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銀月の狼 人獣の王たち  作者: 不某逸馬
最終部 最終章「銀月の狼と人獣の王たち」
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余話『疫病神一〇九六〈前〉』

 ボーナストラックのような、前・中、後、三編完結の掌編となります。


 本編の重大なネタバレを含みますので、本編を全て読んでからでお読みくださいませ。





 吹き付ける風は、地の底からのものだろう。


 人はこれを死の息吹と呼ぶ。


 疫病神と呼ばれる自分の居場所には、お似合いの風だと思えた。


「おい、高い金を払ってんだ。もっと気を入れてくれ」


 ゆさゆさと体を上下に揺さぶりながら、己の下で横になる男は不満を漏らした。


 嘘をつけ。私などに高い値がつくはずがない。

 と、文句を言ってやりたかったが言っても仕方がなかった。

 そうかといって、愛想のいい顔や媚びた声など出せるはずもない。せいぜい虚ろげすぎる自分を押し殺して、それっぽい演技をするだけだった。


 やがて事を終えた男は、悪態をつきながら部屋から出ていくためにいそいそと身支度をする。最後まで私の体への不満やらをひとしきり言った後、もう二度とお前なんぞ抱かねえと捨て台詞だけはしっかり残して。


 来なくていいよ――。


 とは言いたくても言えない。


 負わされた借金を全て返し切るには、まだ道半ばですらなかったから。


 館の主人に渡された台帳に、今日の売り上げを自分で記入する。

 最底辺の身分だが、文字と簡単な計算だけは覚えさせられていた。そのお陰で、拙いながらも読み書きは出来るのが唯一の取り柄かもしれない。


 記入を終えて自分の部屋に戻ると、次の客が来るまでのほんの僅かな合間を惜しむように、窓の外を眺めた。

 夕日に照らされるこの小さなオアシス都市の景色を見つめ、えらいとこまで来てしまったなと、溜め息をついた。


 地の底からの風というのは比喩で言ったわけではなく、実際に地の底から吹いてくるものなのだ。東西の大陸を分つ、恐ろしい大断崖〝大陸大断路ザイデンシュトラーセン〟から吹き上がった風が、このオアシス都市にまで流れてくるのだという。


 私はその長大な崖を超えて、ここにまで流れ着いたのだ。

 勿論、こんな場所になんか来たかったわけではない。


 元々はもっと東の大陸の、北の帝国が私の生まれだった。


 最底辺の暮らし。クズな親。


 私はクソみたいな親父からそういう類いの暴行を受けた後、やがていらなくなったボロ雑巾のように人買いに売られたのだ。


 最初から心なんかすっかり壊れていたし、自分がどうなろうとも、既に何も思わなくなっていた。


 糸の切れたマリオネット(ナ・ドラニ)のように、毎日無様に投げ出されるだけ。


 いつかは己に課せられた借金を全て返済し、自由の身になれるかも――と夢見た時もあった。

 だが、己に付き纏う呪いのような運命が、私の最大の枷となってしまう。


 最初に売られた女衒宿、次の女郎屋、また次の――と、私は居場所を転々としている。そのせいで、いくら必死で稼いでも返済はチャラになり、むしろ増えていく一方なのだ。

 何も望んでそうなったわけではない。行く先行く先で、常に何かの不幸が起き、一つ所に居続けられないのである。


 ある場所では一年足らずで火事がおき、娼館が全焼。

 またある場所では戦争のあおりを受けて逃げ出すはめになり、その次には館や街どころか国そのものが滅ぼされてしまい、更に遠くの国へ――。


 そうして気付けば元の大陸からも遠く離れ、大陸大断路ザイデンシュトラーセンの更に向こう、このオアシス都市国家にまで流れ着いたのである。


 行く先々で常に不幸がおきるのは私のせいではないのに、いつしか自分は〝疫病神〟と呼ばれるようになっていた。


 娼婦として微妙な年齢であったり、そもそも貧相な顔と体から連想しているのもあるのだろう。こっちとしては甚だ迷惑な渾名であるが。


 最近は自分がこの地獄なんていう高級なものではない、ドブ臭いゴミ溜めのような生活から抜け出せる事は一生ないのだろうなと、諦めてもいる。

 来る客も、どんどん質が落ちているような気がしていた。


 何やら大陸の方できな臭い事が起こっているのだと小耳に挟んだが、そもそもきな臭くない世界がこの世の何処にあるというのだろう? それが例え、こんな争いとは無縁そうなオアシス都市であっても、同じである。


 実際、最近はこの国の政情もどことなく不安定になっていた。

 物の値も上がっているし、移民との争い事も増えている。

 聞くところによれば、少し前に西方より流れてきた男がこの国の王に気に入られて宰相にまで召し抱えられたらしいのだが、それが原因だと専らの噂だった。


 また、人々の不安がいらぬ妄想にまでなっているのか、夜な夜な気味の悪い怪物が出ては、人々を攫っている――などという怪談めいた話も飛び交っていた。


 こういうのは、ゴートやジェジェン、トゥールーズなどという国々にいた時でもあった事だ。


 人々の不安がある一定の限度を超えると、嘘か誠かも分からない作り話のような噂が出始めるのである。そうなると、その周辺社会の終わりは近かった。

 ここもそうなりかけている可能性は高く、自分にとっては実にきな臭い話であった。



 そういえば、きな臭い客というのもあったな――と、数日前の事を思い出していたら、その客について一人の客が話を聞かせてくれと言ってきた。


 忘れもしない、珍しい雨の夜。


 その男は、ぬらりと部屋に入ってきた。


 きな臭いというのは、男の全てがそうだった。


 産毛一本すらない禿頭(とくとう)。眉毛もないし体毛もない。全身が無毛で、しかも病的に青白い肌をしていた。

 そのくせ体つきは非常に屈強で、隆々と盛り上がった筋肉は、明らかにカタギの人間ではない事を示していた。

 しかも部屋に入ってくるなり、男は私の衣服を乱暴に剥ぎ取り、一方的に行為に及んだのである。


 一言も発さず、まるでモノのような扱いで。


 いくら心が砂漠より乾いている自分でも、あまりの仕打ちに涙が出た。

 扱いのひどさに、人のやる行いではないとさえ思えた。


 事が終わり血を流す己の下腹部を見た後で、私は何てひどいと声を荒げたのだが、その男は表情一つ変えず、まるで排泄物を済ましたような呆気なさで、部屋を出ていったのである。

 そいつが唯一口に出したのは、帰り間際に最後に言った一言だけだった。


 ――マタ、クル。


 片言の大陸公用(新ガリアン)語。

 いつもなら心の中だけで言う二度と来るなを、私は初めて叫びながら言った。

 だから覚えていたのだ。


 最初は腹が立ち、悔しさで部屋中のものに八つ当たりしたのだが、時間が経つにつれ段々と薄気味悪くなり、その日、私はこの店に来てはじめて体調不良を訴えてその後の客を全部断ったのだった。



 今思えば、あれは――いえ、あの男は何だったのだろう。


 破落戸ごろつきではなさそうだが、かといって騎士(スプリンガー)なんて上等なものでもなさそうな。


 まるで心ない人形のような男。


 私は後になって、あれが私に取り憑いている疫病神そのものではないだろうかとさえ思った。その疫病神が、人の形をとって私を責め苛んできたのだと――。



※※※



「こんな話を聞いて、何が面白いのさ」


 一通り話し終えると、若い男はありがとうよと言って部屋から出て行こうとした。


「ちょっと、しないの?」


 男はここに入ってきてからも、外套を頭からすっぽりと被ったまま、それを脱ぎもしない。

 部屋に入るなりその不気味な男の話を聞かせてくれと言って、ルジルに金貨を渡したのだ。


 ゴート金貨など、ルジルからすればとんでもない高額貨幣だが、その白禿男以上に、顔を見せない若い男の言動も大概気持ち悪いなと思うのは当然だろう。けれども場末の娼婦にとって、金貨などというものは贖っても手に入れられない大金であり、その誘惑には勝てなかった。


 なので求められるがまま、彼女はなるべくなら思い出したくなかった不気味な白禿男の話をしたのである。


「いや、今の話で充分だ」


 それだけを言って、男は引き止める言葉も聞かずに立ち去ってしまう。


 ――?


 部屋の扉を閉める間際、ルジルは男の何かに記憶の底をまさぐられるような、不快とも懐かしいとも言えない感覚を覚える。


 ――今の……前に会ったっけ……?


 けれど、最後まで顔も見えなかったから、結局何も分からないまま。


 どちらにせよ、妙な客ばかりが続くなと思った。

 とはいえ、ずっと娼館の中に閉じ込められている自分が何かに巻き込まれるはずもなく、またそういった覚えも自分にはないとはずだ。


 例えばあの不気味な白禿男が逃亡した奴隷か何かで、それを今の若い男が追いかけてきたとか――。


 奴隷一人にそこまでするかという疑念はあるが、金か何かを持ち逃げしたとかなら、或いはとも思えた。

 いずれにしてもルジルの貧しい想像力では、そこまでが思いつく限界だった。


 もしかしたらこの店でも疫病神じみた事が起こる、その前触れかもしれないな――などと暗鬱で悲観的な未来図をぼんやりと浮かべながら、それでも手に入れた金貨の重みだけは、現実にある幸せだと思えたのだった――。




 その若い男はといえば――。

 彼は娼館から出た後、茜色から濃紺に変わりつつある路面を進んでいき、陽が落ちる頃にはオアシス都市の外れにまで辿り着いていた。


 若い年齢というのもあるだろうが、それを差し引いてもかなりの健脚に思える。しかもフードの下で、息切れ一つ起こしていない。

 そうして砂漠混じりの夜の荒野に一人立つと、周囲に誰もいない事を確かめて一人呟いた。


「……ったく。気持ち悪い事をさせやがる」


 その声に反応するように、闇夜の黒から一体の巨大な獣が姿を見せた。


 うっすらと浮かぶ虎縞模様。

 見た事のない白とオレンジと赤の鎧。

 そして現存するどの種にもない、長大な犬歯。


 虎のような獅子のような――しかし紛れもなく大型の猫科猛獣。

 その鎧獣(ガルー)


 巨大な牙を持った猛獣は若者に近寄り、甘えるように顔をこすりつける。その額や顔を優しく撫でてやると、若者はフードを外して夜空を見上げた。


「まだ冬じゃねえのに、オベロン座がこんなはっきり見えんのかよ」

「クソババアどもの小間使いのくせに、星座を語るとは、随分とお上品なこった」


 若者が声の方を見る。


 そこには長く伸びた金色の長髪を後ろで束ね、片眼鏡(モノクル)を着けた胡散臭い長身の男が立っていた。

 男の横には、彼の鎧獣(ガルー)らしき鎧を纏った巨大なライオンがいる。


 若者はといえば、顔中が傷だらけの凄まじい風貌をしていた。

 オレンジ色の髪を強引に布で巻きつけて抑え込もうとしているが、それが叶わないほどのクセっ毛が特徴的で、外見から察するにまだ二十代前半のように見える。

 身長は低い方だが、背の高さ以上の不敵さと修羅場を潜り抜けてきたであろう不遜さが、全身から漏れ出ている。そんな雰囲気の若者。


「俺が星を見たっていいじゃねえか。最近ニーナさんから教えてもらったばっかなもんでよ」

「さん付けときたか。さっきの娼婦とはヤらなかったクセに、あんなバケモノババアにはほだされたと見えるな。随分とまあ元気になったどころか、アルタートゥムにまで選ばれちまうなんざちょっとは驚きだが、それでもお前の中身は、やっぱ乳臭えガキだぜ。女を見る目がねえ」

「うっせえ。カイゼルンのおっさんは、そのバケモノババアの子供だろうに。聞こえてねえところで愚痴るなんて、あんたの方こそダセえガキだぜ」

「それを言うか、クソガキ。つうかおい、ドグ。いいか、聞け。オレ様にとっては、お前の任務がどうなろうが知ったこっちゃねえんだぞ。そこんとこをちゃんと分かっとけよ?」


 ドグは「へえへえ」と溜め息混じりの生返事をするだけ。


「てか、女を見る目って話じゃねえだろ、今のはさ。普通に考えて実の姉弟でヤるはずねえだろ。いくら目的の情報を探り出すためって言っても、それで自分の姉貴を抱くイカれ野郎が何処にいるってんだよ」

「何だ? さっきのはお前の姉ちゃんだったのか?」

「そうだよ。分かってて俺を派遣させたのか、それとも〝ドゥーム〟の姐さん達も知らなかったのか」


 知っててに決まってんだろ――とカイゼルン・ベルが苦笑いを浮かべる。

 カイゼルンと呼ばれはしているが、今は幻獣猟団ファタ・モルガナ・オルデンの主宰ディルクの姿に扮していた。


「で、肝心の情報はどうだったんだよ」

「ああ。〝エポス〟――っつーかもどき? みたいなのは間違いねえ。多分、またここに来る」

「別のエポスね……」


 ドグとカイゼルンが何故こんな遥か西の果てに来ているのか。


 それは、古獣覇王牙団アルタートゥム・ジーク・ファング団長オリヴィアの命を受けての事であった。



 曰く――。

 遥か西のハイタールというオアシス都市国で、奇妙な報告がある。

 調べたところ、エポスに関連した者の動きだと思われるので〝対処〟をしてこいと。

 その協力者として、アクティウム王国を出てブラついていたカイゼルンが無理矢理に引きずり出されたのだ。


 当然、カイゼルンは逃げようとしたのだが、そこはアルタートゥムで産みの母であるオリヴィアだった。


 どうやったのかは不明だが、このろくでなしを強引にドグの調査の協力に引っ張り出したのである。


「つーか、俺ぁまだ〝ジルニードル〟を受け継いでそんな時間経ってねえんだぞ。アルタートゥムっつったって、入ったばっかだっつうのに、ほとんど俺一人でなんて、いいのかよ」

「だからオレ様が駆り出されたんだろうが。お前ぇがしくじった時の保険なんだよ、ようは」


 それは言われなくとも分かっているとドグは返す。


 ドグがメギスティ黒灰院の崩落に巻き込まれたものの一命を取り止め、その後アルタートゥムの元へ行き地獄の日々を送って、はや四年が経っていた。


 見ての通り体は完全に回復しており、今はアルタートゥムの一人として|ジャイアント・サーベルタイガー《マカイロドゥス》の〝ジルニードル〟まで継承している。


 しかし本人が今言ったように、前任者から受け継いでまだ半年ほどしか経っていない。

 力を充分に発揮出来ているはずもないし、アルタートゥムとしては未熟もいいところだと自分でも分かっている。


 この調査任務を一人で行うのを不安がるのも当然だろう。


 カイゼルンもいるにはいるが、あくまでお目付け役としてでしかない。

 調査もその場の判断も全て、ドグ一人に任されていたのであった。


「ったく、頼りになる保険だぜ。俺が死んでも大丈夫ってか」

「文句言うな、クソガキ。文句を言いたいのはこっちの方だぜ。手が離せねえとか何とか言いやがって、お前ぇの初仕事の見届け人をさせられるなんざ、いい迷惑だ」


 カイゼルンの言う通り、これはアルタートゥムとなったドグの、初めての外向きの〝任務〟だった。

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