最終部 最終章 第九話(終)『亜空霊神』
暗黒の睡蓮が無数に浮かぶ、漆黒の沼。
それは人竜の影のように、カンヘルの動きに合わせて移動をする。
つまりヘル=カンヘルは、ただ歩くだけでこの世のあらゆる存在を、完全消去出来るのだ。
こうなると、既に攻撃すらも必要ない。防御も不要。
何故なら暗黒の蓮沼は、一瞬で多層世界へ消し飛ばす死の領域なのだから。
それに対しオリヴィア=イオルムガンドは、深く長い息を足元に吐いた。
息は光粉を帯び、まるで煙幕のように長く濃く滞留する。さながら彩雲の霧のように。
やがてそれが晴れると――
姿を見せたのは、骸骨。
光を帯びた全身骨格。
長い牙を持つそれは、骨だけになったサーベルタイガーだった。
しかも巨大である。
大きさはゆうに二〇フィート(約六メートル)を超え、イオルムガンドを背中に乗せてもまるで怪訝しくないほど。そしてその通り、オリヴィア=イオルムガンドはサーベルタイガーの骸骨の背に跨った。
「何だ、それは?」
最大級の捕食恐竜・竜喰らいの王の目を細めるヘル=カンヘル。
「〝亜空霊神〟――それがこれの名前だ」
名を告げた直後、サーベルタイガーの骸骨は凄まじい速さで駆け出した。
一直線、光刺すように。
闇の蓮沼に向かって。
――!
むしろヘルの方が、驚きで戸惑いを見せる。
光の骸骨が何であれ、次元の裂け目に繋がる花粉に満ちたこの沼地へ一歩でも足を踏み入れたら、如何なる者でも助かりはしない。霊子を繋ぐ霊輝花を、霊的であれ物理的であれ繋げられた何かを解くという逆方向に変換したこの力の前には、あらゆるものが無に帰すというのに。
それとも何をしても無駄と悟り、騎乗を盾に一撃離脱を行おうというのか?
ところが――
沼地へ踏み込んだ骸骨は、闇の花粉を浴びながらもまるで平然とその中を駆け抜けていく。背に跨るイオルムガンドにも、何も起きはしない。
一瞬の隙をつき、巨大ハサミの大剣で袈裟懸けに斬り付けるイオルムガンド。
巨大な曲刀でかろうじて凌ぎ切るも、体勢を崩してしまうカンヘル。神の騎士が、それを見流すはずもない。
開かれる巨大ハサミの刃。
閉じた時には裁断の衝撃波が飛んだ後。
「くっ……! 〝生命〟!」
背中の棘状突起から、夥しい数の胞子が撒かれ、それらは一瞬で無数の飛竜もどきとなる。
それが肉の壁となり、サーベルタイガーの断裁波を防ごうとした。しかし本気で放ったイオルムガンドの攻撃を防ぐ事など不可能。それでも威力を軽減させる事は出来た。
翳した腕から血飛沫を上げるも、この一閃で命を落とす事なく防御する人竜魔神。
「その骸骨……? 次元断裂を無効にしたとでもいうのか?」
よく目を凝らせば、イオルムガンドの全身にいくつもの斬り傷のようなものがあった。
「いや――無効化ではなく、緩和したのか?」
「ああ。この〝亜空霊神〟からは、ヴァーテロン霊子が放射される。それにより、貴様の多層世界への力を弱めたのさ」
「異世界で近年発見された、亜空間を抑制する霊粒子……! そうか、それが〝霊神融合〟とか言う貴様のとっておきというわけか」
死を振り撒くどころか、存在そのものを抹消するに等しいカンヘルの闇の力を、イオルムガンドは光の牙で抑え込み、そのうえ一太刀浴びせる事に成功したのである。
周りから見れば不可思議な魔法じみた戦闘にすら見えていたであろう。
既に鎧獣騎士の戦いとは言えない。そんな段階などとうに超越しており、超科学以上の攻防にしか見えなかった。
まさに神々同士の終末戦争そのものだった。
これを目にしたレレケなども、言葉にすらなっていない。
「遂に発動したか、〝霊神融合〟を」
そこへ、レレケ=レンアームの背面ユニットになったロッテが、ぽつりと言葉を漏らす。
「一体何なんですか、その、コーザリアというのは――」
レレケは今、レンアームを纏った状態で黒騎士軍の近くにいた。とはいえ、いくら最高峰の鎧獣術士であるレンアームでも、無敵無双の黒騎士レラジェには勝てるはずもない。だから戦闘行為は行わず、ある騎士の前にいて、この超常決戦を目にしたのだ。
「〝霊神融合〟は、アルタートゥムの中でもオリヴィアにだけ許された権能だ。有り体に言えば、異なる二つの魂魄を融合させ、そこから新たな生命、爆発的な力を生み出すというもの」
「それって、エポスが行う、生まれ変わりのようなものですか?」
「さすが察しがいいな。まさにその通りだ。エポスの行う生まれ変わり、魂の重合と同系統の技術で、即席でより強力な魂を生み出す。それが霊神融合だ」
「では、あの骸骨の力がそれなんですね」
「――いや」
「え?」
「あれは〝亜空霊神〟という、イオルムガンドに標準装備された特殊能力。獣能ではない、いわば装竜騎神の極帝破光のようなものだ」
「……? で、ではそれでイオルムガンドが強くなったとかじゃあ――」
「ない」
オプス神が駆っていた時よりも遥かに強力無比になったカンヘルに対し、イオルムガンドは互角に渡り合っている。しかもカンヘルがその実力を見せれば見せるほど、まるで呼応するようにイオルムガンドも更なる力を発揮していた――ようにしか見えなかった。
なのに、そうではないとロッテは言った。
「あれは単に、オリヴィアとイオルムガンドが本気になっただけだ。今までは単純に力を温存していただけにすぎん。あれのイオルムガンドもディザイロウと同じで、本気を出せばこの世界すら破壊しかねん力だからな」
「では、ディザイロウの力の制限のように、力を解放したのですか?」
「それも違う。イオルムガンドの場合はオリヴィアが熟練しきっているからな。自分の意思と実力だけで、強大すぎる力だろうとも制御出来る」
異能的なもので強化されたのではなく、単に本気を出しただけ――。
それは頼もしさを感じさせるよりも、新たな疑念を浮かばせた。
「ならどうして、それほどまでに巨大な力を使って、オリヴィア様は戦いを続けられるのですか? アルタートゥムの皆様は、力を使うのに制限があると……」
「ああ、その通り。例えばニーナがまだ戦っていられるのは、単純にあいつの戦闘感性が桁外れなだけで、それほど獣能も乱発していないからだ。そしてオリヴィアだが、あいつはアルタートゥムの中で唯一人、天の山の加護を受けているからだよ」
天の山。
アルタートゥム達が千年間住まいとし守り続けた、山の如く巨大な半機械生命体の巨鳥。
宇宙空間も飛行可能な、規格外の神の鳥。
「シエルの加護で、連合軍が強化されたようなものだ。ボク様達アルタートゥムは、天の山の中に居続ける事でその加護に接続し続け、それで不老を可能にしていた。だが天の山を出ればその不老は失われ、巨大な力を使うほどに生命を急速に失っていく。だが、オリヴィアだけは違う。あいつは唯一人、天の山の外にいても加護との接続を許された存在なんだ。だからあいつは、ボク様達三人と違い、長く力を使っていられる」
神の騎士の中でも、更に特別な存在。
ようはそういう事だろう。
だがそれはそれで疑問が浮かぶ。
「だったら、どうして皆様もそれをなさらなかったんですか?」
答えはどことなく想像がついたが、それでもドグの事があったせいで、勢い込んで問い質してしまうレレケ。
ロッテもそれを察して、大きな溜め息をついた後「分かっているだろう」と答えた。
「アルタートゥムの力は、みだりに使用するものじゃない。そんなものを四人全員に使用し、万が一にでも世界の均衡を崩すような事態になったらどうする? オリヴィアも本来は許されるべきではないんだが、オプスに対抗するため、たった一人の例外としてそれを認められたんだ。あいつがただ、アルタートゥムの中で最強だからというんじゃあない。あいつでなければそこまでの重荷を背負う事が出来ないからだ」
世界を破壊し、思いのままにする事が可能な力を、たった一人だけ手にする事が出来ればどうするか?
どれほど揺るぎない倫理観と正義の心を持っていたとしても、千年もそれを保ち続けるなど出来るだろうか? そもそも、千年もずっと沈黙を続けなければならない事が、異常すぎる状況なのだ。
一体どうすれば、巨大すぎる力を千年も持ちながら発狂せずにいられるのだろうか――。
レレケには想像もつかなかった。きっと自分ならどこかで気が触れて、何もかもを壊してしまいたい破壊衝動に駆られたり、全部を捨てて人間として死にたいと逃げ出すだろうと思った。
ただ一人だけの特権。
それは唯一無二の幸福ではなく、唯一人だけで背負わなければならない、地獄の苦しみなのかもしれなかった。
「分かったか」
「はい……」
「最初にお前が聞いた〝霊神融合〟は、まさにその最上位のものだ」
「特権の……力……?」
「そうだ。何せ魂を融合させるんだ。そんなものは規約違反すれすれどころではない。明らかな違反行為。それを使えば、オリヴィアは異世界側から強制停止させられる」
「そんな――」
「それをエール社の特権で、オリヴィアは二度まで使用可能なんだ」
「二度……」
「ああ、そこから一つだけ確かな事が分かる。あいつはその〝霊神融合〟を一度使った。だが二度目はまだだ。つまりお前のこの作戦が実行されるまで、あいつはたった一騎で何が何でもカンヘルを押さえ込むつもりなんだろう。分かるか? レレケ、お前とこいつに、全部がかかっているんだ」
レンアームの背部から響くロッテの声に、彼女らの前で考えを巡らせていた騎士が、顔を上げる。
彼もついさっきまで黒騎士軍との戦いに参加していたが、ニーナの登場とレレケに呼び出されたのもあって、一時的に戦線を離れていたのであった。
その顔は、イタチ科のもの。
古代巨大イタチの鎧獣騎士にして、連合軍を束ねる大陸最高の大軍師、ブランド=マイナスだった。
レレケはオリヴィアとロッテの話を聞いて、最初は自分が作戦を考えなければと思った。しかしすぐさま、それが間違いだと気付く。
自分にどれほどの知識が与えられていようとも、戦場で最良の策を講じる事に長けているのは自分ではない。用兵に優れた、知恵ある将こそ最もそれを講じるに相応しいと。
だから彼女は、ブランドに話した。
知恵を貸してくれと。
ちなみにシャルロッタも、この場に伴っている。
彼女をたった一人にする事が危険なのは、言うまでもないだろう。
ブランドが、犀利に富んだイタチ科の鋭い目を光らせて、答える。
「――話は分かりました。その策については……さっきも説明した方法しかないでしょうね」
レレケ=レンアームとシャルロッタが、思わず目を合わせて困惑した。
「ええ、それが――それこそが問題です」
勿体ぶった言い方だが、ブランドがそういう性格でない事は、レレケも知っている。つまりそれほどの〝問題〟があるという事。
「皆様の動きにもよりますが、それでもおそらく最も難しいのは、最後の最後でしょう。つまり綱引き役です。おそらくそこばかりはどうやっても――命を落とします」
息を呑むのが分かった。
「最悪、この策に関わる全員が――つまりここの九人全員が命を落とすかもしれません。でもそれはあくまで本当の最悪。けれども確実なのは、最初の一人。その一人だけは、どうやっても助からないでしょう。つまり完全な死を前提に、誰を〝死に役〟に選ぶかという事です」
すぐにでも行動に移すべきなのに、返答に窮するレレケ。
お願いだから死んでください――。
そんな頼みを、一体誰にすればいいのか。
自分が王であっても、こんな理不尽な命令を降す事など出来るはずもない。
喉が張り付いたように、声が出ない。
いや、九人全員の顔が浮かび、それの誰を犠牲にするかなど――。
「俺が行こう」
思念通話。
割って入った声。
最悪の作戦。九人の王族。その王の誰かを死に向かわせる作戦に声を上げたのは――。




