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(2)

「こんにちはー!」

「いらっしゃい、アン。待っていたわ」

 アンリエッタの声に応えて奥から出てきたリジーからふわりと甘い匂いが漂う。

 甘いと言っても香水や花のものではない。その言葉通り嗅いでいると自然と顔がほころぶ──お菓子の匂いだ。

「今日もまた何か焼いていたの?」

「ええ、アンが来る日ですもの。今日はさくらんぼのパイよ。確か好きだったわよね」

 期待を込めて尋ねると、リジーはそんな素敵な答えと共ににこりと微笑む。

「さくらんぼ? うん、大好き!」

 リジーはアンリエッタだけでなく村の少女達の『憧れのお姉さん』だ。そんな人を裁縫を教わるのを良い事に独り占め出来るのも幼馴染の特権である。

 ひっそりと優越感に浸っていると、リジーの瞳がアンリエッタの抱える荷物に止まった。

「どうしたの? 今日は随分大きな荷物を抱えているのね。何処かへお使いがあるなら、先に行って来て良いのよ?」

 その言葉でアンリエッタは我に返った。

「あっ、これはお使いじゃないの! さっき父さんが街から戻ってきてね、これをリジーにって」

 言いながら包みを差し出すと、目に見えてリジーの表情がぱっと明るくなった。

「おじさんが? ああ……、これなら間に合いそうだわ」

「間に合う?」

 話が見えない。だが、どうやらこの包みがリジーからの注文であった事は確かのようだ。

「相談して良かったわ。明日にでもおじさんが好きなものを用意して直接お礼を言いに行くつもりだけど、帰ったらわたしがとても感謝していた事を伝えておいてくれる? こんな事を頼むのは申し訳ないと思ったんだけど、やっぱり街の方が品揃えがいいものだから……」

「う、うん」

 喜びを隠さないリジーに疑問を感じながらも、アンリエッタはリジーの手に渡った包みから目が離せなかった。こんなに喜ぶなんて一体何なのだろう。

 その視線に気付いてか、リジーは大事そうに抱えた包みをテーブルへと載せた。

「中身が気になる?」

 からかうような言葉に反射的に頷き、すぐにアンリエッタは慌てて首を振った。確かに気にはなるが詮索したい訳ではない。

 するとリジーはそんな様子に笑みを深めると、包みを覆っていた防水用の油紙を外し始めた。

「リジー? いいの?」

「ええ。こんな重い物を持って来てくれたんですもの。それに近々アンにも伝えようと思っていたのよ」

 言葉の間に茶色の油紙が外され、その下の包みが現れる。これまた厚手の布と紐で厳重に包まれており中身を守っていた。

 その様子を見ているとリジーに鋏を手渡され、手伝ってと頼まれる。二人がかりで紐を切り、布を取り去ると、中身はまたまた薄い紙に包まれた布だった。

「……また布?」

 これでは一体いつ『中身』に到達するやら怪しい。そんな不満が顔に出ていたのか、リジーが笑った。

「そうね、布よ。おじさんに頼んだもので間違いないわ」

「頼んだ? この白い布のこと?」

「ええ。おじさんは趣味がいいわね。とても素敵だわ」

 薄紙を外して現れたのは、何の染めも施されていないが見るからに上質そうなすべすべとした光沢のある生地だった。

 この付近ではお目にかからない、村で手に入る布より随分と品質の良い物のようだ。だが、染めも柄もないそれはわざわざ街から仕入れて来る程の物とも思えなかった。

「何に使うの?」

 素直に疑問をぶつけると、リジーは少しだけ言葉に迷う素振りを見せた。ほんのりと頬が染まる。

(あ。もしかして……)

 初々しい様子にアンリエッタもピンと来た。上等な白い布地の使い道なんて限られているではないか。

 リジーはアンリエッタの視線で勘づいた事を察したのか、はにかんだ微笑みを浮かべながら頷いた。

「わたしね、結婚するの」

「……!」

 やっぱりだ。アンリエッタは反射的にリジーに抱きついていた。

「おめでとう!」

「ありがとう、アン」

 自分の事のように喜びを行動と言葉に表すアンリエッタをリジーも嬉しそうに抱き締め返す。

「アンならそう言ってくれると思ったわ」

「当然じゃない! リジーなら絶対に素敵な花嫁さんになるに決まってるわ」

 幼くして母を亡くしたアンリエッタにとって、リジーは幼馴染を超えた存在だ。いつだってアンリエッタの味方でいてくれたし、時に励まし、時に手伝い──見守っていてくれた。

 リジーならきっと素晴らしい家庭を築く事だろう。その優しく暖かな手が自分だけの物でなくなる事は寂しいけれど、リジーには誰よりも幸せになって貰いたい。

「式はいつなの?」

「来月の末の予定よ。少し暑いかもしれないけれど、その頃なら農作業も一息ついているから。《エミエルの恵み》が始まる前にと思っているの」

 月が変わったばかりだから、大体二月後といった所だろうか。

 《エミエルの恵み》とは本格的な夏になる前にまとまって降る雨の事だ。

 農業を主産業にするこの国にとってその年の出来を左右する重要なものだが、短すぎても長引き過ぎてもよくない。まさに神の思し召し次第という事で、この世界を生み出したとされる女神の名が冠されている。

 なるほど、とリジーの言葉に納得する。

 今は秋に収穫する作物の苗を植え付けたばかりで気が抜けない時期だが、来月になればそれらもしっかりと根を張り、柔らかな新芽を狙う獣や虫を警戒する事も随分減るはずだ。

 一般的に農村の結婚式は収穫が一段落着いた晩秋に行う者が多いが、新緑が美しい初夏というのも悪くない。

(……あれ?)

 そこでアンリエッタははたと我に返った。思わず少し上にあるリジーの顔をまじまじと見つめる。

「アン?」

 リジーが不思議そうに声をかけるがアンリエッタの耳には届いていなかった。

 大好きな幼馴染みの結婚。実に喜ばしい事だが、一つ大事な事をアンリエッタは知らない。

(結婚は一人じゃ出来ないじゃない。相手は誰なのよ!)

 そう、肝心のリジーの夫となる人物にまったく思い当たる人物がいないのだ。

 リジーは美人というよりは可愛らしいタイプで、人柄も穏やか。さらに家庭的とあって村の男達に密かに人気がある。

 だが、信心深く慎ましい性格もあり、多くの恋人達が誕生する秋の収穫祭でもいつも裏方に徹していたし、特定の男性と深く付き合っているという話は今まで噂にすら聞いた事がなかった。

 田舎のおばちゃん連は特に娯楽もないせいでとかく噂好きだ。些細な事もあっという間に尾ひれがついて拡がる。それがないという事は相手はおばちゃん達も知らない人物、つまり少なくともこの村の人間でないという事になるが──。

「リジー、式は来月って言った?」

「え? ええ」

 それなら話はほぼまとまっているという事だろう。相手がどんな人間かわからないので断言出来ないが、余程せっかちでなければ相応の準備期間を置くはずで両家間で行き来もあるはずだ。

 村の外から誰かが頻繁に訪れたならそれだけで珍しい。村の誰にも気付かれないという事はないはずだし、アンリエッタも見慣れない人物を村で見かけた覚えはない。

(それなら、やっぱり村の誰か? でも全然思い当たらないし……)

 困惑を隠せずに黙りこむ様子を誤解してか、リジーは慌てたように口を開いた。

「ごめんなさい、急で驚いたわよね。アンにはもっと早く話したかったんだけど……」

「えっ、いや、それはいいんだけど……。リジー、聞いてもいい?」

「何?」

「その、相手の人って誰なの?」

 考えても出て来ないなら聞いた方が早い。

 そんなアンリエッタからの単刀直入な質問に、リジーは少し間を開けて悪戯っぽく笑みをこぼした。

「ふふっ、秘密よ」

「えー!」

 まさかそう来るとは。予想外の返事にアンリエッタは素直に抗議の声を上げた。

「なんで? 反対なんてしないよ!」

「ええ、アンなら応援してくれると思うし、きっとアンが反対するような人ではないんだけれど……折角だから当日のお楽しみにしようかって、彼と話したの」

「そんなあ!」

 再びアンリエッタは不満の声を上げた。

 こんな狭い村で隠す必要が何処にあるというのか。噂にされたり騒がれたくないという事かもしれないが、自分にまで秘密にされるのはなんだか寂しい。大事な幼馴染の結婚を面白がって茶化したりしないのに。

 顔にそんな不満が出ていたのだろう。リジーは少しだけ困った顔をして、やがてふと思い出したように『お茶にしましょうか』と切り出した。

 その言葉にはっとアンリエッタは目を見開く。

 そう言えばリジーはパイを焼いてくれていたのだ。それも、好物のさくらんぼのパイを!

「もう冷めてしまったかしら……」

 少し置いてしっとりしたパイも良いが、やはり焼き立ては格別だ。

 パリパリの生地に甘く煮られたさくらんぼ、そして甘さを抑えた付け合わせのクリーム。想像するだけでよだれが出そうである。

「食べる! 食べよう、今すぐ!」

 慌てたように提案するアンリエッタにリジーは頷き、二人は連れ立って奥の厨房へと足を向けた。

 爽やかな香りのする香草茶と共に食べたパイはいつものようにとても美味しく、夢中でおかわりしただけでなく明日の分までお土産に貰い、すっかりご満悦になったアンリエッタがリジーの結婚相手についてうまくうやむやにされた事に気付いたのは家に帰り着いてからだった。

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