(4)
翌日──。
「聖父様! おはようございます!」
まだ朝露も渇ききれない時分にアンリエッタの声が村はずれの聖所で響き渡った。
床は綺麗に掃き清められ、他の住居より幾分高い天井は実際よりも開放感を感じさせる。
窓が少ない代わりに天井付近につくられた空気窓から入る細い光が薄暗い室内に差し込み、昼間に訪れる時よりも荘厳な空気を醸し出していた。
「……この声はアン? アンリエッタかい?」
そんな空気を台無しにするアンリエッタの大声に応えて、隅の木戸の向こうからのっそりと一人の男性が姿を見せた。
彼こそこの聖所を預かる聖父・ジョイスだ。
白を基調としたゆったりとした衣服は掃除や食事の準備といった日常的な雑事にはまったく向いていなそうだが、全体的に色素が薄く性格も穏やかな気性の彼にはよく似合う。
父のセオールの穏やかさが知的な落ち着きであるなら、ジョイスは春の陽だまりだ。雰囲気は良く似ているが印象はそれくらい違う。
聖父としては二代目になり、先代が身体を壊した五年ほど前──丁度、母のジュリアが亡くなった頃だ──に入れ替わりで村へやって来たのだが、先代の弟子(正しくは孫弟子だそうだが)という事もあって今ではすっかり村に馴染んでいる。
聖職者ながら堅苦しい所がなく、押し付けがましい事も言わないので特に子供達から慕われており、アンリエッタも数年前まではよく一緒に遊んで貰ったものだ。
「こんな早くにどうしたんだい? アンがここに一人で来るなんて珍しいな」
怪訝な顔で尋ねられ、アンリエッタは少しせっかち過ぎたと自分を恥じた。
結局一晩中リジーの結婚相手の事を考えてうまく寝付く事も出来ず、朝一で聖所へ行こうという意気込みもありいつもよりもずっと早くに起き出して、朝食もそっちのけで押しかけてしまったのだ。
相手が早起きの多い村の人間よりもさらに早起き(夜明け前から起きている疑惑もある)なジョイスだから良かったものの、朝の作業がない村民なら下手すればまだ夢の中だろう。
「朝早くにごめんなさい……。あの、聖父様にちょっと聞きたい事があって……」
「私に?」
ジョイスは意外そうに目を丸くする。それもそうだろう。アンリエッタの父親のセオールは村一番の博識だし、村や野山の事なら村人の方がずっと詳しいのだから。
「あのね、リジーの事なんだけど」
平和な農村ではあるがジョイスだって暇ではない。こんなに朝早くから来たのも彼の仕事の邪魔をしたくないからだ。アンリエッタは単刀直入に尋ねる事にした。
「リジーはここで式を挙げるの?」
「式? ……ああ、何かと思ったらそんな事か。そうだよ。リジーのたっての希望でね」
何を聞きたいのかと不思議そうだった顔が肯定の言葉と共に笑顔に戻る。
やっぱりそうだ。そこまではアンリエッタ(とセオール)の予想通りである。
「じゃあ、リジーの旦那さんになる人が誰か知ってる?」
ならばと本題に入れば、ジョイスは笑顔を消し、困ったように眉をハの字にした。
「ええと……、私にそれを聞くという事はリジーには何も聞かなかったのかい?」
これは確実に知っている。アンリエッタは確信を深めた。
常識的に考えて、この聖所で式を行うのなら主であるジョイスに詳細を話していないはずがない。
だが、同時にこのわかりやすい反応でリジーがジョイスに口止めをしている事も察せられた。
「……聞いたけど、教えて貰えなかったの」
拗ねたような言葉にジョイスはハの字眉の角度をさらに急なものにした。
しばらく重い沈黙が落ち、その間にジョイスはおろおろと焦ったような困ったような、動揺するような──その全部が混じったような百面相をした後、最後にポツリと『ごめんよ』と呟いた。
「教えてあげたいのは山々なんだけど……。リジーに当日まで誰にも教えないで欲しいと頼まれているんだ。新婦のたっての願いを勝手に違える訳には行かない」
子供好きで人の良い彼なら教えてくれるのではと思ったのだが、どうやらこれは予想よりも強敵のようだ。
普段はのほほんとしているが、とても職務に忠実でアンリエッタ以上に真面目な人だし、そうした確固たる意志の強さがなければ単身で、しかもこんな縁も所縁もない田舎の聖所にまでやって来る事は出来ないに違いない。
「どんな人かも、駄目?」
それでも駄目元でもう一押し。ジョイスは苦笑し、駄目だと頷く。
「じゃあ、せめて村の人かどうかは?」
往生際悪くさらに尋ねる。
自分が知っている人なのかどうかだけでも知りたくて食い下がると、ジョイスは仕方ないなという顔で口を開いた。
「残念だけど、それも言えないよ」
取り付く島もないとはこの事か。申し訳なさそうに謝るジョイスに罪はない。だがこれくらいは許されるだろう。
アンリエッタは不貞腐れた顔のまま黙って手を差し出した。それは随分久し振りにする『おねだり』の合図。
ジョイスはその意図を正しく汲み取り、苦笑しながら一度奥に引っ込むと小瓶を片手に戻って来た。
昔、セオールが街に行き、誰もいない家に帰りたくなくて迎えに来たリジーを困らせた時によくその小瓶のお世話になったものだ。
子供の頃のようにもらった砂糖菓子を口の中で転がしながらの帰り道。
(……あれ?)
アンリエッタはふと立ち止まり、聖所の方へ目を向けた。
(もしかして、聖父様……手掛かりをくれた?)
そういう意図はないのかもしれない。穿ち過ぎかもしれない。
だが、ジョイスが最後に困ったように答えてくれた言葉は、よくよく考えると一つの可能性を示唆しているようにも感じられた。
村の人間かどうかも言えない──という事はつまり、村人以外の可能性もあると言っているのでは?