最終部 最終章 第九話(2)『人間以上』
戦争に勝った。
イーリオが、最大の敵である最後の竜を打ち滅ぼした。
敵の軍勢も魂が抜けたかのように、突如、戦いを止めるどころか動かなくさえなっていた。
連合軍は勝利に沸いた。歓喜に満ち溢れた。
遂にやってくれた。我らの霊獣王が!
銀月の狼と騎士王たちが、遂に勝利したのだ!
歓声がいたる所で起こったのは言うまでもない。
勝利と共に戦いの緊張から解き放たれ、全軍が安堵の息をついた。
既に誰もが、戦いに倦み疲れていたのだ。
それを示すように、戦意の炎は風の前に翳した蝋燭の灯のように、あっという間に消えていった。
だが、その直後――
黒い嵐が、戦場を斬り裂いた。
あまりに唐突な、死の刃。
突風が一陣吹き抜けたかと思ったら、憤血が目の前を真っ赤に染めていたのだ。
戦場のどの場所でも同じ。声もなくいくつもの命が奪われ、連合の騎士達が倒れていく。
だが、一瞬で味方が血肉の雨と化したというのに、何が起きたのか理解が追いついた者はほぼ皆無。
自分達は勝利した――。
魔導士どもと破滅の竜に勝ったのだ――。
ではこの血は何だ? 何が起きている?
生きている者達ですら、混乱さえも起きようがないほどに呆然と硬直していた。
やっと気付いたのは、有能な指揮官や将の怒号が、己らの聴覚を激しく叩いてから。
敵襲だ! まだ敵襲があるぞ!
だがその敵が予想だにせぬ黒い死神だと知った時、戦勝の喜びなど粉微塵に砕かれたのは言うまでもなく、気を引き締め直す事すら無意味だと、誰もが悟る。
黒騎士の襲来。
しかもこの世で一騎だけの黒騎士が、何騎も襲いかかってきたのだ。
戦おうとするだけ徒労。
一体これは何の悪夢なのだと、ひどい絶望と共に鏖殺されていく連合の騎士達。
だが相手があの黒騎士であろうとも、それでも果敢に立ち向かう者達もいた。例え地上最強の三獣王とて、何するものぞという剛の者が。
しかしそれら一騎当千の猛者が剣を振るっても、やはり虚しいだけ。いかなる相手でもどれほどの強者でも、三獣王の前には全てが無意味。
援軍で駆けつけたトクサンドリア王国のレオノール王、アンカラ帝国のソコルル将軍をはじめとし、名のある騎士が次々と殺されていく。
歓喜から一転、景色は地獄と化した。
唯一の救いは、動きを停止したヘクサニア教国軍の角獅虎らが、止まったままであった事だろう。先程の勝利の報せと共に彫像のように動かなくなり、どれほど戦場が騒いでいても指一本動こうとしない。まるで魂が抜けたようにも見えたが、この魔獣の群れまで黒騎士達に加わっていたら、目も当てられない事になっていたのは間違いなかった。
とはいえ、それでも地獄である事には変わらない。
その地獄を地上に出現させた張本人――ファウストの姿をした黒騎士ヘル・エポスは、装竜騎神になっているものの、特に動こうともしていなかった。
黒き霊輝花で生み出した、かつての己の分身一〇〇騎とアルタートゥムのニーナが戦う様を見つめるだけ。
余裕を見せているのか。何か意図があるのか。
レレケやシャルロッタらが窺い知ることは出来ず、不気味以外の何物でもない。
だがここで不意に、ヘル=カンヘルがシャルロッタらのいる方向へ視線を傾けた。
それに気付いたのか、声と思念通話の二つを併用した術の力で、シャルロッタが離れたヘルに向けて機先を制するように問いを発する。
「黒騎士ヘル。一体貴方は何を目的にしているのですか?」
声の方向を凝視し、僅かばかりに人竜の目が輝きを見せた。
面白い――とでも思っているのだろうか。
「貴方が利用して力を奪ったオプス神は、こちらと異世界を繋ぎ、この世界を魂の植民地にするのが目的だった。でもそのオプスとの回線は、イーリオとディザイロウによって完全に切断された。仮にです、もしも貴方が霊輝花の力を使って、もう一度オプスコーポレーションと繋がりを持てたとしても、結局企業側は同じ事をさせるでしょう。ただ貴方がオプス神の代わりをするだけ。それともオプス神になり代わる事が、目的だったの?」
ヘルの目的は、神になり代わる事。
当然そうだろうと、誰もが思っていた。
そもそもエポスは、異世界の企業がこちらを植民地化しようとするための尖兵なのだ。
ヘルがオプスの後を継ぐ。単純にそう思うのが普通だろう。
しかしシャルロッタの問いは、まるでそうではないと含んでいるような言い様だった。
「成る程。目的を明確化させ、自軍の戦意を高めようという考えか。分かり易い挑発だが、敢えて乗ってやろう」
敵の考えを味方に知らしめる事で、戦う大義をはっきりさせる。
ヘルからすれば何も言わないでおく方が得策なのだが、彼は面白がるようにそれに便乗した。正しく余裕のつもりなのだろう。
「さっきから、何故俺が凝っと動かなかったか分かるか? 貴様らの足掻きを眺めていたのではない。霊輝花の力で霊子の網を繋ぎ、星の城を探っていたのよ」
「……何ですって」
「霊輝花の力があれば、星の城の位置を探るのはいとも容易い。それどころか、星の城と我が竜を直接〝繋ぎ〟、内部にまで侵入するのもそれほど難しくはない。残すところは制御権を奪うだけだったが、それも直に終わるだろう。少し残念なのは、どうやら天の山の制御権は別にあるらしい事だな。回線も遮断したようだし、それの支配権は手に入らなかったんだが……まあそれも後でどうとでもなる。重要なのは星の城を俺の支配下に置く事。そうすれば、わざわざ虹の橋などを手に入れずとも、俺はこの惑星の生命体と魂魄を完全に支配する事が出来る」
地球に住むありとあらゆる生命体を管理する、惑星軌道上の巨大リング衛星。
七二基の巨大コンピューター〝星の城〟。
それがヘルの手に落ちると言う事は、この世界は文字通りの意味で、彼の支配下におかれるという事と同義となる。
「世界を征服する……そんな事が目的なの……?」
震える声で、シャルロッタが問うた。声が震えたのは怒りのため。そんな愚にもつかないようなものが目的なんだとしたら、本当に許せないと思ったのだろう。
「まさか。そんなはずはなかろう」
ヘルが失笑を漏らす。分からんのか、とでも言いたげであった。
「じゃあ――」
「俺の目的は、人間以上になる事だ」
「は……?」
「知っての通り、俺はオプスコーポレーションに造られた人造魂魄だ。だから非個性の奏者として人にあらざる力を持っていても、異世界人の支配からは逃れられん。だが、今はどうだ? イーリオのお陰でオプス社はこの世界へ介入出来なくなり、俺は奴らの軛から完全に解き放たれた。それに貴様がさっき言ったように、再度異世界との回線を繋ぎオプス社と接触を図ったとしても、今の俺には奴らの支配を跳ね除ける力がある。俺によって書き換えられた次元竜神に、イーリオ、ディザイロウの力を完全に我が物とした今ならな。最早俺は、完全に〝個〟として独立した存在になったという事だ」
「支配から、抜け出したかった……?」
「そうだ。いや、それ以上だ」
「それ以上?」
「この世界を制御下においた俺は、今や俺という〝個〟だけで異世界そのものとも対等に渡り合える存在になった。そうして俺は、奴らの目論んだ〝魂の庭園〟という計画そのものを、俺の手で乗っ取る。俺が世界と世界を繋ぐ橋渡しとなり、双方の世界を俺の管理下に置くのだ。魂魄という生命の根幹そのものを、俺が握る事でな」
耳にした者の内、意味を理解した全員の背筋が凍りついた。
この世界のみならず、現在のこの世界を形作る発端となった異世界そのものすら、ヘルは己の支配の内に置こうというのか。
それは即ち――
「貴方は……本当の意味で神になろうというの……」
今度は別の意味で、シャルロッタの声が震えた。
「人間以上になると言っただろう。それが神という名前で呼ばれるのなら、俺は神になるという事だな」
「……!」
「俺は人の手によって造られ、人の手によってデザインされた。その俺が、人以上となる。実に滑稽で痛快だと思わないか? いや、少なくとも俺にとっては愉快極まりない。――それが俺の目的だ」
得体の知れぬおぞましさが、シャルロッタらに寒気を覚えさせた。
魂の植民地も相当に下劣だが、それ以上に有り得ぬほど非道で無法な目的。
にも関わらず、ある意味人類が永遠のテーマとしてきたような〝人が人を超える〟という究極の理想。それをこんな形で、よりにもよって人造の人であるヘルが成し得ようと宣言したのである。
絵空事のような妄言を、本当に実現させようとしている。それもこの上なく厭わしいやり方で。
「言っておくが、これは復讐ではない。俺は俺の存在証明を、俺自身の手で成し遂げたかっただけだ。ゲームの駒のような、文字通りのノン・プレイヤー・キャラクターではなく、この世に爪をたて、世界を変革する俺に、俺はなりたかった。そのために、イーリオという最高の素材を見出したのだ」
「イーリオは……イーリオは……素材なんかじゃない……! 貴方の独りよがりのために、イーリオはいたんじゃない!」
「素材だろう。馬鹿か、お前は」
激昂しそうになるシャルロッタを制して、ヘルは吐き捨てるように言葉を続けた。
「いいか、より強く輝く誰かのために、他の誰かはその素材となる。糧となる。踏み台となる。そんな事は赤子でも分かる道理だ。俺は俺の環境の中で足掻き、もがき、俺の望む未来のために前に進んだ。イーリオもそうだろう。あいつはあいつの生まれや育ち、冒険の中で足掻いて、神と名乗る存在を降すまでに至った。だがそこまでだった。あいつの物語は、より強者であり智者である俺の糧にされる事で、その役割を終えたのだ。優れた環境で育った者の方が、より生き残る。勝者となる。いや待て、恵まれぬ環境の者が勝つ事もあるだろう――などと言いたいかもしれんが、そいつは目に見えている環境以上の何らかのステータスを持っていたにすぎない。例えば才能などもそうだ。才能という別の意味での環境に恵まれていただけだ」
究極的な、弱肉強食の思想。
最も単純で、単純なだけに反論の余地のない論理。
「俺はこの世で最も恵まれた環境にいて、その中でも最も足掻き、希望を信じて前に進み続けた。輝かしい未来と理想の平和を実現するために血を流し続けた。結果、俺が全ての頂点に立つ。それは道理ではないか」
かつてこれほどまにおぞましく、希望や理想、未来や平和という言葉を口にした者がいただろうか。
「俺は俺の目的を叶える。それが結果的に世界征服などという陳腐な名前で呼ばれるなら、それはそれで別に構わない。俺にとってはどうでもいい事だ。俺の糧になる者が吠えたければ、勝手に吠えればいい」
「貴方は……」
どこまでも利己的で、それだけに自分を信じて進み続けた化け物。
最も純粋な自己愛者。
故に、完全無欠。
「分かっているのか、巫女よ」
「?」
「俺にとっての最後の仕上げ、最後の素材が、貴様だという事に」
直後、黒騎士軍の群れが、一斉にシャルロッタの方を向いた。
今まさに戦闘をしていない、待機状態だった黒騎士が全員。
いくつもの瞳が、同時に彼女だけを注視するのだ。それも自己愛を極限に肥大化させた怪物達が。
実に恐ろしく、怖気をふるう光景であった。
「イーリオと一緒に貴様も取り込むつもりだったが、ディザイロウのせいで後回しになった。だが星の城の乗っ取りが終われば、次は貴様だ、シエル」
底知れぬ悪意が、聖女の全身を舐め回すようにまとわりついた。
「お前の座標を俺が吸収し、俺のものとする。ああ、吸収といってもイーリオのようにすぐに融合はせんぞ。今は捕獲のようなものだと思え。座標と聖女の力を奪うまで、だがな――。それと、座標の強固な固定のために出産が必要なら、いくらでも俺が孕ませてやろう。どちらにせよ、俺が貴様を手に入れれば、それで事は決するのだ。虹の橋など既に必要ない。俺に必要なのはシエル、お前だ」
これほどまでに不快な求愛が、あったであろうか。
政略による婚姻や形だけの恋愛など、求愛にも不愉快なものは多々ある。
けれども素材にするためと言って、比喩ではなく本当に素材にされてしまう愛など、それは最早愛と言えるものなのだろうか。
「……だったら残念ね」
「何?」
「あたしはもう、イーリオの愛を受けた。あたしの座標は、もうなくなりつつあるわ」
ほんの数秒だけ間を置いて、ヘルが笑い声を上げる。
「何が可笑しいの……?」
「自信満々に何を言うかと思えば――だからイーリオを取り込んだのだよ、俺は」
「……? まさか――」
「俺の中にイーリオがいる限り、イーリオの因子は俺のものだ。お前から座標が消えつつあっても、お前を取り込みさえすれば、中のイーリオと合わせる事で座標は完全に俺の中で固定される。ようは無駄だという事だ。――ああ、言っておくが、自死を選んでも無駄だぞ。魂魄には残留時間がある。その間にお前の死体を取り込めば、それで事は足りる。つまりどう足掻いても、この物語の結末は完全に決まっているのだよ」
イーリオとディザイロウが吸収された時点で、世界は終わってしまったのか。
いや、これがイーリオという青年の物語なら、主人公がなくなった時点で物語は終了なのかもしれない。だとすれば、今流れている時間は後日談。最も胸糞の悪い、最低のあとがきなのかもしれなかった。
だがそこへ――
「星の城の奪略か。それはいささか困るな」
不意に割って入る、別の声。
銀の聖女と竜の魔人の間に割り込んだのは、神の騎士。
「星の城と天の山の守護はオレ達の役目だ。それを何の断りもなく勝手に奪うなど、盗人猛々しい行為ではないか? ん?」
古獣覇王牙団団長オリヴィア〝ドゥーム〟・シュナイダーだった。
「アルタートゥムの首領か。ならばどうする?」
オリヴィアは、サーベルタイガー〝イオルムガンド〟を纏ったまま。
ドグの亡骸の側で凝っと蹲っていたが、ここで立ち上がる。
「お前がイーリオをその身に宿していようが関係ない。エール神の領域を犯す者には、等しく死を与えるのみだ」
大剣にしか見えない巨大なハサミを、まさに大剣のように構えた。
それと同時に、彼女はヘル=カンヘルに悟られぬよう、密かにシャルロッタとレレケに思念通話を通じて告げた。
こちらの準備は整ったと。後はお前達に任せた、とも。
シャルロッタによるヘルへの問答は、あくまで時間稼ぎ。
全てはオリヴィアの言う〝準備〟が整うまでの前段階。
シャルロッタ、レレケ。
二人の女性が互いの目を見て頷きあう。
そして己の背中へ視線を向け、レレケ=レンアームが呟いた。
「それではお願いします――ロッテ様」
レンアームの後ろには誰もいない。にも関わらず、その声は人獣術士の背中からはっきりと聞こえてきた。
「ボク様の用意はとうに出来ている。それよりお前だぞ、レレケ。イーリオを救い出せるかどうかは、お前にかかっているんだ」
「はい」
「正確には、お前達の絆の強さがどれほどか。それ次第だ。危険極まりない賭けだが、お前はお前で持てる力の全てを注げ、いいな」
声は、先ほどまではなかった、レンアームの背中に装着された四枚の羽から聞こえていた。それはつい先ほど出現した、アルタートゥムのロッテ・ノミの騎獣レイドーンに装備されていた、飛翔用の装置。
果たして何を狙っての作戦なのか。
少なくとも全員の目から、まだ輝きは失われていないのだけは確かだった。




