最終部 最終章 第四話(2)『狂乱』
王都戦の北部域。空の戦い。
青き鎧を身に付けた巨大翼竜が竜巻を起こし、空ごと全てを呑み込もうとするかのような光景。
言うなれば、空の竜が齎す死と破壊が撹拌された坩堝か。
「〝混乱〟」
そこへ、号令と共に耳障りな高音の叫びが、辺りに広がる。
巨大翼竜が放つ、異能の咆哮。
神に等しいと嘯くエポスだが、それはどう聞いても神の啓示などではなく、悪魔の呪詛にしか聞こえなかった。
咄嗟にレレケが術を発動させて、聴覚に防御を被せたのが幸いする。
しかしそれでも防ぎきれるものではないし、そもそもここら一帯の全軍全員に防御術をかける暇など、さすがのレレケ=レンアームにもなかった。せいぜい己と数騎がところ。
その叫び声は如何なるものか。
無論、ただ忌々しいだけの咆哮ではない。
声を耳にした全員、敵も味方も関係なく徐々に耳が遠くなり、視界は暗さを増し、あらゆる感覚が消えていったのだ。
レレケ=レンアーム、それにミハイロ=ジムルグとアルタートゥムのロッテ=レイドーンのみ無事だったが、それでもレイドーンを除く二騎の感覚も、かなり鈍くなっている。
目は霞み焦点が定まらず、耳は膜を張ったように遠くなり、老いた聴覚に等しくなっていた。
「これは……!」
「あの翼竜の竜異能だ。あの特殊音波を耳にしたものは、五感を奪われ行動不能になってしまう。戦闘用の異能としては強力どころのものじゃない。比喩や例えでなく、まさしくこの世を支配するために奴らがそれぞれの竜に〝設定〟した能力だ。何せあの音波は、人間や鎧獣のみならず、あらゆる生命体に効果があるからな。強制的に行動不能にされ、あの道化野郎のされるがままになってしまう」
知らず内に生唾を呑み込むのが、自分自身で分かった。
五感を完全に奪う能力――。
己の肉体を特化した果ての超常化などではない。まるで力そのものが霊性を帯びたもののように、神秘の霊妙さで物理を超え、強制的に支配し操る力。
周囲を見回し、レレケは更に愕然となった。
飛翔の術を施した味方はそのほとんどが墜落し、地に落ちて身動きが取れなくなっていたからだ。しかもそれは味方だけではなく敵も同様で、異能で飛竜もどきに変異した角獅虎らも、飛ぶ事をやめて大地にとどまり、瘧のように体を震わせるばかり。むしろそれはマシな方かもしれず、多くの角獅虎が飛竜もどきになった姿を維持出来ず、元の魔獣の姿に戻っている。
こんなもの、もう戦とすら呼べなかった。
見るも痛々しい、死にきれぬ死者の群れ。
薬を撒かれて悶える、憐れな虫の様相であった。
「お前らも無理はするな。ボク様のレイドーンには対竜用の特殊防壁が張られているから、あの音波も無効に出来る。だがレレケ、お前の術で竜の力を全て防ぐのは無理だろう。そうやってまだ飛べているだけでも、むしろ破格の事だと思っておけ」
ロッテの言う通りである。
今、空戦の領域にいるのは破滅の翼竜・ケツァルコアトルスの装竜騎神〝ヴリトラ〟と、それに対峙するロッテ、それにレレケとミハイロだけである。
そのどれもが空に浮かび、翼を、或いは翼に似た飛翔装置を用いて空にいるが、レレケ=レンアームとミハイロ=ジムルグは飛べているだけで精一杯の状態に近かった。
ただ、先ほどまで彼らの頭上を覆っていた暗幕が晴れた事で、両騎にも加護の力が戻っている。ディザイロウが竜の一体を倒したからだ。
そのお陰で封じられた五感も、二騎に限っては徐々に戻りつつあるようだった。
それはこのうえない希望であり得難い朗報でもあったが、だからといって眼下に広がる生き地獄を目にした後では、望みも幻にさえ思えてくる。
特にミハイロの目は、一点に注がれたまま離せないでいた。
地上に堕ちた褐色の巨翼。
片足を失った、ハルパゴルニスワシの騎士。
ギオル=カラドリオス。
強制解除間近の白煙が漏れているのが分かる。非常に危険な状態だ。
青銀竜王・ヴリトラの放った光線により足を片方失う重傷を負い、更に五感まで奪われた事で戦闘不能どころか命すら危うい状況にあった。
今すぐにでも助けに行きたいし、行くべきだと思っていた――。
けれどもミハイロは分かっている。
もしギオルの身を助けるために戦線を離れようものなら、彼からどれほどの叱責を受けるかを。
何も叱られるのを恐れているのではない。恐ろしいのは、己が戦士として騎士として持つべき最低限の資格を、自分自身で手放してしまう事。そのように、ギオルに思われるかもしれない事。
ギオルが認めぬなら、ミハイロにとっては騎士を名乗る資格はないというのに等しかった。
ほんの僅かな時間を共にしただけであったが、ミハイロにとってゴート帝国の〝神速の荒鷲〟ギオル・シュマイケルとは、既にそういう存在になっていたのだ。
それが何よりも、ミハイロにとっては恐ろしく耐え難い事だった。
だから彼は、怯懦を叱咤する。
優しさをかなぐり捨てる。
戦場に必要なのは、命を惜しまない勇気と、命を奪い奪われる覚悟だと教えられたから――。
地に伏せる人鷲騎士から、空の邪竜へ視線を移した。
あらゆるものの生きる術を奪う、邪悪の聲。
神の如き、破壊の光。
圧倒的巨躯と、まさに文字通りの〝死神〟鎌が齎す比ぶもののなき力。
それが何だというのか。
自分に出来る事などないのかもしれない。自分のような軽輩、未熟な子供が世界を平らげようとする邪竜に立ち向かうなど、蟷螂の斧どころではない無謀だろう。羽虫が巨象を倒すより無茶な愚挙だった。
しかし自分が路傍の石だったとしても、石は石なりに擦り傷を負わせる事くらいは出来るかもしれない。
己がどれだけ経験不足な非才でも、捨て石となる事でほんの少しでも役に立てば、それは戦場を舞う空の騎士として本望だと決意する。
――見ていてください、ギオル様……!
覚悟は固まった。ミハイロの目に、若さゆえの火が灯る。
「レレケさん! ロッテ様! 今から僕が囮になります。その隙にレレケさんはみんなの立て直しを。ロッテ様は攻撃を仕掛けてください」
突然の宣言に、レレケは驚きロッテは眉をひそめる。
鎧獣騎士の体格としては、ミハイロの纏うジムルグは他の二騎よりも巨大だ。
レレケの纏うレンアームはライオンとライガー(ライオンとトラの混合種)の第二混合種・リリガー。外見だけでなく大きさもメスライオンと変わらない。
ロッテの駆る三日月刀虎というサーベルタイガーも、ライオンの鎧獣騎士程の体格である。
ジムルグは、それらを背に乗せても充分な程の大きさがあった。
けれどもどれだけ巨大な怪鳥騎士でも、中にいるのはまだ子供の抜けきれていない少年騎士なのである。
その少年が囮を買って出ると言って、はいそうですかとなるわけがなかった。
「待ってください、無茶です。ミハイロ君、何を焦っているんですか」
当然ながら、レレケが制止をかける。
「焦っている……のかもしれません……。早くしないと、みんなの……ギオル様のお命までも危うくなってしまいます。ですから僕が――僕に出来る事を僕がしなくちゃいけないんです――!」
まだ鎧化が解けていないから大丈夫だと言えるが、強制解除が為されればかなり危険な状態なのが今のギオルだ。止血をしてどうにかなっても、もう二度と騎士として戦場に立つ事は出来ないだろう。
ましてや命を落とすような事になってしまえば――。
「行きます!」
止めるのも聞かず、ミハイロ=ジムルグは翼をはためかせて翼竜へと向かう。
「あの孺子は馬鹿か」
ロッテが毒づくのも無理からぬ事。けれどもレレケにそれを批難する余裕はなかった。
間髪入れず、ロッテがレレケに指示を出す。
「とりあえずお前は、少しでも味方の立て直しをしておけ。幸い、敵全軍まで機能不全になったお陰で、お前さえ無事ならこちら側が有利になる可能性も大いにある」
「でも、ミハイロ君は――」
「そっちはボク様がどうにかする。どのみち、あの竜を相手に出来るのはボク様だからな」
ロッテ=レイドーンは、鎧の背面に装着された小さな羽根状の器具から光を放射して、浮遊したり高速飛翔を行ったりしている。つまり空を飛ぶという事一つとっても、〝大術士〟レレケ=レンアームの助けはいらないという事だ。
一方で既にミハイロは、竜の目前にまで迫っていた。
巨大翼竜のヴリトラから、幾本もの光線が放たれる。
が、初見で見切ったとでも言うのか。ミハイロ=ジムルグは擦りもせずに全てを完全回避していた。
当然だが、これはミハイロの技倆云々だけではなかった。
古代絶滅種、史上最大の鳥類である古代巨大怪鳥〝ジムルグ〟の獣能も大きく影響していたのだ。
〝飛竜乗雲〟。
その獣能は、古代巨大怪鳥の巨大な両翼、その付け根の胸筋を超常特化させるというもの。
鳥類の翼とその飛行能力を支えているのは胸の筋肉である。その胸筋を疲弊知らずの特異化させる事で速度を圧倒的に高めるだけでなく、空中浮遊や変速飛行は元より曲芸めいた飛び方も含め、このサイズの鳥類では有り得ない飛翔行為を可能にするというものだった。
一言で言えば、あらゆる飛行を可能にする異能。
現に今飛んでいるジムルグの翼は、消えて見えるほどの高速運動をしていた。
敏捷性も巨体とは思えぬほどの動き。さながらハチドリか昆虫類のような、瞬間移動の如き素早さである。
目にも止まらぬ――とはまさにこの事。
圧倒的高速飛翔でヴリトラへ肉薄。と同時に――
「〝嵐影行軍〟!」
ジムルグ、第二の異能。
アルゲンタヴィスの風切羽を硬質化。刃に変化させるというもの。
しかも軽さは羽根の時と全く変わらず、斬れ味は鎧獣騎士の授器すら両断するというほど。
超高速飛行と翼の刃。
かつてはどちらともに使いこなせているとは言い難かったミハイロだが、この土壇場で、彼はジムルグの力を完全に我がものとしていた。
様々な出来事、それに彼が心の支えにしていた二人の騎士が倒れたという衝撃が、少年の才能を開花させたのかもしれない。
その動き、まさにジェジェン首長国の守護聖獣、〝蒼天の覇者〟に相応しい鋭さだった。
しかし――
ジムルグを遥かに凌駕する大きさの怪竜は、ただ巨大なだけではなかった。
青銀竜王ヴリトラは驚きもしない。躊躇う素振りもない。
「高速飛行か。そんなものがどうした」
眼前間近に迫る刃が竜の表皮に喰い込もうとした直後。
翼の刃が空を斬る。
手応えなどあるわけがない。
竜――消えていた。
翼長展開一三〇フィート(約四〇メートル)にも及ぶ巨体が、一瞬でいなくなっていた。かに思えたのは一瞬の事。
「所詮は鳥の速さ。竜に比べれば眠くなる遅さだ」
ディユ・エポス――スヴェイン・ブクの真の姿――の、大仰すぎる芝居がかった声。
人鳥騎士になっている己の全身を、影がすっぽり覆っているのに気付くミハイロ=ジムルグ。
振り返れば、いつの間にか背後に回った翼竜騎神の姿。
――!
避ける間もなく、死神鎌が横に線を描いた。
死の宣告など不要の、巨大すぎる刃による一閃。
しかしそれは、少年の操る怪鳥騎士に届く事はなかった。
「〝頂天の牙〟」
声と同時に、巨大な牙が――牙だけが――空中に出現。
それが巨大死神鎌を弾いたのだ。
その秒にも満たない須臾の間に、ミハイロ=ジムルグの体はヴリトラの刃が届かぬ位置まで移動させられていた。
「世話の焼ける孺子だ。師匠がイーリオだから、弟子までそれに似たのか?」
片腕だけで羽交い締めするような恰好を取って引っ張ったのは、サーベルタイガーの女性騎士。
アルタートゥムのロッテ=レイドーンだった。
レイドーンが腕を放し、背中の光で前に出る。
己の鎌が遮られた事に、ディユ=ヴリトラが翼竜の目を細めていた。
次の瞬間――
怪光線・極帝破光と、レイドーンの鞭のような武器が同時に閃く。
牙虎の鞭は翼竜を掠め、竜の破壊光線は軌道が逸れてあらぬ方向に着弾する。
抜き撃ちのような瞬間の攻防。まばたきすらも許されない。
けれども。
「〝頂天の牙〟」
再びの号令。
ヴリトラの片翼、その一部が、破裂するように千切れ飛ぶ。
「チッ」
忌々しげな舌打ち。竜を駆るディユのものだった。
すぐさま翼竜の騎神は、短い吠え声を放つ。
すると地上にいた、まだ飛竜の状態を維持していた角獅虎の一騎が、弱々しくも迷いのない動きでヴリトラの方へと飛翔する。
「させると思うか」
言った後、ロッテが再び「〝頂天の牙〟」と告げるも、ヴリトラが死神鎌を振るい、これを弾いた。
空中に出現した牙は、どこにも届かず砕け散るのみ。その隙に、飛竜もどきはディユ=ヴリトラへ近付き、そして――
ペリカンのような巨大なクチバシで、呑み込まれたのだった。
見ていたミハイロとレレケが、絶句する。
やがて泡立つような音を激しく響かせ、千切れ飛んだ竜の羽が元通りになっていくではないか。
「剣歯虎の体内から骨の欠片を取り出し、それを飛ばす。そして欠片は着弾と同時に巨大化し、牙となって対象を貫く――そんなところかねえ」
翼竜からのディユ・エポスの声。
味方を喰らい、それを糧にして肉体を復元するなど――おぞましい事この上ないのに、共食いという行為を何も意に介していないところが、それ以上に不気味に見えた。
「千年前とは違い、能力を強くしている――それか能力そのものを変えているだろうと思っていたが、かなり変わった……いや、ここまで変則的だとはねえ。お陰でその牙を二回も受けてしまったよ。けれどその手筋はもう掴んだ。タネの割れた手品など、犯人の分かった推理小説より退屈だね」
当人らしか分からぬ未来的な比喩を口にするも、ロッテはそれに乗らない。
むしろ無言のまま、相手を凝っと見つめていた。
「おやおや、手の内が見透かされて、もう焦っていると見える」
嘲笑うディユ。
だがそれに何の反応も示さないロッテはともかく、むしろ見ていたレレケにこそ、焦りはあった。
ディユの看破したレイドーンの獣能は、おそらく彼の見抜いた通りだと思われる。骨の欠片というものがどれほどの大きさで、どうやって体内から抜き出すのかは分からないが、それが一切視認出来ないところを考えるに、極微小の骨片なのだろう。
そんな目に見えぬほどの欠片を確実に捉えて防ぐなど、高位の鎧獣騎士であっても可能だとは思えない。しかしヴリトラはあの巨体で、やってのけたのだ。
不可視だからこそ強力な力も、視えた以上は効果も半減するのは道理。
要であるアルタートゥムの力が通用しなくなってしまったら……。それはこの戦域での敗北を意味する事になる。
何か出来る手はないか。
必死でロッテのためにと思案するも、これという策は思いつかない。
どうすればいいのか――。
それはレレケだけでなく、ロッテに助けられたミハイロも同じであった。
けれどもついさっき、囮になると大口を叩いておきながらむざむざとやられかけた上に、ロッテの手も煩わせてしまったのだ。後ろに退がらされた今、つまりは邪魔だという事を指している。
実際その通りだろう。協力を申し出ても、足を引っ張ってしまう予想しか浮かばない。
空で対峙する二騎。
見守るしか出来ないレレケやミハイロ。
それ以外の者、敵味方共にほとんどの者は感覚を失い、地を這うばかり。
しかし――。
空気が張り詰めるその中で、誰も気付く事なく、誰も知られる事なく、ある者が戦いの側にまで近寄ってきていた。
一人と一騎。
狂気で心をなくした足と、狂気そのものの四つ足。
違和感だけしかないこのつがいに、誰も、誰一人として気付けなかったのは仕方のない事だろう。
戦場のほとんどが、五感を奪われ倒れているし、レレケ達とて竜との戦いに意識が奪われていたのだから。
何よりその〝彼〟は、ほぼ死人のような佇まいであったために、自身の意図とは関係なく気配さえ消えていた。
誰一人――。
ミハイロでさえも気付かない。
彼――ガボール・ツァラがあらわれた事を。
―――――――――――――――――――
☆〝青銀竜王〟ヴリトラ
破滅の竜の一体。
史上最大級の空を飛ぶ生物にして最大級の翼竜、ケツァルコアトルスの装竜騎神。




