勇気
3月1日、木曜日。晴れ。
今年も桜舞う、季節・春がやってきた。
辺りは満開の桜に包まれ、吹き抜ける風が花弁を纏って空へと舞う。
私はそんな桜を一瞥すると、季節はもう春なのだと意識させる。
私は職場近くのカフェのテラスにて、日記を付けていた。
これはもう6年も前から付けている私の習慣。
いや、もはや日課と言ってもいいだろう。
私は慣れた手付きで今日の分の日記を書き終えると、軽く背を伸ばした。
座りっぱなしで凝り固まった身体が解されていく。
「物書きの仕事も楽じゃないわね……」
ふと私は空を見上げる。
春らしい爽やかな青空と暖かい風が私の肌を撫でた。
「…………」
この時期になると、いつも私はあの頃の事を思い出す。
先輩に愛の告白をしようと決意するも、勇気を出せず、告白する前から振られ、最悪の事件を引き起こした、あの頃の事を。
今、思うと完全に黒歴史だが、恋は盲目とはよく言ったもんだ。
あの時の私にはアレが私の世界の全てで他は何も見えなかった。
だから本当は、私を心配してくれる人がすぐ側にいたというのにその事に気付なかった。
その結果、私は人を傷付けてしまった。
その後、正気を取り戻した私は警察へと出頭し、生涯この罪と向き合う事を心に誓った。
と、同時にこの日記も一生、書き続ける事を決めた。
もちろん、この日記はもう『私と彼のラブラブ日記』などではなく、言うなれば『彼らへの贖罪日記』が正しい。
そう、言うならば、これは自分への戒め。
日記を書き続ける事で、あの事件を私なりに忘れない様にする為の心の枷。
だから書く事を止めてはならないのだ。
もし止めてしまったら、私の中で時間の経過と共に罪の意識は薄れていき、いつか私はあの事件を引き起こした自分を許してしまいそうだからだ。
私は弱い女だ。だからこうして自分に枷を付けなければ、逃げ出してしまう日がきっと来てしまう。
だから書き続ける。この日記を書くき続けている限り、私は罪の意識を忘れない。
◆◆◆◆◆◆
そんなある日、先輩から私宛に封筒が届いた。
中身を確認すると、結婚式の招待状だった。
もちろん、相手はあの星宮さんだ。その名前を見て、少しだけ複雑な気分になる。
私の暴走により、傷付けてしまった罪無き少女。
あの事件以来、全く会っていないので元気にしているか気に掛かっていたが、無事に先輩とゴールイン出来たみたいだ。
「そっか……。あの二人が……」
悲しい気持ちが無いと言えば嘘になるが、もう6年も前の想いだ。
今更、二人の関係をどうこうしようなんて考えてはいない。
私の初恋は、私自身の手で壊してしまったのだから。
しかし一つ、疑問に思う事がある。
何故、あんな事をした私を結婚式へと呼ぶのか?
普通に考えて、いくら6年も前の事とは言っても自分を襲おうとした相手を誘うだろうか?
それとも私への当て付け?
いや、それはなんか違う気がする。
それだったらもっと早くに報復しているだろうし、あの二人に限ってそんな事をするなんて思いたくはない。
色々と考えてはみるが、所詮は全て憶測だ。
結局のところ、いくら考えたところで分かりはしないだろう。
「何にせよ……」
あれだけの事をした私がどんな顔で会いにいけるというのか。
社会的な罪は償えたとしても、私の心の罪はまだ償えていない。
私は『欠席』の返事をしようと招待状の封を開ける。
するとそこには招待状に混じり、一枚の便箋が同封されていた。
「……便箋? 何だろう?」
私はゆっくりと便箋を開く。
「!」
そこには『そろそろ罪との折り合いをつけても、いい頃だろ? だから久し振りに顔を見せに来いよ。今度は待ってるからな』とだけ書かれていた。
「…………」
私の中で何とも言えない想いが込み上げてくる。
それはかつて、先輩に感じていた暖かい想い。
それはかつて、事件を起こしてしまった自分への後悔。
それはかつて……先輩達を傷付けてしまった事への……。
様々な想いが交錯し、気が付くと私は……。
「……え?」
涙を流していた。
突然、溢れだした涙に戸惑う。
私、何で泣いているの……?
私はまだ罪を償わなければならないのに。
こんな優しい言葉を掛けてもらえる資格なんてないのに。
なんで……?
なんで……!?
なんで……!!
「……うう……ぐす……!」
しかし涙は次から次へと溢れて、止まらない。
そして、涙と同時に私の中にある気持ちが甦ってくる。
先輩に、逢いたい。
たった一つの確固たる想いが私の中で強く満たされいく。
虫の良い話だと言うのは分かっている。
私自身、全ての罪が償なわれたとは思っていない。
何度も言うが、これは私が一生背負わなければならない罪だ。
しかし先輩に会えば、先輩の笑顔を見れば、何かが変わるのだろうか?
この贖罪の日々を歩むだけではなく、何か違う道を歩んでもいいと思えるのだろうか?
「先輩、貴方なら、その答えを出せるんでしょうか?」
私は今一度、招待状に同封された便箋を見る。
そしてそこに書かれた文字をもう一度読み直す。
その中で一つ、気に掛かる言葉があった。
『今度は待ってるからな』
待っている、というのは分かる。
結婚式に来るのを『待ってる』という意味だろう。
ならば『今度は』と言うのはどういう意味だろうか?
私の記憶では先輩と待ち合わせをした事など無い。
先輩と過ごした時間の全ては学内の部室だけだったし、部室に来るのもいつも私が先だった。
当然の事ながら、個人的に遊びに行ったなんて話も一度もない。
かつての記憶の数々は私が、勝手に妄想し、思い描いていた世界での話だ。
それとも私の知らないうちにそんな事があったのだろうか?
いや、そんな事があったというのなら私が忘れているハズがない。
今でこそ、大分その想いは落ち着き、薄れ始めているが当時の私が先輩とお出掛けなんていう一大イベントを忘れる訳がない。
なら先輩は、いつ、どこの話をしているのだろうか?
映画館? 私の家? 街中?
違う。ダメだ。それは全部私の描いた妄想の世界の話だ。
私と先輩の思い出じゃない。
でも『今度は』という言葉を使っている以上はどこかに……。
「!」
不意に私の中で浮かび上がってくる真実。
そうだ。一度だけ、あったじゃないか。
先輩が私を待っていてくれた時が、一度だけ。
それは紛れもない……。
私が先輩に告白しようとした時だ。
あの日、私は先輩の下駄箱の中にラブレターを入れ、例の公園で待つ予定だった。
しかし急になって怖くなった私は足踏みをしてしまった。
そして偶然、同じ日に星宮さんも私と同じように告白した。
彼女は迷わなかった。
勇気を出して、私がモタモタと足踏みをしている間に告白した。
そして先輩との未来を手に入れたのだ。
だけど、もし先輩が手紙の送り主が二人いる事に気付いていて、更にはそれが私だと気付いていてくれたとしたら?
だからこその『今度は待ってるからな』という言葉だとしたら……。
その事実に気付いた瞬間、私の中から初めて感じる熱い何かが込み上げてきた。
それは愛でもなければ、恋でもない。
ましてや怒りなんて物でもない。
私はこの想いを知っている。
誰しもが持っているも、振り絞る事が難しい力。
かつて私が、あの日、出す事の出来なかった力。
そう、これは……勇気の力だ。
先輩は今度こそ、勇気を出して自分のところへ来いよ、と言っているのだ。
あの日、先輩はずっと待ってくれていた。
私が告白しに来るのを待ってくれていた。
それを先に星宮さんに告白されたくらいで、私は勝手に負けを認めて、夢へと逃げて、暴走して……。
「あ……そうか。あの時の先輩の表情はそういう事だったのか」
そう言って不意に思い出されたのは、私が星宮さんを刺した犯人だと告白した日の事。
無言で私に平手打ちをする星宮さんを他所に、先輩はひたすらに困惑していた。
非難するよりも、その表情はこんな結末になる事を止められなかった己の無力さを現している様な表情だった。
あの時の私はとにかく謝る事で頭がいっぱいだったが、今思うと後悔していたのは私だけではなく、先輩も同じだったのかもしれない。
私は再び、結婚式の招待状を手に取る。
一度は断ろうと思った。
私には二人を祝福する資格なんてないと思っていたから。
でもそれは大きな間違いだった。
私は罪を償わなければいけないという理由を建前に現実から逃げているだけに過ぎなかった。
そこには結局のところ、私の独りよがりなエゴしかない。
本当に彼らに対して申し訳ないと思うのなら、私は逃げてはいけない。
先輩が私の告白を正面から受け止めてくれようとしてくれたみたいに、私も彼らの思いを正面から受け止めなくてはならない。
それが本当の意味での贖罪の第一歩になると私は思った。
「先輩、今度こそ、私……勇気を出します……!」
そう言うと私は『出席』のところへ丸を付ける。
もしかしたら私の勘違いで、この便箋の言葉も深い意味なんてないのかもしれない。
でも信じたかった。かつて私が好きになった人を、先輩の事を。
確かにこの世界は辛くて、苦しくて、嫌になる事ばかり。
だけどそんな暗闇に包まれた世界でも、空を見上げれば一筋の光明は照らしてくれているのだと、私は信じたい。
かつて先輩が、私にそうしてくれたように……。
だってそうじゃなかったら、あまりにも私達にとって、この世界は悲しすぎるじゃないか。
だから今こそ勇気を出して、私は自分の感じた直感を信じる事にした。
そうする事で、自分やこの世界の事を少しだけ好きになる事で……。
ようやく、私は黒咲都子という人間の『本当の物語』を始められた様な気がした。
と、いうわけでひとまずは都子の物語は終了です。
重い話でしたが、最後まで読んでくれた方、ありがとうございました。