第四章 第三話(終)『人牛二騎』
ぴちゃぴちゃと音が響いている。
今が昼か夜かも判らぬほどの、叢林に覆い尽くされた暗闇の森の中。その巨きな影は、全身を奮わせながら、人獣の裂けた体に舌を這わせていた。
「腹など満たされぬだろうに」
呆れ気味に呟いた声は、樹々の影になった場所から届いた。その場には似つかわしくない、モップのような長毛の巨牛の背に跨がっているのは、濃い髭に、引き締まった中背中肉の男。
彼の傍らには、もう一つの影。黒色の波打つ長髪に、皮肉っぽい笑みをたたえた、白皙の細面。
巨牛の背にいるのがベネデット。傍らに居るのが、黒母教司祭、スヴェイン。
言を発したベネデットは、黒く蠢く巨獣が、一心不乱に鎧獣騎士の死体を貪る姿に、顔を蒼醒めて、傍らのスヴェインに問いかけた。
「アレのどこが成功だ? 出来損ないもいいとこではないか」
スヴェインは影になった黒い巨獣から視線を移さず、ベネデットの嫌味にも全く動じる素振りはなかった。
「以前に比べれば上々の出来だよ。今はまだ意識まで制御出来てはおらぬが……、いずれ完成する日もそう遠くあるまい」
「遠くないなどと……、それはいつの事だ?」
「素人は性急に過ぎる。我が師ホーラーが、獣使術を編み出してより、わずか数十年だぞ。それが数年の研鑽でここまで辿り着いたのだ。それだけでも歴史に名を残す偉業と言って、差し支えないのだがなぁ」
スヴェインの言葉は、皮肉なのか韜晦なのか、それとも自嘲なのか、あるいはそのどちらの意味も含んでいるかのような響きを持っていた。
「カッ、お前のように悠長な事は言ってられん。手の着けられん〝怪物〟などと呼ばれるくらいなら、いっそのこと、すっぱり諦めるのも司祭としての努めだろう」
「だから、それが短気だというのだ。何事も腰を据えて忍耐強く錬磨した者こそ、真なる成功を修る事が出来るのだぞ。上手くいかん時こそ、尚の事、辛抱が肝要よ」
「何が忍耐だ。不出来の始末に、我ら〝十三使徒〟を使っておいて、よく言うわ」
呆れた口調でベネデットが言った時だった。
樹々の向こうにいた黒き巨獣が、二人の気配に気付き、こちらに濁った眼差しを向ける。それは盲いた瞳のような、灰色に混濁した輝きをしていたが、明らかに視力はあるようだった。二人を的確に感知している。
「どうやら気付かれたようです。頼みますよ、ベネデットさん」
スヴェインが後ろに下がるとともに、ベネデットはジャコウウシの背から降り、己の鎧獣の前に佇立した。
「……あとどれくらいだ?」
「三分きっかりです」
ベネデットの不審げな問いに、スヴェインは明快に答える。「やれやれ」と嘆息混じりに一人ごちると、ベネデットは巨獣の殺気が膨れ上がるのを感知しつつ、鎧化の言葉を放った。
「白化!」
鎧獣をその身に纏う騎士が、纏う際に発する音声認識、白化。それを唱えるや否や、ベネデットの背後にいたジャコウウシの鎧獣が、前足を跳ね上げ、白煙を全身から噴き上げながら、彼に覆い被さる。ジャコウウシの巨躯は、たちまち白煙に包まれると、数瞬後には煙は文字通り雲散霧消し、中から人獣の騎士がその姿を表した。
モップのような体毛の上には、通常よりも面積の多い、黒灰色の甲冑。右手には同色の大刀を携え、甲冑と合わせてこれを授器と呼ぶ。動物の姿から人獣の〝生きた甲冑〟となる際、身に着けていた装身具は、白煙を浴びる事で形状を変化させる。このジャコウウシの場合は、鎧と大刀。
頭部に兜的なモノは着けておらず、まるで被り物のような湾曲したツノが剥き出しになっている。
牛頭人身。
毛深いミノタウロスの騎士。
ジャコウウシの鎧獣騎士。
「いくぞ〝センティコア〟!」
己の全身を鎧う鎧獣の名を呼び、ベネデット=センティコアは、大刀を身構えた。
それが戦闘開始の合図になった。
黒い巨獣は、その巨躯に似つかわしくない俊敏な動きで、たちまちの内に彼我の距離を縮める。
頭部には、犀のような前方に張り出した一本角。それを振るって、ベネデット=センティコアを吹き飛ばす仕草をした。だが、こちらは地上最強の武装、鎧獣騎士。人間では追えない稲妻の如き野生の動きも、それに勝る素早い挙動で、即座に対応する。
センティコアの巨腕が、手にした大刀で、攻撃して来た角を叩き斬るように防ぐ。
そのまま角を斬った――かに思えたが、ベネデットは逆に押し込まれる形で、後方へと体を宙に浮かされる。
――!
鎧獣騎士の膂力を上回る動物など……。有り得べからざる光景であった。
非力なガゼル類がアフリカゾウに対峙するのならまだ判る。だが、ジャコウウシは鎧獣騎士の中でも大型の部類。ましてやその腕力は、力押しの戦闘と言っても差し支えないほどだ。それに対し押し勝つなどと。
だが、そういった事は折り込み済みであったのか、ベネデットも後方で見ていたスヴェインも、特に驚いた様子はない。しかし、油断は出来ない。舐めてかかれば、例えこのセンティコアだとて、先ほど巨獣が貪っていた鎧獣騎士の死体のように、無惨な餌食に変わり果ててしまうだろうから。
再び襲い来る巨獣。四肢の先端には、鋭く光る爪。まるで猫科のようだが、体毛は見えない。全身が甲羅のような〝モノ〟で覆われている。
センティコアは大刀を振るって、巨獣を切り裂く。だが、ブ厚い外皮は擦過傷を与えるのみで、致命傷にはほど遠い。しかし、剣撃の勢いで、巨獣は叢の中に吹き飛ばされる。
――このセンティコアの一刀でも仕留められんとは……。
正直、先ほどは出来損ないなどと言ったものの、〝未完成〟でこの脅威である。〝制御〟され、〝完成〟したならば、どれほどの〝力〟を発揮するのか。内心ベネデットは、考えるだに肌が粟立つ思いがした。
――まだ三分は経ってない。
大刀を構え、両腕に力を込める。場合によっては、獣能を出さねばならんかもしれんと、考えていた矢先――。
いきなり巨獣は、センティコアに背を向け、別方向に駆け出した。
――何っ?!
獰猛なだけのケダモノかと思っていたが、まさか野生動物ならではの生存本能でもあるというのだろうか? 鎧獣騎士センティコアが敵わぬ相手だと察し、一旦、退こうとでも?
だが、その動きは〝逃げ〟の為のものではないと、すぐさまベネデットは気付いた。
叢を回り込むような形で敏捷に駆け、向かった先は――。
――狙いはスヴェインか!
後方に下がったスヴェイン司祭を目指し、矢のような勢いで疾駆する巨獣。様子を伺う事で出遅れたベネデットは、己の未明に舌打ちしつつも、反転してスヴェインを守ろうとする、
だが、間に合わない。
疾さでは巨獣の方に分があるようだった。
数瞬後には、司祭の姿が挽肉になってしまう事は裂けられぬ。そう思った時。
爆音。
いや、地鳴りとも思えるような揺れを響かせ、巨獣と司祭の間に、黒い塊が落ちてきた。
咄嗟に飛び退る巨獣。スヴェイン司祭は、地揺れの勢いで、地面に座る格好になっている。
巨獣は唸り声を上げ、黒い塊に威嚇の喉を鳴らした。
黒い塊はもぞもぞと蠢き、やがて巨大な人型の――いや、人獣の姿を現す。
「ゲ、ゲッゲゲッゲ。お、惜しいなァ。し、仕留める、つ、つ、つ、積もりだったんだが」
どもりの強い言葉。痰が絡んだような耳障りの悪い声は、灰堂騎士団十三使徒の一人、ラフ・ラーザのものであった。
その姿は、ベネデットと同じ、牛頭人身。
体格は一回りほどセンティコアよりも巨大で、センティコアと似た黒灰色の甲冑に、同色の武具を持つ。ただし、センティコアとは異なり、手にしているのは、武骨な破壊の塊。
戦鎚だ。
先ほどの爆音と地揺れは、この武具による一撃であった。
そして何より違うのは、同じ巨牛でも、センティコアとは異なる容姿である。
焦げ茶の体毛は短く、荒々しい筋肉の隆起がはっきりと視認出来る。ジャコウウシの角が頭部全体を覆うのに対し、こちらは少し細身の牛らしい双角。
ニフィルヘム大陸の森林に群れをなして生息する、〝森の帝王〟。
ヨーロッパバイソン。
野牛の王とも呼ばれる種。
彼の鎧獣の名を〝クダン〟。
「ゆ、ゆ、油断したなァ、ベ、ベネデット」
牛頭の顔で、ベネデット=センティコアに声をかける、ラフ=クダン。より牛らしい姿の鎧獣騎士は、ある種、灰堂騎士団の象徴とも呼べる姿。
そう、灰堂騎士団の正騎士の鎧獣は、牛科の動物で占められる事が多いのが特徴だ。無論、ファウストなどの例外もあるが。
「油断ではない。〝怪物〟がこちらの予想を超えていただけだ」
「た、た、確かに、そ、そうだな」
茶化すかと思いきや、案外ラフは、素直にベネデットの言葉に同意した。それもむべなるかな。彼らが〝怪物〟と呼ぶ、この異形の巨獣は、千、万の軍隊に匹敵すると言われる鎧獣騎士を相手取り、互角以上に渡り合っているのだから。むしろ圧されているのは、ベネデット達、鎧獣騎士の方だとさえ言えた。
しかし――。
対峙する均衡を破るかのように、再び巨獣は跳躍する。またしても司祭狙い。狩り易い獲物から仕留めてしまおうというのだろうか。
だが、その動きに気付いていながら、ベネデットもラフも、今度は微動だにしなかった。
「三」
気付いていないわけではない。
「二」
動けない訳でも、隙をつかれた訳でもない。
「一」
スヴェインの眼前、爪が届くその直前で――
「ゼロ」
巨獣は突如、びくりと体を震わせ、動きを止めた。
やがて全身を異様なまでに痙攣させ、スヴェインのまさに目の前で、その場に崩れ落ちる。
「時間切れだ」
スヴェインが短く告げると、ゆっくりと二体の鎧獣騎士が、彼の側に寄ってくる。
「まだだぞ。もう少しで足が腐ってくる。そしたらやってくれ」
スヴェインの言葉通り、巨獣の痙攣は激しさを増し、やがて四肢から外皮や爪がこそげ落ち始めた。
惨たらしい姿。
死の腐敗を、早回しで見せられているようだった。
その姿を確認したベネデットは、大刀を振り上げ、巨獣の頭部に向けて一閃、二閃と刃を返す。
巨獣の額から、三つの輝きが綺麗に斬り取られた。
大小様々なそれは、神之眼。
通常、神之眼持ちの生物は、一体につき一個の神之眼のはず。だがこの巨獣の額に見えていたのは、あり得ないはずの三つの宝石。
しかしそれらを前にしても、驚きも何もなく、スヴェインがその手に神之眼を取った。そして、まるでそれが合図であるかのように、青みがかった乳白色の煙が巨獣の全身から噴き出し、やがて巨獣は、その場から忽然とその身を消失させた。
まるで、そんなものなどなかったかのように。
「ご苦労さん、二人とも。これで回収は完了した」
手にした神之眼を懐に納め、スヴェインは二名を労った。二人は、「蒸解」と唱え、白煙と共に鎧獣騎士の姿を解除する。
「回収したばかりで悪いが司祭、これからすぐに、予備の分の〝怪物〟を出してもらいたい」
そう言ったのは、ベネデットだ。
「何だって? コイツの完成体は、まだ二体しか出来ておらんのだぞ」
「そこを何とか頼む。俺達の任務に、アンタの〝怪物〟が必要なんだ。〝毒〟の中でも動けるアンタの〝怪物〟がな」
「〝毒〟を使うのか? 相手は誰だ?」
「我らが宿敵、覇獣騎士団の次席官が二人。それと国王の密使となった、例の大狼の鎧獣騎士だ」
ベネデットの言葉に、スヴェインは両目を開き、たちまちの内に喜色を満面に表す。
「では、レナーテもいるのか……。ククッ、つくづく私とあ奴には縁があるなぁ。いいだろう。早速準備に取りかかろう」
ジャコウウシとヨーロッパバイソンに挟まれる形で、三人の異様な男達は、叢林の奥深くへと姿を消していった。
辺りに残されたのは、不気味な巨獣との争いの残滓となった、激しい戦いの爪痕だけだった。
ぽつり。
叢林の隙間から、水滴が一粒落ちてくる。
雨が降る。
それは暗雲を呼び、暗闇を広がらせる先触れのようであった。
「面白い!」
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