第三章 第七話(終)『黒獣』
屋敷に乗り込んだ直後、いきなりリッキーは、人猿の鎧獣騎士の襲撃を受けた。おそらくマクデブルクでメルヒオールが戦ったという鎧獣騎士と、同じ類いの者だろう。武器の形状や立ち居振る舞いで、即座にリッキーは、そう看破した。
動きの俊敏さは、さすが猿だけあって目を見張るものがあったが、それだけだった。ジャックロックに鎧化したリッキーの前では、暗殺者の身のこなしも、曲芸と変わりなかった。あれよという間に斬り倒し、その後で、「捕まえるんだった」と後悔したが、時既に遅し。仕方なく再びレレケの身柄とドグを探そうとすると、今度は向こうの方からこちらに向かってくるではないか。
どこも怪我なく、何かをされたわけでもなさそうなレレケを確認したリッキーは、まずは一安心とばかりに、次に、トルベン卿殺害の真犯人を探そうとする。すると、今逃げ出して来たレレケが、犯人なら心当たりがあると言い、一緒に探したいと持ちかけてくる。
獣使術の道具も一式持っているようだし、ドグとカプルスもいる。ならば人手は多い方がいいと、レレケの申し出を許可したリッキーは、三人そろって二階に上がると、再び人猿の鎧獣騎士が目に飛び込んで来た。ただし、今度は死体になった姿で。おそらくイーリオが倒したんだろうと推察した三人は、人猿の鎧獣騎士が塞いでいたであろう居室へ入り、外へと繋がる階段を見つけた。駆け寄って見ると、そこには、ザイロウを鎧化したイーリオと、対峙するような形で、スヴェイン、それに見知らぬ男が立っていた。
「スヴェイン!」
思わず声を荒げるレレケ。階下の三者が、一斉にこちらを向く。
レレケを捕まえた奴の名だろうか。リッキーは判らないが、いつもは飄々としているこの女が、こんなに激情を露にするなんて、思いもよらない光景だった。
「逃がしませんよ!」
階段を駆け下りるレレケ。ドグとカプルスもそれに続く。それを目の端に捉えながら、ジャックロックを鎧化しているリッキーは、ひょい、と階段を飛び降りる。二階程度の高さなど、鎧獣騎士にとってはないに等しい段差だ。イーリオの傍らに立ち、声をかける。
「足止めしてたのか。よくやった」
だが、その褒め言葉に、イーリオはいつものように反応しない。目の前の男二人に、強い警戒を持っている。
見れば鎧獣はいない。
ただの生身の男二人なのに。
そう、鎧獣はいない。いなかった。
「フン、今度は本物の覇獣騎士団のお出ましか。司祭、引き上げるぞ」
美形の男が吐き捨てるように言うと、踵を返して、スヴェインが門から出ようとする。無論、見過ごすわけがない。リッキーとイーリオは、同時に地を蹴って彼らの退路を断とうとした矢先――。
二人の眼前に、黒い物体がどこからともなく表れ、道を塞いだ。
まるで地から沸いて出たように。
思わず急停止する二人。
二人の前に立ちはだかったそれ――。
――黒騎士の鎧獣?!
一瞬、イーリオはレラジェを思い出す。
無理もない。それの動きは、ある種の猛獣に共通する、しなやかさをもっていたのだから。ある種の猛獣――即ち、猫科。だが、それは黒豹ではなかった。
月明かりの闇夜の中、一瞥では理解できないものの、黒豹よりも一回り以上に大きな体格をしている事がわかる。少なく見積もっても、ライオンか虎ほどの大きさがあった。何より、影の像でも視認出来るほどの、タテガミの毛並み。ではライオンか? いや、よく見ると体全体に、豹のような紋様が浮かんでいる。黒の上に黒だから、闇夜では判り難いが、月明かりの加減で、時折浮かんで見える。
それにタテガミ。ライオンのそれに比べると、若干短い目ではある。何より、全身に黒い紋様の入ったライオンなど、聞いた事がない。
黒色の猛獣。
黒灰色の授器。
月の光が逆光となり、詳しく判別できない。それ以上にイーリオには、その鎧獣が、地から沸き出た悪魔の化身のようだと感じられた。
ガシャリガシャリと鎧を鳴らしながら、黒い獣は、威嚇の牙をこちらに向ける。
魔王の眷属の牙を。
レレケとドグも立ち止まった。いや、凍り付いたというのが正しいだろう。見るだけで薄ら寒くなる鎧獣なのだから。
「まさか……そんな……」
ほんのわずか、かすれた息のような小さな声で、思わずレレケは呟く。ドグはその声をはっきり聞き取っていた。
美公子は、悠然とした歩みを続けながら、「来い」と一言告げると、黒色の猛獣は、素早い身のこなしで、彼の元へ駆け寄っていった。
予想だにせぬ妨害と、魔獣のような鎧獣の登場で、思わず身を怯ませたが、これだけで、みすみす見逃すわけはないと、イーリオは男の行く手を阻むため、再び跳躍した。リッキーも同様だ。
それを目の端で捉えつつ、男は小さく、悪魔のための告解を行う。
「白化」
沸き起こる白煙。
一瞬の内に、男の姿が見失われる。だが、鎧化時の白煙はすぐに消えてしまうのが特徴だ。白煙の掻き消えるのを待って、イーリオが再び両足に力を込めると、その場には、居るはずの鎧獣騎士の姿が、既にどこにもいなかった。急いで、リッキーと門を出るも、王都の闇夜の中、どこにも気配は感じとれない。
――消えた? いや……逃げられた……!
あの一瞬で、自分とリッキーの感覚から逃れるなど、あり得ない。ジャックロックもザイロウも、夜目に長けた鎧獣騎士だ。その〝目〟と〝感覚〟を欺いて、まんまと逃げおおせるなど。
あの黒い猛獣――。まるで闇で産まれたかのような妖気を放ち。
あの男――。悪魔の如き冷気を吐く。
身震いするイーリオと、リッキー。追いかける気さえ、丸呑みされたような気分だ。
やがて、犯人を取り逃がした事への脱力感と、ひとまずレレケを助け出した事への安堵、それらが渾然となって、イーリオの身を包んでいった。
だが、何よりも、あの男の残した言葉。
それに不気味な謎の黒き鎧獣。それらが沈殿する澱のようになって、イーリオの心を深く沈ませていくのだった。




