カルバゾールの暗示。優先席怪奇譚。わたしの夏は非刺激性
慌てて飛び乗った車内はがらんどうで、いつもは混雑する時間帯なのだから、わたしは狐につままれた心地でシートへかけた。頭の中は夏期講習の宿題で満たされていて、思えば他の些細な機微を捉える余裕なんてありはしなかっただろう。
扉が閉まると、冷風が肌をなぜた。瞬く間に汗は乾き、熱が奪われ、塾の疲労が和らいでいく。
次の駅が間近に迫ったとき、わたしは目を疑った。ドアの真上に位置する横長の車内表示がいつもと違っていたのだが、
「There are priority seats reserved for elderly people and handicapped passengers, expecting mothers and passengers accompanying small children」
右から左へ流れていくダイオードの点滅。時差を持つことで、淀みないスピードで文章が生成される。
どこにもおかしなところなどない。ありきたりなアナウンスだ。どうやら気のせいだったらしい。
やがて列車は停止した。大柄な男性が入ってくるなり、わたしの真向かいに座った。夏だというのにコートを身に纏っている。
空席の目立つ車内。目のやり場に困ったわたしは再び車内表示を捕まえる。
「There are priority seats reserved for deadly people and hand...」
やっぱり変だ。アナウンスは間違っている。
「deadly?まさか」
わたしが首を傾げると、おもむろに男性は腰を上げた。
そして立ち上がった拍子に、男性の着ていたコートがはらりとはだけた。
彼の胸には赤黒いシミができていた。着膨れのせいで分からなかった全身が露になる。白い包帯でぐるぐる巻きにされた男性は、ひらひらと包帯の先端をこちらへ向けて振る。
「嫌よ」
端っこを持ってごらんよ、そして引っ張るがいいさ。
男性の心の声が聞こえる。
「嫌よ、来ないで」
首を振ったわたしに男性が笑いかけると、包帯をゆっくりとほどき始めた。
両足には拳大の痣、おびただしい擦り傷、黄変した腹部からはうじが涌いていた。
心臓の包帯が解かれたとき、列車の警笛が鳴った。
いつの間にやら真っ暗なトンネルへと誘われており、視界が奪われる。床に落ちる粘性液体の音だけが間断なく続いていた。
太陽の光が次に車内を照らしたときには、男性はこと切れていた。シートを頭から滑り落ちた滑稽な姿とは似つかわしくない、獣の表情でこちらを見つめていた。
放心していたわたしは、二つ目の駅で助けを求めるために、扉にすがりつくように密着していた。
開くと同時に駆け出して、いち早くこの悪夢から逃げ出したい欲求にかられていたのだが、ホームに待ち受けていた大量の乗客に阻まれて、ついに降車することは叶わなかった。
満員電車はゆっくりと動き出す。揉みくちゃの車内は、クーラーすら役立たずの人いきれに溺れてしまいそうになる。
固定されたまま動かないわたしは、唯一自由の効く眼球を、しきりに動かした。そしてまたオレンジに煌めく車内表示を読む。
「There are priority seats reserved for deadly people and handmade passengers, expecting m...」
乗客が一斉にわたしを見る。集まった視線に焼きつくされるのではないかと訝るほどの熱視線に、意識が遠退くような感覚に苛まれる。
恐怖のあまり、突き出した両手が乗客の一人に当たる。首が飛んだ。乗客の首は軽やかな放物線を描いて、網棚の上へと吸い込まれていく。バランスを崩した胴体が、隣の乗客にぶつかると、ドミノ倒しの要領で、次々になぎ倒されていく。
異様な光景を、わたしは息を飲んで見守るしかなかった。
首や腕のもげた部分からは出血はなく、木なのか、はたまた樹脂なのか定かではないが、丸いジョイントと窪んだジョイントが剥き出しになっていた。
どの乗客も、古来のからくりよろしく、死んだ魚の瞳をしていた。眉も、髪も、口も、精緻に造られているものの、うっすらとつぎはぎが残されていた。
警笛が車内を貫くと、積み重なった乗客たちが、糸で吊り上げられたようにふわりと浮き上がり、そのままつり革に固定された。まるで人間の森へ迷いこんだみたいで、わたしは鳥肌がたった。
最後の駅では誰も乗車しなかった。私の家まで残りひと駅というところまで来ていたから、もう少しの辛抱である。
祈るような気持ちで顔を上げると、当然のように車内表示がそこにあった。
「There are priority seats reserved for deadly people and handmade passengers, expecting murders and passengers accompanying squalor」
天井が割れて、パンタグラフを仰ぐ、隕石の如く飛来したのは、太っちょとやせっぽちの二人組だった。
「ぐひひ、お前には夢があるか?」
太っちょが鼻を鳴らして叫ぶ。
「さあね」
やせっぽちが軽くいなす。
「おいおいしらばくれるなよ。おれはお前の願いをしっているんだぞお」
黙ったままのやせっぽちに痺れを切らした太っちょは、語気を強める。それでも無視し続けるやせっぽちに、太っちょが手をかけると、
「うぎゃ」
太っちょは自分の胸から溢れる血飛沫を眺めて、呆然としていたが、やがて頬が紅潮し、恍惚の眼差しをわたしに向けた。
「さあいこおだなあ、こんな気持ちいいこと一生に一度しか味わえないよ。君も欲しがりだなあ、そんなに見つめなくても、こいつはちゃんと分かってるう、うう、うぐ」
尖ったナイフをぐりぐりと回転させるやせっぽちは、
「知ってるか、殺人の愉しさを。ボクは今知った」
恐ろしい台詞を呟いて、わたしに近づいてくる。
倒れた太っちょは、床にこぼれた血を嘗め回していた。
振りかぶったナイフがわたしの耳を掠める。逃げても逃げても、そこら中にぶら下がる人間だましの森が邪魔をする。
額に垂れる汗を拭うことも忘れて、わたしは必死にやせっぽちから遠ざかる。
突然足元をすくわれて、わたしは前のめりに倒れた。振り返ると包帯が足に絡まっていた。
「嫌!嫌よ!」
やせっぽちの殺人鬼がすぐそこに。
胸に深々と突き立てられたナイフの輝きをわたしは忘れることはないだろう。
「Hey, かなこ。ジュギョーに集中してクダサーイ」
ノートに描いたやせっぽちの高い鼻と、カールした金色の髪。現実のやせっぽちはナイフの代わりにチョークを掲げている。うざい。
「Sorry, ジェイソン」
微笑みで誤魔化して、かなこはため息を吐いた。
クラスの全員はジェイソンとかなこのやり取りなどおかまいなしに、参考書とにらめっこしている。
機械のように鉛筆を動かし、与えられた課題を黙々とこなすロボットじみたやつら。彼らに取り囲まれて息がつまらずにいられるだろうか、少なくともかなこには厳しい。
そして風邪をこじらせてもマスクしてやってくる阿呆にも驚かされる。クーラーの効いた教室で上着羽織ってんのあんただけだよ。うつされる身にもなってよね。
窓の外を走る電車は夕日を乱反射させて、オレンジに映えるレールを滑っていく。黒い送電線のシルエットが、細長くどこまでも続いている。
米粒のような人々の群れは電車を使って一体どこへ向かうのだろう。かなこは塾と家を往復するだけだ。
退屈な毎日。てかジェイソン、スペルミスしたくらいで怒るんじゃねーよバカヤロっ。(了)
勉強がつまらないのは、面白いことを見つけてないから
熱中できる、やりたいことが見つかれば、勉強がとても大切だって気づく
とか言ってるけど、実際なかなかはかどらんものかしらん