最終部 最終章 第八話(1)『親友共闘』
「――イーリオ」
イーリオの深層意識に語りかけてきた、声。
シャルロッタの声。
「シャルロッタ……?」
「イーリオ、あたし今、貴方の近くに来ているの」
「近くに? え? どういう――」
不意に語りかけてきたシャルロッタに、イーリオは戸惑う。
ただ、周囲の目に映るイーリオ=ディザイロウの姿は、今まさに激しく戦っている姿だけ。とても何かと会話しているようには見えなかった。
実際に、竜喰らいの王の装竜騎神・カンヘルとの天地を揺るがす様な戦いの中で、そんな余裕などあるはずもない。
外見的な動きにも何も変化は見えないし、見せてもいない。声がシャルロッタだからといって戸惑うあまり、動きがかすかにでも鈍ったようには見えなかった。
けれども意識の奥底で、イーリオは自分を呼ぶシャルロッタの声をはっきりと自覚し、会話さえしていたのだ。
「今からあたしが、貴方とディザイロウに力を与える。そのために、ここに来たの」
「君がどうして……そんな――君はヘルオプスの標的なんだよ?! それなのに、この場に来ちゃあ絶対に駄目じゃないか……!」
戦闘をしながら感知を鋭敏にし、シャルロッタの気配を探る。
しかしレレケ=レンアームの術式〝瞬神獅子公〟により、彼女の姿も気配も隠されているので、イーリオからは分からない。
その説明をした後、シャルロッタは話を続けた。
「でも、あたしが近くにいないと、ディザイロウの〝霊輝花〟は本当の力を出せないの」
「第三獣能の……本当の力……?」
深層意識で会話をしていれば、戦いになど集中出来るものではないだろう。事実イーリオの注意は、半分以上がシャルロッタとの会話に向いていた。
ではどうやってカンヘルとの戦いを継続出来ているのかといえば、それはディザイロウのお陰であった。
ディザイロウは通常の鎧獣騎士と異なり、鎧化時も覚醒したままなのだ。ディザイロウ以外の鎧獣は、鎧化すると意識が眠りにつき、完全に駆り手の〝鎧〟となる。だがディザイロウだけは何故か眠りにつく事なく意識も沈まずに鎧獣騎士になれるのだ。
これはその副次的効果である。
ディザイロウはイーリオの動きを半ばトレースする形で、ディザイロウ自身の意識でもってカンヘルと剣を交えているのだった。イーリオからすれば、自動戦闘のようなものだろう。
「前にも言ったよね。霊輝花の本当の役割は〝繋ぐ力〟だって」
破滅の竜に対抗する三つの力。
一つ目が千疋狼――〝率いる力〟
二つ目が巨狼化――〝立ち向かう力〟
三つ目が霊輝花――〝繋ぐ力〟
「それは想いを繋ぐ力。願いを繋げる力。繋がらない同士を繋げ、一つにする、カタチにする――それが〝繋ぐ力〟なの」
遥か遠くにいる誰かと心と心、意思と意思を繋げるのもそうだが、有機物と無機物を〝繋いで〟形を生み出したり、反対に霊子的な〝繋がり〟を解く事でそのものを崩壊させる事も可能な力。
それこそが〝繋ぐ力〟の真の役割。
つまり授器の瞬間復元が出来たり、かつて三ツ首の怪物騎士の攻撃を封じたのも、あくまで力の断片でしかなかった。
本来、霊輝花とは、霊子的な繋がりを増幅させて強固に繋ぎ合わせ、それを強大な力に変える能力なのだ。
それはディザイロウとの結びつきではなく、駆り手であるイーリオとの結びつきでないと意味がなかった。駆り手の魂が力の核となり、霊子的なものを繋いでいく。
あえて例えるなら、イヌ科動物のマーキングに近いのかもしれない。
魂のマーキングとでも言おうか。
「でもいくらディザイロウでも、イーリオが出会った大陸中の人達全員から、霊子の力を繋ぎ合わせる事は不可能なの。霊子的に繋ぐだけでも少なくない力を消費するのに、それを数限りなくとなれば単純に数の問題で無理があるわ。でも、この世界の――この惑星全土の――生物を管理している星の城の力を借りれば、それも不可能じゃない。だからアルタートゥムのニーナ様に手伝ってもらって、あたしがディザイロウと星の城を繋げるの。そうして大陸中の全ての人々にディザイロウと霊子的な繋がりを与え、それを力に変えれば、あの次元竜神だって倒せるはず」
「ちょ――っ、ちょっと待って。大陸中の全ての人とディザイロウを繋ぐ? みんなに力を貸してって? いやそれも何て言うかだけど……そのために君まで前線に出るだなんて、そんな」
「あたしを守るため、この世界をエポスやオプス神の好きにさせないために、イーリオが戦っている。でもあたしも、ただ守られるだけじゃない。あたしもイーリオとディザイロウと一緒に戦う。そうじゃなきゃ、駄目なの」
意識と意識で会話をしているだけに、互いの感情もありのままが流れ込んでくる。
いや、仮にそうでなくとも、言葉だけの軽い想いや浅い決意だけで彼女が言ってるわけではない事くらい、イーリオにも分かっていた。だからこそ余計に、彼女を少しでも危険な目には合わせたくなかったのだ。
けれどもあのヘルオプス=カンヘルならば、陣営の奥にいようが前線にいようが、危険度ではあまり変わりないのかもしれない。今はディザイロウと戦っているからここにいるだけで、万が一にもイーリオが敗北してしまったら、シャルロッタを奪うなど一瞬だろう。
つまりイーリオが勝つ以外に、シャルロッタの無事な道はないのだ。
どうあっても勝つしかない。
そんな事は分かっていたが――だったら、奥で身を潜めるよりもここで力を貸して貰うべきなのかもしれなかった。
イーリオとて戦歴を重ねてくれば、それだけの考えを持てるくらいの冷静さは備わっていた。
「そうだよ。あたしだけ安全な所にいても、意味なんてないの。あたしとシエルなら、貴方の力になれるから」
意識の奥で話すから、思考も流れていたのだろう。
イーリオも決意する。
「分かった。じゃあ、僕はどうすればいい?」
「ディザイロウに、あたしとニーナさんを経由した星の城との道を繋げる。そのためには三分だけ、ディザイロウには指定の場所で動かないでいてもらいたいの」
「三分……」
致命的な長さだった。三分どころか十秒以下の隙で、イーリオ=ディザイロウはカンヘルの放つ次元の断裂で裂かれてしまうだろう。ならばどうする――。
そこへ。
「任せときな」
これは思念通話ではなく現実の声として、イーリオの耳に届いた。そして声と同時に、白と赤の鎧が目の前に躍り出る。
「ドグ……!」
突如乱入したのは、ドグ=ジルニードル。
大剣牙虎の神の騎士。
背中からは、レレケ=レンアームの術式による光で出来た翼が生えており、それで空を飛んでいた。
「お前とシャーリーで話してたんだろ? 盗み聞きしたわけじゃねえぞ。んな事しなくっても事情は大体分かるんだよ。俺はアルタートゥムだし、何よりお前達の親友だからな」
「ドグ……」
「――で、少しの間、俺があの恐竜野郎の相手をすればいいんだろ? シャーリーは何て言ってんだ? 数十秒か? どれくらいだ?」
シャーリーというのは、ドグだけが勝手に呼んでるシャルロッタの愛称である。
話が早い――というより、シャルロッタの話は、アルタートゥムの立案なのだろうと推察された。
「……シャルロッタが言うには、三分間、だそうだ」
イーリオが答える。
「三分か……。あの神サマ相手に三分たぁ、なかなかどうして……結構なお願いだぜ。まあ、歯応えのある注文ってのは間違いないな。いいぜ。三分間だけ、俺がおめえの代わりをこなしてみせる。どうせクリスティオやレオポルトの王様連中が持ち堪えられるのも、それぐらいだろうからな」
先ほど、九騎の鎧獣騎士が、復元された装竜騎神との戦いに参戦してくれていた。それもあって、ドグがこちらに加わる事が出来たのである。
「んじゃあ、これ以上四の五の言ってる場合じゃねえよな! 時間の方が少ねえんだ。イーリオ! シャーリー! レレケ! 俺達の力を見せてやろうじゃねえか!」
ドグが吠える。
その言葉に、名を告げられた三人が同時に頷いた。
旅のはじまりの四人。
同じ四人が、世界の趨勢を分ける戦いの中心にいた。
この数奇な運命を、一体誰が予測し得たであろうか。
もしこれを分かっていた者がいるとすれば、それこそが本当の〝神〟なのかもしれない――。
※※※
大陸中の鎧獣騎士、六万騎の援軍。
さすがにそれらまで、銀の聖女の加護とディザイロウの加護が行き渡ってはいなかった。
当然ながら、一騎一騎の戦闘力は弱い。鎧獣騎士そのままの強さだけで戦場に加わったのだから、当然といえば当然だろう。
だから加護の施された数千騎の連合軍騎士達、彼らの中でも部隊長以上の騎士が指揮官となり、バランスよく六万の援軍を配分する形で急遽編成が組まれたのだった。
これを為し得たのは、当然ながら連合軍全体を統括する大軍師ブランド・ヴァンだからこそ。
亡きカイ・アレクサンドルが残した計略を元に、ここまでをブランドが組み立てたのである。
とはいえ、いくらブランドが優れていようが、一人の計略だけで万事が上手くいくはずもない。歯車が噛み合うように急激な変化にも柔軟に対応出来たのは、一重にここに集った者達が優秀だったからである。
覇獣騎士団なら総騎士長であるクラウスにゴート帝国のヴォルグ六騎士など、一騎士としてだけではなく、各国にも優れた用兵家はいるのだ。それらの優れた将官がブランドの意図を正確に把握し、迅速且つ的確な指示を次々に出したからこそ、急な援軍であっても極めて有効に部隊へ組み込む事が出来たのであった。
またこれにより、各国選りすぐりの鎧獣術士部隊にも今まで以上に負担が倍増する事となったが、そこは止むなしというべきだろう。
ともあれ、一〇分の一以下の兵力差が二分の一未満になったのだ。これがどれだけ心強い事か。
特に部隊長級で優れた手腕を持つ者にとって、己の助けになってくれる者が増えたのは、素直に喜ばしい事であった。
王都周縁南西部で剣を振るう覇獣騎士団・伍号獣隊・次席官のカレルなどは、まさにその一人であろう。
迫り来る角獅虎を追加援軍の手勢が効率良く牽制し、その隙に加護を受けた騎士らが倒していく。こうすれば加護の騎士らの疲弊はかなり減少するというもの。また、数で圧倒する敵軍に対し、その数の優位性を軽減出来るようになったのも大きかった。
「をーっほっほっほっほ!」
カレルの隣で戦うヘクサニア軍の離反者、元・神聖黒灰騎士団・第九使徒オリンピアも存分に実力を見せている。
見た目も言動もおよそ指揮官向きには見えないが、意外にこの怪女の指揮振りは巧みだった。しかも敵軍から寝返っただけに、魔獣の群れの弱い点や脆い部分などを把握しており、それらの情報がかなりカレル達連合の助けになったのは、予想外の嬉しいおまけと言うべきだろう。
「あの、おデッカい方の角獅虎ちゃん、一見手強く見えるでしょうけど、アぁタの拳なら貫けますわ。それに速度も、普通の角獅虎ちゃんよりおウスノロですわ。臆せず突っ込めば、アぁタならどうという事もなくってよ!」
大きい方の角獅虎とは、王都南部で城壁を破壊した偽竜・角獅虎の事である。
都市制圧に特化した合成鎧獣なだけに、攻撃そのものは広範囲に渡りひとたまりもない被害を齎すが、オリンピアの助言もありカレルのいる戦場ではこれに付け入る隙を全く与えなかった。
とはいえ、感謝の言葉をカレルは口にしない。
寝返った裏切り者というのもあるが、それ以上にオリンピアという怪女は、彼の兄ルドルフの仇なのだ。
憎き仇の手を借りねばならない現実――。
それがどれだけカレルに忸怩たる思いを抱かせているか。
けれども私憤と公を混同してはならぬと、鋼鉄の意志で押さえ込む。
その葛藤が、油断になったわけではない。
だが激しく揺れる心の内が、彼の心身を曇らせなかったかと言えば、果たしてそれはどうだろうか――。
角獅虎はサイ並みの巨体だ。偽竜・角獅虎は、それに輪をかけて大きい。それらが数えきれぬほど押し寄せてくるのだから、大きさに目が奪われるのは当然の事。
ましてやそれと類似した外見の、だが非常に小柄な魔獣が群れに紛れている事など、気付けなくとも仕方がなかったと言うべきかもしれない。
ほんの僅かな油断というべきか、カレル=ベルヴェルグの視線の間隙を縫って――。
彼の背後に、ユキヒョウよりも更に小柄な最小サイズの合成鎧獣騎士が、忍び寄っていた。
――!
気付いたのと、中のカレルにまで通るほどの斬撃が背中に走ったのが同時。
血飛沫をあげ、反動で仰け反る雪豹騎士。
カレルの纏うのはユキヒョウの鎧獣〝ベルヴェルグ〟。
その異能は、骨を金属よりも堅牢な硬度にするというもの。しかし硬くなるのはあくまで部分のみ。全身に獣能を適応すれば、己の硬さで動けなくなるからだ。だから背中に獣能は為されていなかった。
「くっ……!」
即座に反転し、反撃で小型の角獅虎を切り捨てるも、いつの間にか周りは大小の角獅虎で取り囲まれている。
弱った〝頭〟を集団で追い詰めるのは戦い――いや、狩りの定石だろうが、それにしても手際が鮮やかだった。
ほんの少しの気の撓みを見逃さず、勝負を仕掛けた魔獣の群れの見事さに舌を巻くしかないが、だからといって諦めるつもりもカレルにはない。ないのだが、万事休すとしか言い様がなかった。
味方は他の相手で手一杯だし、明らかにカレルが孤立するよう誘導もされている。
――こんなところで……。
しかし一斉に襲いかかってくる群れの厚みと背中の傷の深さに、窮地を脱する名案など浮かびもしない。
そこへ。
「をーっほっほっほっほっほっほっっっ!」
暴風の如く、大鉾と哄笑で噴血と絶鳴を辺りに撒き散らしながら、黒褐色の巨体がカレルの前に躍り出る。それは最早、天然の暴力とでも言うべき理不尽さ。
気付いた時には、カレルを囲っていた魔獣のほとんどが肉塊と成り果てていた。
「んもうなァに。白猫ちゃんったらこんなトコでヘバっちゃうなんて。案外だらしないのねえ」
インドヤギュウを纏っているにも関わらず、樽のような外見のオリンピアそのままと言えそうな巨大な腹を揺すりながら、嘲笑う口調で挑発の視線を投げる怪女。
唖然となっていたカレルも、これにはさすがに声を荒げる。
「ふざっ……けるなっ! 貴様を殺すまで、私はやられはせん……!」
「あらあらまぁまぁ、随分と威勢のいいニャンコちゃんだこと。――でもなァにぃ? このオチビ角獅虎は? こんなの、アタクシも知らなくってよ」
「貴様……まさか私たちを謀ろうとしているんじゃないな?」
「そんな回りくどいやり方なんてしないわよ」
目を丸くさせた後、オリンピアはカレルの疑いを一笑に付す。
そこへ、どすん――という音が響いた。
同時に、オリンピア=アピスの体がほんの少しだけ揺らぐ。
見ればその小型角獅虎が、人牛怪女の下腹に剣を突き立ていたのだ。
油断を衝いた敵の急襲。
「おい!」
カレルが叫ぶ。
だがオリンピアは平然としたもの。よく見れば、剣は突き刺さっておらず、表皮に切先すら入っていなかった。
「なぁにぃ? そんなナマクラでアタクシの、このアピスの怪異変を斬ろうだなんて、そんなの無理寄りの無理無理に決まってるじゃなぁい」
大鉾が横薙ぎに払われ、小型角獅虎が数十フィートも吹き飛ばされる。
怪異変はオリンピアの纏うインドヤギュウの鎧獣騎士〝アピス〟の獣能である。
それは表皮を異常に硬くするというもの。全身とはいえ体を硬質化するという意味では、ベルヴェルグと似て非なる異能だと言えよう。
「でもあんなおチビ角獅虎なんて、一体何の目的があって作ったのかしら……。ま、どうでもよろしくってよ。をーっほっほっほっほ!」
「くそ……貴様に借りを作ってしまうとは……! だがこんなもので貴様との決着を見送ると思うなよ」
「モチのロンですわ。アタクシが殿方と交わした逢瀬の約束を破るなんて、黒き母神様に誓ってありません事よ」
舌打ちをするカレル=ベルヴェルグ。
苛立ちと葛藤が、心の中で渦巻いているが、それを抑える術を、彼はまだ持っていなかった。
ただこの時――
視線の先に見えた動きに、カレルの体が反射で動いたのは何故だったか。
人牛の背後。
黒い影は、まるでアピスの影となって張り付いているかのように、音もなく、気配もなく巨大な爪を――異形に光る爪を――
「〝鉄骨〟!」
咄嗟に飛び出したのと、爆音が重なったのが同時だった。
「な、何?! 何事?!」
いきなり突き飛ばされたかと思えば、目の前で爆発が起きたのだ。オリンピアが爆風に咽込みながらも、怒気を露わに目の前を睨んだのは当然の事。
しかし、目の前で血を流す雪豹騎士を目にして、〝吸血〟と恐れられる怪女は一瞬、息を呑む。
片方の拳で偽竜・角獅虎の腹部を貫き、もう片方の剣を持っていたはずの腕を翳すカレル=ベルヴェルグ。けれども防御にまわしたはずの右腕は、爆破が消えると共に失われていた。
残されたのは肩部のみ。
「ア……アぁタ……何をなさってるの」
血の塊を、雪豹の口から噴き出すカレル。
「さっきの……借りの、お返しだ……。これで、貸し借りなし……だからな……」
告げた直後、仕留めた偽竜・角獅虎と共に雪豹騎士は気を失い倒れこんだ。
オリンピア=アピスが倒れた体を抱き上げるも、既に白煙が漏れ出し始めていた。強制解除のしるしだ。
重傷どころではない。致命傷なのを、鎧獣騎士だからまだ息があるだけに過ぎないほどなのは一目瞭然。
「何を――何をなさってるの。アぁタはアタクシを殺すんじゃなくって?! 殺す相手を庇って死ぬだなんて――そんな事、絶対に許されませんことよっ!」
聞こえるはずのない声で捲し立てた後、すぐさまオリンピアは叫んだ。
連合でもヘクサニアでもいい、すぐに鎧獣術士の手でカレルを救いなさい、と。続けて、どんな手を使ってもいい、出来る限り最高の治療の腕を持つ術者をすぐに呼ぶのよ、とも。
幸い、ヘクサニア軍から寝返った術士の中で、最も治療と回復に長けた者がこの場のすぐ近くにいたのと、連合からも術士が駆けつけたという奇跡のような偶然が重なり、腕を吹き飛ばされるという重傷を負いながらも、カレルもベルヴェルグも一命を取り留める事に成功する。
だが――
どれだけ時間が経ったろうか。
意識を取り戻した彼が、己がまだ戦場に自分がいる事に気付き、それを不審がる。
「次席官はあまりに重傷だったので、ここから動かす事も出来なかったのです」
連合の術士が、そのように説明した。
ではこんな戦場の真っ只中で、自分は治療を受けたというのか。何という事だと、カレルは驚きと感謝で朦朧としかける意識を繋ぎ止めた。
「いいえ。感謝するのなら我々にではございません」
術士の返答に、カレルは怪訝な表情を浮かべた。その視線を巡らせるように促され、彼はようやっと目にする。
既に戦線は遠のいている。味方がヘクサニア軍を押し込み、ここを安全地帯にまでしてくれたのだ。
だがそれを可能にしたのは、彼らのすぐ目の前に聳え立つ、黒い影。
黒々とした、人巨牛の背中。
それを飾りつけるように、白煙が風にたなびいている。
強制解除間際のしるし。
にも関わらず大鉾を構えたまま、今にも動き出しそうな姿でそれは佇立していた。
ぽつり
ぽつり
人牛から、黒い液体がいくつも落ちていた。
いや、黒ではなく赤黒い。
それは、ただの液体ではなく――血。
「あの方が、数え切れぬほどの角獅虎を、たった一騎で倒したのです」
どうしてだ。何故、そんな事を――。
声に出したかったが、朧な意識で声も出ない。
「貴方と、貴方を治療する我らに指一本触れさせまいと、あの方は敵を全て薙ぎ払い、それで――」
それはインドヤギュウの鎧獣騎士。
全身から血を流し、ツノも折れ、いくつも体を抉られたまま、彼女は立っていた。
立ったまま、絶命していた。
「ふざ……けるな……っ。私は……! 私は……!!」
それが怒りなのか悲しみなのか、それとももっと深いところからくる言葉なのか、口にしたカレルにもわからなかった。分からないまま、彼は再び気を失った。




