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「これって、大人のちゅーってやつ?」
言葉にされると急に恥ずかしくなり、体を引くとソファーから落ちた。
「そ、そうだけど。あんまり恥ずかしいから言うなよ。そういうの。」
お互いに顔が赤いのを本人は知らない。艶めいた彼女の唇を見ると、その輝きが妖艶さよりも神聖さを持っているようで美しかった。
「もうそろそろ時間だね。」
視線を上げた彼女が時計を指さした。
フロントへ鍵を返し、駅へ向かう。来た道とは違い海沿いをひたすらに歩く。
「なあ、お前都心に出てこようって思わないのか。」
「なにそれ、一緒に住もうってことでいいの?」
深い意味で言ったつもりなのは正解だ。だからといって直接的に返す必要もないだろうと行き場の失った視点が泳ぐ。
「いいね。とりあえずは今の奏兄ちゃんの家に行きたいかな。」
「俺の部屋二人ギリギリだぞ。」
一人暮らし用の部屋のため来客に対応しても数日分の広さしかない。
「でも、お前とならいいかもな。少しくらい狭くても。」
そう言って彼女の方を向くと、そこに姿はなく砂浜へ向かう足跡があるだけだった。
「奏兄ちゃん!最後にもっかい海入ろうよ。」
20m離れたところから彼女の声がする。こちらを向き、手を振りながら自分を呼んでいる。
片手にキャリーケースを持っている人にかける声ではないが、そんなことは気にせず砂浜のギリギリに荷物をすべて置き彼女の元へ走った。
「靴脱げ。」
「はーい。」
潮の届かないところへ靴を置き、靴下を入れる。冬に海へ入るなんてめったに無いことである。普通ならばだが。足の裏に感じる冷たさは、砂が水分を持つことで加速した。冷たい空気によって、より鋭くなった感覚が触れる海水の棘を感じる。拒むことなくその刺さり続けた棘を抱えて膝まで入る。
「奏兄ちゃん?」
ふと視界を上げるとそこに彼女はおらず、声の聞こえた少し斜め後ろを見る。海からはすでに足を上げていて、砂場に座っていた。
「お前、もっと早く声かけろよ。寒い。」
「ごめん、何か考えているみたいだったから。でもそろそろ寒いのかなって思って声かけた。」
膝までかかった潮が風に当たり状態変化を遂げる。熱を奪われ、風に当たる彼女に目を奪われ、もう手元には何もなかった。
「乾くまでここに座ってようよ。電車まだでしょ?」
切符の示していた時刻まであと二時間以上ある。チェックアウトの時間とうまく噛み合わせて取れなかったため、かなり時間が空いてしまっていた。彼女が指さしたところは、潮がかからない程離れていて、彼女の手によって多少均されていた。そこで体育座りをしている隣に腰を下ろし、華奢な肩に腕を回す。
「寒くないか?」
さすがに二時間以上もこのままでいるわけではないが、冬でさらには海にいるため体感温度は下がる一途である。
「大丈夫。ありがとう。」
回した腕を降ろし、手を握られる。握られた手から視線を上げると、自ずと向き合う形になり、視線が編み上がる。
「今日で最後なんだし、いろいろ話そうよ。言わなかったやつあるし。」
「そうだな。聞きたいことが沢山ある。」
どうして居なくなったのか、そもそもどうしてここにいるのか。手から流れ込む温度が、どうしても心の奥底を読ませてくれない。冷たさは感覚を麻痺させるようで、触れるもの全ての詳細を掴むことが出来ない。
「質問の前に、まずは僕が話したいこと話しても良い?」
そう言って前に向き直り、遠く彼方の空にある台本を読み始めた。台本のようだと思ったのは、話している口調があまりにも、その場で作られたものだとは思えなかったからである。前から何度も練習を重ねて、確実にこの時が来ると確信していた。その横顔からはその覚悟が伝わる。
「最初に一番大事なこと言ってなかったから言うね。
奏兄ちゃんが今週一週間一緒に居たのは僕じゃない。正確に言うと、あやふやな所あるけどね。だって僕は三年前に死んでるから。それじゃあ、今目の前にいるのは誰だってことでしょ?今の僕は幽霊ってところかな。魔法かもしれないけど。
僕の奏兄ちゃんに会いたいって気持ちと奏兄ちゃんの僕に会いたいって気持ちが今の身体を具現化してくれているみたい。この体になってから僕のことが見えた人は奏兄ちゃんだけだった。
始めに駅で会った時、これが最後のチャンスだと思ったんだ。僕に気が付かなければ諦めてこの世から消えようって。消えることを受け入れようって。でも、気づいてくれた。本当にありがとう。本当に嬉しかった。
途中、花火大会のときに居なくなったのはごめん。僕への気持ちがそんなにも強いって信じきれなかった僕の弱さだから。決して奏兄ちゃんのことが嫌いになったわけでもないし、他の人のところへ行ったわけでもないからね。
最後に一つ。お仕事大変だと思うけど、無理しないでね。やりたいことやってね。好きなことやってる奏兄ちゃんが大好きだから、自分で好きだと思えることをやってほしい。大丈夫だから、好きなように生きて。」
一度もこちらを向かずに話しきり、知らずに入っていた肩の力を抜く。最後の方はまとまりがないところから、きっと素直に思っていることが述べられているのだと感じた。
「納得も理解もしていないが、そういうこととして受け入れておく。幽霊って本当にいるんだな。」
見当違いもいいところな発言を彼女は静かに聞いてくれた。少し震えているのは、冬に海なんかへ足を入れたせいだろう。
「それなら、俺は一週間幽霊のお前と一緒にいた事になるのか?」
「それなんだけど、僕はずっと居たわけじゃないから、所々で奏兄ちゃんの幻想で僕を見てると思うんだ。この身体自体が思いで作られたように、潜在的に望んでいる物が見えてしまうことってあるし。」
その口ぶりは、知っていることを褒めてほしい子供のようで懐かしかった。そんな気持ちも何も、思っていることと考えていること、感じていることの全ての集合が重なる部分が見えず脳内が混沌としてくる。
「俺の、幻想?」
そう、と頷きやっとこちらを向く。少し潤んでいるその瞳の中には、見たくもない自分が写っていた。水面に揺れるそれは誰にも見せたことのない、新しくて情けない姿だった。
「だって、奏兄ちゃんがこっちに帰ってきた理由って、仕事疲れちゃったんでしょ?疲れすぎて、僕のこと欲したんじゃない?」
「軽く恥ずかしいこと言ってるぞ。お前。」
お互いに泣きそうな声で軽口をたたく。そうでもしてないと、零れそうな水滴が海へ手を引かれて連れ去られてしまうから。
「別に、奏兄ちゃんに好かれてること恥ずかしくないもん。何よりの誇りだもん。」
「何だよ、誇りって。お前、俺の事好きすぎかよ。」
好き。その言葉を口にした瞬間視界が滲んだ。年を重ねるほど言葉にするのが難しくなると、いつの日か聞いたことがある。誇りと言ってもらえる程の自分なのだろうか。そんな自分を愛してくれた彼女は。堰き止めるものが無くなったその涙は、止まることを知らない。
「大好きだよ。この世の誰よりも愛してるよ。奏兄ちゃんこそ、僕のこと好きすぎだよ。幻覚まで見るなんて。心配になっちゃうじゃん。」
「ああ、好きだよ。愛してるよ。悪かったな。」
正面から抱きしめたその少し小さな身体を離さないとばかりに強く繋ぎ止める。涙で濡れた頬に風があたり体温を持っていくはずが、その時は空気を読んだのか、触れる全てが暖かった。二文字、四文字、五文字、こんな文字数に思いを全部込めることなんて不可能だ。身体全てを使って、溶け合えるほど強く気持ちを伝えるように、抱きしめる。
「奏兄ちゃんの泣き顔やばいね。初めて見たかも。」
肩口で少し笑いながら彼女が言う。その息が首にあたりくすぐったい。自分も負けじと鼻をすすり口を開く。
「お前の泣き顔のほうがやばいけどな。これは誰も嫁にもらってくれねぇよ。」
「僕が他のところに嫁にもらわれてもいいわけ?」
思ったことを素直に口にしすぎて、一本とられてしまった。そう思ったのは恥ずかしさが顔の赤みを出したあとだった。少し落ち着き、気持ちを整え、肩から顔を離し向き合う。
「いや、俺がもらう。お前の全部。幽霊か、なんだかもうどうでもいい。こうやって触れるし、一緒にご飯も食べられる。だから、どんな状態でも良い、俺と一緒に居てほしい。」
恥ずかしくない本音などこの世にない。素直になるとは無防備を晒すということで、相手に信頼がないと起こせない行動であるだろう。いつもは揚げ足を取られたりすることまで考えて発言したりするが、今だけは全てを素直に伝えたかった。
「嬉しいな。僕はこんなにも愛されてるんだ。」
はい、ともいいえ、とも受け取れない返事をされた。でも、視線が合わず海の方の遠くを見つめていることが、正解を示していると奏太は感じた。
「でも、ごめんね。一緒には行けない。僕は消えるから。楽しい思い出作れてよかった。」
「何でだよ。別に消えないとならない理由なんてないだろ。俺はお前と居たいんだよ。」
落ち着いたはずの涙は再び頬を伝い、砂へ吸収されていった。風で乾いたそこはすでに元通りで、跡形もなかった。肩を掴む手に力が籠もり始める。
「僕だけが特別ってわけにもいかないんだよ。」
その時、彼女を呼び止めるのではなく自分が彼女と一緒に行こう、そんな思考が生まれた。浅はかなのも、後先考えていないことも、分かってる。それでも、今目の前にある彼女の姿に手を伸ばしたかった。
「でもね、僕を追ってくるなんて事許さないからね。必ず僕の分まで生きてね。」
「は、何も言ってないだろ。」
いや、わかる。奏兄ちゃんならやりかねない。と腕を組み首を縦にふる。面白くして言っているようだが、つまりは彼女の居ない世界で生きろということなのだ。今の自分から彼女という存在を抜いたらただの細胞の塊になる。生命活動を自主的に行うことの出来ない、そんな抜け殻のようになってしまう。




