最終部 最終章 第四話(3)『完全悪業』
ガボール・ツァラ。
旧トゥールーズ公国で公子ミハイロに仕えていた青年騎士。
トゥールーズが滅ぼされオグール公国になり、その後ヘクサニア教国へと名前と国の形を変えていく中、ガボールは公子ミハイロと共に公国から脱け出し、ジェジェン首長国へ落ち延びる。
そこで大首長アールパードにミハイロが養子として迎え入れられ、ガボールも公国の時にそうであったように、ミハイロの付き人として共に暮らしはじめた。
ところが五年前のアンカラ帝国による大侵攻によって、ジェジェンは一度帝国の支配に屈する事になる。
その動乱に巻き込まれる形で、ガボールはミハイロと離れ離れになってしまったのだ。
お互いの行方を探す中、その過程でガボールは記憶を失い、山賊稼業に身を窶す事になっていく。
しかし四年前、ふとした偶然でイーリオと出会い、彼や彼と共にいたジェジェン首長国のジョルトからミハイロの面影を思い出した事で、イーリオの逃亡に協力を申し出る。ところがそこでもイーリオと離れる事となり、更に記憶を失う結果となった。
そして四年後。
イーリオがヘクサニアと黒騎士の襲撃から逃げる中、四年前と似たような状況で、ガボールは再びイーリオを助けたのであった。それが少し前の話。
だが、イーリオを逃がすために力を使い果たし、ガボールはヘクサニアと黒騎士ヘルに捕えられたのだった。
この時点でガボールの記憶はほとんどが失われており、最早人並みの生活さえ出来ないほど、植物人間に近い状態にまでなっていた。
どうしてそうなったのか。
何をすれば記憶をどんどん失うようになるのか。
それは彼の駆る鎧獣。
古代絶滅種ディノクロクタの〝アーヴァンク〟が原因だった。
ホラアナハイエナとは、ライオンほどの大きさのあるハイエナの古代種である。体の大きさみならず、旧トゥールーズ公国に代々受け継がれてきた光の聖剣・アンサラーを装備しているのが特徴の、特級の中でも最上位に位置する高等な一騎。
けれどもガボールがそれを駆る事になった理由とも繋がっているが、このアーヴァンクはとんでもない欠陥のある鎧獣だったのだ。
それが記憶喪失を伴う、脳障害。
力を使えば使うほど、騎士の脳に負担を強いる事となるのである。しかも野生性と凶暴性も強く、元より制御すら出来ていない。
鎧獣は本来人間を襲うはずがないのに、アーヴァンクはガボールの制御がなければ平気で人を殺そうとするのだ。
だからアーヴァンクには普段、口周りに咬みつき防止の口輪がはめられており、鎧獣騎士にならなければ外れない仕組みになっていた。
力は強大であろうと、騎士としても騎獣としても欠陥品。
協調も出来なければ、仲間として戦列に加えても力を使えばその仲間のことを忘れてしまうような味方、ただ足手纏いになるだけである。
黒騎士ヘルがガボールを捕まえたのも、このアーヴァンクが何かに使えるかもしれないと考えた気紛れでしかない。ガボールごとだったのは、アーヴァンクが欠陥獣だと一目で見抜き、下手に駆り手だけを始末すれば鎧獣ごとお釈迦になる可能性もあると考えたからだった。
その勘は教国に連れ帰り調べた結果、予測通りだと分かる。
麾下に加えようとも、ガボール自身すらこの時点で既に意識は混濁し、朦朧としているだけに近かった。使い物になど、なるはずもない。かといってガボールだけを始末するのも出来ない。両方処理し、鎧獣のアーヴァンクだけを再生するという手もあったが、そもそも再生に必要不可欠な作者の調合表がないからそれも不可能。更に厄介なのは、光の聖剣がアーヴァンクと同化しているのに近い装備のため、それだけを取り外す事も出来なかったのだ。
こうなれば最早、廃棄物に近い。
一番は製作者である錬獣術師を見つけ出す事だが、そこまで手を尽くす必要はないだろうというのが、ヘルを除く他のエポスらの意見だった。
「ならばこうしよう」
そこでヘルは提案をする。
「どのみち使えぬゴミならば、ゴミらしく相手に押し付けるというのはどうだ?」
どういう意味かと問うと、ヘルは続けて説明した。
「敵軍内部にそれとない形で潜り込ませ、時がくればこちらの仕込んだ〝プログラム〟に従って相手を撹乱するというものだ。都合のいい事に、この駆り手のガボールという男はイーリオ・ヴェクセルバルグの知人だという。調べたところでは、イーリオが率いる傭兵団にいる、ミハイロというガキとも深い繋がりがあるようだ。だから潜り込ませるのは容易だろう。しかもこいつの使う光の聖剣は、おそらく崩落以前の旧時代の遺物。どうやって使用可能にしたのかは分からんが、我らの竜のシールドすら貫く可能性もある強力なものだ。当然、あのアルタートゥムにも有効だろう。こいつを時限爆弾のように潜伏させて、来るべき時に発動させる――どうだ? 面白いと思わんか?」
これの利点は他にもあった。
一番大きな点は、そもそもこの策が失敗しても、別にエポス達にとっては痛くも痒くもないというところだ。
事前にバレようと何も困らないのは言うに及ばず。もしもそうなったとしても、切り離せばいいだけの事。
加えて、現時点でガボールの精神と脳が回復する見込みは皆無というのが彼らの見立てであり、仮にガボールが連合側に寝返っても、騎士として戦うのは絶望的である。
それに、ヘクサニアの術士が操りなどすれば、脳は焼き切れてしまう可能性が高い。おそらくそれがガボールという人格が戦闘を行える最後。しかもそこに後発性のプログラムを仕込めば、完全にガボールの精神は破壊されてしまう。
つまり生前の最後の最後でエポスのために働いてもらおうというのが、ヘルの提案だった。
「貴様ならこういう迂遠な手管が得意だろう?」
どうだと声をかけたのが、スヴェイン・ブクことディユ・エポスにだった。
嫌味かと返してやりたかったが、確かにディユの好みなやり方だったし、棚から何とやらのこういう手は彼の得意とするところなのは確かにそう。ゴート帝国の時もそうだし、メルヴィグで仕掛けた漆号獣隊の謀反もそれに近い。
それを思い出し、ディユは「よかろう」と首肯する――。
つまり人知れず戦場へあらわれたガボールとアーヴァンクに最も早く気付きほくそ笑んだのは、他ならぬディユ・エポスであったのだ。
――いいタイミングだ。
別にこの仕掛けがなくとも、青銀竜王・ヴリトラの力だけでアルタートゥムを倒せる自信が彼にはあった。けれども手練手管で策を弄し、それで人々が右往左往と取り乱すのは、ディユの最も好むところなのである。
己は異世界の超科学と企業によって生み出された人造魂魄。プログラムされた被造物。
その作りものである自分が、例え世界の異なる別種の人類であるにせよ、創造主と同じ人間という存在をゲームの駒のように自在に操るのは、神になった感覚そのもののようで、実に気分がいいのだ。今まで幾度も策を講じては成功したり失敗したりを繰り返してきたが、失敗もまた彼にとっては楽しいもの。
ヘル・エポスが言った通り、ディユにとっては心を弄ぶ遊戯こそ、最上の愉悦なのである。
さすがにディユの雰囲気から察したか、他の者達も突如戦場に足を踏み入れたガボールに気付き出す。
中でも真っ先に反応したのは、当然ながらミハイロだった。
「ガボール! 何で?!」
叫びながら、急降下でガボールと彼の連れるアーヴァンクの元へと降下する。
着の身着のまま。病床にいた肌着のような恰好で、頭髪も乱れている。
髪は色が抜け落ちただけでなく、水気の失せた白髪で、肌はひび割れてボロボロになっている。一見すると、老人が徘徊しているかのようにしか見えなかった。
これがまだ二〇代の青年だとはとても思えない。
どれほどの苦しみと痛みを、彼は味わってきたのだろうか。想像すら、出来ない。
それどころか、ここで歩いている事自体が奇跡に近いはず。
心もそうだが、体も重症なのである。
おそらく無理な動きを鎧獣騎士で続けたからだろう。元々ガボールに、そこまで騎士としての才も技倆も備わっていないのだ。
立ち塞がるように、巨大な人鳥騎士がガボールとディノクロクタの前に立つ。
「ガボール、今すぐ街に――お城に戻って。こんな所に来ちゃ駄目だ」
けれどもガボールは俯いて視線を合わせようともしない。ミハイロの声も、届いているとは思えなかった。
「ガボール!」
その声に揺り動かされたのは、むしろ地上で倒れているギオル・シュマイケルだった。
彼には何故だか、ガボールの振る舞いの理由が分かる気がした。
自分が心の底から敬愛し、命を捧げると誓った主。
その人の為になら、命を捨てるなど躊躇がないのは当たり前。その主人の為にだけ、己は存在しているのだと疑いなく断言出来る。
ギオルにとってそれはハーラルであり、ガボールにとってのその人物こそ、ミハイロなのだろう。
年端もいかぬ頃より守護し、その苦しみと成長を見守ってきた大切な存在。ギオルにとってのハーラル、ガボールにとってのミハイロ。共に同じである。
だから今ガボールは、己の意識を失い記憶も消え失せ、植物人間に近い状態でありながら、主人のために戦場に立とうとしているのだ。そうに違いないと思えた。
例えそれが魔導士に操られたものであったとしても、核にあった本能そのものは、変えようがない。だからここに、彼はあらわれた。
命よりも大切な主人の為。
その主人の事すら忘れてしまったというのに――。
最後にこびりついた想いだけで、彼は剣を振るおうとしているのだ。
主人の為に、主人に向かって剣を――
これほどの悲劇。これほどの矛盾。
その痛々しさが分かるだけに、ギオルは己の消し飛びそうな意識を必死で繋ぎ止め、あらん限りの声で叫んだ。
「ガボール! お前の目の前にいるのがお前の生きる理由! お前がここにいる理由だ! その人のため、お前は今まで生きてきたんじゃないのか!」
けれどもその声すら、心を失ったガボールには届かなかった。
何が起きているのか理解の追いついていないロッテとレレケも、どうしたらいいか分からず当惑するのみ。
目の前に広がる愛憎の坩堝とも呼べる全ての状況に、ディユ・エポスだけは愉悦の笑みを浮かべる。
いいぞ、もっと混乱しろ。
もっと狼狽えて、もっと叫べ。
もっと、もっとだ。
もっと踊れ。
その下劣な意思だけが伝わったのか。ミハイロの制止もまるで聞こえた様子はないのに、おもむろに顔をあげるガボール。
虚ろで焦点は定まらず、白濁した瞳をしている。
そして。
「あ……ア……アル……ベ……ド……」
白煙が噴き上がった。
ディノクロクタから。
間欠泉の勢いで、ガボールの全身を押し包む。
「ガボール!」
ミハイロの悲痛な呼び声は、白煙と共に消えていく。
やがてそこに、古代ハイエナの人獣騎士が姿をあらわした。
右手の籠手からは、光が収束したかのような眩い輝きが放たれている。
超技術による重粒子の光学剣。
竜や、アルタートゥムのサーベルタイガーにすら威力を発揮する、〝神殺しの聖剣〟。
ディユはあえて何も手を出さず、黙って事の成り行きを見ていた。
――いいぞ。プログラムは順調だ。
「やめて! やめるんだ、ガボール! もう君は、戦わなくていいんだ。君が鎧獣騎士になる必要はないんだ。ううん、なっちゃ駄目だ。それ以上は、もう……! だから今すぐ解除して。お願いだ……!」
かけがえのない主人を守る為、かけがえのない主人の言葉を聞き入れない。
これほどの皮肉、ここまでの悪辣があるだろうか。
これがエポスの仕業だと気付いている者はまだいない。しかし気付いた時には、この戦域にどんな絶望が行進曲となって狂い響くやら。
思わず笑い声が漏れ出しそうになってしまうディユ。
必死で止めようとする巨鳥騎士のミハイロ=ジムルグだが、その時、誰も想像していなかった事態が起きる。
光が――
古代ハイエナの片腕にある光が――
閃いた。
ジムルグの頭部。
その横から、光が伸びている。
後頭部にまで突き出された、光の刃。
景色がゆっくりしたように見え、血の玉が舞い飛ぶのさえ減速しているように思えた。
目にした瞬間、ギオルが叫ぶ。
「ミハイロ!!」
しかしそれは、人鳥の頭部を貫通したわけではなかった。真横からはそう見えただけ。
古代巨大怪鳥のクチバシの横。
人間でいう頬にあたる部分を、アーヴァンクの光の聖剣が掠めている。ほんの一ひねり、剣を横に動かせばジムルグの首は飛ぶような位置。
「ガボー……ル……?」
絶句し、起きた出来事が分からないミハイロ。
ガボール=アーヴァンクは、ジムルグから飛んだ血が己の頬に付着したのか、それを舐め取っている。魂すらも、魔導士の獄卒として堕ちてしまったかのよう。
誰もが何をどうしたらいいか分からない。
そんな中で、ハイエナだけは己の為すべき事に忠実で、躊躇いがなかった。
まるで何かに操られているかのような機敏さ。
「〝完全悪業〟」
アーヴァンクの異能。それも第二獣能。
古代ハイエナ騎士が片手を掲げた時、目の前の巨鳥がびくりと直立。そうかと思えば、いきなり背を向ける。
「え――?!」
纏っているミハイロ自身は、そんな動きをしていない。
しかしジムルグは、己の巨大な翼を激しく開いた。そして羽ばたきを起こし、空へ舞い上がる。
まるで言う事を効かない。
己を纏う、己の肉体と同じ巨鳥の体なのに、ミハイロの意思に反して勝手にジムルグは空を飛んだのだ。
その背に、いつの間にか古代ハイエナを乗せて。
「何が――何が一体――?! ガボール! これって――」
けれどもやはり、主人の声は届かなかった。
この光景に、ディユはもう笑いを堪えきれなくなりそうだった。
あまりに上手くいった策略。洗脳と支配、そして意思の操縦。
それらが全て嵌まり、ガボールはまさに捨て石として最高の役目を果たそうとしている。
皮肉にも、洗脳支配を受けて操られているガボール=アーヴァンクの第二獣能が、相手を完全に操るというもの。
それが〝完全悪業〟だった。
操る対象の血液を己に取り込み、同時に剣で傷をつける事で、己の体内にある人造寄生虫を相手に潜り込ませるというもの。これにより目に見えぬ信号で紐付けされたアーヴァンクと対象は、駆り手であるガボールの思うままに操る事が出来るのである。その効力は、あの黒騎士ヘルの駆る黒豹〝レラジェ〟すらも操ったほど。ましてやジムルグを自在に乗り物として扱うなど、どれほど容易いか。
おそらくディユ以外の全員が、何をどうしたらいいか戸惑っているに違いなかった。
レレケは言うまでもなく、ロッテもだろう。
とはいえロッテはアルタートゥムだし、ミハイロやガボールに何の関わりもないから、油断はしていなかった。現に今も、彼女だけは隙なく警戒も解いていない。全方向でどのような形でも対処出来るよう、身構えている。
だが――
そんなロッテでも、味方のはずのミハイロが己に攻撃を仕掛けてきたらどうなるだろうか?
そんな即席の、しかもガボールの支配を受けての攻撃など、ロッテ=レイドーンに通用するはずもないだろう。そんな程度で大きなダメージを与えられるなら、もっと簡単に始末出来るはずだ。
しかし隙の一つも生まれないかと問われれば、果たしてそうだろうか?
味方で、しかも先ほど自分の手で「世話が焼ける」と言って助けた相手に刃を向けられ、一瞬でも隙が出来ない事など有り得はしないはずだ。
それこそが、ディユの狙いだった。
混乱に継ぐ混乱。
引き起こされる争乱。
〝混乱と争乱〟のディユ・エポス。
まさにその真髄が、この瞬間、張本人の手で引き起こされようとしていた。
おそらくロッテならば、これにディユの思惑が絡んでいると既に気付いているかもしれない。けれども、それももう遅かった。
ミハイロは空を高速で上昇し、恐るべき速さでサーベルタイガーに迫ろうとしていたのだ。
身構えるロッテ=レイドーン。
しかし僅かばかりだが遅い。
それに襲うのは、怪鳥騎士ではなかった。
背に跨るハイエナの騎士。心を操られた悲しき傀儡。
傷病人とは思えぬ動きで、ガボール=アーヴァンクが光の剣を閃かす。
レイドーンを襲う光の剣を、彼女は躱そうと動く。
その背後に――巨影。
アーヴァンクが攻撃する隙を利用し、翼竜は先ほど見せた高速飛翔でサーベルタイガーのすぐそばまで迫っていたのだ。気付いた時には、死神鎌を放った後。
瞬きも許さぬ一瞬。
斬り裂く光。
古の戦士を襲う刃。
「何っ……」
声が漏れる。
信じられないという響き。
完全なる悪業。無類の卑劣。
魔導士の刃が、絡まった運命を命ごと刈り取らんとした――。
ただ――
ただ一つ、悪逆でなかったのは――
その悪逆の剣を振るった本人――
その者にだけ、正義があったという事――。
己の主人の為という正義が。
「馬鹿なっ!」
巨体から溢れる、血飛沫。
斬り裂かれたのは、ロッテ=レイドーンではなかった。
翼竜の刃は、サーベルタイガーには届かず。
血を流す己の脇腹を見て激しく動揺しているのは、魔導の竜。
光の刃が届いた先は、巨大人竜ディユ=ヴリトラであった。




