最終部 最終章 第八話(3)『神霊雷花』
覚悟は出来ていた。
もう気付いていたから。
けれどもやはり、別れは辛かった。
これからはずっと一緒に居られるんだと思っていた。なのにこんなに早く、こんなすぐにもう一度別れが来るなんて。
ちゃんとさよならだって言えてない。
話したい事だってまだまだあったのに。
でも――
心のどこかで、分かっていたのかもしれない。
この再会は、この共闘は、特別な事なんだと。
もし神様が――異世界人ではなく――本当の意味での神様がいるのなら、その神様が起こしてくれた奇跡なのかもしれない、と。
だからイーリオは、心の中で「ありがとう」とだけ言って、戦いに向き直った。
ドグが残してくれた、この瞬間。それを無駄にしないために。
彼がいたから――彼が〝繋いで〟くれた力なのだから、自分は勝利でそれに報いるべきなのだ。
全身が光を放ち、ライオンのようなタテガミ、巨大な毛房の尾、靡く全身の体毛全てから、溢れんばかりの花びらが零れ、咲き乱れている。
まるで光の花で造られた、人型の狼のよう。
無制限の能力全解放である〝雷化霊狼〟の時は、溢れるエネルギーがいかづちの形状になって身体中から放たれていたが、力が強大なだけに暴力的というか不安定なようにも見えた。それが今は、いかずちが花吹雪に変化し、風の凪いだ湖面のように安定しているように見える。
単に美しい――というだけではない。
雷化霊狼が嵐に逆巻く波濤だとしたら、今の姿は底の見えない広大無辺な大洋全て。むしろこれこそが、ディザイロウのあるべき姿、強大な力すらも完全に我が物とした完全体なのかもしれない。
花びらはディザイロウの後方に流れていくが、小さな花弁はただのエネルギーの結晶というだけではなく、力そのもの。その一つに触れると、触れた者は精神感応してほんの一瞬何かの景色を垣間見る。
つまり無数の花びらの一枚一枚が、人々の想いの欠片。その残滓。
「待て……それは何だ」
ヘルオプス=カンヘルが、驚きに目を見張っていた。
「その姿は何だ……その力。貴様、一体何をした」
黒き母神そのものであるヘルオプスの予測と計算の内にも、このような状況は有り得なかった。
この神は言った。
イーリオは出来損ないだと。彼はロムルスではないし、ロムルスの因子など欠片も持っていない、ただの凡庸な魂魄の持ち主であると。
だからそんな彼が巨大な――次元竜神をも脅かす巨大な――力を集められるはずがないのだ。
しかし。
目の前の姿は、予想を遥かに超えるどころではない。
この惑星の人間、その大半の霊子の欠片が、人狼の中に収束されていたのだ。
「僕はただ、ごく普通の――誰でもするのと同じ、ありきたりな事をしただけだ」
「何……」
「みんな、力を貸してくれないか――そんな風にお願いしただけ。それに大陸中のみんなが応えてくれた。特別な事なんて何もしちゃいない」
普通の人間が普通の事をして、この世で最も特別な存在をおびやかす。
それは異常な光景なのか。それともこれこそがあるべき形なのか。
「馬鹿な……有り得ん。そんな事は……」
「そうさ、有り得ない。だからこれは僕だけで為し得たものじゃない。これは命を賭けてくれたドグがいたから。レレケがいたから。そしてシャルロッタがいたから。そうじゃなきゃ、絶対に無理だった。みんなが想いを繋いでくれた、みんなの力だ。僕はそれを、借り受けてるだけ」
強さを数値化する事など不可能だが、それでも相手がどの程度なのかは一流になるほど分かってくるもの。ましてや神たるヘルオプス=カンヘルならば、ディザイロウがどれほどなのか把握するのは、そう難しい事ではない――はずだった。
だが、ほんの数分前とはまるで別のように変わった人狼に対しては、神ですら全く底が見えないのだ。
神であるヘルオプスが、力量の読めない相手。
この世に出現してより初めて、ヘルオプスはたじろぐ己を自覚していた。
――我が、恐怖するだと……。有り得ぬ。神たる我が。
そうだ。
次元断層という、何もかもを無為にする絶対の能力を有するカンヘルがあるのだ。恐れを抱く必要などあろうはずがない。
予備動作を一瞬も伺わせず、重力操作の波動を放つカンヘル。
避けられるのは分かっていたが、先手を取って相手の動きを絞り込めば、実力も能力も読めてくるもの。それを狙っての先制だった。
ところがディザイロウは過重力の波動に対し、一歩も回避をしなかったのだ。
人狼の周囲の石くれが沈み込み、大地に亀裂が走る。
――どういう事だ。
おそらく今のディザイロウには、通常の十数倍の重さがのしかかっているはず。だが花吹雪く人狼は平然としたもの。それどころか一歩二歩と過重力など何もないような佇まいで、カンヘルの方に近付いていく。
「何……だと……?!」
思わずヘルオプスが、絞り出すように唸り声をあげた。
どれだけ筋力や脚力を強化し過重力下で活動出来たとしても、それなりに動きは鈍くなるはず。なのにディザイロウは、あまりに平然としている。
ならば――とばかりに、竜喰らいの王が捕食恐竜の巨大な口を開いた。
虚無の光、漆黒の破壊光線〝極帝破光〟。
だがディザイロウは躱さない。
左腕を前に突き出し、まるで水遊びの際に水飛沫を防ぐような他愛なさで、暗黒の破壊光線を全てはじいてしまう。
「――!」
と、気付いた時には人狼の姿が消えていた。
「〝雷化霊狼――閃光華〟」
光の花びらが舞っているのに気付いた時には、もう遅かった。
声は背後から。
神速。いや、それすらも凌駕した光の速度。
直後に魔神の剣を振るい、カンヘルが斬りつけようとした。
しかも剣先に次元断層の異能。
「〝黙示録――世界剣〟」
大剣の軌跡がそのまま次元の裂け目。
受け止めるのも受け流すのも不可能。
この距離ならば回避も不可能。
黒騎士由来の剣技も合わさった、絶対消滅の剣閃。
ところが。
「〝雷化霊狼――雷鳴華〟」
光の花が集まって盾となり、花びら一枚一枚から雷霆を放射。
それは電光のように見えた、霊子力の結晶。
多層世界すら行き来する霊子が、力に変換されて放たれたもの。
まるで光で裂け目を糊するかの如く、次元の断層がいかづちの花びらで埋め尽くされ、消失してしまった。
――!
多層世界を自在に操るカンヘルの力が通用しない。
しかもイーリオ=ディザイロウの動き。一体何をどうしたというのか。
さっきまでとはまるで違い、最早人間の出せる反射神経などとうに超えている。人獣のそれをも超えていた。
さながら千万の知覚と億千の感知を備え、この世ならざる肉体と化したかのような動き。
黒騎士の武技を余す所なく扱える黒の女神のはずなのに、武術においても通用しなかった。
「馬鹿な」
どう考えても計算に合わない。これが本当にさっきと同じ個体なのか?
いや、その考えは捨てろ――即座にヘルオプスは思考を切り替えた。
彼、または彼女は、魂なき人ならざる存在。
人工知能がその正体で、電算によって異世界と直接繋がった、多層世界を跨ぐ〝機械仕掛けの神〟なのだ。
感情のようなものは設定されているが、元々感情など持っていないしそれだけに感情を捨てる事など容易い。
ヘルオプスは思考する。
こうなれば、ディザイロウが千年前の月の狼を超える存在になったと、認めるべきであろう。下手をすればカンヘルと互角――いや、それ以上の力を持っていると認識を改めなくてはいけない。その上で、どういう手が最善策か。
そもそもこの変化の正体は何なのか。
月の狼の花の力なのは間違いなかった。霊子を収束させて得た力だろうが、あまりに規模が巨大すぎた。イーリオの持つ潜在能力を見誤ったと捉えるべきなのだろうが、それにしては尋常でなさすぎる。ディザイロウにそれだけの容量があったにしても、これだけの短時間でこれだけの霊子量を収集するなど、一個体の能力だけでは考えにくい。
そこですぐさま思い出す。
先ほどヘルオプス=カンヘルは、座標の巫女シエルの存在を感知した。アルタートゥムや地上の雑魚騎士どもがそれを必死になって守ったため手が出せなかったが、おそらくそのシエルが、ディザイロウに力を貸しているのだろう。
ならばシエルさえどうにかすれば、ディザイロウは力を失ってしまうのではないのか。
仮に力を消す事が出来ずとも、シエルを奪えば人質にも使えるし、ヘルオプスの手数はいくつも増える事になる。
人質を取るなど騎士としての誇りはないのか? そんな風に問われるかもしれない。
だがヘルオプスは騎士でなく神なのだ。神に誇りなどない。
しかも神は神でも、さっきも言ったように機械仕掛けの神なのだ。彼、または彼女にあるのは、純粋な合理的判断のみ。
人竜の魔神がこの結論に至るまでにかかった時間は、一秒も満たなかった。
行動の切り替えは、もっと早かった。
次元断層を十字に放ち、それで牽制。
更に極帝破光を連発する事で撹乱を強め、その隙に身を隠すシエルを捕まえようと試みる。念の為、刺突状の背鰭から夥しい数の飛竜を生み出す事で、ディザイロウの足止めに拍車をかけた。
位置は補足している。
――そこか。
飛翔速度はこの世にあらざる速さ。いくらあの人狼でも追いつけるはずがなかった。
凝っと佇むシエルを捕まえた――その瞬間。
シエルは光の花びらになって儚く散ってしまう。
「どういう……」
事なのか。
「僕は知っている」
竜の背後に、花吹雪く人狼。
「黒騎士で知っている」
「何を――」
「お前達が、いざとなればそういう事を躊躇いなく出来る者だって。騎士道や戦いの倫理なんて関係ない。ましてやその大元のお前なら、そういう卑怯な手を使う事に何の躊躇もしないだろうって」
カンヘルが振り返った。
ディザイロウからは、光の花びらが舞い飛んでいた。まるで光の粒子を撒き散らしているようにも見える。いや、実際に花びらには、花粉のように光る粒子も伴っていたのだった。
「輝化――だと?!」
輝化とはカイゼルン・ベルの駆っていたヴィングトールの能力の事。
ヴィングトールが黄金に変化する際全身から粒子を出すのだが、それを鎧獣騎士が吸うと幻覚作用を起こすというもの。同じ力を、ディザイロウも使ったというのだ。
「師匠のとは違うんだけどね。でも今のディザイロウの力なら、お前に幻を見せる事だって出来る」
カンヘルが大剣を振り上げた。
こんな事は有り得なかった。
こちらは神だ。
神なのだ。
この世界の人間を健やかに治める、人の上位存在なのだ。それがこんな凡庸な魂の孺子に、手も足も出ないだと。
対するディザイロウは、半身を僅かに引き、腰を沈めた。
「〝雷化霊狼――稲妻華〟」
ディザイロウの剣に、花吹雪が集約される。
更に花びら一枚一枚からは、雷撃が枝のように伸びていた。
さながら花の嵐。
それは四方一帯に咲き乱れ、咲き誇り、無限の百花繚乱となって戦場を埋め尽くしていく。
「貴様如きが……神を愚弄するかっ!」
ヘルオプス=カンヘルは、黒騎士の技の中でも最高剣技のものを放った。変幻と最強が融合した、黒騎士だけが到達し得る、黒騎士のみの名もなき究極技。
一方のイーリオ=ディザイロウは心気を整え、己の中でずっと押し留めていた力の奔流を、この一撃に全て乗せた。
父・ムスタから受け継いだ投剣と突きと斬り付けを同時に行う絶技〝破裂の流星〟。
それを初動とし、カイゼルンから学んだ雷動閃の体捌き。
軌道はマリオンから学んだグライフェン流の独骨。
そして己が最初に覚えた獣騎術の大技、蜃気楼斬を剣先に重ね、これを全て一つの動きとする。
後の世に、イーリオ以外には使いこなせなかったと言われる事となる、英雄の剣技。
七代目百獣王の編み出した、カイゼルン・ヴェクセルバルグの獣王合技。
〝破裂の極星〟
花吹雪く全ての力を、この一刀に注ぎ込んだ。
空中でぶつかる剣と剣。
しかし一瞬で、魔神の大剣は粉微塵と砕かれる。
同時に吹き飛ぶ、人竜の両腕。
力の波濤が、花吹雪く光の神罰が、魔神の体を両断した。
「オ……オオオォォォォ――ッッッ!!」
人ならざる叫び声が、人竜魔神の口から放たれる。
光の柱が、天をつく。
斬られたと同時に再生がはじまるカンヘルだが、再生と崩壊が同時に起き、竜の体を維持出来ない。
「無駄だ。こんなものは無駄だ。我は神。我はオプス。魂なき神であるが故に、何度でもこの世界に牙を突き立てる。エポス達と共に! 貴様らが消え去った後、何度でもだ!」
だが光の花びらに押し返され、人竜の体は己を中心に吸い込まれるように崩れていくだけ。
しかも吸い込まれる中央には、次元断層に似た光の渦。それは多層世界を操るカンヘルの力を遥かに凌駕した、次元の底なし沼。
「な……何……?! これは――巫女の力……かっ」
花吹雪が全てを押し流す。何もかもを呑み込む。
「まさかこれは……多層世界すらも貫く力だと――?」
「そうだ。これは大陸中の人々の想い。この世界の人々の願い。お前達の介入など、もう僕らには必要ない。二度と、永遠に。それがこの力。それが僕達の答えだ」
ディザイロウが剣を突き刺した。
鳩尾を貫かれる次元竜神。
何度も何度も蘇る人造魂魄のエポス。
異世界側に本体を置くヘルオプス。
それらの大元である異世界側のオプスコーポレーションにすら届く、世界霊子の〝繋ぐ力〟。
想いで世界は変えられない。
願いで世界は変わらない。
そのはずなのに。
花吹雪く人狼は、思いと願いを本当に力にしてしまった。
繋ぎ合わせる事で力にした。
それを全て、イーリオ=ディザイロウは剣に乗せた。全てを注いだ。
やがて人竜の体からは、血飛沫が噴水となって舞い飛び出していく。
体が構成する事をやめ、肉片となって飛び散る。
その大半が、光の渦に吸い込まれていった。
オプスにまつわる全てを、エポスに関わる全てを、光の中に押し流していく力。
「馬鹿……な……! 何を考えている。お前達の信じる力も、お前達が信じるものも、全てまやかしなんだぞ! なのに我を、消すと言うのか」
「お前達の言葉はもう聞き飽きた。――永劫の彼方に消えろ、神を騙るただの人よ」
「人――? 我は人ではない。我は――」
最期に何と言ったのか。
言葉は光の渦に呑み込まれ、消え去っていった。
光の花吹雪は奔騰しつつも全てを押し流し、魔神を消滅させる。
やがて光が止んだ時、元の大きさに戻ったイーリオ=ディザイロウだけが、その場に佇んでいた。
静まり返る戦場。
それはこの王都西部域だけではない。
戦場のあらゆる場所。あらゆる所で音が止んだ。
何故ならこの瞬間、敵の大軍全てが、動きを停止したから。
まるでネジが止まった機械仕掛けのように、ぴたりと動きを止めたのである。
それどころか、ヘルオプスが産み出した漆黒の蘇生人竜に至っては、動きを止めただけでなく体が砂のように崩れていくではないか。
一瞬の静寂。
果てない長さのような静謐。
けれども誰かがぽつりと漏らす。
「勝った……のか?」
連合軍の騎士達が、合流した大陸中の騎士達が、次々に口にしていく。
「勝ったんだ……」
「イーリオ様が……勝ったんだ」
ブランドも頷いた。ハーラルや、レオポルトも。そして彼ら指導者が声高に宣言した。
「イーリオ様が、最後の破滅の竜を討ち取ったぞ!」
全ての戦場で、かつてないほどの大歓声が轟いた。
その中心にいるイーリオは、何も言わずに無言のまま。歓喜の波に対しても、鎧化を解いた後、静かに微笑みを浮かべるだけ。
そしてゆっくりと、その身を横たえる青年の元へと歩み寄っていった。
レレケも鎧化を解除し、イーリオを見上げる。
そこへ、シャルロッタも近付く。
彼らに抱き抱えられるドグは、静かに眠っているようにも見えた。
「勝ったよ、ドグ」
イーリオの側に近寄る、シャルロッタ。
遂に全てが終わった。
あのエポス達の野望を砕き、この世に出現した女神すらも打ち破った。
長かった戦いは、ここに幕を閉じたのだ。
偉大なる若き英雄の死と引き換えに。
数多の命と共に。
戦いは、終わった。
終わったのだ。
終わったはずだったのだ。
〝それ〟が密かに――
誰にも気づかれる事なく忍び寄り――
全てを――
勝利の全てを呑み込んでしまうまでは。




