最終部 最終章 第二話(1)『三日月刀虎』
王都北部域の空に、数多の翼が飛んでいた。
左右に広げた大きさ、つまり翼長展開で二六フィート(約八メートル)にもなろうそれらは、角獅虎が変異した飛竜もどき達。
一体何騎あるのか。
あまりの夥しい数に、王都上空が黒い雲に覆われていると錯覚してしまうほど。
対する連合軍も、レレケ=レンアームやドリー=フリッカをはじめとした術士達の混成部隊によって、一〇〇騎以上の鎧獣騎士が飛竜もどきの迎撃に当たっていた。
〝翼化〟の術式により、背中から擬似生体の翼を生やした騎士達である。
総数では圧倒的に劣勢だが、武装と身体強化の加護もあるため、戦力的にはほぼ拮抗状態。
だが問題はそこではない。
飛竜もどきらを取り巻きのように従える、一際巨大な翼。
灰色の翼に黒と灰褐色の羽毛。けれどもそれは鳥ではなく、ましてや飛竜もどきの一種でもなかった。
青味を帯びた銀色の鎧と、同色の巨大な死神鎌を持つ破滅の化身。
正真正銘、本物の〝恐竜〟。
青銀竜王・ヴリトラ。
〝風神翼竜〟の異名を持つ翼竜の最大種ケツァルコアトルスの装竜騎神。
昨日までとは全く異質な敵――いや、戦いの概念そのものを根底から覆すような存在と言うべきか。
それに直接対峙しているのは、連合軍の空戦における主力二騎。
ミハイロ=ジムルグとギオル=カラドリオスだった。
両名共に史上最大級の猛禽類を駆るものの、さすがに巨大変異した翼竜とは比べものにならない。体格で言えば、親鳥と雛ほどの差があった。
しかもこの竜天使ヴリトラは、そんな巨体でありながらゆったりと羽ばたくだけで空中での静止状態を保っているのだ。空を飛んでいるというより、目に見えぬ力で浮かんでいるようにしか見えない。それもまた、不気味というより異様さの一つだった。
――どうすべきか。
ギオルとミハイロは、まだ様子を伺っていた。
今の所、戦闘になっているのは周囲のみである。
一方の風神翼竜にも動く気配はなく、待っているというか超然と構えているようにしか見えない。
では、様子見でこちらから仕掛けるべきかどうか――。
ギオルは思案した。
が、そこへ不意に、頭の中に直接語りかけるような感覚で、人翼竜からの声が届く。
「色々考えたくなる気持ちは充分に理解出来るぞ。この巨大な〝竜〟はどれほど強大で恐ろしいものであろうか。如何程のものなのか。先ほどの〝極帝破光〟を目の当たりにすれば、尚の事躊躇いもしよう」
極帝破光とは、破滅の竜――即ち竜天使が放つ破壊光線の事である。
「果敢になれとは言わん。貴様らがどれだけ優秀で有能な騎士であろうとも、この竜天使の前には悉くが意味をなさぬのだからな。しかしそれでもだ――かかって来てくれぬでは味気ないのだよ」
いささか大仰にも見える手振りで、ヴリトラが片手を天に広げた。
もっと遊ぼうよ――。
まるで子供が誘うようなケレン味のある素振りで、かかってこいと挑発するディユ=ヴリトラ。ただしそこにあったのは、子供の無邪気さではなく人外の邪気そのものだったが。
だがその言動だけで、気付く者は充分気付けただろう。
巨大な怪竜を纏おうと古からの魔導士の名を名乗ろうと、ここにいるのは世界を嘲笑う道化者――スヴェイン・ブクその人であると。
「ギオル様……」
古代巨大怪鳥を駆るミハイロが声をかけるも、ギオルは無言のまま。しかし手をこまねいてもいられない。
――ドリー殿、我ら抜きでそちらをお任せする事は出来ますか。
術によって紐付けした思念通話を介し、ギオルが鎧獣術士を率いるドリーに尋ねる。
――はい。私達の獣理術だけでなく、シャルロッタ様とイーリオ様の加護もあるので、周りの飛竜もどきは我らだけで防げております。ご安心ください。
指揮を取るという意味でも、自分以外で対処出来るのだろうか。それが唯一の懸念だったが、ここは任せるしかないとギオルは腹を括った。
「ミハイロよ。俺は上からだ。下で同時だ、分かるな?」
「は、はい!」
猛禽の頭部で、ミハイロ=ジムルグが答えた。
同時に、直上へ高度を上げるハーストイーグルの人鷲騎士。ミハイロは急降下して、翼竜の直下から襲い掛かろうとする。
「何だ、二騎しか来てくれないのか? 全軍でかかってくれなければ面白くないだろう」
ケツァルコアトルスの中から、残念そうなディユ・エポスの声。
上下という回避しづらい敵の攻撃にも動揺の欠片すら浮かべず、無造作な動きで手に持つ死神鎌を回転させた。その刃先に向かって息を吐くように、先ほど出した破壊光線〝極帝破光〟を小さく放つ。
――?!
むしろ襲い掛からんとしていたギオルらの方が、何事かと躊躇する。
直後。
巨大鎌の刃で、光線が無数に乱反射を起こした。
まるで鏡面反射する光のようで、躱す事などほぼ不可能。
当たるを幸いに、四方八方を絶命と破壊の矢で貫いていく。
敵味方など関係ない。人竜以外の全てを消し去らんとしているかのような、見境ない攻撃だった。
「なっ――!」
上下からの攻撃を仕掛ける直前だったギオルとミハイロも、これに巻き込まれる。
空戦の騎士としての技量もあったが、半分は運のようなものでかろうじて被撃を免れるも、後を追うように光の矢は向かってきた。
衝撃。
激しい揺れを感じて見れば、己の片足が失われている事に気付くギオル。
空を飛ぶという事は、全身でバランスを取っている事でもあり、翼でなくとも体の一部が欠ければ飛翔する均衡は大いに崩れてしまう。
錐揉み状に墜落しそうになる体勢を必死で整えながら、同時に光の矢もかろうじて躱し切るギオル=カラドリオス。
騎士としては致命的な怪我だったが、そんな事を振り返っている余裕もなかった。
「ギオル様!」
尊敬するギオルの危機に、ミハイロが叫び声を上げた。
「馬鹿者! 集中しろ!」
思わずギオルが声を荒げた通り、狼狽したミハイロに、竜の光線が容赦なく襲い掛からんとする。
回避は不可能。防御など、それよりもっとである。
――!!
己の最後を自覚する事もなく、ミハイロは貫かれた――かに思えた次の瞬間。
目の前に、巨大な光の膜が見えていた。
まるで堰き止めた水流のようになった光線が、飛沫となって弾かれている。
「レ――」
声にならない。
誰だか分かっていても、驚きの方が勝ってしまう。
「大丈夫ですか?」
僅かに首を傾げて無事を確かめたのは、ライオンの人獣術士。
大陸全ての術士の頂点。おそらく、騎士ですらも凌駕するほどの大術士。
武装を新たにした、レレケ=レンアームだった。
「レレケさん……!」
レンアーム――ライオンとライガーの混合種・リリガーの鎧獣術士を駆るレレケ。
彼女は自らの背に飛翔の術の羽根を出現させて空を飛び、ミハイロの危機を救ったのだった。
先ほど、シャルロッタが見せたのと同じような光の防御膜を用いて。
驚きに人竜の目を細める、ディユ=ヴリトラ。
「ほう……極帝破光を弾くとは、これは驚きですね」
宙空で対峙する、巨大翼竜と空飛ぶライオンの術士。
「その装備……そうですか、エールが貴女の鎧獣術士に霊授器を与えたのですね。しかも規約違反ぎりぎりのかなり厄介そうなモノを。いくら出力を絞ったとはいえ、それのお陰で私の極帝破光をこうも容易く防げたと……」
ディユの言葉通り、レンアームの装備は杖も含めて以前のものから一新されていた。
これは星の城でエール神に会った際に与えられたもので、鎧獣術士が本来身に着ける導器とは根本的に異なった装備である。ディザイロウやアルタートゥムの武装と同等か、それ以上のものだった。
全身を覆っているのは、鎧というより司祭服のようにも見える外見で、明らかに硬質性がうかがえるのに、衣服のように軟性に富んでいる。言い換えれば、〝柔らかい金属〟とでも言うべき素材に見えた。
また手にする杖は以前のものより巨大で、先端に様々な色の水晶球を装着してある。
一見すれば槍のようにも見えるこの杖も含め、レンアームの装備の名はこうであった。
神の杖――〝カドケス〟。
シャルロッタ=シエルの放った光の防御膜と同じものを出せたのも、このカドケスがあればこそ。
だがレレケはディユの言葉を一顧だにせず、彼の感想とはまるで無関係な言葉を発する。
「安心しました」
「ん?」
「スヴェイン、貴方が実はエポスであると聞かされた時からずっと、私は嬉しかったのです」
ディユ・エポス――かつてはスヴェイン・ブクと名乗っていた、レレケの兄弟子であり恋人でもあった男。
「貴方がヘクサニアに入ったのは、そちらの考えに傾倒したものだと私は思っていました。確かに、元から貴方には思想的に危ういところがありましたが、それが行き着くとこまで行ってしまったのだな、と……。けれどもそれは違った。私と再会した九年前のあの時点で、貴方は既に元のスヴェインではなく、ディユ・エポスだった。つまり貴方はスヴェインの成れの果てではなく、ずっと乗っ取られた別の存在だったという事。その事に安堵したんです」
「ほう」
「一度は心を許した人が、世界を食い物にしようという狂信者になってしまった――もしそうなら悔しいし、悲しいと思うのが普通です。――でもそうではなかった。スヴェインだった貴方はディユというエポスに乗っ取られて消滅し――」
ここでほんの僅かに、レレケは声を沈めて言葉を途切れさせてしまう。けれどもすぐに後を続けた。
「本当はずっとスヴェインのふりをしてスヴェインを演じ続けてきた、本物の道化だったというわけです。でしたら、貴方を倒す事に何の躊躇いもなくなるというもの」
レレケ=レンアームが、杖をかざす。
だがその構えに対し、まるで蟷螂の斧を笑う虎のように、翼竜の魔神は肩を揺すった。
「風車に立ち向かう老いぼれ騎士より愚かだな。――まあそれはそれで実に滑稽でもあるが……それよりも、一つ訂正しておきたい。レナーテ、君もエールから聞いているだろう? 私はスヴェインの魂を取り込んだ存在だと。確かに全く同一のスヴェインではないが、私はスヴェインの魂そのものでもあるのだ。だからスヴェインでないなら容赦はいらないというのは間違いだぞ。いいかな? 私はスヴェインそのものなんだよ。紛れもなく、スヴェイン・ブクであり、同時にディユ・エポスでもある。それが私だ」
「いいえ違う」
「――何?」
「魂をつぎはぎにし、どこまでが本来の自分でどこまでが寄生したものなのかさえ曖昧になった存在など、同じではない。―― 一つ尋ねるけど、私が貴方に告白した際の言葉を、貴方は覚えている?」
「……無粋で野暮な質問だな。そんな瑣末な事、元のスヴェイン・ブクのままでも覚えているわけはあるまい。元よりスヴェインとは、そういう男だ。君も知っているだろう?」
「そうね。無粋で野暮、その通りだわ。私は告白なんかしてないから。告白したのは貴方、そんな事も覚えてないならそれはもう貴方じゃないわ。だって自分で為した行い、その記憶が欠けるなんて事、スヴェイン・ブクなら耐えられるはずないもの。本当のスヴェインなら」
論破した、というのだろうか。
ほんの数拍だけ、無言の間があった。
その後で、ディユ=ヴリトラが翼竜の顔で声をあげて笑う。
どこか芝居じみて、作り物めいた笑いを。
「これは参った。こんな初歩的で稚拙なに引っ掛けに嵌められてしまうとは! 千年振りの装竜に、私の気も些か昂っていたという事かな。いやはや、こんな状況で言葉遊びを弄する君も、大した度胸だよ。さすがだ」
巨体が空でおどけた手振りをした、その瞬間――
予備動作なし、動き出す予兆も気配も何もなしで、翼竜の口から怪光線が一直線に放たれる。
――!
動けやしない。読めるはずもない。
様子を伺っていたものの、一切の油断などしていなかったギオルやミハイロでさえ、まるで反応すら出来なかった。それほどに無造作な破壊行為。
レンアームに直撃した光線は、その身に纏う霊授器によって誘爆したのか、空中で爆炎を上げる。
濛々と立ち上る黒煙。
呆気に取られ、誰も何も言葉に出来ない。
あまりに――
あまりに急な幕切れ。
あの大魔導士が――こんな風に一瞬で消されてしまうなど――。
とてもではないが、防御の術を出す猶予もなかっただろう。何せ騎士ですら反応出来ない速度の不意打ちだったのだから。
「おやおや、だねえ」
嘲笑うディユ。
卑怯と言えば卑怯な行いだが、ここは戦場だ。正々堂々などと口にする方が愚かだと言われれば何の反論も出来はしない。
しかしそれでも――怒りが湧いてこないはずはなかった。
だが、誰もが硬直して動けない。まるで空中で金縛りにあったかのように、全身が竦んでしまっている。
「無粋で野暮な質問を繰り返す人間には、老若男女問わずお引き取り願うのが他の客への礼儀というものだ。残念ながら私の主催するこの宴からは退場してもらったよ、レナーテ」
黒煙が晴れていく。
跡形もなく蒸発させられたのか――。
レンアームのいた空中には、何もなくなっていた。
その真下にも、燃え滓に似た爆炎の残滓以外、欠片一つ見当たらなかった。
「そんな……」
ミハイロが、ドリーが、絶望に顔を青褪めさせる。
あのレレケが、こんなに呆気なく消されてしまうなど、信じがたかった。
そこへ。
「確かに無粋で野暮だな、ディユ・エポス」
全くの別角度から響く、女性の声。
誰もが目にしていなかった角度。つまり、人竜の斜め後ろ。
全員の目が、そちらへ向けられた。
「な――!」
そこにいたのは、宙を浮き、傷一つないままのレンアームと――
「人を馬鹿にした振る舞いで煙に巻き、目にした全ての命を弄ぶ。どれだけ魂を塗り替えようと、本質は中身のない道化者。ある意味、お前は何も変わっておらんよ。ボク様と戦った千年前から、何一つ、な」
周囲に爪のような突起物を浮遊させ、自身の背中にもその突起から光の羽のようなものを放射させて浮いているのは、古代絶滅猛獣の人獣騎士。
サーベルタイガーの一種ホモテリウム・ラティデンスの鎧獣騎士。
いや三日月刀虎のL.E.C.T.というべきか。
古獣覇王牙団の一人、ロッテ・ノミの駆る〝レイドーン〟が姿を見せていた。
「アルタートゥム……!」
目にした瞬間、翼竜の目つきが変わる。全身のおどけた調子も、温度を底冷えさせていた。
あの瞬間――
ヴリトラの破壊光線が直撃したかと思ったその時、ロッテ=レイドーンが目にも止まらぬ超高速飛行で彼女を助け出したのだった。
レイドーンがレンアームを抱えた腕を離し、それぞれに宙を浮く二騎。
そして三日月刀虎が鞭のような武装を突き出し、高らかに宣言する。
「装竜騎神なんて禁忌の兵器を使いながら、不意打ちなどという無粋で野暮な真似をする実に器の小さな道化師よ。このボク様、〝頂天の牙〟が永劫の引導を渡してやろう」
対する風神翼竜も、この時初めて死神鎌を構えて、羽ばたきを強くする。
連合の騎士達だけでなく、取り巻く自軍の飛竜もどきすら、風圧に巻き込まれて墜落するほどの激しさ。
けれどもレレケ=レンアームはともかく、レイドーンはそよ風を受けただけと言わんばかりに涼しげなままである。
「待ちかねたぞ、アルタートゥムの魔女。我が元に来るならお前だろうし、お前こそ私が刈り取るに相応しい相手だと思っていたよ。ようこそ、我が宴へ。存分にもてなしてやろうではないか」
「くだらん諧謔だな。エスプリの一つもない野暮ったさだ。貴様の催す宴など、ボク様が早々に幕引きにしてやるよ」
言った後、ほんの一瞬、レンアームへ視線を送るロッテ=レイドーン。それに気付いたレレケが、頷きで返した。
これからが本番――。
空を砕く破滅の竜との神の騎士と戦いが、北部域でもはじまりを告げた。




