第四章 第四話(3)『濃霧』
数刻が経った――。
深更。
濃霧は益々濃度を増し、ランプの明かりでさえ、幕がかかったように映る。
この深夜にである。
闇夜の向こうからは、微かにフクロウの鳴き声が響いていた。森の方は霧が薄いとでも言うのだろうか。冷気もあるが、それ以上の視界の悪さが、羽虫一匹身動き取れない不気味さを漂わせていた。
伍号獣隊が宿泊している教会も、今は怪物に対して何かが出来るはずもなく、ひっそりと寝静まっていた。教会の広間や、あちこちに寝ている鎧獣達も同様である。
万が一の怪物の急襲に備え、そちらこちらに騎士と鎧獣が歩哨に立っていたはずなのだが、殆どの鎧獣も眠っていた。
そんな不気味な静けさのせいもあって、イーリオはなかなか寝付けないでいた。
王都レーヴェンラントで起こったレレケ誘拐と、錬獣術師の殺害事件。そして、レレケの過去。イーリオ自身もまた、己の鎧獣の持つ授器〝ウルフバード〟が、一連の出来事に何らかの関係があるのかもしれないと感じており、自分も決して無関係ではないような心持ちでいた。
その事について、レレケは何も言おうとしない。イーリオもまた、聞き出せないでいた。一度、それとなく話の水を向けた事はあったのだが、彼女は「私もわかりません」と答えるのみで、まるでその問いかけから逃げるようにさえ感じられた。以来、〝ウルフバード〟に関する話も出来ていない。
同室のドグは既に寝息をたてている。〝山猫〟などと渾名するわりに、なかなかな音量だ。
「寝つけねェのか?」
もう一人の同室の人間、リッキーが、毛布にくるまったままの格好で、イーリオに声をかけた。
「リッキーさん、起きてたんですか?」
「早く休んどけよ。明日からも長い旅になるかもしんねーんだからよ」
「リッキーさんは、全然疲れてなさそうですね」
「そりゃな。俺ァ、巡検の任も多かったから、長旅には慣れてんのさ」
「……その、リッキーさんは、レレケの事、どう思います?」
「あん?」
「レレケのお兄さんの事、それに、知り合いだっていう、黒母教の司祭の事……。それに、ザイロウの授器と同じ名前の〝ウルフバード〟の事……」
「オメーはどう思ってんだ? 疑ってんのか?」
「いえ。疑ってなんかいません。でも、色々気になって……」
「オメーが聞きたいのは、〝ウルフバード〟の事だろ?」
そうかもしれない。いや、そうだ。
ティンガル・ザ・コーネとの一戦で見せた、あの超常。まるで魔法か神の御業のような、有り得べからざる力。あれを見て後、自身の鎧獣と授器を、不可思議に思わないなど、それこそ有り得ない。いや、そもそもザイロウは、最初から何から何まで不思議だった。異常と言っても良いだろう。
「確かに、オメーの鎧獣は変わってやがるさ。そこいらのとは違ェ。でもな、その事でレレケはどう言ったんだ? オメーの鎧獣が、あいつの一件や、今回の事件に何か関係してるとでも?」
「特には……。いえ、何と言うか、答えから逃げてるような……、そんな風に感じました」
イーリオの答えに、リッキーが口を開きかけた時だった。
突然、ガバっと勢いをあげて、ドグがベッドから跳ね起きた。
「な、何?!」
いきなりの挙動に、二人は驚く。ドグは上半身だけ起こした状態で、凝と動かない。やがて一言――。
「何か来る。……いや、来た」
彼が言い終わるか終わらないかの内に、外から騒がしい物音が響いてくる。
叫び声。
悲鳴。
そして大きな物音。
イーリオとリッキーも、何事かと体を起こし、部屋の窓を見るも、闇夜と濃霧で、何一つ判別が出来ない。
リッキーは既に何かを感知したのか、早くも衣服を改めている。
ドグも同様だ。
イーリオも騎士用の着衣に身を改め、三人揃って部屋の外に出た。その際、ドグがぼそりと耳打ちをした。
「俺ぁよ、信頼してるぜ。レレケの事」
「起きてたの?」
「半分はな。半分は寝てたさ」
半分だけ寝るだなんて、何とも奇妙な答えだが、これが元盗賊の危機管理というものだろうか。
「……あいつはよ、俺の事を〝仲間〟だなんて言いやがったんだ。俺みてぇな盗賊によ」
「うん」
「だから俺も、あいつを仲間だと思ってる」
イーリオも頷く。
そうだ。僕達四人は、旅を共にする仲間だ。お互いそれぞれが訳アリなのも、それは当然の事だろう。それぞれが今まで、〝それなりの〟生き方をしてきたのだから、〝過去〟があって然るべしだ。むしろ、イーリオの方こそ、皆の中で一番平凡で、起伏のない人生を送ってきたようにさえ思う。ドグのような逞しい暮らしをしてきた訳でも、レレケのような浮き沈みの激しい半生を送って来た訳でもないのだから。シャルロッタに至っては尚の事だ。彼女の存在そのものが、この複雑怪奇な現状を呼び起こしているのだから、最も訳アリなのも間違いないだろう。そんな彼らが、自分という平凡な人間を受け入れてくれている。ならばそれ以上に有り難い事はないだろう。仲間を疑うなど、尚の事有り得ない。
二人は隣のレレケとシャルロッタのいる部屋の扉を叩いた。リッキーは先んじて騎士団の居る方に向かっている。
ノックのしばらく後に、レレケが扉を開けた。彼女も騒ぎに気付いたのだろう。旅装ではないものの、既に獣使師用の器具を身に付けている。一方、シャルロッタは、寝ぼけ眼をこすりながら、寝具のままうつらうつらと立っていた。
「何の騒ぎですか?」
騒々しい物音は、まだ続いている。
「分からない。でも、悲鳴が聞こえたから、只事じゃないと思う」
レレケの問いにイーリオが答えると、彼女の後方で夢現としていたシャルロッタが、ゆっくりと近付き、夢遊病か寝言のような頼りなさで、彼らに囁いた。
「嫌な感じがする……。すごく嫌な……」
シャルロッタが感じていた予感は、全員も同じであった。ただ、彼女までもがはっきりと明言すると、事態はより一層、深刻なものだと否が応にも感じてしまう。
イーリオが〝仲間〟だと心中で思った――そして、それは四人共にそうであった――四人の仲間達は、急いでリッキーの後を追う事にする。
……だが、この時シャルロッタが言った予感は、他の三人が感じていた〝それ〟とは異質なものである事を、この時の彼らは知る由もなかった……。
――な、何だ?!
夜を苦としない猫科猛獣、シベリアオオヤマネコの視力を持ってしても、この濃霧は見通せない。だが、危険は察知出来る。触覚に感じる反応は、未知の脅威。特に己の生命の危機に対しては、何よりも敏感になる。それが生物の本性だろう。
だが、何だと言うのだ――!
濃霧から立ちこめる凶悪で暴力的な、この殺戮の気配は。
鎧獣騎士であるにも関わらず、濃霧から沸き上がる己の感情の正体は、正しく〝恐怖〟。霧の向こうの殺意を感じ、確かに自分は震えている。メルヴィグ王国南方域の守護騎士団、オルペ騎士団の隊員である自分達が。
また、悲鳴。
――ど、どこだ?!
喉からせり出しそうになる恐怖の呻きを、何とか口元で抑え込めたのは、己の矜持ゆえだろう。
オルペ騎士は周囲の気配を探る。
だが、感じるのは、自分と同じ騎士団員の気配だけだ。
鎧獣騎士の鎧もろとも、人骨が砕かれる音が、辺りに響き渡る。
既に二人も犠牲になった。
しかも何故だろう。どうにも鎧獣の反応が良くない。
この霧と、〝襲撃者〟のせいだろうか?
いや、そんな事はない。
恐怖は駆り手が感じるものであって、鎧化した鎧獣にまで伝わる訳ではないはずだ。
その時、耳元で巨大な何かが掠めていくのを感じた。
気付かなかった。
いや、気付けなかった。
一歩たりとも微動だに出来なかった。
再び恐怖の叫びがあがる。足元に何かを感じ、恐る恐るまさぐると、人獣の頭部。オルペ騎士団の鎧獣騎士の頭部が、転がっていた。
悲鳴は絶叫に塗り変えられた。
それは己の声であったのか。それとも別の騎士のものであったのか。もう誰にも分からなかった。
濃霧で遮られた視界の中。それが騎士達の見た最後の景色であった。




