手と手を合わせて幸せ
学生と社会人なら学生の方が楽だったかも知れないけれど、社会人の方が自由度は高い気がする。
でも、やっぱりそこら辺は個人差があるので、絶対とは言えない。
俺としては、社会人の方がいい、かな。
部活に掛けた三年間でそのままプロ入り。
元々そっちでしか生きていけないと思っていたから、どうってことないけれど、社会人って感じはあんまりしない。
好きなことをして生きていけるってのは、スゲェことだと思うし、俺はそれに感謝している。
それなら、学生でも社会人でも一緒だろ、と思うが、俺にとって重要なのはそこじゃない。
もっと大事なのは――。
「ただい」
「おかえりなさい!」
ガチャガチャとドアノブに鍵を差し込んで、扉を開けながら帰宅の挨拶をすると、被せてきた。
家に帰ると明かりがついていて、出迎えられることが凄く嬉しいと気付いたのは、コイツと暮らすようになってから。
毎回被せてくるのは何とかして欲しいが。
キッチンから出て来て、わざわざこちらに顔を見せるソイツは、満面の笑みを見せる。
帰ってきたんだなぁ、と一気に自覚する瞬間だ。
「ただいま。……つか、それ俺のエプロンじゃね?」
靴を脱いで部屋に上がると、キッチンに引っ込んだソイツが鍋を見ていた。
その背中は遠い記憶の母親を呼び起こすような感覚がしたけれど、だぼだぼした黒いエプロンのせいですぐに薄れてしまう。
相変わらずの癖っ毛を一つに結い上げたソイツは、お玉片手に振り返って笑った。
眉も目尻も下がった幼い笑顔は、俺が学生の頃から好きなものだ。
「似合う?似合う?」
「いや、ずるずるじゃん」
ははっ、と笑いながら部屋に戻って着替えに行けば、背中にブーイングが飛んでくる。
ここで似合ってるって言ったら、調子に乗るからなぁ。
いや、乗ってもいいけど可愛過ぎて手ぇ出しちゃうし。
一気に疲れが吹っ飛んだ。
荷物を寝室に置いて、学生時代に来ていた学校名が入ったTシャツを引っ張り出す。
首元がヨレてきてるのを見て、時間の流れを感じるのは、確実に歳をとっているからだろうか。
着替えて戻れば、食卓にはしっかりと夕食が並んでいて、ソイツはドヤ顔。
んふふ、なんて笑い声を漏らしながら、後ろに手を回してエプロンを外していた。
「今日のもバッチリだよ」
絶対美味しいから!と何故か張り切っているけれど、いつも普通に美味しいから問題ない。
何に対して張り合っているのかは分からないが、俺もソイツに習って食卓に着く。
いただきます、声を揃えて手を合わせるこの瞬間が好きだ。
ただいま、を言えば、おかえり、と返ってくるのも、明かりの点いた家が待っていることも、出来立ての飯にありつけるのも、一緒にそれを食えるのも、全部全部社会人になってから手に入れたものだ。
ソイツは目の前で、子供みたいに目をキラキラさせて俺の感想を待っている。
「ん、美味いよ。今日のも美味い」
「んふふ、でしょでしょー?」
成人した今でも子供みたいなソイツを、永遠という形で手に入れられるようになるには、大人になるしかなかった。
社会人になって、自分で稼げて、安定して、こうして当たり前の生活の中にソイツがいる。
社会人だから出来たことだ。
そう思うと、やっぱり社会人がいい。
学生の頃は学生の頃で楽しかったけれど、これからも絶対に傍にいられる、そんな自信の持てる今がいい。
幸せってこういうのを言うんだろうなぁ、って思う。
「俺さぁ」
「ん?」
「お前と結婚して良かったわ」
食事の手を止めて、咀嚼すらも止めて俺の顔を見るソイツは、元々真ん丸な目を更に真ん丸くしていた。
どんだけ目が乾いてんだよ、と言いたくなるくらい瞬きをしてから、口の中のものを飲み込んだソイツは、俺の方に両手を伸ばしてくる。
白く細い手に輝くそれは俺が選んで贈ったもの。
目の前のソイツは、あの日と同じように今にも泣きそうな笑顔を見せる。
それは痛々しいものじゃなくて、今目の前にある幸せを噛み締めているような愛おしい顔。
「当たり前じゃん」
「当たり前だな」
夕食を挟んで笑い合う。
指輪を付けたソイツの手に、同じ指輪を付けた俺の手を重ねると、その輝きが増したような気がしなくもない。
笑いながら涙を零すソイツを、俺はこれからも愛し続けるし、ソイツも俺を愛し続けるに決まっているんだ。
これからしわくちゃになっても、俺達はこんな風に泣き笑いしながら手を重ねるんだと思う。
きっと、そうだ。