あたしの隣の新卒ちゃん、片思いをしている様子
他所サイトの書いてみよう企画に投稿した作品です。
こっちにも載せておきます。
「ねえ、好きなんだけど」
朝一番、出勤して来て自分のデスクに着いて、あたしの目に最初に飛び込んで来たのはこの”文字”だった。
「ほう……」
あたしは赤城 淳子。
大した名もない企業の総務部に勤める女子社員だ。大学卒業後入社したこの会社に勤めて早5年。今年の期首に併せて主任に昇格したばかりの27歳。
中小企業としてはそこそこ広さのあるオフィスの窓際が総務部のテリトリーで、経理部・管理部が事実上「島」を共有している。窓を背中に正面を向いた課長席と、その直線状に10個以上のデスクが対面して並び、この「島」を形成していた。
その中のひとつとして「島」を構成するあたしのデスク。自慢じゃないが片付けは割と苦手な方で、中央にでんと鎮座したデスクトップの周りには書類やら文房具やらが無秩序に散乱している。
そんなあたしの右隣の席にはひとりの女の子—―浅緋 紅葉。
今年入社して来た高校新卒の18歳だ。
「おはようです、淳さん!」
「……おはよう、紅葉ちゃん」
軽快にあいさつしながら、紅葉が目の前に差し出して来た一冊の書面。
タイトルは『今期の目標について』。
社長の訓示を始め今年の売上目標や利益目標がグラフを用いてつらつらと書き連ねられている。毎年同じ事が書かれていないか?、と思いながら一番下の確認欄に、回覧済みのハンコを押す。――と言うのがいつものパターンだったが……。
それよりも目についたのが、先の“一文”である。
印刷したかの様な丸みを帯びたフォント。発色も鮮やかな赤色で回覧書類の中央に、でかでかと書かれている。
それだけではない――――
書面には、他にも「頼んだ資料まだ?」とか「仕事終わったら遊ぼう」などと言った文字が、様々なフォント、様々な色合いで、向きも大きさもバラバラに書き殴られていた。
無論、この回覧文書はあたしが目を通す前に、上司や同僚、後輩たちの目を通っている。こんな落書きがされていれば、大騒ぎだろう。
本来ならば――――
とりあえず、紅葉から回覧文書を受け取る。
彼女はにっこり微笑むとデスクに座って呑気に掃除を始めた。
配属されてまだ数ヶ月の彼女のデスクはこざっぱりしていてそこまで念入りに掃除する必要性も感じないが……それでも丁寧に天板を拭いている。
……そんな事してる場合じゃないと思うんだけどな。
どこかそそっかしい――まぁ今どきの娘である。
「ちょっと、手を貸してあげようか……」
あたしは独り言を呟くと、その文字の中の「頼んだ資料まだ?」と言う鮮やかなブルーで書かれた文字を爪先で引っ剥がした。ペロンと剥がれて宙ぶらりんになったその”文字”を指先でつまんだまま、右隣のデスクへ振り向く。
「紅葉ちゃん」
「はい?」
ブラウンの髪をはためかせ、紅葉が座ったままあたしを見上げて来る。
その肩を、ぽんっと軽く叩く。勢いに乗せて手につまんでいた”文字”を彼女の肩に押し付けた。
ぺったりとシールの様に張り付いた”文字”は、一拍置いて紅葉のブラウスの袖に滲み――消えて行く。
「あ!」
紅葉が唐突に何かを思い出した様にデスクの掃除を中座し、パソコンを立ち上げた。焦った様子でアプリを立ち上げると、印刷をかける。年季の入ったプリンタからひねり出された資料の束をたんたんっと勢いよくデスクに叩きつけて整え――さっそく朝のコーヒーを嗜んでいる課長の下へと持って行った。
「青葉課長。今日の会議の資料を用意しましたぁ!」
「忘れてたでしょ?」
差し出された資料を受け取る課長。四十代後半の彼からすると、高卒で入った紅葉はまるで娘の様。甘い態度を隠そうともせず苦笑いする。
「またやっちった……」
などと呟きながら、紅葉があたしの隣に戻って来る。あたしより頭半分小柄で、ちょっと明るすぎじゃないかと思うブラウンの髪を肩辺りで切り揃えている。ベージュのブラウスはゆったりを通り越してぶかぶかで、ただでさえ童顔な彼女をさらに子どもっぽく見せている。
あたしから見ても可愛らしい。
まあ男受けが良いのも分かる。
「思い出して良かったじゃない」
眼鏡の位置を直しながら、あたしは彼女に笑いかけた。
黒い縁の眼鏡に、同じ色の髪を背中まで伸ばし、簡単なヘアゴムでまとめている。
ゆるふわ系の紅葉とは対照的。これがあたしのスタイルだ。
……地味って言うな。
「淳さんに声かけてもらわなかったら忘れてた!」
朗らかに微笑む紅葉。
一応こちらは年上で、先輩で、なんなら今年からは上司の立ち位置でもあるので敬語も忘れないで欲しいところだが――
「でも紅葉ちゃん。あたしが頼んだお買い物も忘れないでね?」
「え?」
あたしの言葉に紅葉がきょとんする。
「え? ……じゃなくてね。
備品の発注! 見積もり取って『稟議書』起こしておいてねって言ったでしょ?」
「わ、忘れてましたぁっ!」
慌てて業者へ電話をかける準備を始める紅葉。
今のところ、備品の発注が彼女にできる唯一のお仕事だ。
一通りの事は無難にこなせているが、忘れてすっぽかされる事もこれが初めてではない。
――ご多分に漏れずまだまだ学生気分が抜けていないご様子だ。
まあ、それはそれとして――――……
――――これが、あたしの“能力”だ。
人から人への”想い”を”文字”として“見る”事ができる。
この”文字”は媒介を必要とし――例えば回覧書類など”紙”であれば何でも良い――そこに、印字される様に発現する。人から人への伝達なので、”想い”を伝えたい人間が、伝える対象の人間に、この”紙”を渡すことが必要だ。
例えば今の場合、課長が「頼んだ資料まだ?」と言うメッセージを紅葉に差し向けたまま回覧書類を渡した事で、”文字”が“見える”様になったと言う事だ。この”文字”はあたしにしか見えず、あたしにしか引っ剥がす事も――そして貼り付けて伝えることもできない。
なので、他の「仕事終わったら遊ぼう」と言うのも、誰かから誰か――内容からして紅葉を含む若い後輩たちの誰かだろう――に向けたメッセージが“見えて”いるものなのだ。
まあ、こんな仕事に関係のない私信は放っておいて良いだろう。
放置すれば、時間とともにこの文字は消えて行く……。
さて、以上を踏まえて先の”一文”である。
ちょっと面白わね。
あたしは胸中でほくそ笑んだ。
ところでこの“能力”には、ひとつ欠点がある――――
「赤城君」
「はい青葉課長、何でしょう?」
「貴女にも頼んでおいた資料はまだでしょーか?」
「あ…………っ!」
ジト目で見上げて来る課長の視線に追われながら、あたしは大急ぎでパソコンを立ち上げた。
――――この”能力”。自分自身には使えないのだ。
◇◇◇
「ねえ、好きなんだけど」
「文面からすると女の子よね……」
ランチのサンドイッチを頬張りながら、あたしは回覧文書をひたすらに眺めていた。そんなあたしに対し、対面の席に座る男の同僚が、手にしたスマホ越しにチラチラと視線を向けて来るのを感じる。
「赤城、社内回覧を読みながら食うメシは美味いか?」
「ええ、美味しいわ」
「……そっか」
触らぬ神に祟りなしとばかりにぼそっと呟いて、彼は手にしたスマホに視線を戻した。
奇異なヤツだとでも思われたのだろう。
そんな事はどうでも良い。
あたしは、ひとり探偵ごっこを進めていた。
この“能力”で見える“文字”は、ある程度書き手のキャラクターが反映されている。男なら男らしくゴシック体で、女の子なら女の子らしく丸いフォントで。と言う具合にだ。
もちろん、それはあくまで傾向として――と言うだけであり、例えば営業部のバリバリのキャリアウーマンは、これでもかと言うほどかっきりとしたフォントが“見える”し、その時の心情によっても変化する。
が、とりあえずは見た通り、この丸っこいフォントからして女の子が誰かに当てた“想い”と考えて良いだろう。
総務部は経理部・管理部と「島」を共有している為、全体としては12人の所帯だ。総合職とあって女子が多く、女8名男4名の構成。あたしを除くので候補の女子社員は7名。
更に候補を絞る事が可能だ。
現時点で確認印を押している女子はあたしを除いて2名。この“能力”は、紙媒体に触れた人間の心情しか見えないので、回覧文書に触れていない人間は除外できる。
その為に朝から回覧文書をキープし続けると言うはた迷惑な事をやっているのだ。
対象はあたしの同期である海老沢。もうひとりが例のお調子者の高卒新人、浅緋 紅葉である。
しかし、海老沢は既婚だ。候補から外すべきだろう。
すると、メッセージの出し手は紅葉に限定される。
次に受け手だ。
こちらの候補は3名。青葉課長、あたしの同期で目の前でスマホをいじっている美空主任。そして後輩・舛花 ……名前は確か「勝」、だったか? 彼はあたしの3つ下――要するに紅葉の5つ先輩だ。しかし、彼は大卒なので勤続年数では2年しか違わない。
まず青葉課長はない。
回覧文書のスタート地点は彼なので、彼が紅葉から文書を受け取る事はできないからだ。
次に美空。あたしと同じ27歳独身。ただでさえ冴えない感じのサラリーマンだと言うに、紅葉から見て歳が一回りも上だ。きゃぴきゃぴした感じの紅葉とは釣り合わない様に思う。……多分。
となると残るは舛花君だ。
少々不愛想であるが、仕事はできる。見た目にも中々の好青年である。
彼女がいるかどうか知らないが、独身かつ単身世帯なのは総務部の立場上、承知している。
舛花と紅葉。大卒の先輩と高校新卒の後輩。
この推論に不自然は無い。新卒の娘が同期あるいは先輩の男に惚れるのはお約束だ。そうならなかったあたしが言っても説得力は無いが、そんなものだろう?
こんな能力がなくても想像がつく答えに辿り着いてしまったが……
推理が納得の行く結論に至り、あたしはにやりとしてペットボトルのミルクティーを飲み干した。レジ袋にぽいぽいっと手早くゴミを放り込み、口を縛る。
――そして、「ねえ、好きなんだけど」の“文字”をペりぺりと剥がすと、わざとらしく「どっこいしょ」と声を上げてデスクから立ち上がった。
紅葉はあたしの右隣。舛花君は彼女の対面に席を持っている。
あたしは思わせぶりに青葉課長の背後を回り、「島」の反対側に回り込んだ。青葉課長はデスクに突っ伏してご就寝中。美空はスマホゲームに熱中している。他も各々、スマホをいじったり食事に夢中だったりで、あたしの妙な動きに気付いていない。
――唯一、紅葉が丸い目を更に丸くして、「?」の疑問符を湛えてこちらの動きを追って来た。その彼女にくすっと笑いかける。
そのまま、舛花君の背後まで近寄ると、
「舛花君」
「はい?」
「昼休みが終わったら、トイレの石鹸とトイレットペーパーを補充したいから手伝ってくれる?」
「良いっスよ」
彼は経理部所属なのだが、この雑用に嫌な顔をする事もなく笑顔で引き受けてくれた。総務には青葉課長以外、男がいないので、男手が必要な雑用では大体彼に白羽の矢が立てられる。
「あ、わたしも手伝う!」
にこやかに手を上げて立候補する紅葉。
やはり、そう来たか。
「ダメよ。男の子じゃないと男子トイレ入れないでしょ……」
とあたしは一瞬考える様な素振りをして――
「いや、ちょうどいいわ!
じゃあ貴女と舛花君でやっておいて」
「え……っ! 舛花さんと……!?」
あたしの言葉にきょとんとした表情をする紅葉。そこを見計らって――――
舛花君の肩を叩く。例の”文字”を貼り付けて。
「じゃあ、舛花君。新人の面倒見を頼んだわよ」
丸っこいフォントの可愛らしい”文字”が、彼の背中辺りに吸い込まれて行く……。
「え……あれ……、はい……??」
不思議そうな表情であたしの顔と紅葉の顔を見比べる舛花君。当の紅葉はぱっと顔を背けてしまった。
これは……どんぴしゃりの様だ。
「それじゃ、ふたりともお願いね」
笑いを堪えながら、あたしはゴミを捨てに颯爽と廊下に躍り出たのだった。
◇◇◇
数日後、想定外は思わぬところからやって来た。
「赤城さん、この『稟議書』を経理の舛花君に渡して下さい」
はきはきとした口調で『稟議書』を渡して来たのは樺茶 かおり。営業部のキャリアウーマンであたしの先輩格だ。そのキャラクター通り、ばっちりとしたメイクに艶やかな黒髪を顎のラインできっかりと切り揃え、クールな銀縁の眼鏡をかけている。
「え……?」
「何か問題でも?」
「ああ……いえ! 何でもありません!」
あたしはきょどりつつ、何とか平静を装って彼女から『稟議書』を受け取った。
営業と総務は隣の部屋だ。
自分で直接渡しに行けよ!
と愚痴りたくなったあたしだが、手渡された『稟議書』の表紙を見下ろして唖然としてしまった。理路整然とした内容。一緒にホチキス留めされた見積書とも一ミリのズレがない。流石のきっかり具合だ。
それは別に良い。
問題なのは、その表紙に丸文字ででかでかと書かれた「今夜一緒に食事しよう」の文字。
当然、あたしの“能力”であたしだけに“見えて”いる“文字”だ。
あいつ……こんな丸文字で表示される様なキャラだったのかよ……。
いやいや、そんな事はどうでも良い!
宛先は――――本人が言っていた通り、舛花君……。
――これは、意外……!
確かにあたしがかおりから書面を預かったりすることは稀だ。なので彼女の心情を“文字”で読んだ事などあまりない。まったく気が付かなかったし、あたしの回りでも噂にも聞かなかった。
あたしが疎いだけかも知れないが……。
いずれにせよ――。
「これは……可哀想な事をしちゃったかしら……」
思わず廊下でひとり、頭を掻く。
あたしの“能力”は、ただ“見る”だけではない。数日前に紅葉に資料の印刷を促した様に、”文字”を貼り付ける事で相手の無意識に僅かだが干渉する事ができる。
それが当人の望む方向であれば良いが、本人の意志にそぐわない場合は、良からぬ方向へ促してしまう効果もあるのだ。
「やばいなぁ……。紅葉とかおりと舛花君でややこしい関係にならなきゃ良いけど……」
預かった『稟議書』に視線を落としつつ、軽率な行動だった事を反省しながら自分の「島」へと戻る。
……そー言えば『稟議書』で思い出したが、紅葉に頼んだ注文は進んでいるだろうか? 見積もり取って『稟議書』を起こせば上司であるあたしに回して来るハズだが……。
「島」には相変わらず、青葉課長、美空主任の他同期・後輩らいつもの面々。
そして舛花君と紅葉。
「舛花君。営業の樺茶さんから『稟議書』。確認して控えておいてくれる?」
「了解っス」
「よろしくね」
渡し際、ペりぺりと「今夜一緒に食事しよう」の文字を引き剥がし、彼の背後をすり抜け様に貼り付ける!
「……ってあれ? これ、間違ってるっスね」
「どこが?」
舛花君の言葉に釣られて『稟議書』を覗き込むあたし。かおりらしいしっかりとした文面に間違いなどあるハズないと思ったが……。
「ホントだ。年度が去年のままね。まあ年度の始めにやりがちなミスではあるけど、樺茶係長らしくないわね!」
「しゃーない。出し直してもらいますか!」
「良いじゃない。樺茶係長にツッコミ入れられる機会なんて、そうそうないわよ」
「冗談じゃないっスよ! かおり……あ、いや樺茶係長にそんな事言ったら殺されるっスよ」
貼り付けた”文字”の効果もあっただろう。思わず本音が漏れかけた舛花君に、あたしはケラケラと笑う。
「あ!」
唐突に声を上げたのは対面の自席で何やら作業してた紅葉。
「ついでにこれもお願いです~!」
立ち上がる勢いで小柄な身体をめいいっぱい伸ばしてデスク越しに差し出して来たのは『稟議書』。その紙面にはでかでかと例の”文字”。
「ねえ、好きなんだけど」
「…………」
どうやら忘れず作業を進めていた様だ。その事は感心だが……
差し出された『稟議書』を紅葉の手からかっさらう!
「ちょっと! 舛花君に渡す前に、あたしの目を通すのがルールでしょ!」
「え……っ! いや、わたしはちゃんと淳さんに渡そうと…………」
いかにも予想外、と言う表情でこちらを見つめて来る紅葉。
だが、あたしにそんな嘘は通用しない。
ばっちり”文字”が“見えて”いるのだから!
今どきの子らしく怒られ慣れていないのか、紅葉は黙ってぺたんと座席に座り込んでしまう。
「まぁまぁ……。ちょっと忘れてただけだよな、紅葉は!」
「はぁ……?」
すかさず後輩のフォローを入れる舛花君。それに対しマヌケな声を上げたのはあたしだった。
あんたも女の子にそんな気の利いたフォローが言えるキャラだったか!?
……いや、もしかしたらあたしが先日貼り付けた“文字”が、思った以上に効果を発揮しているのかも知れない。だとすれば、これは非常にマズイ。
かおりと舛花君の関係がどの程度のものなのか知らないが、彼の思考を強制的に歪めたのは事実だ。
「と……とりあえず、樺茶係長に差し戻しなさいな!」
「そーっスね……!」
頷いておもむろに内線をかける舛花君。
「あ、樺茶係長っスか? 舛花っス。お疲れ様です。
さっき赤城主任に渡してもらった『稟議書』なんスけど、間違えてる箇所があるんで出し直してもらっていいスか?
……え? 自分で持って来いって? ……仕方ないなぁ……!」
ガチャリとやや乱雑に受話器を置く。
「じゃ、ちと行って来ます」
「いってらっしゃい」
ため息つきつつ満更でもない表情で席を立ち、廊下の方へ向かって行く舛花君の背中を笑顔で見送りつつ自分の席に戻るあたし。
「ねえ、……淳さ……赤城主任」
ぽつりと紅葉。
「何?」
素っ気なくあたし。
上司に対して「ねえ」はないだろ、と思いつつ、それよりも先程自分の頭越しに『稟議書』を回そうとした紅葉の態度に、やや不満を持っていたのだ。
「赤城主任って、……舛花先輩と仲良いんですね?」
「はぁ!?」
予想外の反応に、あたしも素っ頓狂な声を上げてしまう。
何を言い出すんだ、この小娘は!?
「ほら、今も仲良さそうにしゃべってたし、舛花先輩の事、良く分かっているみたいだし……」
こちらから視線を逸らし、ぽつぽつと呟く紅葉。
……そー言う風に見られてたのか、あたしは……?
「ないない!」
あまりに的外れな話に、あたしも半笑いで首を横に振って否定する。
あたしはこの”能力”で人の思考をある程度覗き見る事ができる。舛花君に気がある紅葉からすれば、あたしがことさら彼の事を良く理解している様に見えていたのだろう。
「あたしと舛花君はタダの先輩後輩!」
「そうなんですか?」
うむと頷くあたし。
変な方向に話を持って行かれてしまったが、これは逆にチャンスである。
あたしは紅葉の耳元に口を近付けて、小さな声で伝えた。
「それに舛花君、営業の樺茶係長に気があるみたいよ」
「え!? そうなんですか……!?」
「ウワサではね」
今しがた知ったばかりの情報を、さも前々から気付いていたかの様に伝える。
「何か、意外な組み合わせですね~……」
紅葉は、唖然とした表情で舛花君が姿を消して行った廊下の方へ視線を送る。彼は彼で年度ひとつ書き換えてもらう作業に出た切り戻って来る気配がない。おふたりで色々話し込んでいるんだろう。
紅葉もそれは何となく察した様だ。
これで、この子も舛花君にはこれ以上ちょっかいは出さないだろう。
「さ! そー言う話は止めにして、仕事しなさい」
紅葉をデスクに向かわせて、二度と余計な真似はすまいと心に誓いながら、あたしも仕事モードへと戻って行った。
◇◇◇
「ねえ、好きなんだけど」
「『稟議書』のチェックお願いです~」
「…………」
『稟議書』の紙面にもはや見慣れた一文。
以前に比べればやや小ぶりで、申し訳なさそうに紙面のすみっこに寄っているが、しかしはっきりと書かれていた。
舛花君が席に着き、その後ろにあたしが立つ。こう見えてパソコンに強い彼に、あたしがあれこれ教わりながら仕事をする。いつものありふれた光景だ。
そのあたしたちに向かって、いつかと同様にデスク越しに『稟議書』を突き出して来る紅葉。その彼女が手にした『稟議書』に、またもこの”文字”。
ほぼあたしと舛花君のあいだに差し出された『稟議書』。
さて、どちらに向けて差し出されたものだろう? と舛花君。先日あたしが叱ったばかりなので、例え自分に差し出されたものだとしても、受け取る事に躊躇したと見える。
しかし、“文字”が見えるあたしには一目瞭然だ。
「いい加減にしなさいよ!」
あたしは思わずきつめの口調で、紅葉の手から『稟議書』を奪い取った!
そこまで語気を強めたつもりはなかったが、自分が思っている以上にきつかったらしい。隣でスマホをいじっていた美空が、びっくりした様にこちらを振り向く。
「何度も言わせないでね!? 『稟議書』を起こしたらまず直接の上司であるあたしに見せること!」
「え……っ! ち……違います!
わたしはちゃんと淳さんに……!」
相変わらず見え見えの嘘を言う紅葉。
あたしにはしっかりと“見えて”いるのだから!
「……ほら、見てみなさい!
表題は間違えてるし、金額の計算も違っているじゃない!
だからまずあたしに見せなさいって言ってるの!」
しどろもどろの紅葉に対し、あたしは言い返す間も与えず矢継ぎ早に指摘する!
「もう一度やり直しなさい!」
びしっと『稟議書』を突っ返す!
さすがにしゅんとした表情で、黙って受け取る紅葉。
あたしはそんな彼女を尻目に自席に戻る。
……正直、焦っている自覚があった。
紅葉は舛花君を諦めてない様子。彼にその気がまったくなくても、あたしが軽率に貼り付けた”文字”の効果で紅葉の気持ちが無理やり伝わり、無意識下に影響を与えているのだ。
これ以上、紅葉が彼に干渉を続ければ、この辺りの人間関係にヒビが入りかねない……。
その後、あたしの心配を他所に、紅葉と舛花君は黙々と仕事を続けていた。
何度かふたりでやり取りがあり、その度にあたしはびくびくしていたが、彼と彼女が何の書類をやり取りしようが、そこに何の“文字”が描かれる事もなかった。
その様子を見て、あたしは心の中でほっと息を吐く。
どうやら紅葉の舛花君への気持ちは薄らいだ様だし、彼の気持ちに歪みを生じさせたと言う事にもならなかった様だ。
元はと言えば、これはあたしが撒いた種である。
紅葉が心の中にしまっていた言葉を、舛花君に伝えてしまったのだ。
余計なお世話以外の何物でもない。
時折やらかすのだ。
“見える”と言っても、たかだか10文字程度の極めて簡素な一文で見えるに過ぎず、その前後の文脈まで読める訳ではない。伝える必要のない事、伝えるべきでない事を伝えてしまう失敗はこれが初めてではなかった……。
時間が経って冷静になるにつれ、酷いことをしたのは自分だと言う気持ちが強くなり始めた。勝手に自分で失敗してそれを取り繕う為に紅葉に辛く当たってしまったのだ。
……後で謝らなくちゃなぁ……。
正直あまり仕事に手が着かないまま時が過ぎ、時刻はまもなく終業時間。
残業して仕事を終わらそうと頑張る者、周囲の仲間としゃべり始める者、早々に帰宅準備を始める者……。
「それじゃ、お先に失礼します」
「お疲れ様ー」
舛花君もいそいそと立ち上がっていそいそと廊下へ向かって行く。気の抜けた返事を返しながら、あたしは何となく彼の行方を視線で追う。その視線の先にはかおりがいた。仲良くしゃべるその様子から、関係を隠す気はまったく感じられない。
やっぱ気付いていなかったのはあたしだけか……?
特に繁忙期でもないこの時節、青葉課長や美空、海老沢ら他の面々も追随して帰りの支度を始める。そんな中、紅葉はいまだパソコン画面とにらめっこしていた。
……やっぱ、日中怒った事でへこんでいるのだろうか?
「……紅葉ちゃん?」
「はいっ!?」
余程想定していなかったのだろう。あたしの声かけに飛び上がって反応する紅葉。
「あ……、ごめんなさい!
集中しててびっくりしちゃった……!」
「驚かしてごめんなさいね……」
あたしは一拍置いてゆっくりと言葉を続けた。
「あのさ、今朝は怒鳴ったりしてごめんね? 流石に言い過ぎだったと思うわ。あれは本当にあたしに差し出していたんだよね」
「いえいえ! わたしも紛らわしい渡し方しちゃって、ごめんなさいです!」
小さな頭をペコリと下げて、紅葉が謝る。
”文字”が見えるあたしには、事実と異なる事がはっきりと分かるのだが、見えないのが普通なのだ。
ならば、普通に合わせるべきだろう。
この話はもうそれでおしまいだ。
「ところでさ」
あたしは自分にそう言い聞かせる為にも、話題を変えた。
「さっきから悩んでいる様だけど、分からない事でもあるの?」
「えっと……、『稟議書』直そうと思ったんだけど、あれこれいじってる内にわけ分からなくなっちゃって……」
「どれどれ?」
座席に座ったままあたしは、紅葉の近くに寄り、彼女のパソコン画面を覗き見る。画面には表計算ソフトで作られた『稟議書』の書式が表示されていた。どうやら、計算式を壊して直せなくなっている様子だ。
「これくらいなら、直してあげるわよ」
紅葉の前に身を乗り出してキーボードを叩く。舛花君ほどではないが、新卒の子に比べればあたしだってそれくらいの技量はある。
「お前ら残ってないでさっさと帰れよ~」
などと言いながら帰宅して行く青葉課長に「これ終わったら帰ります」と気のない返事を返しつつ、さくっと『稟議書』を直す。
「わぁ、ありがとうです!」
ぱっと笑顔を作ってお礼を言う紅葉。彼女も怒った事を気にしてはいない様だ。
「どういたしまして!
さぁ、さっさと作って帰りましょ?」
「はい!」
紅葉はさっそく出来上がった『稟議書』をプリントアウトする。小走りにプリンタに駆け寄って用紙を手にすると、ハンコをぼんっと勢いよく押し付ける!
焦るな焦るな。また失敗するから……。
などと思いながら一部始終を見つめていたあたしに、紅葉はニコニコしながら『稟議書』を差し出した。
「それじゃ淳さん、チェックお願いです!」
「はいよ」
それを受け取って――――
「…………」
――――あたしは言葉を失った……。
「……紅葉ちゃん、数字は直ったけど、表題がまた違ってるわよ……。
よく見たら日付もおかしいし……」
「ええっ! またやり直しっ!?」
紅葉は慌てて席に戻り、あたふたと既に電源を落としてしまったパソコンを再び起動させようとする。
その彼女の手を、あたしは静かに制した。
「いいわ。また明日にして、今日は終わりにしましょ?」
「……分かりました」
がっくりと肩を落として紅葉が頷く。
その彼女の肩にそっと手をおいて、あたしは微笑んだ。
「そんな事してると時間なくなっちゃう!
実はさ、怒鳴ったお詫びにケーキでも奢ってあげようと思ってたんだけど……時間ある?」
「ホントですか!? 嬉しいです~!」
紅葉が嬉しそうに飛び跳ねる。
「もうさ、どうやってお詫びしようか今日一日ずっと考えていたんだから!」
これは嘘。
今、気持ちが変わったのだ。
「それじゃ、帰る用意するから待っててくださいね!」
「急がなくていいわよ」
ばたばた帰り支度を始める紅葉を尻目に、『稟議書』をデスクの上に軽く放る。
準備ができた紅葉に促され、あたしもパソコンの電源を落としてカバンを肩にかける。最後にデスクの上の『稟議書』の――紙面にちらりと目をやって……。
「口ではっきり言ってくれれば良かったのに!」
引っぺがしたところで、貼り付ける場所がない”文字”。
――――この”能力”。自分自身には使えないのだ。
「ねえ、好きなんだけど」
――おわり――