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『シェルパ・ティーには遅過ぎる』

“お一人様篇”シーズン1#8


とある街、とあるBAR。

とある、罪と罰について。


登場人物

■シイナ

店員。言葉を弄してしまう女。

■サチカ

女性客。罪に(うず)もる女。



-黎和3年11月某日−

―【注意】

―「声無き誰かの声」は、今や永久に、この世に響く音を喪った人々の声です。

―故に、声に出してはいけません。




―【以下、本編】

シイナ:或る、心象のうた。


サチカ:ますぐなるもの地面に生え、

サチカ:するどき青きもの地面に生え、

サチカ:凍れる冬をつらぬきて、

サチカ:そのみどり()光る朝の空路(あきじ)に、

サチカ:なみだたれ、

サチカ:なみだをたれ、

サチカ:いまはや懺悔(ざんげ)おわれる肩の上より、

サチカ:けぶれる竹の根はひろごり、

サチカ:するどき青きもの地面に生え。


声無き誰かの声:「わたしはあなたをゆるします。」


サチカ:光る地面に竹が生え、

サチカ:青竹が生え、

サチカ:地下には竹の根が生え、

サチカ:根がしだいにほそらみ、

サチカ:根の先より繊毛(せんもう)が生え、

サチカ:かすかにけぶる繊毛が生え、

サチカ:かすかにふるえ。

サチカ:かたき地面に竹が生え、

サチカ:地上にするどく竹が生え、

サチカ:まっしぐらに竹が生え、

サチカ:凍れる節節(ふしぶし)りんりんと、

サチカ:青空のもとに竹が生え、

サチカ:竹、竹、竹が生え。


声無き誰かの声:「祈(いの)らば祈(いの)らば空に生え、

声無き誰かの声:罪びとの肩に竹が生え。」


サチカ:みよすべての罪はしるされたり、

サチカ:されどすべては我にあらざりき、

サチカ:まことにわれに現われしは、

サチカ:かげなき青き炎の幻影のみ、

サチカ:雪の上に消えさる哀傷(あいしょう)の幽霊のみ、

サチカ:ああ かかる日のせつなる懺悔をも何かせん、

サチカ:すべては青きほのおの幻影のみ。


―タイトルコール。

シイナ:『シェルパ・ティーには遅過ぎる』


―某月某日、某時刻。とあるバーの店内。

―開店よりやや経ち、店内には女性店員が1人。伸びをし、カウンター内の木椅子に腰掛けようとした所、ドアベルの冷えた音。

―外気が吹き込み、女性客が入店。


シイナ:いらっしゃァーい、どうぞォ、


サチカ:……、こんばんは……。


シイナ:(視認するや否や、立ち上がり)

シイナ:っ!!

シイナ:……あ、あっ……、

シイナ:サっちゃん先輩っ!!


―店員の眼には驚愕の色。


サチカ:良かった……、

サチカ:シイちゃんの日、変わってなくて。


シイナ:うっわ……、お久しぶり!


サチカ:ちょうど1年ほど、かな。

サチカ:本当に長く、来られなくて……。

サチカ:他の、皆さんはお元気?


シイナ:いやァーーっ、いやっ、

シイナ:……、だって、

シイナ:……だって大変、だったでしょ。

シイナ:あんな……、


サチカ:うん、うん……、

サチカ:そうなの、本当に。


シイナ:他の二人も……、まァ、普通に元気で。

シイナ:マジで心配、してた。そりゃ。


サチカ:うん……。

サチカ:本当に、ご心配おかけしてしまってどうも、


シイナ:(遮り)謝っちゃ駄目だよ、今回ばっかりは。

シイナ:口癖なのは知ってるけどさ。


サチカ:…………、

サチカ:そう、ね、


シイナ:良かった。本当に。


―店員の目は、珍しく真摯な光を湛えている。


シイナ:ハグ、していいかな。嫌で無ければ。


サチカ:……嫌な訳、無いわ。

サチカ:そう、よね……、まずは無事の、ご報告だもんね。


シイナ:(カウンターを出つつ)

シイナ:そうだよ。

シイナ:……、体は……、

シイナ:怪我の、具合は、


サチカ:もう、大丈夫。

サチカ:ふ、フ。抱いても折れたりしないから。


―二人、向き合い、


シイナ:色々……、そりゃ色々、あっただろうし、言われた、だろうけど。


―抱き合う。女性客の身に、店員の手の温もり。


シイナ:ありがとう。生きててくれて。


サチカ:…………、

サチカ:うん、うん。


シイナ:柄にもなく、さ……、

シイナ:神サマに感謝したんだから。


サチカ:……、君が?

サチカ:天地が……、ひっくり返るわね。


シイナ:大切な先輩を、この世から奪わないでくれて、って。

シイナ:……本当に、良かった……。


―抱きしめる手に力が籠もる。


サチカ:……ふフ。痛いよ、シイちゃん。


シイナ:あ……、すみません。


―店員は抱く腕の力を緩め。


サチカ:いつもは掴み所がないのに。

サチカ:こういう時だけ、躊躇わずまっすぐ来るんだから。

サチカ:そのギャップで可愛い後輩を何人も、泣かせて来たんだもんね?


シイナ:あは、今その話ィ?


―語調をあらため、


シイナ:……先輩が……、

シイナ:恩義ある、先輩が。

シイナ:教科書に乗るような、未曾有(みぞう)の大事故からたった1人、生還したのを前にして……、さ。

シイナ:こうでも来なきゃソイツは、ただの冷血漢だよ。


サチカ:……、

サチカ:たった、1人……、


―女性客の、品良くデザインされた眼鏡の奥に、吹雪の如き気色。


シイナ:センセーショナルに捉えてる訳じゃないから、決して。

シイナ:大袈裟なのは、劇部時代の癖で、


サチカ:うん……、うん。

サチカ:わかってる。兎に角、座るわね。


シイナ:ああ、失礼……。どうぞ。


―店員は恭しく席を指し、促す。

―ドアの向こう、高架下を吹き抜ける風の音は乾いている。

―女性客は席に着きつつ、大ぶりなマフラーを解き。


シイナ:さ、その、素敵なマフラーは、


サチカ:これ、ね……。大きくて長くて、お気に入りなの。


シイナ:シックで良い。そこの台にでも置いてね。

シイナ:そしてコート掛けはこちら。はァい。


サチカ:ありがとう……。


―店員は慣れた手付きで、生地の厚いネイビーブルーのコートを受け取り、骨董調のコートハンガーへと、滑らかに吊るす。


サチカ:ふふ、フ。

サチカ:キビキビして堂に()った給仕(ギャルソン)っぷり。惚れ惚れするわね。


シイナ:でっしょォー? コッチの方が向いてるんだって、絶対。


サチカ:王子様扱いより?


シイナ:あっは、お笑い。


―店員はカウンター内に戻り、客の前にコースターを出す。かちゃり、とブリキの小気味よい音。


シイナ:狂ってるよねェ、女子校ってホント。

シイナ:ちょっとタッパがあるだけでさァ、


サチカ:ロマンじゃない? 何よりも。一度は憧れるもの。


シイナ:(てい)良く役に嵌められちゃった3年間でしたよ。ソレだって苦手じゃ無いけども。


サチカ:ふフ……。


シイナ:さてもさても……、

シイナ:積もる話の前に、まず何か、


サチカ:ええと、お酒の前に……、

サチカ:ちょっと、お白湯(さゆ)を1杯、


シイナ:あは、勿論。


サチカ:良いかしら……? お腹と喉を温めたくて。


シイナ:かっしこまりました。待ってね。


―店員は棚から、マグカップを見繕う。


サチカ:ごめんね? 他にお客さんが来たら、注文を……、


シイナ:お気になさらずー。


―ポットを前に作業しつつ。


シイナ:ふっふ……、懐かしいや。文芸部の部室が。


サチカ:私の不良行為、ね。

サチカ:舶来品のティーカップで……、


シイナ:アンティークの、リアルオールドウィローでさ。

シイナ:静々(しずしず)とお茶を飲んでる綺麗な先輩がいるなァ、と思って、

シイナ:「茶葉は何です?」って話しかけたら、


サチカ:「これ、お湯なの」ってね。

サチカ:ふフ、覚えてるわ。


シイナ:楽で面白い人だ、って直感したよね。

シイナ:以降3年……、


サチカ:見事に、入り浸られちゃったわね。

サチカ:サボタージュ常習犯の君を連れ戻しに、よくトシコちゃんが……、


シイナ:乗り込んで来たっけねェ。

シイナ:私の減らず口によく耐えたモンだよ、アイツも。

シイナ:「読書中は静かに、トシコくん」、なんて。あっはは。


サチカ:ふふフ。

サチカ:でも偶に……、一服して、お菓子まで食べて帰っていったわよね。2人揃って。


シイナ:あの部室の居心地の良さは普通じゃなかったからねェ。

シイナ:トシコも何だかんだ、2年に上がる頃には専用のカップまで決まってたし。


サチカ:名字が「(オオトリ)」だから。鳳凰(ほうおう)柄のカップ。

サチカ:あれは確か……、


シイナ:有田焼きだったよね。香蘭(こうらん)だったかな。


サチカ:懐かしいわ……。

サチカ:あのカップ達は今の部室にも、受け継がれているのかしらね。


シイナ:ドジな()が割っちゃってなければ、ね。

シイナ:そうそう……、姫の、妹ちゃんも今、文芸部なんだってさ。


サチカ:まあ、ケイジュの?

サチカ:妹さん……、ケイカちゃんね、確か。


シイナ:だったと思う。2年かな、今。


サチカ:私達の……、思い出のお部屋も。

サチカ:今は、誰かの青春の現場なのね。何だか不思議な気分。


シイナ:我々もまた、今を生きなければ、というところで。


サチカ:……、

サチカ:……ね。


―店員はフと笑み、耐熱グラスに満たされた、適温の白湯を供する。


シイナ:ハイ、当店でお出し出来るいっぱいいっぱいの、最高級のお湯でございまァす、と。


サチカ:ふふ、フ。大切に頂かなきゃ。

サチカ:ありがとう。


―す、と含み、ほ、と息を吐く。


サチカ:……うん。熱すぎず微温(ぬる)すぎず。

サチカ:いい塩梅(あんばい)


シイナ:あは、やった。

シイナ:数年ぶりに聞けた。


サチカ:え?


シイナ:「イイ塩梅」。


サチカ:ああ……。ふフ。

サチカ:元々は、祖母の口癖だったんだけど。


シイナ:煎茶の要領でね。和洋ともに、たっぷり手管を仕込んで頂きましたので。


サチカ:文芸部の伝統。

サチカ:……ふフ。君は演劇部だけど、ね。


シイナ:ええ、ええ。

シイナ:副部長にしてサボり魔の、不良部員でしたとも。

シイナ:いや懐かしき……、遠く帰らぬ学び舎の日々、と。

シイナ:…………、

シイナ:にしても、


―閑話休題。店員は些か、慎重に。


サチカ:……、うん。


シイナ:本当に。お久しぶり。

シイナ:……もうじき1年になるのかな。

シイナ:あの、事故から。


サチカ:……ええ。

サチカ:今日は……、ね、

サチカ:久々に、寄せて、もらったのは……、


―女性客の顔色は、心無しか青い。


声無き誰かの声:「話すの……?」


サチカ:……っ、


声無き誰かの声:「話して、楽になりたいの?」


サチカ:……、……、


―女性客の目の奥に、揺らぎ。

―様子を窺う店員の語調は、(おもむ)ろ。


シイナ:今日は……、

シイナ:ずっと、他のお客が来るまで、

シイナ:……何なら、スタッフ急病に付き、看板を消しても良いし。

シイナ:昔の……、他愛の無い思い出や、軽薄に楽しめる事を話して、夜を明かしませんか。


サチカ:…………、


シイナ:ご所望とあらば、ずっとあなたを膝に抱いて、その黒い髪を撫でて差し上げたって良い。


サチカ:…………。

サチカ:いつかの夜に。

サチカ:私が君に、してあげたように?


シイナ:そうです。


サチカ:…………。


―絡んだ視線は、しかし外され。


サチカ:前は……、言いそびれて、いたんだけど。

サチカ:今の髪型、とっても似合っているわ。


シイナ:……、どうも。

シイナ:卒業のタイミングでバッサリ行った時は、


サチカ:(さぞ)かしショックがられたでしょうね。

サチカ:君の長くて豊かな髪は、本当に魅力的だったから。


シイナ:引っ詰めにして(かつら)を被って、騎士サマだの子爵サマだのを演じる必要もなくなった矢先に、ね。

シイナ:ま、少し……、思う所、ありまして。


サチカ:楽に、なった?


シイナ:腰までのロングに比べれば、ね。

シイナ:シャンプーやら何やら、半分以下の減りだし。


サチカ:ふふ、フ。

サチカ:君らしい。


―女性客は、湯気立つカップを傾ける。


サチカ:…………、ありがとう。

サチカ:でも、私……、


―ぼう、と。眼鏡の奥の瞳に、虚ろな光の灯され。


サチカ:話す、わ。

サチカ:聞いて、ほしくて。

サチカ:それで、今日……。


シイナ:……勿論、ご随意のままに。

シイナ:ただし自分のペースで、ね。


サチカ:うん、うん……。

サチカ:…………。


―呼吸を整え。

―眼を閉じ、そして開き、


サチカ:……先に、報道が、あったのよね。


シイナ:そう、だね。

シイナ:忘れもしない。12月、21日。


サチカ:あの子たちの…………、

サチカ:時間が、途切れた日。


―永劫、未来を得る事の出来ぬ彼らの話を、女性客は始める。


サチカ:とても、空気の澄んだ日だったわ。


シイナ:ニュースをね、見てたんです。丁度。

シイナ:ここの出勤の前で……、


サチカ:午後1時、37分。

サチカ:…………。

サチカ:……この、いま着けている、腕時計、


シイナ:……、時計、


サチカ:その時間でね、止まっているの。


シイナ:……、

シイナ:それは、


サチカ:借りてた、の。私が引率の、班の子に。


シイナ:……、……、


サチカ:雪崩(なだれ)という物について。

サチカ:通り一遍の知識しか持ち合わせていなかった。

サチカ:新任の、1年目で……、

サチカ:スキー合宿の引率なんて、ね。

サチカ:緊張していたし、一通り、調べはしていたけれど……、


シイナ:雪山に、ついて。

シイナ:……長野、だよね。


サチカ:うん。

サチカ:……私達のバスが行き帰りする筈だった、「降馬岳(おろばたけ)」は……、

サチカ:明治期以降、目立った雪害や、道路への深刻な雪崩事故の記録も、無くて。

サチカ:勿論、条件として好適で、安全だとされて来たからこそ……、


シイナ:(言葉を継ぎ)

シイナ:スキー場が(ひら)かれて、学校行事の合宿地にも、選ばれて来た訳だもんね。

シイナ:……でも、


サチカ:うん。


シイナ:例えば……、

シイナ:空から飛行機が落ちて来るのを懸念して、頑なに家から出るのを拒むヤツが居たら。

シイナ:あるいは頬をはたいて、引っ張り出すかもしれない。

シイナ:それが……、決してこの世の誰にも、否定し切れやしない(おそれ)だという事実には、目を瞑って。


サチカ:そして航空機墜落の現場に居合わせるよりは、ずっと、確率の高い出来事だものね。

サチカ:何せ……、私たちを圧し潰した、


声無き誰かの声:(遮り)「俺たちを、だろ。」


サチカ:(小声で)

サチカ:……そうね。

サチカ:(声量戻り)いいえ。

サチカ:あの子たちを。私以外の皆を押し潰して、凍えさせた雪と、土砂は。

サチカ:いつだって私たちのすぐ側に、あったのだから。


シイナ:…………。

シイナ:バスは……、4台で、全部?


サチカ:うん。

サチカ:有志の生徒だけと言っても、2年生の、殆ど全員。

サチカ:…………世界が震える音を、聞いたと思った。


シイナ:……、世界が。


サチカ:去年は、折からの暖冬で……、

サチカ:昼夜の寒暖差が、激しかった、わね。


シイナ:今年も大概だけど……、そうだね。

シイナ:昼間は暖かい日が、多かったね。


サチカ:バスが進む予定のルートに……、

サチカ:と言っても、一本身なんだけど。

サチカ:規模の小さい雪崩、というか、雪の塊が崩落する事故があって。


シイナ:午前中に、だよね。


サチカ:そう。お昼前に、ね。

サチカ:それで……、あの日は出発後に、どんどん気温が上がって。

サチカ:運転手さんと、学年主任の先生と、コーディネーターの人たちで連絡を取り合って、協議して……、


シイナ:引き返した。


サチカ:うん。万一という事を考えて、大事を取って。

サチカ:合宿所までというより、ある程度安全な、スペースのある地点まで取り敢えず、という判断で。

サチカ:誰も……、それに異論を挟む人は居なかった。


シイナ:その時点に於いては、妥当で賢明な、それ以上しようの無い判断だものね。杞憂に終われば越したこと無い、と。


サチカ:杞憂、ね。

サチカ:…………。

サチカ:古代中国の、「()」の国の人々は、


シイナ:き? あ、由来か、「杞憂」の。


サチカ:あるとき突然に天地が崩れ去るのを恐れて、日々を怯えて暮らしたというけれど。

サチカ:……世界が、震えて。本当に、天地が逆向(さかむ)くかと思う程の、轟音。

サチカ:何の、前触れも無く……、


声無き誰かの声:「先生が止めてくれたら良かったのに。」


サチカ:…………。

サチカ:たくさんの。

サチカ:余りにも沢山の雪と、土砂が……、

サチカ:私たちの乗ったバスを、押し流して、()し潰して。


シイナ:……、……、


サチカ:本当に一瞬の出来事だった。

サチカ:ガードレールは……、津波のような雪と土砂の重さを支えるには脆すぎて。

サチカ:バスは玩具(おもちゃ)みたいに崖の斜面を転げ落ちて、谷底まで真っ逆さま。


シイナ:…………、


サチカ:雪崩に引きずられる形で……、

サチカ:連鎖的に起こる地滑り。

サチカ:近年は気候変動に伴って、全国的に、よく見られるようになって来た現象なのだそう、だけど。


シイナ:「土砂雪崩(どしゃなだれ)」、とかとも言うヤツだよね。

シイナ:…………だけど、まさか。

シイナ:まさか、そんな事が、(おの)が身に起ころうとは、


サチカ:「青天の霹靂(へきれき)」、って。

サチカ:……よく言うけれど、渦中にあっては何が起こったのかもわからない。


シイナ:……そりゃあ、


サチカ:音と、震えと。

サチカ:……すぐ後に襲った、何十トンもあるバスを、まるでお菓子の空き箱を振り回すようになぶる、衝撃。

サチカ:窓ガラスが砕けて、すぐ前に座っていた子の頭が、壁に、叩き付けられて、


シイナ:……っ、うわ、


サチカ:本当に、なぜ自分だけ……、足を折る程度で済んだのか、皆目わからない。

サチカ:息を飲む間に景色が、白く、塗り潰されて……、

サチカ:気が付けば、……、


―女性客はフ、と震えた息を吐く。


シイナ:大丈夫?

シイナ:お湯を。さあ。


サチカ:うん……、


―熱の引いた白湯のカップを一口、含む。


サチカ:(細く息を吐く)


シイナ:……大丈夫、とは愚問だったな。


サチカ:いいえ……。

サチカ:平気、とは正直言えないんだけど。

サチカ:でも……、


―目を伏せる。


サチカ:もう、冬が、そこまで来ている、から。


シイナ:冬……、が。


―静寂。女性客の声は微かに震えている。


サチカ:あの、冬が。

サチカ:あの子たちの魂を、永久に閉じ込めてしまった、冬が。


シイナ:…………、サっちゃん先輩、


サチカ:ただ1人、残されてしまった私が……、

サチカ:手向けに出来る言葉なんて。

サチカ:本当は、ありはしないと、思うけれど。


シイナ:……、……、


サチカ:私、誰にも、話していないの。

サチカ:あの時の事を。


シイナ:誰にも? ……それは、


サチカ:勿論、警察や、他の……、

サチカ:当事者としての説明や証言が必要な所では。

サチカ:質問に、お答えはしたけれど。


シイナ:ご家族……、あ、自分のね。

シイナ:とか、友達、とかには、って事かな。


サチカ:……、うん。そう、ね。

サチカ:皆、みんな、本当に。

サチカ:真心を持って、細かな心配りをしてくれたし……、

サチカ:またそうしてくれるだろうと、思える人たちばかり。

サチカ:人にも出会いにも、恵まれていると思う。

サチカ:本当に。


シイナ:そう……、だね。

シイナ:多くの人が、あなたに対しては……、何というか、

シイナ:心尽くしの晴れた顔でなければ、向き合ってはいけない気がするから、だろうね。


サチカ:君も、そんな風に思ってたの?


シイナ:柄でもナイかなァ?

シイナ:私なりに精一杯、襟を正していたつもりなんでござーますけれども。


サチカ:ふふ、フ。それは、それは。

サチカ:……でも、ね……。

サチカ:それというのは言い方を変えれば、


シイナ:「気を遣わせる性分」?


サチカ:……、……。

サチカ:そのように……、私は自覚しているのだけれど。

サチカ:……申し訳なく、なるのね。

サチカ:昔から。思う通りの、暖かい言葉が返って来る度に。

サチカ:コントローラブルな環境に安らぎを覚える癖に、勝手に卑屈になって。

サチカ:気を遣わせる事に、気を遣って……。

サチカ:馬鹿みたい。我が事ながら。


シイナ:「気にしなくても、辛いのはあなたなんだから」、って、

シイナ:他人に言われたってしょうがないヤツだもんね、ソレ。


サチカ:……、うん。そう。

サチカ:だから、ね、心配をしてもらうより……、

サチカ:心配をしている、振りを……、

サチカ:自分が出来ている時の、方が。

サチカ:ずっと楽なの。

サチカ:傲慢、よね。


―笑みに混じるものは、自嘲かのように思え。


シイナ:……、

シイナ:それを……、

シイナ:そのように理解して、ひとに語る事が出来るという所が。

シイナ:あなたの賢さと、誠実さを証明しているのだなァ、と。

シイナ:ずっとお慕い申し上げている身としましては、

シイナ:感じ入るところですけれど、ネ。


サチカ:ふふ、フ……。

サチカ:何割くらい冗談なのかしら。


シイナ:とーんでもない。

シイナ:(道化けた声を作り)あたしゃコレでも、洒落だけは言わんのが信条でしてねェー、マダム?


サチカ:あは、ハ……。

サチカ:それこそ冗談。


シイナ:ふっふふ。


サチカ:…………。

サチカ:ありがとう。

サチカ:甘えているわね、私。

サチカ:ここぞとばかりに。


シイナ:なーんの。

シイナ:ソレがお仕事ですので。ご存分に。


―ふ、と、笑み混じりに息を吐き。


シイナ:さて……、喉が温まって来たなら、何かお作りしましょうか。


サチカ:そう、ね……、うん。

サチカ:では、何か……、引き続き、温かい物を。


シイナ:ふっふ。きっとそうだろうと思って……、

シイナ:というか、顔を見た時から、お作りしたいと思っていた物があるので、ではソレを。


サチカ:あら……、本当に?


シイナ:バーテンとしちゃ、褒められた姿勢じゃナイんだけども。店員のエゴほどお寒いモノは無い、ってね。

シイナ:でも季節にも、ご要望にもフィットしているし……、

シイナ:後はですねェ、


―す、と背筋を伸ばし、


シイナ:紅茶のカクテルでありますからして……、


―洒脱に微笑む。


シイナ:緊張しちゃうなァ、ってぐらい。


サチカ:あら……、ふ、フ。

サチカ:私はお茶の先生でも何でも無いのよ。

サチカ:ただ部室で、簡単な淹れ方をレクチャーしただけ。


シイナ:部外の私にも別け隔て無く、ね。

シイナ:なので師匠同然。


サチカ:あら。


シイナ:では少々、お待ちを。


―店員は作業に掛かる。

―心地悪くない、暫しの無言。


サチカ:(店内を見渡しつつ)

サチカ:照明の風合いが……、少し、変わったかしら。


シイナ:(手を動かしつつ)

シイナ:そうね……、ライトの灯体の色をね。

シイナ:この、こういう、黄味がかったっていうか、レトロチックなヤツに変えたから。

シイナ:前にも増して薄暗いんだけど。


サチカ:私は好きだわ。ランプの灯りのようで。


シイナ:ベタだよね、BARとしちゃ。

シイナ:さァてさて、まずはココで……、


―カウンター内、足元の戸棚より、保存瓶。


シイナ:取り出しましたるは本日の目玉。

シイナ:「干し葡萄」でござい、っと。


サチカ:あら……、もしかして、


シイナ:あは、コレ出て来たらバレバレだよネ。

シイナ:まあ何の奇を(てら)うでもなく……、


―次いで耐熱ガラス製の、妙味あるポットを取り出し、


シイナ:『シェルパ・ティー』をね。

シイナ:(きょう)させて頂こうと思いまして。


サチカ:ふふフ。

サチカ:エベレストの、ね?


シイナ:そーそー。ヒマラヤの案内人、山岳民族「シェルパ」伝来。


サチカ:登山中の疲れを取る為に、飲まれていたと……、


シイナ:伝わっている、という。

シイナ:本場のはヤマブドウだそうだけど。


―ポットに葡萄を沈め、バースプーンで潰し始める。


シイナ:勿論、なんちゃってではありますが……、


―眼差しには仄か、熱が籠もり。


シイナ:冬の山で身も心も疲れ切ったあなたを。

シイナ:少しでも癒す事が叶えば、と。

シイナ:及ばずながら。


サチカ:……、…………、


声無き誰かの声:「私らを置いて行った癖に。」

声無き誰かの声:「独りだけ暖まるつもりなんだぁ」


サチカ:…………、

サチカ:ありが、とう。


―女性客は密か伏し目がち、店員の手捌きを見詰める。

―濃い色の果肉がバースプーンの背に圧され()ぜ、(ほぐ)れる。


シイナ:よっ、し。

シイナ:葡萄を程よく潰したら、ここらで茶葉のご登場……。

シイナ:あ、そこらの、普通ゥーの葉っぱでご勘弁を。


―缶を開け、匙で葉を掬う。


サチカ:紅茶の葉に貴賤は無いわ。

サチカ:……ニルギリね。


シイナ:ええ、鉄板のね。ポットにサラサラー……、と。

シイナ:よしでは、お湯を……、


―湯気を上げる錫調の電気ケトルを取り、構える。


シイナ:空気を含ませるように、高い位置から。

シイナ:さって、お立ち会い。


サチカ:ふふフ。逐一実況が入る訳ね。


シイナ:手順を確認しないと、ね。

シイナ:では……、

シイナ:はっ。よっ、はっ。


―滑らかにケトルを傾け、のち、高く上げる。

―過たず、適温適量の湯はポットへと。


サチカ:画になること。お金を取れそう。


シイナ:ひひ、副業しようかなァー。

シイナ:……よォし……、よし。OK。

シイナ:注いだら暫し、蒸らしタァイム。


―ポットにカチャ、と蓋を被せ。


シイナ:あっはァ、緊張したァー。


サチカ:ふフ、どうして?


シイナ:今はねー、紅茶をまともに淹れる事、あんまり無いし。

シイナ:久々ですよ久々。


サチカ:相変わらず堂々たる手際。

サチカ:よく……、文芸部一同全員分、振る舞ってくれたわね。


シイナ:今思えば恥ずかしいノリだわァ。役者のハッタリ、ハッタリ。


サチカ:気分って大切だもの。


シイナ:あは。

シイナ:っと。芝居はもう辞めたんだった。

シイナ:どうも、学生時代に戻っていけない……。


サチカ:もう……、完全に、演劇には興味を失ってしまったの?


シイナ:……、


―刹那の沈黙。店員はなんとも言えぬ面持ち。


シイナ:……んん……、

シイナ:ま、という程でも、無いんだけど……、

シイナ:あっ、と。

シイナ:蒸らしてる間にィ、


サチカ:あら。(そら)されてしまった。


シイナ:いえ、いえ。

シイナ:カップにお砂糖を、少々、っと。


―滑らかに手は動き続け。


シイナ:それから……、


―背後の棚より淡い配色のボトルを取り出す。


シイナ:コレコレ。

シイナ:今日は口当たりを考えてロゼにしよう。


サチカ:ワインを少し、沈めるのよね。

サチカ:その状態の物を飲むのは初めて。


シイナ:と言っても香り付け程度だけど。

シイナ:寒い日は暖まるんだ、コレが……。


―言い、カップへと薄紅色の酒を垂らし。


シイナ:よし……、と。

シイナ:程なくして……、


サチカ:ええ。頃合いね。


シイナ:良い具合に、葉が開いただろう所で……、

シイナ:よ、っと。


―ポットを軽く揺らし、静かに持ち上げ、カップへと注ぐ。

―茶葉と果実、葡萄酒のふくよかな香りが立ち。


サチカ:……良い香り……。


シイナ:ね。はてさて……、味の方の塩梅は、どうかなァ。


―す、と注ぎ終え。静かにポットを降ろす。


シイナ:後は軽ゥく混ぜまして。

シイナ:最後に少し……、


―褐色透明の保存瓶より新たに干し葡萄を取出し。


シイナ:追い葡萄、っと。4粒ほど、ね。


サチカ:あら……、贅沢。素敵ね。

サチカ:ふふフ、フ。


シイナ:はァい完成。

シイナ:お待たせ致しましたっ、


―恭しく供する。カップ&ソーサー。


シイナ:ヒマラヤ式、『シェルパ・ティー』。

シイナ:どうぞ、ご賞味あれ。


サチカ:ああ……。ありがとう。

サチカ:頂きます……。


―丁寧にカップを浮かし。品良く一口、含む。


サチカ:美味しい……。

サチカ:味と香りが、体に染み透るような……、


シイナ:良かった。

シイナ:ではその……、

シイナ:「アレ」を、賜りたいなァ。


サチカ:ふふフ……。

サチカ:「良い、塩梅」。


シイナ:よォっし!

シイナ:コレで、年を越せそうだ、と。

シイナ:あっはははっ。


サチカ:うふふ、フ。


―交わされる笑みは上等の磁器の如く滑らかであった。

―もう一口、味わいつつ含み。女性客はカップを置く。


サチカ:本当に……、美味しい飲み方。

サチカ:山の民が疲れを癒やしたのも肯けるわ。


シイナ:……、……ね。


サチカ:あの子たちにも。

サチカ:飲ませてあげたかった。


シイナ:…………、


―思案。


シイナ:ただし……、ノンアルコールにはなる、けどね? 当店と致しましては。


サチカ:……、ふ、ふふフ。


声無き誰かの声:「黙れよ。偽善者。」


サチカ:……っ。

サチカ:ごめんなさい。


シイナ:……、先輩?


サチカ:意味の無い嘘をついてしまった。


シイナ:……、嘘。


サチカ:本当はそんな事、思っていないの。

サチカ:生きて、帰ってからも、

サチカ:そんな事、一度も……、


シイナ:サっちゃん先輩。

シイナ:今日はもう、やっぱり、


サチカ:(遮り)いいえ。

サチカ:話させて。聞いて、ほしい。

サチカ:冬が来る前に、せめて。

サチカ:他の方が来られたら、やめる、から……。


シイナ:…………、……、

シイナ:先、輩、


サチカ:最初、ね……、

サチカ:竹が生えているんだと、思ったの。


シイナ:……、たけ……?


サチカ:谷底の……、川に沿って長い距離が、竹林(ちくりん)になっているのを、見ていたから。

サチカ:バスが落ちて……、私は暫く、気を失っていたんだと思う。

サチカ:意識が、戻って……、

サチカ:眼を開けても、真っ暗の世界。

サチカ:本当に、死んだと思ったの、一度。


シイナ:……、


サチカ:でも体の感触があるから……、

サチカ:どうにか手探りで、リュックに吊っていたライトを点けて。

サチカ:でも眼鏡が何処かへ、行ってしまっていて、すぐには状態が、判らなかった。

サチカ:私……、視力が本当に、悪くなってしまっていて、


シイナ:乱読家の宿命として、ね。

シイナ:高校の頃よりも……、


サチカ:輪をかけて、近視が進んでしまったの。

サチカ:殆どぼやけて、輪郭を追えないんだけど。

サチカ:バスが、横倒しになっているのは、体の感覚でわかった。

サチカ:シートベルトを外しても……、ひしゃげた壁と天井が迫っていて、大きく身動きは取れない。


シイナ:本当に……、奇跡的に潰されず残った隙間に、嵌まり込んでいた、って、


サチカ:うん……。報道でもそのように、


シイナ:言ってた、ね。


サチカ:……、潰れて、歪んだ壁の裂け目や、割れた窓から……、雪と土砂が車内の殆どを埋めて。

サチカ:その白い絨毯から……、細くて、長い物が所々に生えている、ように見えて。

サチカ:私は……、


シイナ:……、……、


サチカ:硬い竹の集まった所へ落ちて、バスが貫かれて、しまったのかと思った。

サチカ:竹の先端が壁を突き破って、あちこちに飛び出しているのかって。

サチカ:でも流石に……、そんな訳は無いと、思った辺りで、


シイナ:う、ん……、


サチカ:折れた右足のももの痛みが、戻って来た。

サチカ:それと左の肩を……、強く打っていたみたいで。

サチカ:砕けた、刺すような痛みと、滲み出すみたいな鈍い痛みの中で……、

サチカ:私、しばらく、悶えていた。


シイナ:…………、

シイナ:今は、本当に、


サチカ:完治したし……、後遺症も、無いわ。大丈夫。

サチカ:でもその時は、逃れようのない痛み……、

サチカ:それから、熱いのね、余りに痛いと。

サチカ:のたうち回りながら、でもその中で……、

サチカ:「生徒たちを」、と思って、呼んで、叫んで、みたけれど。

サチカ:声は一つも返らない。


シイナ:……、


サチカ:スマートフォンは圏外。

サチカ:何度試しても、圏外。

サチカ:あと少し、あとほんの少し合宿所に近ければ、違ったんだろうけど。

サチカ:痛みと、今思えば寒さで、朦朧とする中……、

サチカ:(ようや)く状況を、飲み込めた時に……、

サチカ:一度、私は、絶望したんだと思う。


シイナ:…………、


サチカ:何台のバスが雪崩に飲まれたのか。

サチカ:私以外に何人、生きて残った人が居るのか。

サチカ:正確な場所も、状態も、救助が始まっているのかどうかすら、確かめる術が無い。

サチカ:GPSが働いていたとして……、

サチカ:雪崩の及んでいる範囲によっては、時間がかかるのか。

サチカ:そもそも、自分たちの事が、伝わっているのか、どうか……。

サチカ:生きている人が居たとして、この潰れた、冬の雪の、生き埋めのバスの中で……、

サチカ:救助が来るまでの間、自分を含めて、本当に、生きていることが、出来るのか。

サチカ:痛みと、恐怖と、抑鬱とパニックの波の中で……、

サチカ:私は独りで、

サチカ:きっと、多分、


声無き誰かの声:「狂ったんだろ。」


サチカ:…………。

サチカ:おかしく、なっていたんだと、思う。

サチカ:ぼやけた眼に映る、伸ばされて、曲がって、節くれ立った、竹のようなモノが……、

サチカ:恐らくきっと、雪に埋まった生徒たちの、

サチカ:腕や、脚や、首、なんだろうと。

サチカ:思い至るのにも、時間がかかった、ぐらい。



シイナ:……っ、……、

シイナ:…………。

シイナ:飲んで。一口。


サチカ:……、うん。


―女性客は一口、含み。

―凍えた息。


サチカ:…………、

サチカ:私、嫌になって、ライトを消したの。


シイナ:……、それは……、


声無き誰かの声:「逃げた。」


サチカ:……、

サチカ:硬まった腕や脚や、近くに遠くに埋もれて、横たわる、亡骸のように見えるモノたちを……、認めた、時に。

サチカ:何かが、外れて、しまって。


シイナ:…………、

シイナ:うん、


サチカ:出来る事が余りに無くて。

サチカ:もう、全てを天に任せて、足掻くのをやめようと思った。

サチカ:闇からも、空腹からも、恐怖、からも……、

サチカ:目を閉じて、逃れて、しまいたかった。

サチカ:それで……、


シイナ:闇の中へ。

シイナ:……潜り込んだ、訳だね。


サチカ:うん……、

サチカ:うん。そう。


―沈黙。

―店員は注意深く言葉を選んでいる。


シイナ:空腹や……、乾きに、関しては、


サチカ:水筒の、お茶を……、飲んでいて。

サチカ:食べ物、は、

サチカ:…………、……、


―沈黙。


シイナ:ごめん。もう質問は、


サチカ:ううん。

サチカ:…………、そう、食べ物。

サチカ:…………、

サチカ:あの……、ごめんなさい。

サチカ:どうか、もう少し、話させて、ね。


シイナ:……、うん。

シイナ:勿論。勿論です。


―女性客の眼差しは虚ろさを増している。


サチカ:私……、強い痛みや、どうしても本当に、やりきれない事が、あると……、

サチカ:痛み止めのお薬を、用量よりも多く飲んでしまう癖が、あるのね。


シイナ:……、それは……、いつから、


サチカ:昔から、よ。

サチカ:出会った頃から。今初めて、人に言ったわ。


シイナ:……、そう、か。


サチカ:だからいつでも、常備していたの。

サチカ:その日も、リュックの中に。

サチカ:だけどお薬をたくさん飲んでも……、骨折や打撲の痛みが、失せる事は無くて。

サチカ:眠ってしまうのもきっと、怖かったんだと、思う。

サチカ:闇の中で眼を開けて。

サチカ:時が止まったような静けさと、(もや)のようにボヤけた感覚の中で、

サチカ:ずっと、眼を開けていた。

サチカ:ずっと。

サチカ:…………そうしたら、


シイナ:……うん、


サチカ:声が、

サチカ:……聞こえた、の。


シイナ:声……?


サチカ:私を呼ぶ声。

サチカ:私が引率していた、班の子たちの。

サチカ:さっきは……、横たわっていたり、姿が見えなく、なっていたんだけれど……、


シイナ:…………、

シイナ:それ、は……、


サチカ:皆が言うには、ね。

サチカ:遅れて眼が、覚めたんだって。

サチカ:他はわからないけど、とにかく班の5人は、ここにいる、って。


シイナ:……、……、


サチカ:私……、慌てて、ライトを点けようとしたんだけど、

サチカ:「勿体ない」、って。

サチカ:もしも必要な時に電池が切れたらいけないから、って。

サチカ:一度だけ、確認をする意味で、スマートフォンのライトを点けたの。

サチカ:青くて硬い光の中に……、5人の顔は確かにそこに、並んでいて。

サチカ:一息に、安心したのを覚えてる。


シイナ:…………。

シイナ:その、後は。


サチカ:話をしたわ。

サチカ:とにかく生き延びる為には、体力を持たせなければ。

サチカ:眠ってしまわないように、声を掛け合って、意識を保ち続けなければ。

サチカ:心なしか空気も薄い気がするけれど、頑張ろう、って。


シイナ:暗闇の中で?


サチカ:うん……、

サチカ:……そうよ?


シイナ:…………、


サチカ:普段は斜に構えて、気難しいユモトくんという子が、率先して話を進めて、まとめてくれて。

サチカ:感心、するぐらい。


シイナ:……うん。


―うつつが揺らぐ、気配。店員は努めて、抑制的。


サチカ:私の班は……、というか、他も揃って、なんだけど。

サチカ:どの子も、方向がバラバラで……。

サチカ:新任にはなかなか、荷が重くて。

サチカ:でもその時ばかりは。

サチカ:まとまりを、感じて。


シイナ:…………。


サチカ:少し()れているけど、責任感のある、ユモトくん。

サチカ:部活には入っていないんだけど、バスケットボールをやっていて、凄く、熱心で。

サチカ:良い子なの、本当は。

サチカ:腕時計もね、彼が貸してくれたの。


シイナ:…………、


サチカ:班長のコウサカさんは剣道部。

サチカ:いつも、向こうから声をかけて来てくれて……、

サチカ:私の不慣れを、フォローしてくれて。甘えてしまいそうになるくらい。


シイナ:…………、


サチカ:そう、食べ物、ね。

サチカ:持っていたカロリーメイトを分けてくれた、ミネさん。

サチカ:普段は派手なグループで、学業には余り、真面目とは言えないんだけど……、

サチカ:根が善良なタイプというか。

サチカ:可愛らしくて優しい子。とても。

サチカ:ムロトくんは物静かで、読書家で。たまに私と、面白かった本の意見交換をしてたわ。

サチカ:それから、意外と、脚が速くて。

サチカ:それについてユモトくんと、話していたっけ……。


シイナ:…………、


サチカ:そしてマツキさん。

サチカ:賢くて、センスの良い子なんだけど……、

サチカ:それだけに敏感で、1年の頃はあまり、学校に来れていなかったらしくて。

サチカ:でも2年からは少し持ち直して、

サチカ:人見知りという訳では無いから、意外に早く、皆とも打ち解けて、ホッとした。


シイナ:…………。

シイナ:個性豊かなメンツだ。実際。


サチカ:うん……、うん。本当、に。

サチカ:おかげで……、時間が経つのも、早かった。


シイナ:……、


サチカ:皆と……、色々なお話を、する事で。

サチカ:肩と足の痛みも、幾らかは紛れたし。


シイナ:痛み止めも、効いてきたし……?


サチカ:…………、

サチカ:ええ。

サチカ:ええ。そう、ね……。

サチカ:それで……、


シイナ:もう一口。さあ。


サチカ:うん……、


―女性客は促されるまま、一口、傾ける。


声無き誰かの声:「良いよなぁ。自分ばっかり」

声無き誰かの声:「私達はもう、飲めないのにさァー。」


サチカ:……、

サチカ:…………、


シイナ:安心して、話して。

シイナ:私は、ここで、聞いているから。


サチカ:…………、

サチカ:ありがとう。


―吐く息は依然、凍えている。


サチカ:どのぐらいの時間だったのか……。

サチカ:あの子たちと私は、ずっと話をしていた。


シイナ:……灯りは、それから一度も、点けなかったの。


サチカ:うん。……ええ、そう。

サチカ:何だか不思議と……、暗闇の中で、もう1つの瞼が開くように、景色が見える気がした。

サチカ:賑やかに話すあの子たちの、顔の表情の、細かな所まで。


シイナ:…………、


声無き誰かの声:「ちょっと、楽しかった、ね」


サチカ:(虚ろに)

サチカ:うん……。

サチカ:本当に、楽しかった……、


シイナ:サっちゃん、

シイナ:……先輩?


サチカ:(引き戻され)

サチカ:あ……、

サチカ:うん。

サチカ:……それで……、


シイナ:平気?


サチカ:……ええ。

サチカ:そう、色々……、ね、訊かれたのよ。

サチカ:女子校ってどんな所なの、なんて。

サチカ:「女の子同士の恋愛なんて本当にあるの」、だとか。

サチカ:何だか興味津々で。


シイナ:何て答えたの。


サチカ:人に依る、って。ふ、ふフ……。

サチカ:恋愛はプライベートな事だから、どうしても知りたければお友達になってから、本人に直接聞きなさい、ってね。


シイナ:あっは、違いないや。

シイナ:…………、


―慎重に。新雪を踏むが如く。


シイナ:その、語らいは……、

シイナ:いつまで、


サチカ:長く。

サチカ:きっと長く……、続いたんだわ。

サチカ:きっと。きっと、ね。


シイナ:……、


サチカ:途中で眠ったのか、ずっと眠らずに、起きていたのか。

サチカ:瞼を閉じる必要のない暗闇の中では、同じ事なのかもしれない。


シイナ:……、


声無き誰かの声:「先生マジでさァー、アタシらと一緒のテンションでハシャぐんだもん。」

声無き誰かの声:「オトナのクセになァ?」

声無き誰かの声:「普段は“静かにィ”とか言ってんのにねー。」


サチカ:ふ、フ、そうね……、

サチカ:何だか色々と、麻痺してしまって。

サチカ:学生時代は余り、楽しく騒いで夜を明かす方では、無かったし……、


シイナ:……?


声無き誰かの声:「だからってなァ?」

声無き誰かの声:「ちょっと。先生はいつも大変なんだから。アンタらのせいでっ。」

声無き誰かの声:「マジメちゃんウザぁー、剣道着くっさ。」

声無き誰かの声:「なっ……! アンタの香水の方が臭いからっ!」

声無き誰かの声:「アンタが好きって言ったから選んだヤツじゃん。」

声無き誰かの声:「みっ……! 皆の前ではソレはっ、」

声無き誰かの声:「やめなよ言い合い……、こんな状況で。」

声無き誰かの声:「おォおォ、言ったれムロトぉー。」


サチカ:ふふフ、フ……、

サチカ:本当に……、


シイナ:(訝しみ)

シイナ:……先輩、


サチカ:不謹慎、よね。本当。

サチカ:教師、失格…………、


声無き誰かの声:「本当に、ね。先生。」


サチカ:…………うん。

サチカ:うん……。


シイナ:先輩、先輩っ、


声無き誰かの声:「戸賀梨子(とがなしこ)の新刊、予約してたのになぁ。」


サチカ:……、……っ、


シイナ:先輩っ!!


声無き誰かの声:「無かったのかよ、他に。」


サチカ:無かったのよ。

サチカ:出来る事なんて何も。

サチカ:本当に、何も思いつかなかった。

サチカ:教師と言ったって、社会人と言ったって。

サチカ:簡単に、心折れてしまって、

サチカ:お薬を飲んで、瞼を降ろして、思考を止めて……、


シイナ:誰だってそうなるよ!

シイナ:こんな、言葉……、1年の間に散々、言われた、だろうけど。

シイナ:あれは完全な自然災害で、不慮の事故。

シイナ:過失も、ミスも、サっちゃん先輩には無い。

シイナ:どう考えても、さ。

シイナ:それに……、

シイナ:それに、だって、

シイナ:……、……、


―店員は言い淀む。


サチカ:……うん。


シイナ:…………っ、

シイナ:だ、って、


サチカ:わかってる、わ。


シイナ:……ニュースで……、

シイナ:言っていたのを、聞いただけ、だけど。


サチカ:ええ。


―店員の眼に、決意。


シイナ:……あなた以外の、全ての乗客は。

シイナ:バスが雪崩に飲まれて、谷底に落ちた、時点で…………、

シイナ:1人残らず即死、

シイナ:していたんだから。


サチカ:…………。

サチカ:うん。


―静寂。

―店員の眼は戦慄きを隠せず。


シイナ:……それこそ……、ある日突然天地が崩れ去るよりも低い確率の偶然に、あなたは生き残った。

シイナ:眼が覚めた時点で全ては終わっていた。

シイナ:だから、


サチカ:(遮り)わかってるの。


シイナ:……っ、


サチカ:わからずに、喋っていたんじゃないの。

サチカ:ごめんなさい。


シイナ:謝ら、ないで。


サチカ:ありがとう。


シイナ:……っ、……、


サチカ:何度も、説明を受けたから。

サチカ:だから誰にも、言わなかった。

サチカ:言えなかった。


シイナ:…………、


サチカ:生きて、山を降りた後も。

サチカ:居もしない、生徒たちの声が聞こえる、なんて。

サチカ:彼らと語らって、気が付くとあの、凍える暗闇の中に、心を投げ出している、なんて。

サチカ:優しい人たちから、どんな言葉を貰えるか……、

サチカ:手に取るように、わかるもの。


シイナ:…………、


サチカ:そうして都合よく、いつでも瞼を降ろして。

サチカ:罰を、免れているのね。

サチカ:私は。


シイナ:……、……。


―深い雪のような静寂。


シイナ:…………。

シイナ:死人と、語らい……。

シイナ:冷たい地獄へと、心縛られる事が。

シイナ:罰で無くて、何だと言うのか。


サチカ:仕方が無いのよ。

サチカ:あのバスは、私だけは天国へ、乗せて行ってくれなかったんだから。


シイナ:天国なんて、あるもんか。


サチカ:いいえ。

サチカ:あの子たちは。

サチカ:あの4台のバスに乗っていた、全ての人たちは……、

サチカ:必ず、天国へ行ったと思うわ。

サチカ:だって私だけが遺されたんだもの。


シイナ:先輩、……、


サチカ:運賃が足りなかったのね。

サチカ:残された事が罪なのではなくて、きっと……、

サチカ:私だけが初めから、罪人(ざいにん)であったから……、

サチカ:この地獄で生きるようにと、罰を受けたんだわ。


シイナ:地獄、……。

シイナ:そりゃ……、きっと、事故の後はさぞ、


サチカ:ううん。

サチカ:ずっと……、もっと前からなの。

サチカ:傲岸(ごうがん)に生まれて、不遜(ふそん)に育ってしまった女に取って……、

サチカ:どこまで行っても、この世は地獄である筈だから。


シイナ:思っても無い事をっ!


サチカ:違う。

サチカ:さっきも言ったし、君は、初めから気付いていたでしょう。

サチカ:私は外身通りの女では無いから。


シイナ:誰だって、だよ、それもっ。

シイナ:中身のまんまで生きている人間なんていない。

シイナ:その、内と外との軋轢(あつれき)を、どうにかして埋め合わせる為に……、

シイナ:酒や薬や、物語や音楽という物を人類は、


サチカ:(遮り)ほら。


シイナ:っ、…………、


サチカ:簡単、なのよ。

サチカ:皆、二言目には、私が求める言葉を言ってくれる。


シイナ:…………、先輩、


サチカ:みんな、みんな本当に。

サチカ:一人残らずそうだった。

サチカ:父も、母も兄も。

サチカ:先輩も友人も、みんな、みんな。


シイナ:…………、


サチカ:それは、そうよね。

サチカ:私は、生きているんだから。

サチカ:幾ら心を病んで、要を成さなくなったって。

サチカ:(かかずら)ってしまったからには、共に生きて行かなければならないもの、ね。


シイナ:……、……、


サチカ:私、もうずっと、お休みを頂いているのよ。

サチカ:実家で、ずっと……、静養と銘打って、

サチカ:偶に、この子たちと、内緒でお話をする事の他に……、

サチカ:何もしていないの。

サチカ:だってこの子たちの他に誰も、

サチカ:「悪いのはお前だ」って、

サチカ:言って、くれないんだもの。


シイナ:それ、は……、

シイナ:……、

シイナ:……あなたに罪なんて、本当に無いんだ。

シイナ:それに、休職は妥当だよ。静養は絶対に必要で……、

シイナ:それこそ遺された者の使命として、未来を生きて行く為に、


サチカ:(遮り)大好きな先輩が狂ってしまって悲しい?


シイナ:っ!!


―絶句。


シイナ:……、……、


サチカ:それとも悔しい、のかな。

サチカ:君はどう思っている?


シイナ:……っ、…………、


―店員の目の端が震え。

―凍えたように震え。


サチカ:今日……、ここへ、来ようと思ったのが、どうしてだったのか。

サチカ:君に、何を、言ってほしかったのか、


シイナ:先輩、


サチカ:思い出せないの。


シイナ:……、……っ、


サチカ:ごめんね。シイちゃん。


―沈黙による静寂。

―女性客の眼の奥の、真なる闇の冷気。


シイナ:……、……、


サチカ:冬が、また来て……、

サチカ:またあのバスへと、戻ってしまわないように、と。

サチカ:思ったの、だけど。

サチカ:自分が言ってほしい言葉も、考え付かないんだから……。

サチカ:聞き分けの悪い子供と同じね、私。


シイナ:そんなことはっ!


サチカ:(遮り)でも。

サチカ:求めた言葉は求めたように、得る事が出来るのに……、

サチカ:求めなければ、何もしなければ決して、手を差し伸べられる事の無い、この世界を……、

サチカ:地獄だと呪った、幼い日の事ばかり、思い出すの。

サチカ:自分の浅ましさに吐き気がする。


シイナ:…………、


サチカ:そういう子供だったのよ、私。

サチカ:周りの大人(ひと)を喜ばせる事に、躍起になっている内に……、

サチカ:人を操る事ばかり、上手になって。

サチカ:しまいに、隣人を信じる事をやめたの。


シイナ:……、

シイナ:ここは懺悔室じゃないんだ、

シイナ:もう、そんな……、


サチカ:こんなものは懺悔でも告解でもないわ。

サチカ:先生(シスター)にお叱りを受けるわよ。


シイナ:…………。


サチカ:けれどそれが……私の罪の全てで。

サチカ:(あがな)い続ける罰、そのもの。

サチカ:だから……、

サチカ:ね、


―眼に、虚ろで、しかし晴れやかな、青い光。


サチカ:あの日の、光景……。

サチカ:救助される時、薄ぼんやりとしか、見えなかったけれど……。

サチカ:あの竹林(たけばやし)の、美しい雪の丘。

サチカ:冷たく、澄んでいて……、

サチカ:誰一人私を、慰めも庇いもしない、あの崖の下の冬の底、だけが…………、

サチカ:きっと私の、

サチカ:天国なんだと思うの。


シイナ:……っ、

シイナ:そん、な、……、


サチカ:今はね。


シイナ:……っ、

シイナ:…………、


―生き埋めの沈黙。

―後、すとん、と、店員は木椅子へと崩れ。カタリと乾いた木の音。


シイナ:…………。


―沈黙が続く。

―晩秋の外気は日増しに冷やされ、暖房機は鈍く低く唸っている。

―長い静寂の後、呻くように悲痛な、声。


シイナ:…………私は、遅い。


サチカ:…………。


シイナ:顔を、見た時。

シイナ:私が知っている、あなたの顔と、変わらないように見えたから……、


サチカ:私は私、だもの。


シイナ:烏滸(おこ)がましくも支えになれるかも、なんて。

シイナ:夢想した。


サチカ:…………。


シイナ:けれどあなたの魂は最早、既に……、


サチカ:あの雪山に。

サチカ:囚われてしまっているように、見えるのね。


シイナ:…………。

シイナ:(おど)けて、得意な顔をして。

シイナ:自分からは訪ねても、行かなかった、癖に、


サチカ:シイちゃん、


シイナ:何が、『シェルパ・ティー』……。

シイナ:恥だ。

シイナ:死にたい、気分だ。


サチカ:とっても、美味しかったわよ。

サチカ:だから死んでは駄目。


シイナ:…………。


―幾度目かの沈黙。店員は項垂れ。


サチカ:悲しそう、ね。シイちゃん。


シイナ:…………。


サチカ:私は、悲しくは、ないのよ。

サチカ:本当は。


―店員は項垂れたまま。


シイナ:…………言葉が見付からない。

シイナ:上っ面の、戯曲に書かれたような台詞なら、幾らでも出て来るのに。


サチカ:…………。


シイナ:(絞るような呟き)

シイナ:上手くやれない自分は、嫌いだ……。


サチカ:……。

サチカ:ふふ、フ……。

サチカ:君は昔から本当に、

サチカ:そういう子……。


―女性客は淡雪の如く笑み。

―再び、静寂が世界を埋め。


声無き誰かの声:「先生ェー。もう帰る? 話の続き、しなきゃ」

声無き誰かの声:「マジで冷えて来た。起きてられるように、話し続けなきゃ。いつまでも。」

声無き誰かの声:「いつまでも、ずっとさ。」

声無き誰かの声:「ずっと、ずっと。」

声無き誰かの声:「だってこれは、」

声無き誰かの声:「先生の、せいなんだから。」


サチカ:…………、

サチカ:…………。

サチカ:少し、待って、ね。


―女性客はス、と立ち上がる。


シイナ:……、

シイナ:先、輩、


サチカ:傷付いたなら、慰めてあげる。

サチカ:そうしてほしそう、だもの。


シイナ:……、そん、な……っ。

シイナ:傷を……、負ったのはあなたで、


サチカ:(遮り)リッカ。


シイナ:っ!!


サチカ:こっちへ、来て。


シイナ:……、


サチカ:髪を……、

サチカ:撫でてあげるから。


シイナ:…………っ、


―冬が、来る。

―暗転。


―シイナにスポット。


シイナ:【本日のカクテルレシピ】

シイナ:ヒマラヤ式『シェルパ・ティー』、シイナアレンジ。

シイナ:■ロゼワイン 適量

シイナ:■ブラウンシュガー 2tsp(ティースプーン)

シイナ:以上をティーカップにて合わせ、干し葡萄を潰し、丁寧に煮出した紅茶を注ぐ。

シイナ:軽くステアした後、更に干し葡萄を何粒か沈め、冷めない内に手早く、

シイナ:……特に、凍える季節には、手早く、

シイナ:カップ&ソーサーにて、サーブ。


―【終】

―【空白】/【空白】/【空白】


―【ボーナス・トラック1】

―暫くの後。

―照明の落とされた店内。鍵を開け、注意深げに足を踏み入れたのは、金髪の女性店員。

―長身の女性店員がカウンター内の木椅子に崩折れ、俯いている。


カスミ:……シイナさん……?


シイナ:(項垂れたまま)

シイナ:…………、…………。


―静寂。


カスミ:シイナさん、


シイナ:……カスミか。

シイナ:……やあ。


カスミ:……、

カスミ:大、丈夫……?


シイナ:うん。


カスミ:金曜なのに、この時間で電気、消えてたから……、

カスミ:あ、偶々 前、通って、


シイナ:いま、何時……?


カスミ:……、10時、過ぎたぐらい……。


シイナ:……そう、か。

シイナ:まだ、そんなもんか。


カスミ:具合、悪い?

カスミ:急に体調とか、


シイナ:いや。

シイナ:そうでも、ないよ。


カスミ:…………、あの、


シイナ:(意図せず遮り)来てくれてありがとう。


カスミ:っ、……、


シイナ:誰も来なかったら……、

シイナ:明日まででもこのままで、出勤してきたタニマチを驚かせる所だった。


カスミ:……、……、


―凍てつく沈黙の気は尚も濃く名残り、重く垂れ込め。


カスミ:……、何か、あったの……?


シイナ:……、……。

シイナ:カスミは、さ……。


カスミ:うん、……、


―項垂れたまま、語気はか細く、湿っている。


シイナ:自分の、大切に思っている、

シイナ:……、思っていた、人が……、

シイナ:心に深い傷を負っている事をある時、知ってしまって、……、

シイナ:……いや……、

シイナ:(小声になり、自問の独語)

シイナ:知らなかった筈は無いんだ。

シイナ:私はニュースを見ていたんだから。

シイナ:考えて、思い当たっていた癖に私は、

シイナ:……、


カスミ:シイナさん、


シイナ:……、

シイナ:すまない……。


カスミ:ううん。

カスミ:ねえ、ヤヨイさんに来てもらうから車で、


シイナ:良いんだ。

シイナ:……人の傷や、痣を、巧く見て見ぬ振りが、出来なくて……、

シイナ:躱せも、流せもせず、真正面から、見て、しまって。


カスミ:……、


シイナ:なのになんにも、それなのになんにも、かける言葉が引き出しから、出て来ずに……。

シイナ:途方に暮れるしか、無かった時……、

シイナ:どういう、気持ちになる?


カスミ:……、…………、

カスミ:ボク、なら……?


シイナ:ああ。


―静謐。黙考。


カスミ:……シイナさん、酔ってる……?


シイナ:……ほんの少し、ね。

シイナ:ブランデーに、アマレットを少々。


カスミ:……、


シイナ:ごめん。

シイナ:ごめん、本当に……。

シイナ:大丈夫だから。もう、帰って貰って構わないよ。


カスミ:……、ううん。

カスミ:……ボクは、ボクなら……。


シイナ:……、


カスミ:……ボクは、

カスミ:……本当は……、

カスミ:そういう時に、何かを言っても良い人間じゃないと、思うから。

カスミ:黙ってる方が、きっと正解なんだと、思う……。


シイナ:…………。


―深と冷えた空気。薄っすらと残る、紅茶の香。


シイナ:……そう。

シイナ:……私も、きっと……、きっと本当は、

シイナ:そう、なんだろうな……。


カスミ:……、……。


―沈黙。背の低いグラスが鈍く光を散らし。


カスミ:……初めて、見た。

カスミ:シイナさんが、悪酔いしてるところ。


シイナ:…………。


―ついぞ項垂れたまま、力無く呻く。


シイナ:……カクテルなんて。

シイナ:碌なもんじゃない、よね。


カスミ:……、


―からり、と氷が遺憾の意を示し。


カスミ:お水、入れるね。


―暗転。

―【終】


―【空白】/【空白】/【空白】


―【ボーナス・トラック2】

―或いは、『アクト・アクター・アクトレス』♯3.5

―後日。都内某所、とあるレンタルスタジオビル1階、喫茶スペース。


トシコ:ふううーー……、む、む、む……。

トシコ:それで全部?


シイナ:……うん。


―窓際の、いつもの席。

―舞台の稽古を終えた2名の女性演技者の前には、湯気も薄れたカップ&ソーサー。

―そばかすの女性は腕を組み、頬を掻きつつ。


トシコ:だいぶん不味いじゃないのさ、聞く限り。

トシコ:サチカ先輩も、……アンタも。


シイナ:一人で抱え切れずに……、


シイナ:結局ヒトに話してる私を、まずはひっぱたいてくれ。


トシコ:ココで??

トシコ:冗談はヨシ子ちゃん。昼ドラじゃあるまいし。

トシコ:……でも、なるほど。それで前回・今回と、指導にも妙に熱が入ってたのか。


シイナ:え……?


トシコ:アンタって昔から、情緒が波打ってる時ほど、芝居に気合いが入るじゃないさ。

トシコ:気付いてないとでも思った?


シイナ:…………。

シイナ:敵わないな、やっぱりトシコには。


トシコ:あったりまえ。伊達にアンタたち問題児揃いの87期を引っ連れて、全国まで行ってないってーの。


シイナ:あっは、鬼の部長サマの鬼伝説。

シイナ:……もう戻らない、輝かしき青春の日々……、か。


トシコ:だけど忘れんじゃないわよ。

トシコ:アンタはその相棒として、不動のキャスト班トップとして、全国の舞台に立ち切ったんだから。


シイナ:……、……。

シイナ:年功序列だよ。学年の順番が回ってきただけの、


トシコ:(遮り)部内オーディションに落ちて、泣いて裏方に回って最後の本番をやり切った皆の前でも。

トシコ:同じ事が言えんの?


シイナ:…………、

シイナ:ごめん。

シイナ:浅はかだった。


トシコ:今日は許す。


―暫しの、緩やかな沈黙。午後の店内に客は少ない。


シイナ:……謝ってばっかりだな、近頃。


トシコ:成長したってコトでないの、少しは。


シイナ:だと良いけどね、まったく。

シイナ:……は。秘密を喋ってすっきりしてしまった。

シイナ:コレで地獄落ちだな、私も。


トシコ:気が早い。

トシコ:無力だろうが、非力だろうが。

トシコ:人生は続くのよ。天命の果てるその時まで。


シイナ:……ご尤も。

シイナ:なればこそ、この世に憂い煩いの種は尽きまじ……、と。

シイナ:いやはや。


―ず、と二人、微温くなった紅茶を啜り。


トシコ:……にしても。あらためて。

トシコ:呪われてるとしか思えないわね、あの町は。


シイナ:あの町?


トシコ:「読辺川(よみべがわ)北中学」、でしょ、バス事故に遭った学校。


トシコ:聞き覚えない?


シイナ:(黙考)

シイナ:……、……、

シイナ:あっ、


トシコ:何年か前に。

トシコ:小学校で子供が、事故や事件で何人も亡くなったのも……、


シイナ:読辺川(よみべがわ)町、か……、そういえば、


トシコ:普通さ、一つの町で、

トシコ:10年も経たない間に、子供がそれだけの数亡くなるなんて……、さ。


シイナ:……天文学的な確率、かもね。

シイナ:いや、案外そうでもないのか?


トシコ:下手したら、小学校でも中学でも、同級生を喪くした子がいるんじゃないの。


シイナ:……壮絶、だな、人生の序盤から。

シイナ:……、…………、


トシコ:結局、苦しむのはこの世に残った側だからね。

トシコ:死者には死者の苦しみがあるけど、生きてる間は想像しか出来ない。


シイナ:……生きて残った苦しみ、か。

シイナ:まさしく、先輩の……、


トシコ:アンタはさ、


シイナ:うん?


トシコ:お見舞いなり何なりに行こうとは思わなかったの。

トシコ:事故を知った時。


シイナ:……っ、

シイナ:それは、


トシコ:責めてるんではないからね。念の為。


シイナ:それは、わかる、けど、

シイナ:……、…………、


―内省に浸る面差し。カップから上がる湯気は既に失せている。


シイナ:……どうして、だろう。

シイナ:思い付かなかった訳ではない、けど、


トシコ:連絡先は?


シイナ:交換は、してなかった。

シイナ:でも……、(つて)を辿れば、どうとでもなった筈なのに。


トシコ:それこそ、あたしがマヒロと繋がってるし、ね?


シイナ:……、…………。

シイナ:こう、思い悩む振りをしつつも。

シイナ:それに関してはもう、結論が出てるんだよな。


トシコ:自分じゃ手に負えないと思った?


シイナ:……っ、


―沈黙。


シイナ:…………。


トシコ:黙るのはおよし。


シイナ:…………何というか。

シイナ:タマンナイね。この容赦の無い感じ。


トシコ:容赦や忖度じゃ前に進まないじゃないさ。

トシコ:舞台も、人生も。


シイナ:仰る通り。

シイナ:…………そうだね。とどのつまりが、そんなトコ。

シイナ:想像が、出来なかった。


トシコ:サチカ先輩の気持ちが?


シイナ:あらかじめ用意しておく台詞が、思い付かなった。

シイナ:その状態で面と向かっても、どうすることも出来ないだろうな、なんて。


トシコ:アドリブ弱いもんね、昔から。


シイナ:…………、あと、


トシコ:あと。


シイナ:怖かった。シンプルに。


トシコ:ふむ。


シイナ:自分には想像もつかないような事態を経験した、サッちゃん先輩が……、

シイナ:前と同じサッちゃん先輩じゃなくなってたらどうしよう、って。

シイナ:……ビビったんだね。


トシコ:どうだったのさ、実際。


シイナ:……先輩は、先輩だったよ。

シイナ:ただ、でも、そうだったからと言って、

シイナ:……、……、


トシコ:……その様子だと。

トシコ:挑む気にもなれなかったみたいね。

トシコ:「妖怪」に。


シイナ:ようかい??


トシコ:前に言ってたじゃないさ。

トシコ:お店に入りたての頃、仕事を教わった人から、そんな話を聞いた、って。


シイナ:……あー。それか。


トシコ:夜の、お酒を出す場所の仕事は。

トシコ:時として「妖怪退治」みたいになる時がある、って。

トシコ:あたし、結構印象に残ってんのよね、あの話。


シイナ:フとした拍子に人間が「化ける」妖怪を、(なだ)めて、すかして、お酒を供えて……、

シイナ:暴れ出したり、消え失せたりしないように調伏(ちょうぶく)するようなシゴトだ、ってね。

シイナ:……あのヒトらしい、ロマンチックなんだかナンなんだかワカンナイ言い回し。

シイナ:……そうだな。それで言うなら……、


トシコ:やっぱり手に負えなかった?


シイナ:修行が足りなかったね。仕置人としての。

シイナ:……結構、色んな妖怪と渡り合って来たんだけどな。


トシコ:まあ、ねえ? 私が聞いたってどうしたら良いかわからないような話だし。無理も無いんでないの。

トシコ:……そいで、


―不意に、品よく、どこか艶めく仕草で足を組み替え。


トシコ:どうすんのさ。次の一手は。


シイナ:……っ、


―切れ長の眼が長身の女性を真っ直ぐ見据える。逃れ難い、蔓植物の如き眼差し。


シイナ:どう、ってね……。

シイナ:つまり、まさしくソレが問題な訳で、


トシコ:現状の自己分析はよくわかったわさ。

トシコ:冷静に、自分を解釈出来てるとも思うわよ。

トシコ:で。

トシコ:そいで、アンタはどうしたいと思ってんのさ、ってところ。


シイナ:今日そこまで話を進めなきゃ駄目……?

シイナ:もう少し段階を踏んで、


トシコ:あたしに相談したのが運の尽き。

トシコ:ぬるま湯で受け止めてほしいなら、ヨソを当たる事ね。


シイナ:ええーー……、

シイナ:うゥーーーん……、


トシコ:濡れた犬みたいに唸るんじゃあないの。

トシコ:……そうね。

トシコ:今、一通り、アンタの話を聞いて。


シイナ:うん……、


トシコ:今の、アンタの現状や。

トシコ:サチカ先輩が歩んだであろう経緯や。

トシコ:そして話を聞いたあたし自身の、環境や、状況や。

トシコ:全部の「流れ」を鑑みて、思い付いた事が一つある。


シイナ:思い付いた、こと……?

シイナ:ていうか、トシコの状況も?


トシコ:それは上手く運べば、全てにケリを着ける妙案になるかもしれない。

トシコ:そして関わる全員の運命に沿わなければ、何ら実を結ばずに、事態を悪戯にややこしくして終わるかもしれない。

トシコ:いずれにせよ、


―そばかすの女性の決断的な口調に、長身の女性は圧倒され気味。


トシコ:近い内に、「ある人」を連れて店に行くから。

トシコ:覚悟を決めておくように。


シイナ:……、……、

シイナ:な……、何……?


―運命は時として唐突にドアをノックする。

―窓の外、空にはいつしか雲が立ち込め、流離と流転の気配が世界を覆い。


―暗転。


―【終】







―【薄れ、ぼやけた記憶】

―2020年12月21日、午前10時6分。

―とあるスキー場に隣接するホテル。

―自販機スペース横の、木製ベンチ。

―眼を閉じ腰掛ける女性教諭のもとへ、男性教諭が歩み寄る。


男性教諭:叶納寺(かのうじ)先生。


女性教諭:(微睡みより醒め)

女性教諭:ん……、

女性教諭:あ……、……はい、


男性教諭:ああ、すみません。

男性教諭:起こしてしまいましたか、


女性教諭:鮎川(あゆかわ)先生……、

女性教諭:いえ、すみませんあの……、

女性教諭:一息つこうと座り込んだら、私……、

女性教諭:今、何時でしょうか、


男性教諭:十時ちょっと過ぎ。

男性教諭:まだ、大丈夫ですよ。


女性教諭:バスの出発が十二時十五分だから……、

女性教諭:最終点呼は正午、その前に4組の部屋をもう一度、周っておかなくちゃ……、


男性教諭:十時半ごろからボツボツで、大丈夫でしょう。

男性教諭:僕も去年や一昨年は、朝礼の後に一眠りしましたよ。


女性教諭:スキー合宿の、教員の起床が五時半とは思いませんでした……。


男性教諭:早すぎるんですよ、毎年。

男性教諭:みんな言ってるんですけどね。


女性教諭:いえ……、でも準備は、早い方が。

女性教諭:あの……、すみません、何か今、


男性教諭:いや、いや。

男性教諭:自販機に珈琲を買いに来たら、お見かけしたから声をかけただけで……、

男性教諭:あ、珈琲、先生も飲まれますか、


女性教諭:いえっ、そんな、


男性教諭:ご遠慮なされず、今どき珍しく100円ですし、


女性教諭:いえ、あの……、

女性教諭:私、珈琲が、ちょっと、


男性教諭:苦手ですか。


女性教諭:相性が良くなくて……、

女性教諭:胃が気持ち悪くなってしまって、


男性教諭:成る程。

男性教諭:他も色々、ありますよ、


女性教諭:本当に、お気持ちだけで……。

女性教諭:魔法瓶に飲み物、ありますので、


男性教諭:そうですか、

男性教諭:じゃ、自分だけ……、

男性教諭:御免しますね。


女性教諭:いえそんな……。

女性教諭:こちらこそごめんなさい、


男性教諭:謝るような事じゃ……、

男性教諭:あ、お互い様ですか。


―男性教諭は自販機にて珈琲を購入。

―ゴトン、とホットの落下音。


男性教諭:「御免する」ってね、謝ってる訳じゃなくて、ただの口癖なんですが、


女性教諭:仰られてますね、よく……、


男性教諭:地元の方ではね、みんなよく言うんですけど。

男性教諭:方言だって後から知って。


女性教諭:鮎川先生ご出身は、


男性教諭:全然、塚淵(つかぶち)県内ですけどね。

男性教諭:「飛桶(とびおけ)」ってね、叶納寺先生は東京ご出身だから、知らないとは思いますが……、

男性教諭:問答山(もんどうやま)丘陵の近くですね、まだ有名な範囲で言うと。


女性教諭:風光明媚というか、景色の良い所ですね。


男性教諭:本当にド田舎ですけどね、ただの。田んぼと工場ぐらいしか無い……。

男性教諭:山の方に行くと棚田とか古墳とか、ありますが。


女性教諭:素敵だと思います。

女性教諭:私も高校まで、山の中の全寮制の学校だったので、自然の多い所は落ち着くというか……、


男性教諭:「釈葉(しゃくよう)」のご出身なんですよね、確か。


女性教諭:はい……。

女性教諭:クラウス・リモン墓地の近くの、


男性教諭:あんな辺りなんて、全然都会だと思っちゃいますけどね……、

男性教諭:なんというか本当に、どん詰まりの田舎なんですよね、飛桶の辺りは。


女性教諭:そんなことは……。


―男性教諭は一口、手の内の珈琲を啜る。

―忙しなさの狭間、午前の微睡んだひととき。


女性教諭:今はそこから、学校の近くに出て来られて……、


男性教諭:いえ、通いです。


女性教諭:え?


男性教諭:車で。


女性教諭:え……、どちらから、


男性教諭:その、飛桶から。


女性教諭:……、

女性教諭:毎日、ですか……?


男性教諭:勿論。言って2時間かかりませんから。

男性教諭:帰りはかなり空いてますし。


女性教諭:あ、それで、いつも……、


男性教諭:するっと帰るでしょう、いつも。最近ようやくね、少しは効率よく仕事を終えられるようになりましたけど……。


女性教諭:そう、なんですか……、

女性教諭:自分が、赴任を機に移り住んできたくちなので、皆さんそうなのかと……、


男性教諭:結構、遠くから通いの方も多いですけどね。

男性教諭:まああんまり学校に近いのも、生徒や保護者に顔を刺すので良くないとされてますし……。


女性教諭:失礼でなければですが……、

女性教諭:どうして、


男性教諭:あ、地元からわざわざ通いなのか?

男性教諭:あるあるですけどね、最初は母親が移住をしたがらなかったのと……、


女性教諭:ああ……、


男性教諭:今はもう、母は死んで居ないんですが。

男性教諭:あと、僕は地元で結婚をしたんですが、妻は出戻りというか、都会から地元に帰って来たので……、

男性教諭:僕は通える距離だし、引っ越しがあんまり多いのもと、思ったので。

男性教諭:ま、色々と、兼ね合いですね。


女性教諭:……なるほど。

女性教諭:皆さん、色々と……、


男性教諭:ありますよねえ、そりゃ。

男性教諭:沢山居ますし。生徒よりは少ないとはいえ。


女性教諭:はい……。


―ふと、窓の外、雪を頂く雄峰へと眼をやり。


女性教諭:……子どもたちは、本当に、本当に沢山、居ますよね……。


男性教諭:少子化って言ってもね。

男性教諭:教師も減ってますしね。


女性教諭:私……、正直1年目がこんなに大変だとは、


男性教諭:来年度はもっと大変だと思いますよ。

男性教諭:管理職の方針でね、初めから色々、慣れてもらうという……。

男性教諭:多分担任持たされるんじゃないかな。


女性教諭:思いやられます、自分に……。

女性教諭:来年の今頃、どうなってる事か……。


男性教諭:楽しい事は、ありますか。


女性教諭:え……?


男性教諭:仕事なので、大変なのは多分、ずっと変わらないとは思いますが……。

男性教諭:仕事も含めて、日常の暮らしの中で、

男性教諭:楽しいと思える時間って、ありますか。


女性教諭:……、…………、


―女性教諭は沈思黙考。

―男性教諭はもう一口、珈琲を啜り。


男性教諭:僕は無かったです。3年目ぐらいまで。

男性教諭:公立って本当に碌なもんじゃないと、毎日思ってました。


女性教諭:…………、

女性教諭:私は……、


―内省を湛えた声が、暖房で温もった空気へと混ざる。


女性教諭:毎日、本当にてんてこ舞いで、ご迷惑をかけっぱなしですが……、


男性教諭:案外そうでもないですけどね、はたから見ていると。


女性教諭:生徒の皆と、お話をするのは楽しいです。


男性教諭:いつも?


女性教諭:……、

女性教諭:偶に。


男性教諭:はは……、正直で良い。


女性教諭:家庭環境も……、生育環境もみんな、それぞれ違って。

女性教諭:価値観の違いに触れると、新鮮な驚きがあって。

女性教諭:自分の見識の浅さ狭さを、思い知れるようで。


男性教諭:僕たち教師はね。

男性教諭:生徒や、そのご家庭を通して、社会に触れるしかありませんもんね。


女性教諭:社会?


男性教諭:教育大を出て、まあ何年か一般職を経たりする人がいたとしても、大抵はそのまま、ずっと「先生」って呼ばれる仕事でね……。

男性教諭:直接には社会を、やっぱり知らずに、定年まで行くんですよね。


女性教諭:……、どう、なんでしょうか、


男性教諭:僕は父方が代々、田舎の教員なんですけど、やっぱりそういう所があるなと、昔から思っていて……。

男性教諭:そうはなるまいと、思いつつも結局、自分も教師をやってるんですけど。


女性教諭:……、特殊な、環境ではありますもんね、学校って。


男性教諭:義務教育は特にね。

男性教諭:まあ……、それ自体は変えようのない事ではあるので。


女性教諭:自覚が大切だと、いうことですね。


男性教諭:気を付ける他、無いですね。

男性教諭:……とはいえ、


女性教諭:はい、


男性教諭:まあ、あまり、堅く構えず。

男性教諭:楽しい事がちょっとでもあるなら、少なくとも1年目の僕よりかは有望ですから。


女性教諭:……、…………。

女性教諭:頑張ります。

女性教諭:頑張って、力を抜きます。


男性教諭:それが良いですね。

男性教諭:最初は、余裕がある「フリ」からで。


女性教諭:……「振り」……、


男性教諭:そろそろ、行きますか。


女性教諭:はい、あの……、


男性教諭:(立ち上がりつつ)

男性教諭:よいしょ、

男性教諭:ああー……、寒そうだな外……。


女性教諭:お話、出来て良かったです。


男性教諭:いえ……。

男性教諭:まあ、普段学校ではなかなかね。

男性教諭:僕は早く帰りたいから、飲み会なんかにも出ませんし。


女性教諭:自分は、まだ初めたてで、若くて、未熟ですが……、

女性教諭:その分「未来」に、まだ余地がある、と。

女性教諭:……騙し騙し、行きます。


男性教諭:未来ね……、

男性教諭:まあ、残された未来の量で言ったら、それこそ生徒たちには敵いませんけどね……、


女性教諭:ふふ、フ。それはそうなんですが。

女性教諭:私が言っているのは……、


―語り合う声が遠ざかり。

―無人の自販機スペース。窓に映る白銀の風景は、永劫に不変であるかのように思われた。

―例になく、時候にしては強かな日差しが、山の大気と積雪を温める。

―温める。

―温める。


―ホワイト・アウト。

―【終】

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