最終部 最終章 第一話(終)『黄金竜』
ラストイヤーのゴールデンウイークSP 毎日投稿最終日10日目!
この戦いに赴く前から、ハーラルは心の中に重いわだかまりを抱えていた。
それは後悔だろうか。
それとも宿業とも言うべき十字架なのか。
幼き日、己に刻まれた心の傷。
養母との思い出。そして別れ。
だがそれがあるからこそ、今の自分がいる。あの時の悲しみがあればこそ、打ち据えた鋼のように己を強く出来た。そう思っていた。
しかしそれは、全てが偽り――。
母の愛も、それが奪われた事すらも全ては策謀の一つでしかなかった。
嘘で塗り固められた陰謀の産物でしかなかったのだ――。
その事を知った時、ハーラルの忘れていたはずの過去が古傷のように疼き出し、膿となってじくじくと痛みだしたのだ。まるで呪いのように。
信じられないという感情もあっただろう。
信じたくないと言うべきか。
だがそれと同時に、とっくに捨て去ったと思っていたはずの思いをまだ引きずっていたのかという己への嘲りもある。その後悔とも自嘲とも思えぬ動揺が、この結果を招いたのかもしれない。
己の全身を灼く光。
それに包まれた時、しまったと狼狽える間もなく己は消えたのだと思った。
だから今述べたような感情など、心に浮かぶはずはない。
この瞬間、自分の命数は断たれたはずなのだから――。
だが彼は、鎧獣騎士の目を開けて気付く。
「生きて……いる……」
己の四肢を見る。
灰色と白の体毛に包まれた両腕、両足。それを包む氷の鎧。
どれも傷一つなかった。焦げた跡すらない。
一体どういう事なのか。自分はつい今、確かに油断したところを破滅の竜の怪光線で灼かれたはず。
だが現実に、無傷なのだ。そう、これは現実なのだ。
そして思い出す。直撃を受けたと思った瞬間、何かの衝撃に突き飛ばされたのだという事を。
――!
まさかと思い視界を巡らすと、そこには彼と同じく無事な姿の人羊騎士――アネッテの姿があった。
思わず胸を撫で下ろすハーラル。
では誰が己を救ったのか。
突き飛ばされた直後に立っていた場所に、視線を向ける。
煙をあげ、焦土と化した剥き出しの地表。めくれあがった大地の上を、黒い煙がたちこめている。
それも広範囲にわたって。
あまりの凄まじさに、思わずハーラルは生唾を呑み込んだ。
やがて黒煙が晴れていくと、まるで燃え滓のようになった焼死体がいくつも転がっていた。
中にはまだ息をしている者もいる。だがそれも己の体を燃やされ、強制解除の煙を撒き散らしながら死の一歩手前になっていた。
そして――
ハーラルの目に飛び込む、人猿騎士の姿。
珍しい、古代種の猿の鎧獣騎士。
鎧獣騎士となれる猿種は限られている。それだけに古代の絶滅種など一度見たら忘れ難いし、仮にそうでなくとも、忘れるはずがなかった。
ハーラルにとっては――。
目にした瞬間、彼は駆け出していた。
言葉も発さず、無我夢中で。
人猿から白煙があがり強制解除となったのは、ほぼ同時。
駆けつけたハーラルの目の前で、人猿は人と鎧獣に戻っていた。
体の大半を煤けさせて絶命している、古代絶滅種のヒヒ。
そして――
下半身のほとんどを黒く焼き焦がして横たわる、女性の姿。
人虎のまま、ハーラルが震える手で女性を抱き上げる。
うっすらと開く、女性の瞼。
まだほんの僅か、息があった。だがそれは、消え入る前の灯火。
最早、命が砂粒ほどの量しか残っていないのだろう。けれども、それだけでもあった事自体が奇跡だった。
「何故……何故……」
声が掠れ、言葉にならないハーラル。感情すら、追いついていない。
どうして死にかけているのか。
どうして俺の腕で抱きかかえられているのか。
思考が壊れそうになっていた。
「サリ……」
破滅の光に灼かれたと思った瞬間。あの時自分を突き飛ばしたのは、敵となったはずの養母サリ。
今やヘクサニアの十三使徒の一人となった彼女。
その彼女が、ハーラルを助けたのだ。己を犠牲にして。
「何故だ……どうしてお前が、余を……」
声が震えている。まだ感情は遠い。自分の心が、現実に追いついていなかった。
もしかしたら、ずっと遠いままになるかもしれない。
今の彼は、幼い頃の彼に戻っていたから。
冬の帝都。ボロ衣にくるまれて母の背におぶわれた頃の、彼に戻っていたから。
「お前は敵だろう。敵になったんだろう……。ずっと……ずっと敵だったんだ。復讐の相手だったんじゃないのか……! なのに何で……! 何で母さんが、ぼくを……! ぼくを――」
二人の周囲は未だ熱の残る黒い灰だらけの大地なのに、そこだけはどうしてか、白雪のように白い色が輝いているように見えた。
太陽の当たり方だろう。
けれどもそれは、胸が裂けそうなほど悲惨な美しさに満ちていた。
「何でぼくを助けたんだよ。ねえ、母さん、答えて……答えてよ……」
言葉は強引でも、養母を揺する事さえ出来ない。ましてや泣いて縋り付くなど出来るはずもなかった。
助かるはずのない、あまりに惨たらしい状態だったから。
戦場だから――戦いの只中だから、鎧化を解いて自分自身の腕で母を抱きしめる事も出来なかった。
こんな別れ方があっていいのか。
ハーラルは叫びそうになる自分を、必死で抑えこもうとしていた。
「ハー……ラル……」
か細いサリの声。思わず閉じた瞳を開けて、ハーラルが母の名を呼びそうになる。
しかしそれより先に、消え入る命を使って血の繋がらない養母は最後の言葉を投げかけた。
「良かっ……た……」
赤く爛れかけた顔が、ほんの僅かに歪む。惨たらしい有様なのに、それはどんな女神よりも美しい、母という笑顔の形をしていた。
ティンガルボーグの両腕に、ほんの少しだけ重さが加わる。それは命の重さ。魂が失われた、肉体の重さ。
ハーラルは慟哭した。
世界が割れるほどに。
この世の全てを失ったかのように。
誰も――側にいたアネッテも、何も声をかけられなかった。
「ハーラル様……」
彼女は一部始終を知っている。だから余計に、彼の痛みが誰よりも胸に突き刺さっていたのだ。
しばらくして、ハーラルは養母の亡骸を地面に降ろし、幽鬼のように立ち上がった。
今度は別の意味で、声をかけられない。
いや、近寄り難い負の空気を纏っているからだろう。
「大……丈夫ですか……? 陛下? 陛下――?」
声をかけても反応がない。項垂れて、まるで放心しているようにしか見えなかった。
なのに人虎騎士の体毛は逆立っている。
「ぼくが……」
呻くような呟きが、聞こえてきた。
「え……? 陛……下……?」
「ぼくが――母さんの仇を取る」
「陛下――」
ハーラルの心は、もうここになかった。
彼の目がかつてないほどに曇っている事を知り、アネッテは戦慄する。
いけない。陛下は我を失っておられると――。
けれども彼女が制止をかける間もなく、ハーラルはその姿を消した。
何が起こったと思う間もない。
ハーラル=ティンガルボーグが、駆け出していたのだ。ただ一直線。最も巨大な人竜に向かって。
「陛下! 陛下!」
アネッテの叫びは届かない。
最早ハーラルにとって、養母サリが敵であった事などどうでも良かった。
己の半生が虚構と憎しみの揺り駕籠の中で育まれたものだとしても――それすらどうでもいい事だった。
養母は殺された。
自分の身代わりとなって。
殺したのはエポスの竜。破滅の竜。
それが真実で、それが今のハーラルの分かる全てだった。
例え何が起きようと、どんな事があっても、絶対にあの竜だけは許す事が出来ない。
殺す。絶対に殺す。
凄まじい憎しみと悲しみと怒りだけが、今のハーラルの思考の全てになっていた。
「誰か――誰か止めて……! 陛下が――! ハーラル様が――」
自身も必死で駆けて主君を止めようとするが、ティンガルボーグの脚力に追いつけるはずもなかった。今のハーラルは、後先考えずに全力で駆けているのだから。
しかし彼女の悲痛な叫びを耳にした者が一人。
彼女の幼馴染。竜を相手取らんとしていたイーリオだった。
アネッテの叫びに気付いた後、彼女の向かう方向を見てイーリオも驚きを隠せない。
そこに見えたのが、我をなくして高速で駆けるティンガルボーグの姿だったからだ。
――どうして?! 何が?
経緯を知らないだけに、イーリオも一瞬戸惑ってしまう。けれども状況が分からないまでも、一つだけは彼にもはっきりしていた。
ハーラルが死地に向かおうとしている――。
それも無謀そのもので。
「駄目だハーラル! 君じゃあその竜には――」
だがイーリオの声でも、届かない。届くはずもない。
瞬間、イーリオの決断は早かった。
血の繋がらない弟。それが何だというのか。
イーリオ=ディザイロウが、脇目も振らず一目散に飛び出したのだ。
かつて死闘を繰り広げた偽りの兄弟のために。自分の代わりに皇帝となった彼のために。
人狼騎士の足は感情に突き動かされるままに駆けていた。
全ては、サリという敵に寝返った女性の死が切っ掛けである。
一人の女性騎士の死。それも敵の騎士。
一体誰が、この状況を予想出来たであろうか。誰にも無理であっただろう。
イーリオとハーラル。理由はそれぞれ別であっても、最も騎士として高みにいるはずの二人から、冷静さが奪われていたのは間違いなかった。
まるで蟻の一穴によって堤が壊れるように、負の連鎖は次の負の連鎖を生みだし、全ての足並みまでも崩しはじめていく。
――いかん。
だがこの二人を止められる者もいた。
六代目百獣王カイゼルン・ベルの母にして古獣覇王牙団の団長オリヴィアである。
咄嗟にイーリオとハーラル――もとい、イーリオだけでも止めようと反応する。
けれどもその兆しを読んだ動きで――
オリヴィア=イオルムガンドの場所を、巨大な質量が破壊の一撃で襲ったのだ。
爆砕する大地。
サーベルタイガーは回避する。
けれども不意をついたものだったせいか、オリヴィアの進行方向は妨げられてしまう。
彼女の行手を阻んだそれは、途轍もなく巨大な斧。
巨人とも呼べる鎧獣騎士ですら赤子のように小さく映るほどの、規格外の大きさ。
ティラノサウルスの装竜騎神、ジブリールの放った一撃だった。
「貴様……」
オリヴィアが、サーベルタイガーの目で巨竜を睨みつける。
「俺の相手をしてくれるのではなかったのか? アルタートゥムよ」
明らかに、仕組んだもの。
バラバラの地域に出現したのも、五騎目のミカイールだけ時間差で遅れて、しかも位相差空間跳躍などという自身にとっても負担の大きい方法であらわれたのも全部、目論見あっての事だろう。
行く手を阻まれた事で、オリヴィアはそれを確信した。
だが意図は分からない。何が狙いなのか。
何より、最後の破滅の竜がまだ出現していない。その事が最大の懸念事項でもあった。
――全力を出せば片を付けるのは早いが……。
実を言えば破滅の竜といえど、アルタートゥム――特にオリヴィアにとっては、今のところそれほどの脅威ではなかったのだ。
まだ出現していない〝あれ〟以外ならば――。
だがそれでも、この段階で力を出し切るのは危険かもしれないとオリヴィアは考える。おそらくそれは、ロッテやニーナ、それにドグも同じだろう。
何故なら、それがアルタートゥムだから。
開戦前、ブランドとレレケに告げた会話の中で明かした事実――。
※※※
耳にした時、ブランドもレレケも、少なくない驚きと動揺を隠せなかった。
「神の騎士団などと呼ばれようが、異世界からの超科学が用いられていようが、力とは常に代償を伴うものだ。それはエポスとて同じ。無限の生命を得る代わりに、己の魂そのものがどんどん混ざり合って原型を失っていく。それでも永遠に生きられる事を幸福だと考える者もいるかもしれんが……。だが想像してみろ。魂が混ざり合えば記憶も何も削られていく。大切な人間の存在も忘れてしまう。それも断片的な残り滓のようなものだけを中途半端に残して。自分という存在も見失えば、己そのものが分からなくなる事がどれだけ恐怖で狂気か。だがそんな狂気にエポスどもが耐えられるのは、ただひたすらにオプス神への絶対的な忠誠があるからだ。そうでなくば例え人造魂魄でも、とうの昔に人格崩壊していただろう」
「それはもう、ずっと狂気の中にいるのと変わらないのでは……」
「そうだな。あいつらは六人とも、狂気そのものなのかもしれない。だから〝正義〟なんていう狂気を信じ続けられるんだろう。己の絶対的な正義を」
レレケの感想に、オリヴィアが頷く。
「力に代償があるのは、破滅の竜とて同じ。そして当然ながら、オレたち古獣覇王牙団もそうだという事だ」
「力の代償……。使い所を誤れば、それだけでお仕舞いになってしまう……」
「そうだ。本当の意味で、永遠や無限などこの世にありはしない。オレたちの力も限定的なんだ。その事をお前達二人は留意しておけ」
「でも、それって――」
自分達だけが知っているだけでいいのか。
他の主要な者達にも、ましてやイーリオには伝えなくていいのか。
レレケの発する問いに、ブランドも同意見だと重ねる。
「全員が知ってどうなる? 不安を煽るだけだろう。だがお前達二人は別だ。全体の指揮や術士達の状態を把握しておかなければならない立場だからな。その上で今一度言っておく。古獣覇王牙団の残り戦闘持続可能時間はおよそ二〇時間前後。竜を相手にすればその半分以下になるし、四騎それぞれの個体差もある。――そしてその時間を超えれば、オレたちアルタートゥムは、消滅する」
天の山という特殊な空間にいたからこそ、彼女ら人造魂魄は千年以上変わらないまま生きてこれた。しかし天の山を離れてしまえば寿命は人間同様になるし、それどころかサーベルタイガーの力を使えば使うほど、命はあっという間に削られていく。
己の命と引き換えにした神の力。
それがアルタートゥムの真実。
尚この時、オリヴィアとロッテには今言った以外で目の前の二人にも伏せていた事があった。だがそれとて、いずれこの戦いの中で明かされると、彼女らは知っていた――。
いずれにしても限られた時間の限られた最強。
それがアルタートゥムなのだ。
しかも強大な力を用いるほどに、残存時間は削られていく……。
※※※
――開戦前の会話を思い出し、そこから考えれば可能性として最も高いのはアルタートゥムを疲弊させる事かもしれない。
そんな風に、オリヴィアは想像した。
大きな力を使用させ、こちらの消滅を早めようと促しているのかも。しかしそれでは、ただ各個に撃破されるだけになるのでは? とも思う。おそらくそれこそが、最後の竜がまだあらわれていない理由なのだろう。
つまり最初にして最後の竜にこそ、この戦いの全てがかかっている――。
だがどちらにせよ、既に賽は投げられたのだ。
「面白い。生憎オレはロッテと違い、分の悪い賭けは嫌いじゃないぞ」
担ぐように持っていた大剣を前に翳し、オリヴィアは不敵に笑った。
目前に巨大ティラノサウルスの人竜。黄金竜王のジブリール。
対峙するのはスミロドン・ポプラトル、もしくは刀剣虎とも呼ばれるサーベルタイガーの鎧獣騎士イオルムガンド。
彼我の体格差、およそ一〇対一。
けれどもサーベルタイガーに、怯む色はない。
ティラノサウルスにも、侮る気配はなかったが。
「まあ、お前だけならオレも全力を出す必要はないだろうな」
その言葉に、ジブリールの闘気が膨れ上がる。
竜対虎。
破壊神対神の騎士。
今ここに、神話の戦いが再現されようとしていた。




