1.Aquarius
月に包まれた湖。
漆黒に塗りつぶされた森は音を消してしまうようで、風も刺さない闇は生命の気配すら飲み込んでいる。
肌に張り付く重い空気の下、突如として静寂を穿つのは何かを引きずる掠れた鈍い音。少しずつ少しずつ森の奥へと続く。音は次第にまばらに途切れがちになり、闇はそんなあえかな音をも飲み込もうと待ち構えている。
それは今や這いずるような歪なものに変わっていた。
森に囲まれた鏡の湖。
その者に、この光景が見えているのかわからない。
なにせ束の間の月明かりが照らし出したのは、足がいうことを聞かず、腹ばいになって進むしかない女の姿。足をもがれ羽をもがれ瀕死の虫が、それでも火に向かおうとする姿に似て、女は力の抜けきった体を気力以上の何かに引っ張られながら這い進んでいた。
女は水を求める。命の灯をそのためだけに燃やしている。命が惜しいなどと思う間もなく、ただ唇を浸し喉に転がすこと、これだけが望みだった。
だが湖には先客がいた。
湖の中心がさざめき、月光に似た銀色の光が、しかし内側から現れた。それは静かに揺蕩いながら、すでに瀕死の女の出現に気付いているようだった。
顔を向け、瞬きもせずに見守っている。
女は、何かが湖にいることに気付いた。
白濁とした視界が捉えられるものはほとんどなかったが、そよとも動かなかった湖にさざ波が立っている。
遠くに銀色の月がぼんやり浮いている。
水浴びでもしているようだ。
瀕死の女に猶予はない。ただ一刻も早く、ひび割れた唇に一掬いの潤いを。躊躇う理由などあるはずがない。震える手を精一杯伸ばし、水を掴む。刺すような冷たさは初めて女に安らぎをもたらし、涙が一粒転がる。
ほとんど滑り落ちていった水を舐めて、しかし唾液のないからからの喉に確かに水だと。水であると。苦痛に割れた女の顔は愉悦に満ちて、静かに腕を下した。いっそ水に落ち、水にまかれたい。でももう体が動かなかった。
青銀色の波打つ髪は体に張り付き、そして湖面にまで広げて、その髪に負けぬほど透き通った肌を堂々と曝け出し、女が岸辺に倒れた者を見下ろしていた。
「あら、私が見えるの」
地に伏した死にかけの女が僅かに頭をもたげたからだった。澄んで美しい、抑揚のない声だった。
答えは返ってこない。
「貴女、死ぬのね」
全く無情で平板な声が降りかかる。
靄がかかった意識を不思議と貫いていく声に耳を傾けながら、女は微かに身動きした。
「死ぬ前に水を飲みたいと、貴女そう願ったわよね」
急に女の声が耳元に聞こえたかと思うと、繊手が背に触れ腰へと回る。次には強い力で抱きかかえられていた。体を揺さぶられ、瀕死の女は息を飲む。乱暴ではないが、かといって重傷の者を労わる優しさはない。重い瞼を開けると、真白い細い顎が見えた。柔らかく冷えた月が照らしている。
豊かに揺れる乳房はその感触に合わず、石膏のように無機質であるようだった。磨き上げられた白肌と整いすぎた面立ちは確かに人よりも彫像であった。その滑らかな顎だけでも人間離れした美しさが垣間見える。女の視線を全く意に返さないその青銀色の髪の女は、腕の存在に一切目を向けることはない。よどみなく力強く抱え直すこともせず、そして何の衒いもなく水へと分け入ったのだった。
少しずつ押し寄せる水の気配は、舐めるように体を濡らしていく。
深まる水は濃厚な闇が溶け込み、待ちかねたように二人の女を飲み込んだ。
あっという間に深みに落ちゆく。
呟きにも似た泡が零れる。皮膚に僅かに残っていた感覚を容赦なく奪っていく冷ややかな水の狭間で。何も聞こえず何も見えず、じんわり苦しくなっていく息の中で。
殺すつもりなのだと。
それはおかしな意識だった。彼女にとってそれは自然のこと。
ほとんど死んでいると言っていい。そんな自分がまだそんなことを思う余地があったのがおかしく、女は微笑んだ。
それになんとも、理想的な死に方ではないか。
焦がれていた水にまかれて、心おきなく…
全ては闇に帰すだろう。
女は大きく口を開け、いっぱいになるまで水を飲もうとした。
そうしたら、明らかに水ではない感触が唇に触れた。
女が驚いて目を開けると、濃紺色の中を銀色の魚ように閃くものがあった。舞う髪に包まれて表情はわからない。そして唇を、それで塞いでいたから。
舌先に水と息とが睦み合う。
苦しみと注ぎ込まれた息の甘さに身をよじる。水の冷気の中に、なぜかその女の体温はなかった。ただがっしりと暴れる女の身を掻き抱き、覆いかぶさり、四肢を絡ませて沈むだけ。
遠くで銀色の月影が射した。滲むように水面に広がっている。
暴れるのをやめて女は目を閉じる。
ふっと、軽くなった。
いっぱいまで水を飲んで満たされている。水を掻けば、その身はすぐに跳ねた。道しるべのように丸い月の欠片がある。光へ向かって進んだ。
重い水の膜は簡単に突き破ることができた。
立ち上がると、暗闇の彼方に銀色の月が浮かんでいた。青銀色の長い髪は湖面いっぱいに広がり、月光を集めて炎のように輝いている。
腕を伸ばして、白磁の肌を眺める。傷一つなくしなやかで、それでいて底知れない力強さを秘めた細い腕。到底理解ができなかった。村を襲った盗賊どもに切り裂かれながら蹂躙されたことが。こんなに強く、絡みついて二度と離さないのに。女は笑った。
長い髪を梳きながら、女は水浴びをしている。
静寂に閉ざされた森の中の湖。
月に見守られ、安んじて闇に飲み込まれる。
またの名を、乙女の死の湖。