『午後の死と白詰草』
“お一人様篇”シーズン1♯3
とある街、とあるBAR。
とある、記憶。
登場人物
■カスミ
店員。シニカルでありたい女。
■チグサ
一見客。ほどかれた女。
−黎和3年5月某日−
カスミ:
或る、心象のうた。
チグサ:
フランスへ行きたしと思えども
フランスはあまりに遠し
せめては新しき衣装をきて
きままなる旅にいでてみん。
汽車が山道をゆくとき
みずいろの窓によりかかりて
われひとりうれしきことをおもわん
五月の朝のしののめ
うら若草のもえいずる心まかせに。
―タイトルコール。
カスミ:
『午後の死と白詰草』
―【間】
チグサ:
まだ……、はいれますか。
―某月某日、某時刻。
―賑わいも捌け、女性店員がぼつぼつ店じまいに掛かろうかとした頃。ドアベルが鳴った。
カスミ:(ドアの影の、客の姿をあらためつつ)
イイよ、どーぞぉ。
―ふわりと、一見客は入店。
チグサ:
ああ、よかったあ。
どこも、もう灯りが消えていたので……、
カスミ:
平日だから、ね。
うちも、後そんなに長くは開けないケド。どうする?
チグサ:(曇り無く、しかし淡く笑む)
いいんです。1杯だけ、お酒を頂けたら……。
カスミ:
じゃ……、カウンター、いらっしゃぁい。
チグサ:
ふふ、ありがとう。
―重さを忘れたかの如く、着席。
チグサ:
駅の近くの明るいお店は、よく見たら美容院で……、
カスミ:
あー。ホント似たカンジになるよねぇ、美容院と、BARとかカフェとかって。
(コースターを出しつつ)
荷物、後ろか、横の椅子にでも置いて。
チグサ:
あ……、はあい。
―一見客は薄い色の小さな鞄を、隣の席に置く。
カスミ:(客を観察しながら)
そのカーディガン素敵。編み込みスゴい細かいね。
チグサ:(仄かに笑み)
ありがとう。御下がりで、とても古いものだから、流行りの型ではないけど……。
カスミ:
昔の服の方が凝ってて、トガってるから好きだな。
コレ、刺繍のトコ全部透けさせてるんだ。えぇ、縫製ヤバ……。
チグサ:
お洋服、好きなんですか?
カスミ:
嫌いでは、ナイかなぁ。偶に古着屋とか、覗くぐらい。
チグサ:
わ、本当に好きな人ね。
カスミ:
全然、知識とかは無いケド。
……寒くない? 上それ1枚なら、ケッコー、薄着だよね。オネエサン。
チグサ:
ああ……、まだ少し、夜は冷えますね。
カスミ:(空調のリモコンを手に取りつつ)
時期じゃないけど、暖かくしよっか。
チグサ:
あ、大丈夫、平気です。
この季節の、この夜の薄寒さも……、
感じて、おきたいので。
でも、ありがとう。
―言い、にこり、と淡く笑む。
カスミ:(言い知れぬものを感じ)
……そ。
さ……、何しよっか。どんなの好き?
チグサ:
実は、こういう所は初めてで……。
おすすめなんて、あるのかしら。
カスミ:(努めて余裕を醸し)
ふぅん……、なら、ポい事しよーかなぁ。
チグサ:
ぽい、こと?
カスミ:
お客サマのカオ見て、出すお酒決めるの。
チグサ:(手を合わせ、笑みをこぼし)
わあ、本当?
テレビで見たことあるけど……、してもらえるの、そんな、
カスミ:
よくやるヤツだから。
ベストに蝶ネクタイのオジサマじゃなくてゴメンねぇ?
チグサ:ううん、その……、今着てらっしゃるシャツ、素敵です。
(店員のシャツの柄をマジマジと見て)
この柄……、竹の林の中に、虎がたくさん居るの?
カスミ:(作業にかかりつつ、ロングシャツの裾を摘み)
アロハとかに多い柄だよね。コレも古着だけど。
チグサ:
かわいい……。
カスミ:
よく見たらマヌケなカオしてるでしょ、この虎ドモ。
―長細い脚付きグラスに、香りの強い酒を注ぐ。
カスミ:
キライな味じゃ、ナイといいケド……。
―一見客は微笑み、店内を見渡す。
チグサ:
素敵なお店。
カスミ:
内装? BARっぽくは無いケド、小綺麗にはしてるかなぁ。
―冷蔵庫から、スパークリングワインの小瓶を取り出す。
カスミ:(グラスに注ぎつつ)
オーナーが偶に、ヘンなモノ買って持ってくるのが……、困るケド。
チグサ:(カウンター上に1つ置かれた、パステルカラーのハニワを触りつつ)
この子とか、かしら……、
カスミ:
あぁ、そうそう。そのハニワ、ホントは10コぐらいあって……、群馬のお土産らしいんだけど、
チグサ:
へえ……、
カスミ:(軽くステアしつつ)
カウンターにズラッと並べたいって言うから。
スタッフ皆で止めたの。
―手の甲に1滴落とし、味を確認。
カスミ:
ん……。上出来。
―滑らかな手付きで、グラスを出す。
カスミ:
はぁい、おまちどぉさま。
チグサ:
わあ、綺麗な色……。
これは、何ていうお名前の?
カスミ:
……えっとね、
(シニカルさを含んだ、弓張り月の笑み)
『ヘミングウェイ・カクテル』、だったかなぁ。
チグサ:
「老人と海」の、ヘミングウェイ?
カスミ:
ま……、飲んでみてよ。
―一見客はニコリと笑み、グラスを取る。
チグサ:
いただきます。
―静かに口を寄せ、含む。
チグサ:(ぱっと明るみ)
ん……。美味しい。
さっぱり甘くて、スっとして……、飲みやすい。
カスミ:
ハーブ系ダメじゃナイ感じだったら、良かった。
弱いワケじゃないから、ゆっくり飲んでねぇ。
チグサ:(にこり、と笑み)
ありがとう。
……遅くに、ごめんなさいね? 飲んだら、出ますから。
カスミ:
オキニナサラズ。
どうせ、終電ぐらいまでは開けてるツモリだったし。
―店員はボトルに残ったスパークリングを、自前のグラスに注ぐ。
カスミ:
ボクも飲もっと。
(グラスを女性客に差し出し)
はい、かーんぱい。ボクはカスミぃー。
チグサ:(グラスで杯を受けつつ)
乾杯。わあ、初めて……。
私は、チグサといいます。
―女性客の笑みは余りにも、濁り無く映る。
カスミ:(一口含み)
桃のスパークリング美味し。
……ヨロシクね、チグサさん。
チグサ:(一瞬沈黙し、後、曖昧に微笑み)
……はい、カスミさん。
―そこはかとない違和を嗅ぎ取りつつ、店員はもう一口、軽く含む。
カスミ:(気を取り直して、話題転換)
今日は、お休み、とかだったのかな。仕事終わりって感じでも無いケド。
チグサ:
おやすみ……。そうねえ。
長い、お役目からついこの間、ほどかれたから。
おやすみと言えば、おやすみ、ね。
カスミ:
……、そっ、か。
だから、オメカシして遊びに?
チグサ:
あ……、(自らの装いを検めつつ)
余所行きの服なんてあまり着ないから、恥ずかしいんだけど……、
カスミ:
まとまってると思うよ。ボクはしないケド、好きな感じ。
チグサ:
そうかしら……。
(笑み)そう、思い掛けず、自由が利くようになったので……、
やってみたかった事、やっておきたい事を、ここ何日かで、順番に。
かえって忙しいくらい。
―一際、軽やかに、
チグサ:
今夜が最後に、なると思うけど。
カスミ:
ふぅ、ん……。
―店員は一口、泡立つグラスを傾ける。
カスミ:
サシツカエ、無ければだけどさ、
チグサ:
はあい?
カスミ:
え、っと。
……「入っ、て」て、
少しの間、出て来てる、とか?
チグサ:
はいって……??
(気付き、ふわと笑み)
ああ……、すみません違うの、ふふふ。
罪を、償っていたのでは、ないんです。
カスミ:
……、そ……。
良かった、て言うのもヘンだけど。
仮釈放中、トカかなって。
チグサ:
誤解を招く物言いだったわね。ふふ、ごめんなさい。
ちょっと、似た部分はあるのかも、しれないけど……。
カスミ:
…………、
(何かを言いかけ、)
チグサ:
カスミさんはこのお仕事、長くされてるんですか?
カスミ:(虚を突かれ)
……ボク?
チグサ:
見たところ、お若そうなのに、手慣れてらっしゃるから……、
カスミ:
テキトーなダケだよ。ま、お酒はちゃんと作るケド……。
まだ1年ちょっと、かな。
チグサ:
へえ……、それで、お店を1人で任されてるなんて、
カスミ:
平日ダケね。週末は2人か3人だし……、
ウチは、基本はヒマな店だから。
チグサ:
楽しいですか? やりがいは、ありますか?
カスミ:
楽しい、か?
……、
どう、だろ……、
チグサ:
あの、ごめんなさい。私、こんな風に人と話すのが久しぶりだから、ウキウキしていて……、
不躾だったわね。
カスミ:
ううん……、ダイジョーブだけど。
ボクは、ボーっと生きてるから、
……考えちゃった。
―一口、含む。
カスミ:
多分、楽しいんじゃないカナぁ。ソコソコ笑うし、ツマンナく無いし。
やりがいは、正直まだ、ワカンナいけど。
チグサ:
自分の価値は、ここに居る事だって、思いますか?
カスミ:
自分の、
(刹那、沈思)
……、…………、
―コト、とグラスを置き。
カスミ:
……それは、思わない、かな。
チグサ:(淡い笑みで)
そうでしょうね。
ごめんなさいね、おかしなこと訊いて。
カスミ:
自分の価値なんて、そもそも考えないけど。
ここを、離れても……、
多分、ちょっとの間バランスを崩すだけで。
良くも、悪くも、ならないと思うから。
―店員の面持ちは敢えて抑えた、波立たぬ湖面の月。
チグサ:
しっかりと……、あなたはあなたを、養ってあげているのね。
―ふわりと笑み。
チグサ:
大切に、してあげてくださいね。
カスミ:
…………。
どうして、それを聞こうと思ったの。
チグサ:
ええ……。
他の人は、どうなんだろう、って。
カスミ:(合わせた眼を逸らせず)
アナタ以外の人は、ってコトかなぁ。
チグサ:
はい……。
(にこり、と仄かに、若草の揺れるように笑み)
お話を、聞いてもらっても、いいかしら。
カスミ:(にぃ、と、三日月の笑み)
イイよぉ?
ソレがオシゴト、だからね。
チグサ:
わあ、かっこいい。
―ス、と背筋がやや伸び、薄ら目を細め。静かで、深い呼吸。
―春の暮れの幻を語るが如く、一見客は話し出す。
チグサ:
祖母が、亡くなったんです。
ちょうど、1週間前に。
カスミ:
……、それは、ご愁傷サマ。
チグサ:(軽いお辞儀で返し)
ここ1年程はずっと、ほとんど寝たきりのような状態だったから……、突然、という感じでは無かったけど。
カスミ:
おいくつ?
チグサ:
喜寿を待たずに。七十六でした。
カスミ:
まだ、若いよね。
チグサ:
今だと、ね。
気の短い人だったから……、神様も少し、気を遣ったのかも。
―薄く笑む。店員は敢えて受けず。
カスミ:
最期は病院で?
チグサ:
いえ……、通院はしていたけど、家で、私が1人で看ていたの。
2人暮らし、だったから。
カスミ:
それは……、唯一の肉親とか、そういう、
チグサ:
いいえ、父も母も生きているし、親族も、居るには居るけれど。
(ふふ、と困ったように微笑み)
本当に皆みんな、祖母と、仲が悪くて。
カスミ:
……あ、ちょっと好きな感じになってきたカモ。
お金だけ出して、丸投げ、みたいな話?
チグサ:
そう、ね……。必要な時は連絡をするように、と。
祖母は、最後まで貯金と年金で賄っていたけれど。
カスミ:
世話になりたくなかった、とかかな。
アナタは、キライじゃなかったの? おばあちゃんの事。
チグサ:
元々ほとんど、人柄を知らなかったの。
時どき両親や親戚の口から、悪口を聞くぐらい。
森の奥に独りで住んでいる、意地悪な魔女みたいな人を想像していて。
カスミ:
ジッサイ一緒に住んでみたら?
チグサ:(笑み)
想像通り。もっとひどいくらいの。
カスミ:
へぇ……。
チグサ:
丘の上のお家はとっても、素敵だったけれど。
祖父との終の住処として建てられたから、きちんとした造りで……、
お庭が、広く取ってあって。
カスミ:
庭広いのはイイよね。
チグサ:
魔女にはもったいない、って、よく思ったわ。
とにかく意固地でね、気に入らない事があると何日も口をきいてくれないの。
物の場所とか、暮らしの勝手も何も、まるで教えてくれないし……、初めの頃は困り果てて。
―僅か懐かし気に眼を細め、グラスを傾ける。
カスミ:
そんなヒトの所へ……、アナタは独りで行かされたワケだ。
チグサ:
ヘンゼルとグレーテルのように、助け合える連れ合いがあれば良かったけれど。
生憎私も、祖母と同じで一人ぼっちだったから……、
ちょうど、良かったんでしょうね。
―常連客はス、と一口、黄金の液を含む。
チグサ:
美味しい。
カスミ:(ニヤと笑みを含み)
……全然チャカすんじゃナイけど、知らない家のそーゆーハナシって好きだなぁ。
チグサ:(にこりと淡く笑み)
こんなの、面白い?
カスミ:
今のトコロねぇ。
グレーテルが独りボッチだったのは、どーしてなのか気になるなぁ。
チグサ:
ふふ。
……私の家は、両親も兄も、2つ上の姉も皆、優秀で。
整えられた路を決して外れない、秀才一家。
カスミ:
アナタだけは、違ったトカ?
チグサ:(ふわりと笑み)
ええ。私は本当に、何をやっても駄目。路を外れるどころか、レールにさえ乗れなくて……。
小さい頃から塾に通って、習い事も沢山、していたけれど。兄や姉ほどの芽が出る事もなく、長続きもせず。
カスミ:
偶々合うヤツが無かったのかな。
チグサ:
……そう言ってくれる人が、いれば良かったのにね。
次第に私への興味を失って行く両親や兄の顔色を、ただ不安気に見ているだけの子供に……、
友達が出来無いのも、無理は無くて。
カスミ:
……、ふぅん。
チグサ:
アルバムなんて、もう見る事はないけれど、どの写真を見ても私、きっと、酷い顔をしているわ。
重たい甲羅を背負った、ノロマな亀みたいな子だって、あれはきっと、姉が私に、言ったんだったかしら……。
―夢を見るように語り。
―店員は、カウンター内の木椅子を寄せる。
カスミ:
ごめん、座るね?
チグサ:
あ……、どうぞ。
ごめんなさいね。
カスミ:
ううん、ちゃんと聞きたいから。バカップルのノロケ話よりヨッポドいいや。
チグサ:(店員の明るい金髪に眼を移し)
髪、綺麗。
カスミ:
……コレ? ん、最近、また入れ直して……。
(毛先を指でもてあそびつつ)プリンな感じも、ヤサグレててキライじゃ無いんだケド。
ま、背筋伸びる気はするよね……、綺麗に仕上がると。
チグサ:
私もあの時いっそ、そんな風に出来てたら……、
なんて。ふふ。
カスミ:
別にヤンキーとかじゃ無かったケドね。そんな根性ナカッタし……。
今も、サブカル気取ってるダケ。
チグサ:
でも、私は、どうしたい、とか、何が好き、とか、全然なんにも、無かったから……。
勇気以前の、問題だったかもね。
カスミ:
……、環境が悪い、んだと思うケドね。客観的には。
チグサ:
子供に見えている世界は、狭いものね。
本当に……、両親の決めたあるべき姿と路だけが、手足を伸ばして許される全部だと思っていて。
そこにすら、背が足りなくて、手が届かないことを知った女の子は……、
泣きもせず、笑いも出来ず、ただ地面に突っ伏して、うずくまるしか、ありませんでした、とさ。
―ふわりと浮いた笑み。
チグサ:
……なんて。
カスミ:(にやりと笑み)
……めでたく、ナシ。
まだ、ヘンゼルとグレーテルは旅にも出てないケド?
チグサ:
どちらかと言えば、赤ずきん、かしら。
病気のお祖母様の元へ、お遣いに出されたんだから。
カスミ:
オオカミが待ってるのカナぁ。
―くい、と一口含む。
カスミ:
お祖父ちゃんは?
チグサ:
何年か前に、既に亡くなっていて……。
親戚の人たちに言わせれば「不当な」ほどの額を相続した事で、祖母はかなり、好き放題言われたみたい。
カスミ:
奥さんなのに??
チグサ:
「相応しくない」、という風なニュアンスかしら。
賎しい生まれの、カフェで女給をしていたような、祖父を誑かして家に入り込んだだけの女に、と……。
カスミ:
ナニそれぇ、ゲロっゲロぉ。
チグサ:(困り笑顔で)
ええ。本当に。
カスミ:
お祖父ちゃんは死ぬ前は、守ってくれなかったのかな。
チグサ:
昔の人だから……。
愛情は、あったんだと、思う。
カスミ:
ふぅーん……。
まぁ、イイや。
それでぇ、アナタはどーして?
チグサ:
私?
カスミ:
アナタはどうして、夫を亡くして病気持ちの、イジワルな、親戚中の鼻つまみ者のバアさんの所へ、召使いに出されたのかぁ、ってコト。
チグサ:
ああ……。
(フワと笑み)それは簡単。
ついに、何一つ満足に覚えられないまま……、
私が、使い物にならなくなってしまったから。
カスミ:
使い物に?
チグサ:
高校受験に失敗したの。兄も姉も出た進学校に、私だけ落ちてしまって。
家庭教師の人たちは精一杯やってくれたし、私も、自分なりに、力を尽くしたと思うんだけど……、
カスミ:
うん。
チグサ:
滑り止めに受かった私を、それでも「おめでとう」と言ってくれる人は、居なかった。
カスミ:
ご期待に、沿えなかった、と。
ちなみに受かったのは?
チグサ:
えっと……、「有卿」。
カスミ:
めっちゃめちゃカシコいトコじゃん。友達が1人、確かソコ出てるけど……、
チグサ:
その人はきっと、とっても優秀な人だと思うわ。きっときちんと卒業して、多分大学にも、
カスミ:
行ってるね。「晴門」。
チグサ:
わあ、すごい……。
そもそも、そういう人が行く高校だもん、十分……。
でも、私の家族に取っては、お目当て以外は全部、同じだったみたい。
―ふふ、と眉下げる笑み。
チグサ:
最後のチャンス、という風にでも思っていた、当時の私は……、
きっと、絶望したでしょうね。
不思議と、あまり覚えていないけど。
カスミ:
…………。
チグサ:
そこまでなら、俯いて、部屋の隅の造花みたいに、押し黙って生きていけば良かったんだろうけど……。
カスミ:違ったんだ?
チグサ:
望まれた風に育てなかった自分が、望まれてもいない場所で、それでもそれなりに、良いように生きて行こうとする事が、なんだか、どうにも、出来なくて……、
カスミ:
目的を失っちゃったカンジかな。
うんうん。
チグサ:
ある日、高校に、行けなくなってしまったの。
カスミ:
あぁー、
そっちかぁ。なーるほど。
チグサ:
虐められていた、とか、そういう事は何も無いのに。
本当に、突然。
―一見客はふ、と虚空に眼を浮かす。
チグサ:
……そう言えば……。
あの日、私、日直だった。期末の範囲を、2人で書き出す事になっていて……。
今の今まで、忘れていたけど。急に休んで、申し訳無い事を、してしまった……。
カスミ:
ちなみに日直の、もう1人の名前は?
チグサ:
……、思い出せない。もう何年も前の事だし、一学期で付き合いも浅かったし……、
カスミ:
じゃ……、向こうもそうだよね、きっと。
チグサ:
…………。
ふふ、ふ。そうね。
ー視線を僅か、空に浮かべ。
チグサ:
……本当に……、この1週間、色々な事を思い出すわ。
どうして、かしら。
カスミ:
……、肩の重荷が降りたから、脳ミソ解凍されてるんじゃナイの。
チグサ:
そう、ね……。そうかもしれない。
重荷、だったのかしら……、
カスミ:
それで? 結局高校は?
チグサ:
議論も長引かず、2学期末を迎えることなく。
カスミ:
うんうん。
チグサ:
何もやる気が起きなくて。
教科書も、取りに行かなかったの私。家族も、関心を示さなかったし。
カスミ:
……、ふぅん。
チグサ:
水槽の中で一匹だけ、生きてる事を忘れられた、魚にでもなったような気分だった。
何かの手違いで、生まれて、ただ生きているだけの……、
カスミ:
誰かが言ったの。
チグサ:
ううん。
薄暗い部屋で、独りで丸くなって、小さくなっていると……、
そんな事ばかり、浮かんでくるのね。
カスミ:(微か、長いまつ毛が震え)
……、……。
そう、だね。
チグサ:
昨日と今日の区別が曖昧な日々を、1年ほど続けた辺りで、
そう、本当に……、ある日、突然、
「お前は明日から、お祖母さまと一緒に暮らすんだ」、って……、
カスミ:
ヒキコモリの赤ずきんを、悪い魔女のトコロへ遣いに出そうだなんて。
ヒドい親ぁ。
チグサ:(眉下げ、笑み)
ていうか、無茶よね。
でも……、これは罰なんだって、当時の私は思ったみたい。
(笑みが次第に薄れ)
親の望みを叶えられない、出来損ないの赤ずきんは。
要らない子どもの、グレーテルは。
お仕置きのように、口減らしのように、
白詰草の丘に、
捨てられて……、
カスミ:
……さて、そこではドンナ困難が、女の子を待ち受けていたのでしょう、か。
チグサ:(ふ、と笑い)
ふ、ふふ……。
女の子、という歳でも、なかったけれど。
カスミ:
十代でしょ?
チグサ:
ぎりぎり、ね。でも、子供か。
中身は何にも、変わらないけど……。
―木椅子がカタンと鳴る。
カスミ:
寒いの、ホントに平気?
チグサ:
大丈夫、ありがとう。
―一見客は一口、含む。
チグサ:
押し付け合いの末に、白羽の矢が立ったのね。お誂えなのが居るだろう、って。
嫌われ者の魔女と、家の汚点の、落ちこぼれ。
体のいい厄介払い。
カスミ:
臭いモノは纏めて詰め込んどけってコトね。エリートは考えるコトがチガぁう。
チグサ:
ふふ。本当にね。
……でも……、
ごみ箱と言うには、あんまりに綺麗な、お家だったわ……。
―薄れた夢を、思い出そうとするような、眼。
チグサ:
トランクを引いて丘を登って、初めて館を見た時の事を忘れない。
風に揺れるクローバーの一面の緑の中に、白いお家が浮かんで……。
小ぢんまりとした、和洋折衷建築の洋館。
カスミ:
大正レトロっぽいヤツね。
チグサ:
そう、白亜の壁と木の枠取りが、暖かで。
庭は、よく手入れをされた、英国式のコテージガーデン。素朴で上品な色の薔薇に、クレマチス。ルピナスや、シダの仲間。
自然の野山の風景を、ミニチュアにしたような。
カスミ:
庭、そーいうカンジなんだぁ。
あの、絵本のヒト……、
チグサ:
ターシャ・テューダー? あんなに広くは無いけれど、様式は似てるわね。
こんな素敵な庭のあるお家に住めるなら、学校辞めて良かったかも、って……、夢中になって見ていたら、約束の時間にすっかり遅れてしまって。
初日から、心証最悪だったっけ。
―懐かしむように眼を細め、微笑む。
カスミ:
魔女が、手入れしてたの? 庭。
チグサ:
ええ。たくさんのハーブや、柵に絡ませた蔓植物や……、全部、祖母が。レイアウトからやったんですって。
草や土とお喋りをするように、毎日お世話をしていて……、
カスミ:
まだ動けてたんだ、最初は。
チグサ:
本格的に、悪くなるまでは。
日課の散歩にも1人で出ていたし、同じように年取った、大きな猫が居着いてたり…、
「なんだ、この人はちっとも孤独じゃ無いんだ」、って。
最初の頃は思ってた。
カスミ:
江國香織の小説に出て来そー。
チグサ:
好きなの?
カスミ:
んー、ムカつくんだけど読んじゃう枠の作家だよね。
チグサ:
ちょっと、わかるかも……。
本も、よく読む?
カスミ:
最近はあんまり、だけど。学生の時とかは、ソコソコ……、
チグサ:
誰が好き?
カスミ:
……、
土屋鞠子、とか、
チグサ:
少女小説の人よね……、
「金の髪のコーマ」とかの、
カスミ:(遮り)
今は。
読まない、けどね。
……、それで、
チグサ:
あ……、ごめんなさい、
カスミ:
ううん。
ホントに、イキナリ2人暮らしだったんだ。
サポートとかも本気で全然?
チグサ:
そう、ね……。お金は毎月振り込まれるけど。
父も、父の兄妹たちも、親の事なのに、一度も顔を出さずじまい。私が思っていたよりもずっと、仲は冷え切っていたみたい。
カスミ:
お祖母ちゃんもだけどさ、アナタには、
チグサ:
私は……、家族の数に、入っていなかったから。
―一見客は一口含む。
チグサ:
初めは酷いものだったわ。
世話なんて必要ないって、突っぱねていたようだし。
「すぐに根をあげる」、「お前も他の連中と同じで、私を貶んでるんだろう」、って。
カスミ:
ふぅん。
チグサ:
でも……、除け者同士、通じるところがあったのかは、わからないけど。
少しずつ、ほんの少しずつ、お互いに馴染んでいって。
意固地で嫌味なのは、ある程度地なんだって気付いてからは、かえって上手くやれた。
カスミ:
へぇ……。親戚に冷たくされたからじゃなくて?
チグサ:
どこかで嫌気がさして、我慢するのをやめたんだと思う。
暖炉のそばで、2人して……、父や叔父の悪口を言い合うのは、面白かったわ。
カスミ:
イイじゃん、ボクは好きかも。
チグサ:
若い頃カフェで働いていたから、口が達者だったのね。堅い家柄の人たちには、それが、
カスミ:
ナマイキでクチサガナイ、陰険で性悪で嫌な嫁に映った、と。
チグサ:
本当に口は悪いのよ。通院の時だって、医者がボンクラだとか、ナースが下品だとか、ほとんど寝たきりになってからも、口だけは減らなくて……。
私しか聞く人がいないから、本当、笑うしかなかった……。
―一見客は眉を下げ、しかし屈託なく笑う。
カスミ:
今のトコ、そんなに悪くも、って感じだけど。
チグサ:
勝手を覚えてからは、少しずつ楽になったんだけどね……、
そもそもが大変。病気のお祖母様は、元からオオカミみたいに根性曲がりだし。
カスミ:
喰われちゃうまでもなく? クフフ。
チグサ:
手回りをわざと昔風に作ってあるの。バカみたいに大きなキッチンストーブがあって、私、そんなの見た事も、触った事も無かったから、
カスミ:
て、どんなの?
チグサ:
ええと、大きな鉄の箱で、要は薪オーブンなんだけど。中で火を焚いて、その熱で調理をするのね。
竈と焜炉とストーブが、1つになったような……、
カスミ:
昔の映画とかに出てくる、台所に置いてあるヤツか。
チグサ:
そうそう。お湯一つ沸かすのにも、いちいち火を入れるのよ。電子レンジが恋しかった。
カスミ:(揶揄の色を滲ませ)
コダワリのレトロでスローな生活、だね。不思議系の女子が挑戦して挫折するヤツ。
チグサ:
とにかく面倒臭いのよ。お芋なんかを焼くと、美味しいんだけど……。
カスミ:
薪割りとかしてたのぉ? ていうか電気は流石に、
チグサ:
まさか。固形燃料を取り寄せ。
もちろん電気も普通にあるし、冷蔵庫や洗濯機はちゃんとしてる癖に、って……。
カスミ:
盥と石鹸で手洗いじゃナイんだ?
チグサ:
冗談! ふふ……。
―一頻り、笑みの交差。
チグサ:
それで……、不便なキッチンで、それでも頑張って料理をしたらしたで、「食べられたもんじゃない」、「仕込んでやる」、って、腰も悪い癖に張り切って。
タルトだのパイだのカヌレだの、振る舞う相手もいないお菓子の作り方を、何種類も覚えさせられるし、
カスミ:
損は無さそーだけどねぇ。
チグサ:
祖父の書斎の片付けで、重い本を何箱も運んだり、庭の手入れにこき使われたり、性悪な猫と日々格闘したり。
呼び付けられたら飛んで行って、もう散々。
カスミ:
性格も魔女と似てるんだぁ、猫。
もしか、黒いの?
チグサ:(呆れたような笑み)
なんともいえない茶色。
最大の敵と言っても過言ではなかったわ、物は倒すし、食器は割るし……。祖母とはどういうわけか、上手くやってたけど。
カスミ:
クフフ。ソイツは、今も居るの?
チグサ:
あ……、
いえ……、
―追憶の笑みが、薄れ。
チグサ:
1年と少し前の台風の日に、どこかに行ってしまったっきり、帰って来なくて。
年取った猫だったから、もう……、
カスミ:
死んじゃってる、
……かもね。
チグサ:
さあ……、わからない。
結局1度も……、私のあげた餌、食べてくれなかったわ。
カスミ:
……そ、っか。
チグサ:
祖母は餌やりっていう、唯一の仕事を失った事になるわね。
強がっていたけど、目に見えてショックを受けていて……、
カスミ:
うん、
チグサ:
それが切っ掛けかは、わからないけれど、
カスミ:
ガク、っと?
チグサ:
容態が、悪くなっていった。
動けない日が増えて、料理も、庭の手入れも、出来るような状態では無くなっていって……、
カスミ:
ふぅん……。
(やや間を置き、切り替え)
…………そういう感じの庭ってさ、自然っぽい感じに見えて、
チグサ:
ええ……、すっごく面倒で大変。
季節ごと、草ごとに、細かく気を使わないとだし、何より問題は虫なんだけど……。
祖母は、庭が荒れるのだけは許さなかったから、
カスミ:
アナタが引き継いだ、とか?
チグサ:
恐ろしい事に、よ。
悪戦苦闘。審査員の点は辛いし。
カスミ:
へぇー……。
色々教わって?
チグサ:
剪定とか肥料の撒き方とか、細かい事は怒られながら覚えて、本を自分で何冊も取り寄せて……。
何やってるんだろう私、って、
カスミ:
思っちゃった?
チグサ:
思った頃には、一通り手際よく、出来るようになっちゃってたわ。
―ふふ、と笑い、一口含む。
チグサ:
脚が利かなくなってからは、私が車椅子を押してお散歩。
歩いてないんだけど。
カスミ:(吹き出し)
ぷっ、ウクク。
チグサ:
う、ふふ……。
車椅子を押すのって、今は慣れたけど最初、不思議な感覚だった……。
カスミ:
そーなんだ。押した事ナイかも。
チグサ:
乗る人の意識はあるのに、全てを委ねられているような……。
家の近くにね、紅葉が綺麗な公園があるの。
冬枯れの景色も、私は好きなんだけど……、禄にそんな話もせず、黙りの祖母と2人、池の周りをグルっ周って。
時々一方的に、昔の話をしてくるの。
カスミ:
思い出バナシ的な?
チグサ:
大方は悪口。
誰々は昔から本当に憎たらしいとか、誰々が見て見ぬ振りをした事を、自分は一生忘れない、とか。
カスミ:
恨みで生きてるってヤツだね。
チグサ:
うんざり。お追従をサボると怒るし。
……たまに、女給さん時代の話や、祖父と行ったヨーロッパ旅行の話が出た時は、アタリだ、ってこっそり思ってた。
カスミ:
へぇ、新婚旅行?
チグサ:
結婚前に。新婚の時はバタバタしていて行くに行けなかったって、その時の悪態も、まあ定番メニューだったんだけど。
カスミ:
ウクク。
チグサ:
ウェールズの素晴らしいガーデンで見た、金のレインツリーのトンネルの話。
フランスで、お城巡りをした話。
本場の、特にイタリアの洋菓子は絶品で、日本のは全部偽物だって、またそこから悪態に入るとハズレ。
ローマの遺跡はただの盛り土だとか、悪口もふんだんに盛り込まれるんだけど。
不思議と……、車椅子を押しながら聞いていると、祖母と祖父のヨーロッパ旅行に、同行しているような気分になる時があって。
それがなんだか、面白かった。
カスミ:
楽しみの少ない身としては?
チグサ:ふふ、本当にそう。
―一口、含む。息を吐き、笑みは薄れ。
チグサ:
そういう……、祖母の人生で少しだけの、「価値ある」時間を詰め込んだような、ポツンと寂しいお家を見上げて、クローバーの丘を登っているとね……。
私はこの、何もかも過ぎ去ってしまった、老い先短い、可哀想な老人の、萎えた手足の替わりであって。
それが私の、今の所の、生まれて来た意味なのかな、なんて、不思議な気持ちになった。
カスミ:
……。生まれてきた、
チグサ:(笑みが戻り)
登りも一苦労なんだけど、大変なのは下りで。
手を離したらそのまま滑って行っちゃうから、ブレーキを掛けた状態で、こう、こうやって、体重を後ろに引いたまま、坂を降りて行くの。
腕が痛くて、本当に毎回……。
カスミ:
運動不足にはならなさそうだね。
チグサ:
私、元々は結構、肉付きが良かったんだけど……、
カスミ:
今は細いもんね。スラってしてる。
チグサ:
いえ……、あなたこそ、
カスミ:
ボクは華奢なダケ。幼児体形だし。
あんまり気にシテもナイけど。
―店員はニヤと笑み。
カスミ:
ていうか、魔女の家に囚われて、逆に痩せちゃうとか、ちょっと面白いね。
チグサ:
丸々と太ってる余裕なんて無いの。とんだお菓子の家もあったもんだわ。
―ふわりと笑む。
チグサ:
本当……、たまのご褒美に、美味しいお茶を淹れてくれなかったら……、
もう、やりきれなった。
カスミ:
ふぅん……。
そんなのは、してくれるんだ。
―一見客は一口、グラスを傾ける。
チグサ:
普段の口汚さからは想像出来ない、本当に美味しいお茶なの。ほのかに甘みがあって、ふくよかで……。
カスミ:
カフェ仕込みの本格的なヤツかな。
チグサ:
本人は「純喫茶だ」って怒るんだけど。
……だいぶ悪くなってからも、痩せ我慢して、お茶だけは淹れてくれて。
自分が淹れなきゃ、私じゃ下手だって。
最期まで、美味しくて。
ちょっと……、憎たらしかった。
カスミ:
……、そっか。
―一見客はフと微笑む。
チグサ:
いつも……、聞くばっかりだったから。
人に話すのって、楽しいのね。
カスミ:
そぉ? 良かった。
じゃなきゃ、こーゆーお商売はやってらんないよね。話したいコト話してイイ場所って、あんまナイし。
チグサ:
そうか……。ふふ。
でも、じゃあ、あなたが、話したくなった時はどうしてるの?
―店員の眼に一瞬、陰が差す。
チグサ:
聞くばっかりのお仕事だろうし……。
これも、不躾だったらごめんなさい。
カスミ:(切り替え)
んーん、イイけど。
ま、仕事は仕事だとしてぇ。
友達とか恋人にでも、聞いてもらうんじゃない。ボクはあんまりだけど、お店ハネてからヨソの店行く人もいるし。
チグサ:
……そう。
聞いてもらえる相手や場所を、自分で見つけたり、作ったり……、
そうやってみんな、自分なりに自分を、養っているのよね。
カスミ:
……上手く出来てるヒトばっかりじゃ、ナイと思うケド、ね。
チグサ:
私は、無理だな。
カスミ:
……、どして?
―一見客は店員を見詰め。
チグサ:
価値が、無いから。私には。
カスミ:
……。
って、思うんだ。
チグサ:
ええ。
カスミ:
どーしてぇ?
―仄かな笑みは、今は消え。
チグサ:
「自分の価値は自分が決める」って、よく言うけど。
それなら……、自分で自分自身に、価値を、認められないのなら。
人がどう言おうと、その人にはやっぱり、価値が無いと思うから。
カスミ:
……自分で自分に、か。
価値が無きゃダメなのか、ってトコもあるけどね。ソモソモ。
チグサ:
周りはあまり、困らないかもね。
価値の無い人は従順だから。
あの人、……祖母は、周りの誰もが認めなくたって、自分の中の価値を、記憶を、大切にしていたから……、
最期まで頑なで、いられたんだと思うわ。
私は、自分に価値を感じないから、1人では何も決められない。
カスミ:
……、……。
―沈黙。店員のグラスは薄く汗をかいている。
チグサ:
でも、ちょっと楽なの、本当は。
カスミ:
そう、なんだ。
チグサ:
家では結局、何の使い物にもなれなかった私には……、
祖母のお世話をする事が、たった1つの、価値だったけれど。
それも、1週間前に終わった。
カスミ:
…………、
チグサ:
前の日にね、一緒に庭の手入れをしたの。
いつもはもう、見てるだけだったんだけど、
「鋏を使いたい」って言うから。
車椅子を寄せて、久々に、少しだけ、枝切りをしてもらって。
割と、元気に見えたんだけど。
カスミ:
うん。
チグサ:
いつも、私の手入れを監督する時は、蕾を痛めるとか、水の撒き方が悪いとか、いちいち小言ばっかりなのに。
その日は、一通り作業が終わっても何も言わずに、家に入る時に一言だけ。
「私の庭は今日も元気だ」、って。
カスミ:
…………。
チグサ:
今は私がやってるのに、って、腹も立ったけど。
初めて、合格を貰えた気がして。
少しだけね、嬉しかった。
カスミ:
……そっか。
チグサ:
それきり、黙ってしまって。
急な黙りはいつもの事だったから気にもせず、体温と脈を計って、薬を飲ませてから、ベッドに上げて。
日課の、1分くらいの、ほんの些細な世間話をして、
明日は風があるみたい、とか、そんな……。
眉を顰めるだけで、返答は、無かったけど。
……それから……、そう、私、夕食の準備までの間に……、1人で、お茶を飲んだんだったわ。
祖母みたいに上手くは、淹れられなかったけど。
カスミ:
……聞いてるから、続けてね。
チグサ:(緩慢に首肯し)
それで……、いつもの時間に、オムツを変えて、夜の薬を飲ませて。
朝晩はまだ冷えるから、って、毛布を被せてから、コールブザーのスイッチを、手元から離れないように確認して。
いつもの通り、返事のかえらない、おやすみの挨拶をして。
寝息を確かめてから、部屋を出た。
少しだけ本を読んで、私も、庭の作業で疲れていたから眠くて、きっと、すぐに……、
深く、眠ったと思う。
カスミ:
……うん。
チグサ:
そうしたら翌日、
祖母が、死んでいた。
カスミ:
…………。
―緑と白の、風景の記憶。
チグサ:
クローバーが揺れてたわ。
窓の向こう、あの日は風があったから。
「予報の通りだ」って、私、変に冷静で……、
カスミ:
……、
チグサ:
波打つ緑を背景に、いつもの通り眉を寄せて、深い皺を刻んだまま。
眠るように、あの人は死んでいた。
カスミ:
……。
苦しまずに、死ねたのかな。
チグサ:
悶えた跡は、無かったけれど。
他人には、わからない。
結局、最後まで、わからなかった……。
カスミ:
……そう。
―ほんの刹那の、沈黙。
―静かな、追憶と内省の呼吸。
チグサ:
その後は、早かったわ。
叔父に連絡をしたらすぐに、たくさん人が来て。
あの家に、あんなに人が入ったのは初めてだった……。
カスミ:
スグにお通夜?
チグサ:
そこからは、コマ送りみたいに時間が過ぎて、あまりよく覚えていないんだけど。
お通夜も葬儀も、隅の方に居た。
親戚の人たちと、あの人について共有しているものなんて何も、無いと思ったから。
カスミ:
……そうだよね。
―一見客の眼差しは、壁を透かし、遥か遠い。
チグサ:
空が澄んで、綺麗な午後の。
火葬場の煙突から昇る煙を見て、あの人は、身軽になれたんだと思った。
出会った時からずっと、何もかも、重たそうだったから。
要らない物は全部置いて、価値のある思い出だけを持って。
天国か、それかもしかしたら、祖父と一緒に、叶わなかった新婚旅行に行ったのかもしれない。
もう一度見たいと言っていた、パリのサンジェルマン通りにも。
それなら、例のマロニエの並木道で、車椅子を押しているのは祖父なんだろうか、
それとももう、足なんて関係無いのかな、なんて、ぼんやり考えながら、
悪い魔女が死んでしまったら、お話の女の子は、どうなるんだろう、って……、
―語りながら、自分が涙を流している事に気付く。
チグサ:
あ、……?
カスミ:
ティッシュ、要る?
チグサ:(己の涙を確かめながら)
…………、
私……、一度も、泣きたいなんて、思わなかったのに。
カスミ:
泣きたくて泣くんじゃナイもんね。
人に話して、整理がついたんじゃないの。
―店員はティッシュペーパーを手渡す。
チグサ:(受け取り、小さく畳んで、涙を拭いつつ)
そうね……。そう、かも。
…………。
―記憶の雫は拭われ。再び、仄かな笑み。
チグサ:
聞いてくれて、ありがとう。
カスミ:
ううん。ケッコー、面白かったよ。
チグサ:
ふ、ふふ。良かったあ……。
―ス、とグラスを空ける一見客。店員は、見ている。
チグサ:
……私、ね。
カスミ:
うん。
チグサ:
今夜、死ぬつもりだったの。
カスミ:
……、……。
チグサ:
祖母の部屋を片付けたり、何となく、もう主のいない庭の世話をしたりしながら、ずっと考えていたんだけど。
やっぱり私は、自分の中に、養うべきと思えるような価値を、見つけられそうに無かったから。
カスミ:
…………。
チグサ:
煙になった祖母を見て、羨ましくなったのかもしれない。
役目を終えて、何かであろうとしなくていい事なんて、今まで一度も、無かったから。
それがこんなに楽なら……、この心地よさを持ったまま、私もどこかへ、消えてしまいたい、って。
―暫しの、沈黙の後、
カスミ:
ふぅん……、
―店員は三日月のように笑む。
カスミ:
……やっぱり。そーいうカンジだったんだぁ。
ボクの勘もバカになんないなぁ。
チグサ:
え……?
カスミ:
今……、飲み終わったカクテルね。
実は名前がもう1つ、あるんだよね。
チグサ:
『ヘミングウェイ・カクテル』じゃなくて?
カスミ:
『午後の死』、ってゆーの。
「し」は「死ぬ」の「し」ね。
チグサ:
午後の、死……。
カスミ:
ヘミングウェイの短編のタイトルなんだって。ホントはソッチのが有名なんだけど。
ごめんねぇ、「このヒト死にそうだな」って、何か思っちゃったから。
チグサ:
顔に、出ていた……?
カスミ:
雰囲気、かなぁ。
この世の何とももう、繋がってナイようなカンジ。素でそーいうヒトってあんまりいないから。
チグサ:
…………。
カスミ:
たまにやっちゃうんだよねぇ。
雰囲気でー、とかおまかせで、って言われた時に、自分の中で勝手に名前付けたり、変な名前のカクテル作ったり。
チグサ:
例えば?
カスミ:
『気付いてないのは自分だけ』とか。
『自惚れ野郎』とか。
シンプルに『雨女』とかね。
チグサ:(楽しげに苦笑し)
わあ、悪い遊び……。
祖母と気が合いそう。
カスミ:
もちろん、違う名前で出すけどねぇ。
話してホントにそんなカンジだったら、ボクの勝ち。
チグサ:
『雨女』、どんな味か気になるわ。
カスミ:
ちゃんと美味しくは作るよ、お客サマだし。
チグサ:(ふわりと笑み)
私のも、本当に、美味しかった。
ごちそうさま。
カスミ:
……、はぁい。
……死ぬつもり、だったから、やり残した事を?
チグサ:
ええ……、考えたら私、若い女の子がするような事、何にもしてこなかったなって。友達も居なかったし。
カスミ:
どんなトコ行ったの。
チグサ:
近場だけだけど。カフェでお茶したり、レストランで食事をしたり、海や、テーマパークへも行って、一通り……。
どこも思ったより空いてたわ。
カスミ:
平日だしねぇ。1人で?
チグサ:(困り笑顔で)
そこは、ご愛嬌。
友達や恋人なんてすぐには作れないし、直後に、死ぬのも悪いし……、
カスミ:
ま、ね……。
チグサ:
想像していたくらいには、楽しかった。
私の小さな器に詰め込んで持って行くなら、こんなものかな、と思って。
それで、最後に……、
カスミ:
お酒、飲みに。
チグサ:
ええ。
ここの前の道をね、祖母の通院の帰りに、タクシーで通り過ぎるの。
看板やネオンを見ながら、こういう所へ、自分もいつか、入る日が来るのかな、って、思ってたから。
カスミ:
どーだった?
チグサ:
とっても素敵。1番、楽しかった……。
どうも、ありがとう。
―一見客は微笑み、丁寧にお辞儀をする。
カスミ:
どう、いたしまして……。
(カウンター内の時計を見やり)
もう日付、変わっちゃったね。
チグサ:
本当、いつの間にか……。
お会計、してくださる? ごめんなさい、お仕事長引かせて。
カスミ:(伝票を取り、書き込みつつ)
んーん、全然。もっと遅くなるコトも普通にあるし。
チグサ:
ここで死んだりしないから、安心してね。
カスミ:
……。
ソレは良かった。オーナーに怒られちゃう。
―一見客は鞄から、小さな財布を出す。
チグサ:
せめて、初七日までは生きていようと思ったの。
祖母を心から弔い、おくる人は、どうやら本当に、居ないようだったから。
私の、最後の役目として。
カスミ:
…………。
チグサ:
家の整理は済ませたし、庭のお世話も、今朝終えて。
今日の内に、あのクローバーの丘を登って家に帰って、最後に1杯、お茶を淹れてから……、
お薬を、飲もうと思っていたんだけど。
カスミ:
……予定が変わっちゃったね。
気にするタイプ?
チグサ:
ふふ、いいえ。誰に言われた事でも無いし。
日付なんて、人が勝手に決めたものだから。
カスミ:
……そ。
はい、これ。
―店員は伝票をミシン目で切り取り、渡す。
チグサ:(金額を見て)
……900円で良いの? 安過ぎない?
カスミ:
初回は、チャージ無料なの。「また来てね」、っていう意味で。
チグサ:(眉を下げて笑み)
私は、もう来ないから……、
取ってくれていいのよ。
カスミ:
1回きりのお客さんなんて珍しくないし、ソコはイーの。
……でもさ。
チグサ:
はあい?
カスミ:
今日帰って、お茶飲んでから死んだら。
……「午前の死」に、なっちゃうね。
―ふ、と静寂。
チグサ:
……、
…………。
カスミ:
……言ってみたダケ。
帰りは? タクシー?
チグサ:
あ、うん、そこの、ロータリーで。
……考えたら、停まってるタクシーを拾うのも、初めて。
カスミ:(紙幣を受け取り、貨幣を返す)
簡単だと思うよ?
はい、まいどありぃ。
―一見客は財布をしまい、立ち上がる。
チグサ:
本当にありがとう。ごちそうさまでした。
―ニコリ、と軽く、若草の揺れる笑み。
カスミ:
またお待ちしてマス、
とは言っちゃイケナイんだよねぇ。
チグサ:
…………。
……ふふ。でも。
カスミ:
でも?
チグサ:
お酒に酔うというのは、思ったより良い気分……。
今日は、帰ってこのまま寝ようかな。
カスミ:
……そう?
チグサ:
…………、
あのね、……これ、
―一見客は胸もとから、長方形の紙片を一枚取り出し、店員に渡す。
カスミ:
これ……、
……栞?
―縁取られた、幸運の兆。
カスミ:
四葉の、クローバー……。
チグサ:
そんなに珍しくも、無いんだけど。
祖母の家に初めて行った日に見つけて、形が良かったから、押し葉にしたの。
ずっと、お気に入りの本に挟んでた。
カスミ:
……、
―一見客は店員を見詰める。
チグサ:
それ……、あなたにあげる。
カスミ:
……っ、い、や、
チグサ:
あの人の、棺に……、そっと忍ばせようと、持っていたんだけど。
「余計な手荷物を押し付けるんじゃない」って、怒られそうで、やめたの。
カスミ:
じゃあっ、尚更、
チグサ:
どうぞ貰って。使わなければ、捨ててもいいから。
カスミ:
……っ、……、
チグサ:(にこり、と笑み)
許して、ね。
―一見客はふわりと軽く、重さを纏わずに歩く。
チグサ:
遅くまで、ごめんなさい。本当に楽しかった。
カスミ:
あ、の……っ、
―一見客はドアに手を掛け。
チグサ:
明日、今日の事を思い出しながら、お茶を淹れて……、
美味しかったら、また来ます。
カスミ:
……っ、
―淡い微笑みを残し、静かに退店。
―若草を揺らす初夏の風の如く、ドアベルは響きを残す。
カスミ:
……、……、
―店員、1人。暫し呆け。
―眼の先は『午後の死』のグラス、
―次いで手元の、白詰草の、栞。
カスミ:(意を決し)
……っ!!
―勢いよくドアを開け、一見客が去ったであろうロータリーの方角に向け、叫ぶ。
カスミ:
あのさーーーっ!!
カフェっ、とかっ、やったらイイんじゃないかなーーーーっ!!
インスタとかに載せたいヒトとかも来るかもだしっ、
私もっ、行く、しっ………、
……っ、
って、居ないし。
―人影は無く、街灯と、高架下の静寂。
―遠くで、パトカーのサイレン。
カスミ:……、…………、
―手早く看板を消し、そそくさと店内へ。
―施錠。
カスミ:(眉をしかめ)
…………。
らしくな。
―栞を見詰め、ポケットへ。
―グラスをシンクに収め、卓上の水気を拭った後、スマートフォンを手に取る。
カスミ:
……タニマチにグロいスタンプ送りまくろーっと……。
―暗転。
―カスミにスポット。
カスミ:
【本日のカクテルレシピ】
『午後の死』、または『ヘミングウェイ・カクテル』カスミアレンジ。
■アニスリキュール「ペルノ」20ml
■スパークリングピーチワイン 適量
フルートグラスにペルノを注ぎ、冷やしたスパークリングでアップ。軽くステアして、サーブ。
……ただし、お客の顔を、確かめるコト。
―【終】
―【空白】
―【空白】
―【空白】
―【ボーナス・トラック】
―直後。非番である男性店員の、自宅。
タニマチ:(LINE通知に気付き)
ん……、イリヤ……、
―パーマヘアを掻き上げつつ、内容を確認。
―奇怪な形と色合いの、臓物や眼球のスタンプが連続。画面は血肉の色。
タニマチ:
んげ……、ナンじゃコリャ……、
【タニマチ】:「何なん」
【カスミ】:「グロい?」
【タニマチ】:「飯食ってた」
【タニマチ】:「やめろや」
【カスミ】:「ウソ」
【カスミ】:「寝てた」
タニマチ:
……、当たり……、
―寝返りをうち、仰向けの体勢。
【タニマチ】:「終わったん」
【カスミ】:「んー」
ー「おつかれ」と打ち終わる前に、
【カスミ】:「神、」
タニマチ:
神……?
【カスミ】:「髪、」
タニマチ:
あー。
【タニマチ】:「ww」
【カスミ】:「綺麗に仕上がってるって」
【カスミ】:「褒められた」
【タニマチ】:「おー」
【タニマチ】:「お客さんに」
【タニマチ】:「?」
【カスミ】:「そう」
【タニマチ】:「良かった」
【タニマチ】:「じゃん」
【カスミ】:「ちょうし」
【カスミ】:「のんな」
【タニマチ】:「ねーし」
【タニマチ】「乗って」
―やや間を空けて。
【カスミ】:「w」
―少しの間。
【カスミ】:「ひとの髪するの」
タニマチ:
かみするの……?
【カスミ】:「初めて?」
タニマチ:
あー。
【タニマチ】:「そーよ」
【タニマチ】:「わりといけた」
【カスミ】:「へーーーー」
【タニマチ】:「説明書」
【タニマチ】:「読むひとだから」
【タニマチ】:「おれさま」
【カスミ】:(再びの猟奇的スタンプ)
タニマチ:
うわ。
【タニマチ】:「っめろ」
【タニマチ】:「やああ」
【タニマチ】:「あああああああ」
【カスミ】:「今日」
タニマチ:
ん、
【カスミ】:「これから死ぬ人と喋った」
タニマチ:
…………、……、
【タニマチ】:「お客さん?」
【カスミ】:「そー」
タニマチ:
……、
【カスミ】:「しゃべるから」
タニマチ:
お……、
【カスミ】:「来て」
タニマチ:
俺が行くんかい。
……ま、そーか。
【カスミ】:「うそ」
タニマチ:
ん?
【カスミ】:「そのはなしはしない」
【カスミ】:「けど」
タニマチ:
しないんかい。
【カスミ】:「きて」
タニマチ:
…………、
―思案。僅か片の眉が上がり。
【タニマチ】:「うい」
【タニマチ】:「もう家?」
【カスミ】:「店」
タニマチ:
……マジでさっきまでか。
【タニマチ】:「行くから」
―「待ってて」と打ちかけた所、
【カスミ】:「グミ」
タニマチ:
グミ、
【カスミ】:「買って来て」
【タニマチ】:「なに」
【カスミ】:「バナナオレグミ」
タニマチ:
……アレか。
【タニマチ】:「りょ」
【タニマチ】:「準備する」
【タニマチ】:「わ」
【カスミ】:「洗い物」
【カスミ】:「してるからゆっくりで」
―やや間を置き。
【タニマチ】:「ん」
―身を起こす。
タニマチ:
……、えーと。
―最低限の身支度をし、出発の為部屋を出ようとする。
―不意に、
タニマチ:
……っ、
―卓上の、写真の人物と眼が合う。
タニマチ:
…………、……。
―影の中から忍び出すような、何とも言えぬ顔。
タニマチ:
……んなカオ、されても、よ。
……ジョウキ。
―数秒、変わらぬ表情を見詰め。
タニマチ:
…………。
―ふ、と逸し。
タニマチ:
バナナオレグミ、前ドコで買ったっけ……、
……、「メニーデイ」か。
―グレーの古いローテクスニーカーを履き、出発。
―ドアの閉まる音が薄暗く響き、部屋は無人。
―暗転。
―【終】
―【空白】
―【空白】
―【空白】
―【ボーナス・トラック2】
―白い館。室内。闇の黒。
―椅子に掛け足を組み、女が女を出迎える。
女:
遅かったじゃない。
……何? その顔は。
……葬儀以来ね。
電気の場所が分からなかったのよ。前と変わって、(言い止め)
……早く点けてもらえる? 相変わらずノロマだこと。
―点灯。黄色い灯りが室内が照らす。
女:
……どうも。
片付けは住んでるみたいね。
散らかる程の活気も活力も、元から無かったようだけど。
…………、
その、カーディガン。
似合わないわね。千景お祖母様のでしょう?
遺品を勝手に着て、介護が終わった開放感で夜遊び?
まるで子供ね。いい歳して顔付きも幼いし。人間青春を棒に振るとそうなるのかしら。
言っておくけど自業自得なのよ? 自分の品質管理を怠ったのが全ての、
……、
……勿論。
こんな事を言うために、わざわざこの丘を登って来た訳じゃないわ。
あんたがそういう態度なら却って好都合。
清々してるのよね? この家から出られて。
……遺言状が出て来たのよ。
弁護士が持って来たわ、あの人のお抱えだとかいう。あんた、面識は?
……そう。どちらでも良いけど。
端的に言うとね。
この……、大袈裟で古臭い屋敷と、この館が建つ敷地と土地の権利一切を、あなたに譲る、という。
……何とか言ったらどうなの? 曲がりなりにも我が身の事なのよ。
……気持ちはわかるけど、ね。
そうやって目を丸くする程度には突拍子もない、馬鹿みたいな話だもの。
あんたをここへやったのはお父さんの判断と裁量であって。
あんた個人に何事かが遺されるような筋や道理なんて……、法的な有効性は別として、どこにも有りはしないんだから。
……私の言いたい事がわかる?
あんたがあの弁護士から、正式に遺言状を受け取る前に、私がこの話をしにきた意味が。
まさか。
……相続を受けるだなんて、言わないわねぇ?
…………。
本当、何なの……、その眼は。
……姉に、向かって。
―【終】