第四章 第七話(1)『交換条件』
差し伸べられた手を、レレケは頭を振って拒絶した。
やはり応じる訳にはいかない。
本当に スヴェインの語る言葉に嘘はないと言えるのか?
祖国を裏切り、あまつさえ害をなそうとするこの男に、一片の真実があるとでも?
大仰な素振りで、スヴェインは彼女の判断を嘆いた。
「おお、私の誘いを断るか。相変わらずの頭の固さよ。それほどメルヴィグに愛着があるとでもいうのか? お前の家族を迫害し、現代の英雄とも呼ばれた兄を排斥する、この国の連中に対して愛着があると? むしろ逆だろう? お前は憎んでいるはずだ。恨んでいるはずだ。己らを蔑むこの国の愚昧なる者共に――」
「止めなさい」
止まる事の無い悪魔の演説を、彼女は無理矢理に遮った。
スヴェインは鼻白んだ表情を大袈裟に作ると、大きく息をついた。そして、傍らで伏臥する凶々しい巨獣に手を置く。
まだ夜明けには遠い、霧けぶる暗夜。
ましてやここは、昼間でさえ日の光りが届かぬ、ブナの樹が生い茂る森の中。
レレケは己の倫理と誇りにかけて、スヴェインの誘いに応じなかったが、判断を一つ誤れば、男の操る〝怪物〟が、いつ自分を襲うか知れたものではない。
しかも夜の森だ。助けが来る可能性は、万に一つも期待出来なかった。
「私を信じられないのかね? ま、それも仕方なかろう。しかしだ、君の父上、イーヴォ卿に関する事だけは真実だよ。この異形の生物を創ったのは、間違いなく君の父上だ。嘘ではない」
「……それが信じられないわ。どうして私の父が、こんな化け物を創るというの? 父が求めていたのは貴方がかつて追い求めた〝ウルフバード〟よ。それとこの生物に、どんな関係があるっていうの?」
「君と旅をする、あの少年騎士の鎧獣が持つ、アレかね?」
レレケは思わず言葉に詰まる。
どうしてスヴェインが、イーリオ君の事を知っている? いや、それよりも、何故ザイロウの授器が、ウルフバードという名だと知っている?
「それぐらいは調べがついているさ。私も未だ、ウルフバードを探求している事に変わりはないのだから」
「……」
まるでレレケの心を読んだかのような、スヴェインの発言。
駄目だ。彼の調子に巻き込まれては。
「イーヴォ卿は、ウルフバードこそが鎧獣や神之眼の神秘を解き明かすと考えていた。私も同感だ。だが、途中で気付いたのだよ。ただ見つけ出しても、ただ創り出そうとも、それだけでは駄目だと。ウルフバードは〝鍵〟でしかない。重要なのは、神話の中にこそ記されている、と」
「……? 何を言ってるの?」
「あの夜、君と再会したリッペの屋敷でも言ったではないか。君も知りたがっていた、神秘の最奥。この世の全てが解き明かされる場所――〝星の城〟に至るべき道を、我々は見つけたのだ。その道程こそ、この怪物であり、メルヴィグの、いや、ニフィルヘム全土の掌握よ」
「――!」
「嘘ではないさ。それを君の父に、そして私に教示してくれたのが――」
「何?」
「……いや、それは会えばわかる。君が私と共に来れば、〝そのお方〟とも会え、君の父とも再会出来るのだ。そうすれば、私の行いが、悪などではなく、正しき道であると、君もわかってくれるだろう」
含みのある笑顔で、再度手を差し出すスヴェイン。
父に――父に会える。
しかし、レレケは三度首を左右に振る。
「何故だ?」
「私は、貴方の言葉が信じられない。……確かに、嘘はついていないのかもしれない。それでも」
「でも?」
「その言葉が全て真実を語っていると言えるの? 本当に正しき行いなら、何故、この怪物で、罪も無い人々を殺めたりしたの?」
「相変わらず、模範的な回答で逃げようというのか……。それが君の本意ではないだろう? 知っているぞ、君は私と同じ。〝真実〟を探求する者。その為なら、いかなる犠牲も問わない人間のはず」
「違う。私は犠牲を強いる事が、真実の探求だとは思わない!」
スヴェインは、再び大仰な素振りで彼女の返事を嘆いた。
どこまでが彼の〝真実〟なのか。彼女は尚の事分からなくなる。その仕草が、余計に彼女を困惑させた。
おそらくこの男は、死ぬ間際でもこうなのだろう。
「よかろう。どうやら君は、いつの間にか、いたく頑固な人間になってしまったらしい。出来ればこれは、したくなかったんだがな……」
そう言って、スヴェインは臥せったままの怪物の背を、軽く叩いた。
――実力行使をしようというの?
思わず身構えるレレケ。
しかし彼女の予想に反し、立ち上がった怪物は、そのまま後方の叢へと素早く消えていった。
「……?」
レレケが戸惑うのも束の間、再び叢が大きな音をたてると、再度、怪物が姿を表す。
しかし、一体ではなかった。
よろめく足取りで、もう一体。先の一体に体を支えられるようにして、二体の怪物が姿を見せた。
――!
そうだ。忘れていた。怪物はもう一体いたのだ。しかし、後から姿を表した方は、顔の半分が陥没し、見るも無惨な様相を呈している。伍号獣隊のカレルに負わされた傷だ。その手負いの一体を呼んで、いったい何を――?
だが、疑問を抱いたのも一瞬。回答は目の前にあった。
後から姿を見せた手負いの怪物。
その背に乗せられているのは――
シャルロッタさん!
全身が脱力し、両手両足を力なく揺らしている。
もしやと思い、一瞬、蒼然となるレレケだったが、どうやら気を失っているだけのようだ。
「君が追いかけていた少女だ。何故一人、森の中に逃げ込んだのかは知らんが、よもやこういう形で役に立つとはな」
「スヴェイン、貴方……!」
「そう怖い顔をするな。この子が君とどういう間柄なのか。それは残念ながら知らないが、わざわざ危険を冒してまで追いかけようとするくらいだ。さぞ大事な仲間なんだろう」
先に森の中へ入っていったシャルロッタ。彼女がこの男の手に落ちていたなんて――。
「もし君が、私と一緒に来てくれるというなら、この娘は解放してやろう。だが、断るというのなら、ここで私の〝獣〟達のエサになってもらう」
「――!」
「仲間を見捨てて、それでも己の信念を貫くか? それとも、仲間の命を助け、共に真実を知る機会を得るか? どちらを選ぶ?」
何が命を助け、だ。害を与えているのは貴方だろう、と叫びたくなる衝動を堪え、レレケは必死に考えを巡らせる。
幸い、スヴェインがシャルロッタについて、何か気付いているような素振りはなかった。
彼女の持つ不可思議な〝能力〟。
そして彼女の存在そのものが、ザイロウという謎多き鎧獣と、深く関わっているという事実。もしそれをスヴェインが知れば、事態は更にややこしくなる。
ここは何としても――。
レレケはそう思うも、しかし妙案は――何も浮かばなかった。
完全な手詰まり。選択肢などある訳がない。それが分かっていながら、あえて二択のような言い方をするスヴェインに、彼の悪意が垣間見えるような気がした。
レレケはきつく唇を噛んだ。鉄臭い味が口の中に広がるほどに。
やがて絞り出すような声で、彼女は小さく答えた。
「彼女の無事は、必ず保証しなさい……!」
「ああ。当然だとも」
スヴェインは白い歯を見せて、微笑んだ。




