第一章 第三話(終)『氷城』
その、現在この国の最高権力者たる、ハーラル皇太子が、首都ノルディックハーゲンにある主城、アケルスス城において、国家騎士団副団長ソルゲルの報告を聞き終えていた。
ソルゲルは、イーリオに敗北を喫した後、一人生き残った部下とともに、ほうほうの態で首都まで帰城したのだ。自身の鎧獣も回収出来ぬままに。
報告を語り終えても、沈黙したまま何一つ言葉を発しないハーラルに、ソルゲルは胃の腑がねじ切れそうな圧迫を感じていた。やがて長く感じた無言の後、ハーラルは一言だけ発した。
「で?」
思わず、顔を上げようとするソルゲル。
ここは玉座の間。
ハーラルは皇帝代理として、この国唯一つの至高の椅子に座っている主上の血筋である。下手な挙動は命取りになりかねないと、ソルゲルは反射的な己の動きを、騎士とてして鍛えられた自制心でこれを律した。顔を伏せたまま、主に問いかける。
「と、おっしゃいますのは?」
「報告はわかった。それで、お主はこの後、如何様にするつもりだ?」
「は……、もし願わくば、この失態を雪ぐ機会をお与えいただきますれば、必ずや殿下の御意に叶う結果を果たしてご覧にいれまする」
「そうか」
ハーラルの短い一言に、ソルゲルは背中の冷たい汗が、滝になって流れ落ちるような錯覚を覚えた。
「お主の沙汰については追って下す。下がってよし」
今度は思わず、顔をあげてしまうソルゲル。
冷酷ではあっても、事を成す時に逡巡したりしないのが、この皇太子の特長であった。即決が美徳であり、王者の資質とするならば、これほど相応しき人物はいないであろうというほど、決断は速く、その言を躊躇う事はしなかった。つまりこの場合、何らかの処罰が下されるのであれば、本日この場であろうとソルゲルは覚悟して来たのであるが、処分は後日というのである。最悪の結末は免れた。少なくとも、自らの地位は確保出来たのだと、ソルゲルは心中で、大きく安堵のため息をついた。
だが、現実は、冷たい刃を遅れて振るってきた。
「はっ」と短く答礼し、玉座の間より退出しようとするソルゲルに、思い出したようにハーラルが声をかける。
「そうだ、お主の副団長室だがな、今日中に荷物をまとめておくように。グスターヴには、お主自身から申し送りしておけ。わかったな」
つまりは降格。
いや、降格は確定なだけに、この後の処罰はいかなるものであるか。
数秒前の安堵はどこへやら、凍り付いたように固まったソルゲルは、ハーラルの側に控えている側近のエッダからの「何をしておる」という声を浴び、今度こそ部屋を退出した。まるで機械仕掛けの人形のような動きで。
ハーラルが処分を先送りにしたのは、躊躇ったからではない。己の関心が、この後どうするかという事に、既に占められていたからだ。黙然としているハーラル。側近のエッダは、それを無言で控えていた。
エッダは、皇太子側仕えの女官であり、官位としては決して高い地位にいる人間ではない。だが、ハーラルの気に入りとあって、宮廷内での発言力は、宰相以上のものがあると、専らの噂であった。
やがて長い沈思のあと、ハーラルはおもむろに口を開いた。
「次は私自らが赴こう」
「殿下、それは」
「副団長があの有様だ。これ以上高位のものを出せば、大事になりすぎる。だからといって放置するわけにはいくまい。なれば、誰が適任だ? 私以外おるまい」
「殿下御自らがご出征あそばされれば、それこそ事が大きくなりませぬか」
「表向きは、領地視察の行幸という事にでもしておけば良かろう。副団長以上の実力者で、且つ、あの帝家鎧獣を確実に封じれる実力者と言えば、そうそういる訳ではあるまい」
「なれば、私もおりますれば。お命じ下されば、今すぐにでも発てますが」
「貴様は、〝そちら〟向きではあるまい。向き不向きというものがある」
「恐れ入ります。出すぎた発言でした」
「構わぬ。大臣たちへの知らせは、そちに任せたぞ」
「はっ。ところで殿下、先ほどの副団長の処分、いかが致しましょう」
「ああ、そうだな……。平民降格の上、国外追放というところが順当だろうな」
「しかし彼の者、先だって北方の蛮族を討伐したという功がございますが」
「ふん。彼奴はな、鉱物商の組合と癒着して、かなりの賄を懐におさめておったのよ。蛮族との小競り合い如きでは弁明できぬほどのな。今回の一件を滞りなく出来れば、それで帳消しにしようかと思っていたが、この有様ではそうもいかぬ」
「左様でございましたか。ご慧眼、感服仕りました」
物事に情というものを介在させる余地のないハーラルであったが、鋭敏である事は、衆目の一致するところであった。ただし、厳しすぎる裁定であればあるほど、ハーラルの聡明さは、かえってその酷薄さを浮き彫りにしてしまっていた。
「しかしあの娘…………」
ハーラルは物思いに耽るように顔を俯かせ、声を小さく、ぶつぶつと呟きだした。
「何故、私の元に来ぬ? 私を認めぬ? いや、そもそもこの慣例自体、何の意味があるというのだ――?」
呟く声は、徐々にその音量をあげ、やがてまくしたてるような早口になり、ついには叫ぶような大音声へと音量をあげていった。俯きから上げた顔には青筋が走り、如何にも貴族然とした金色の髪は、夜叉の如く逆立っていた。
「ふざけるなっ! ふざけるなっ! ふざけるなっ! ふざけるなっ! ふざけるなっ! ふざけるなっ! 畜生っ! 腐れアマめ! クソ帝国め! 私を何だと思っている! 私は皇太子だぞ! 次期皇帝だぞ!」
髪の毛を掻きむしり、玉座から立ち上がったハーラルは、所構わず当たり散らす。
突如として豹変したハーラル。
これこそ、わずかな側近と、ハーラルの実母しか知らぬ、彼のもう一つの〝顔〟であった。
酷薄で怜悧な〝 氷の皇太子〟としての顔。それとは真逆の、激情家で知性や品性の欠片もない、獣性の顔。この顔を見せるのは、限られた者のみ。エッダはその数少ない一人であった。
玉座周りの紗幕を引き千切り、辺りを蹴飛ばし罵詈雑言をがなりたてる。
その間、エッダはなだめもせず、慌てもせず、ただじっと無表情に、ハーラルの荒れ狂う姿を見つめていた。
ハーラルが暴れ疲れ、やがて肩で息をするようになった頃、玉座の間へと一人の豪奢な婦人が入ってきた。うら若い乙女ではないが、その婦人には年齢不詳の妖し気な美しさがあった。口元に微笑をたたえ、目を血走らせたハーラルに歩み寄って行く。
「ほほ……、ハーラルよ、気はすんだかえ」
「母上……」
婦人の名はサビーニ。
皇帝ゴスフレズⅢ世の妻であり、ハーラルの母、即ちゴート帝国皇后である。
ゴスフレズⅢ世には前妻がおり、長男から三男までは前妻との間にもうけた子。ハーラルのみ、後添えのサビーニとの間に産まれた子であった。
年齢は、当年とって四一歳。
だが、その美貌は衰えを知らず、未だに妖艶な魅力を、香気のように、全身から漂わせていた。
「お主の気持ち、この母には痛いほどわかるぞ。あのような得体の知れぬ小娘に、国政の大事を決めさせるとは……! ゴートとは、つくづく愚かで蒙昧な家であろうな」
「全くです! 全くもって! ……けれども、……けれどもご安心下さいませ、母上」
母の姿を見てより、徐々にその表情を元の〝氷の皇太子〟のそれへと戻していったハーラルは、乱れた着衣と髪を整え、大きく息をつくと母に向かってこう告げた。
「次はこの私自らが、あの怪しげな小娘と帝家鎧獣を連れ戻して参ります。いくら帝家鎧獣とはいえ、同じなら、勝敗を決するのは騎士の力量次第」
「おお、今度はお前自らが向かおうというのか。さすが我が息子! お前なら見事、目的を果たして参るであろう!」
息子の頬を、まるで幼児にするようにつるりと撫で、目を細めて賞賛した。
「しかし大丈夫かえ? いくらお前が帝国一の騎士と言っても、この母は心配でなりませぬ」
「ご安心めされませ。私には有能な部下と、この――」
ハーラルが言うと、玉座の背後から、何か白い塊が、のそり、と動いた。
その白の上に黒の縞模様の入ったそれは、猫科特有の優美でしなやかな足取りで、ハーラルの側に寄る。
「ひっ――」
ハーラルの側に寄った白虎の鎧獣を目にした途端、サビーニは短く小さい悲鳴をあげ、後方に後じさった。彼女は鎧獣が嫌いであった。
「この、〝ティンガル・ザ・コーネ〟がおりますれば」
「そ、そうか、それは重畳。しかしハーラルや、玉座にまでそのようなケダモノを控えさすのはいかがなものかな」
「何をおっしゃいます。帝家鎧獣が控えるのは、それこそゴート帝国の伝統。それに、鎧獣は獣とはいえ、調律された正しき武具。恐れるものではありませぬ」
怯えの色を色濃くし、片頬を引き攣らせながら、サビーニは徐々に後方へとさがっていく。
「さ、左様であったな……。なら、母は何も言うまい。母は自室に戻る故、後の事はエッダ、お主に任せたぞ」
そう言うと、走り出さんばかりに、皇后は玉座の間を去って行った。
その姿を眺めながらハーラルは、「やれやれ、母上はあの鎧獣嫌いさえなければな」と、白虎の下顎をさすりながら、一人ごちた。
玉座の側でずっと控えているエッダが、その時、ほんのごく僅かであったが、薄く苦笑したのを、ハーラルは気付いていなかった。
「とはいえだ。行幸の速度を考えれば、奴らに逃げられてしまう恐れもある。エッダ、お主は先んじて奴らの足止めをしておいてくれ」
「足止めでよろしいので?」
「お主がその気になれば、全員殺してしまいかねん。それでは意味がない。いいか、手段は問わん。どのような策を用いるかはそちに任せる」
控えるように、「ははっ」と応じるエッダ。
別名、〝黒衣の魔女〟。
その知謀と才覚は、一国の宰相をもしのぐと言われ、皇后とはまた違った意味で、妖艶な美しさをもった、ハーラルの側近。
「イーリオ・ヴェクセルバルグ……」
ハーラルは呟いた。
その身に、帝国で最も極北の牙が迫りつつあることなど、その時のイーリオとシャルロッタは、知る由もなかった。
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