようって思わないのか。」

「なにそれ、一緒に住もうってことでいいの?」

深い意味で言ったつもりなのは正解だ。だからといって直接的に返す必要もないだろうと行き場の失った視点が泳ぐ。

「いいね。とりあえずは今の奏兄ちゃんの家に行きたいかな。」

「俺の部屋二人ギリギリだぞ。」

一人暮らし用の部屋のため来客に対応しても数日分の広さしかない。

「でも、お前とならいいかもな。少しくらい狭くても。」

そう言って彼女の方を向くと、そこに姿はなく砂浜へ向かう足跡があるだけだった。

「奏兄ちゃん!最後にもっかい海入ろうよ。」

20m離れたところから彼女の声がする。こちらを向き、手を振りながら自分を呼んでいる。

片手にキャリーケースを持っている人にかける声ではないが、そんなことは気にせず砂浜のギリギリに荷物をすべて置き彼女の元へ走った。

「靴脱げ。」

「はーい。」

潮の届かないところへ靴を置き、靴下を入れる。冬に海へ入るなんてめったに無いことである。普通ならばだが。足の裏に感じる冷たさは、砂が水分を持つことで加速した。冷たい空気によって、より鋭くなった感覚が触れる海水の棘を感じる。拒むことなくその刺さり続けた棘を抱えて膝まで入る。

「奏兄ちゃん?」

ふと視界を上げるとそこに彼女はおらず、声の聞こえた少し斜め後ろを見る。海からはすでに足を上げていて、砂場に座っていた。

「お前、もっと早く声かけろよ。寒い。」

「ごめん、何か考えているみたいだったから。でもそろそろ寒いのかなって思って声かけた。」

膝までかかった潮が風に当たり状態変化を遂げる。熱を奪われ、風に当たる彼女に目を奪われ、もう手元には何もなかった。

「乾くまでここに座ってようよ。電車まだでしょ?」

切符の示していた時刻まであと二時間以上ある。チェックアウトの時間とうまく噛み合わせて取れなかったため、かなり時間が空いてしまっていた。彼女が指さしたところは、潮がかからない程離れていて、彼女の手によって多少均されていた。そこで体育座りをしている隣に腰を下ろし、華奢な肩に腕を回す。

「寒くないか?」

さすがに二時間以上もこのままでいるわけではないが、冬でさらには海にいるため体感温度は下がる一途である。

「大丈夫。ありがとう。」

回した腕を降ろし、手を握られる。握られた手から視線を上げると、自ずと向き合う形になり、視線が編み上がる。

「今日で最後なんだし、いろいろ話そうよ。言わなかったやつあるし。」

「そうだな。聞きたいことが沢山ある。」

どうして居なくなったのか、そもそもどうしてここにいるのか。手から流れ込む温度が、どうしても心の奥底を読ませてくれない。冷たさは感覚を麻痺させるようで、触れるもの全ての詳細を掴むことが出来ない。

「質問の前に、まずは僕が話したいこと話しても良い?」

そう言って前に向き直り、遠く彼方の空にある台本を読み始めた。台本のようだと思ったのは、話している口調があまりにも、その場で作られたものだとは思えなかったからである。前から何度も練習を重ねて、確実にこの時が来ると確信していた。その横顔からはその覚悟が伝わる。

「最初に一番大事なこと言ってなかったから言うね。

奏兄ちゃんが今週一週間一緒に居たのは僕じゃない。正確に言うと、あやふやな所あるけどね。だって僕は三年前に死んでるから。それじゃあ、今目の前にいるのは誰だってことでしょ?今の僕は幽霊ってところかな。魔法かもしれないけど。

僕の奏兄ちゃんに会いたいって気持ちと奏兄ちゃんの僕に会いたいって気持ちが今の身体を具現化してくれているみたい。この体になってから僕のことが見えた人は奏兄ちゃんだけだった。

始めに駅で会った時、これが最後のチャンスだと思ったんだ。僕に気が付かなければ諦めてこの世から消えようって。消えることを受け入れようって。でも、気づいてくれた。本当にありがとう。本当に嬉しかった。

途中、花火大会のときに居なくなったのはごめん。僕への気持ちがそんなにも強いって信じきれなかった僕の弱さだから。決して奏兄ちゃんのことが嫌いになったわけでもないし、他の人のところへ行ったわけでもないからね。

最後に一つ。お仕事大変だと思うけど、無理しないでね。やりたいことやってね。好きなことやってる奏兄ちゃんが大好きだから、自分で好きだと思えることをやってほしい。大丈夫だから、好きなように生きて。」

一度もこちらを向かずに話しきり、知らずに入っていた肩の力を抜く。最後の方はまとまりがないところから、きっと素直に思っていることが述べられているのだと感じた。

「納得も理解もしていないが、そういうこととして受け入れておく。幽霊って本当にいるんだな。」

見当違いもいいところな発言を彼女は静かに聞いてくれた。少し震えているのは、冬に海なんかへ足を入れたせいだろう。

「それなら、俺は一週間幽霊のお前と一緒にいた事になるのか?」

「それなんだけど、僕はずっと居たわけじゃないから、所々で奏兄ちゃんの幻想で僕を見てると思うんだ。この身体自体が思いで作られたように、潜在的に望んでいる物が見えてしまうことってあるし。」

その口ぶりは、知っていることを褒めてほしい子供のようで懐かしかった。そんな気持ちも何も、思っていることと考えていること、感じていることの全ての集合が重なる部分が見えず脳内が混沌としてくる。

「俺の、幻想?」

そう、と頷きやっとこちらを向く。少し潤んでいるその瞳の中には、見たくもない自分が写っていた。水面に揺れるそれは誰にも見せたことのない、新しくて情けない姿だった。

「だって、奏兄ちゃんがこっちに帰ってきた理由って、仕事疲れちゃったんでしょ?疲れすぎて、僕のこと欲したんじゃない?」

「軽く恥ずかしいこと言ってるぞ。お前。」

お互いに泣きそうな声で軽口をたたく。そうでもしてないと、零れそうな水滴が海へ手を引かれて連れ去られてしまうから。

「別に、奏兄ちゃんに好かれてること恥ずかしくないもん。何よりの誇りだもん。」

「何だよ、誇りって。お前、俺の事好きすぎかよ。」

好き。その言葉を口にした瞬間視界が滲んだ。年を重ねるほど言葉にするのが難しくなると、いつの日か聞いたことがある。誇りと言ってもらえる程の自分なのだろうか。そんな自分を愛してくれた彼女は。堰き止めるものが無くなったその涙は、止まることを知らない。

「大好きだよ。この世の誰よりも愛してるよ。奏兄ちゃんこそ、僕のこと好きすぎだよ。幻覚まで見るなんて。心配になっちゃうじゃん。」

「ああ、好きだよ。愛してるよ。悪かったな。」

正面から抱きしめたその少し小さな身体を離さないとばかりに強く繋ぎ止める。涙で濡れた頬に風があたり体温を持っていくはずが、その時は空気を読んだのか、触れる全てが暖かった。二文字、四文字、五文字、こんな文字数に思いを全部込めることなんて不可能だ。身体全てを使って、溶け合えるほど強く気持ちを伝えるように、抱きしめる。

「奏兄ちゃんの泣き顔やばいね。初めて見たかも。」

肩口で少し笑いながら彼女が言う。その息が首にあたりくすぐったい。自分も負けじと鼻をすすり口を開く。

「お前の泣き顔のほうがやばいけどな。これは誰も嫁にもらってくれねぇよ。」

「僕が他のところに嫁にもらわれてもいいわけ?」

思ったことを素直に口にしすぎて、一本とられてしまった。そう思ったのは恥ずかしさが顔の赤みを出したあとだった。少し落ち着き、気持ちを整え、肩から顔を離し向き合う。

「いや、俺がもらう。お前の全部。幽霊か、なんだかもうどうでもいい。こうやって触れるし、一緒にご飯も食べられる。だから、どんな状態でも良い、俺と一緒に居てほしい。」

恥ずかしくない本音などこの世にない。素直になるとは無防備を晒すということで、相手に信頼がないと起こせない行動であるだろう。いつもは揚げ足を取られたりすることまで考えて発言したりするが、今だけは全てを素直に伝えたかった。

「嬉しいな。僕はこんなにも愛されてるんだ。」

はい、ともいいえ、とも受け取れない返事をされた。でも、視線が合わず海の方の遠くを見つめていることが、正解を示していると奏太は感じた。

「でも、ごめんね。一緒には行けない。僕は消えるから。楽しい思い出作れてよかった。」

「何でだよ。別に消えないとならない理由なんてないだろ。俺はお前と居たいんだよ。」

落ち着いたはずの涙は再び頬を伝い、砂へ吸収されていった。風で乾いたそこはすでに元通りで、跡形もなかった。肩を掴む手に力が籠もり始める。

「僕だけが特別ってわけにもいかないんだよ。」

その時、彼女を呼び止めるのではなく自分が彼女と一緒に行こう、そんな思考が生まれた。浅はかなのも、後先考えていないことも、分かってる。それでも、今目の前にある彼女の姿に手を伸ばしたかった。

「でもね、僕を追ってくるなんて事許さないからね。必ず僕の分まで生きてね。」

「は、何も言ってないだろ。」

いや、わかる。奏兄ちゃんならやりかねない。と腕を組み首を縦にふる。面白くして言っているようだが、つまりは彼女の居ない世界で生きろということなのだ。今の自分から彼女という存在を抜いたらただの細胞の塊になる。生命活動を自主的に行うことの出来ない、そんな抜け殻のようになってしまう。

「俺は、お前の居ない世界なんて考えられない。」

我ながら女々しい話をしていると思う。涙を流し駄々をこねる子供のように思ったことを率直な言葉で投げる。感情のコントロールができず、制御不能になった口から言葉が溢れる。

「ごめんね。でも大丈夫、どうせ数十年後また会うんだから。」

遠すぎるだろ、と泣きながら俯くと上から彼女が抱きしめてくれた。

「大丈夫、僕はどこにも行かないしずっと奏兄ちゃんのそばにいる。」

収まることのない、心を揺らすこの悲しみをどこかに投げてしまいたかった。近くにある海に、二度と出会わないよう流してしまおうか。ふと眩しさで目を閉じると、高く上がっていた太陽の光が彼女の身体を射した。当たるのではなく、身体を通っていた。

「お前、どうして。」

はっとして顔を上げると同じくらいにひどい泣き顔の彼女と目が合う。

「あれ、どうしてかな。駅までの時間は大丈夫なはずなのに。」

何度拭っても次から次へと溢れる涙。暖かく、揺れている声。それは果たしてどちらのものなのか。その一雫に手を互いへのばす。

「もう、終わりかも知れない。最後に一緒にいるのが奏兄ちゃんで幸せだよ。それじゃあ、最後に約束してね。必ず幸せになってから会いに来ること。」

「行くなよ。俺を置いてくな。俺は、お前と、」

交錯する感情を落ち着かせられず、衝動のままに口づけをする。きっと言葉にするよりも行動で表したほうが伝わると思った。目を閉じて、彼女の感覚を全身で感じる。消えていく瞬間を見る勇気は持てなかった。抱きしめというよりは、しがみつくようにその華奢だった背中に手を回した。

腕の中から彼女の感覚が完全になくなるまで、瞳は開かなかった。腕に風が通るようになり、ゆっくりと目を開ける。その視界は水膜で閉ざされていた。太陽の光が瞳の水面で乱反射し、とても光に溢れていた。

「愛してるよ。」




家に帰ってきて、荷物を玄関に置きっぱなしにし、部屋に入る。

虚無しか感じ取れない感性をなんとか持ち直そうとした。最後に告げられた、生きてほしいという願いを叶えるためにはそうしなけばならない。でも、何をどう頑張っても見えるもの全てがモノクロだった。

「生きる。か。」

きっと、生きていると感じられたのは彼女のおかげで、生きたいと思えたのも同様だった。でも、ずっとその気持ちを持ち続けられるわけでもない。一度点いた火が、いつまでも同じ火力を保つことがないのと同じように、風が吹き、燃料が変わり、燃えるものが変わり、そうやって継ぎ足されたものによって火は存在している。

彼女は、消えかけていた火の新しい燃料になろうとしてくれた。変化をおそれ、安泰を望む自分の性格を分かった上で、彼女なりの方法で自分を生かそうとしてくれた。そう考えられるようになると、何もしないのは彼女の努力を無駄にするようで嫌だと思った。

「頑張ってみるか。」

生き返ったように自分の命が輝いているように思えた。まずは、仕事を探さなくてはならない。地元へ帰る時、退職届だけを残し去ってしまった。今更戻ることは不可能である。不安が一瞬にして手に溢れた。でも、視界は前を向いている。

「せっかくの人生だ。好きなように生きてみる、か。」

一人暮らしにしては大きな声で、はっきりと言葉にした。そうしたほうが叶いそうだと思ったからだ。

これから、今持つ熱量がいつまで持つかなんてわからない。でも、どんなことでもできる気がしていた。

「湊、ありがとう。これからも近くで見ててくれよな。」


拙い文章ですが、満足して書きました

楽しんで頂けたら幸いです

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