第四部 第六章 第四話(3)『第一霊力』
王都の西方部。全戦場のど真ん中。
最も激戦区であり、最も有り得ない事が起こっていた場所もそこだった。
たった一騎で突出したイーリオ=ディザイロウが、敵の大部隊を僅か一撃で吹き飛ばしたのである。
もしこの戦場で、遥か先の時代に存在する〝漫画〟なるものを知る者がいたら、目の前の光景をまるでコミックスのように荒唐無稽だったと言ったかもしれない。
あまりの力に、味方は沸き、敵は慄いた。
心なきはずの異形どもに刻まれた、恐怖という感情。
いや、魔獣の駆り手である灰化人や竜人らにそんなものがあるのかどうかは分からない。だがどう見ても、魔獣達の足は竦み動けなくなっている。――少なくともそういう風にしか見えなかった。
これを恐怖に慄くと言わず、何と言うのだろう。
けれどもそれもほんの数瞬だけの事。
呂羽が、エドガーが、サイモンが、オリンピアやサリが――
角笛を吹き鳴らす。
心を潰せと。
敵の死はもとより、味方の死すら路傍の石と思い、ただ進めと。
全ては破壊のため。
数という猛威で全てを呑み込み蹂躙しろと、命令が降された。
数の優位を覆すのが鎧獣騎士の戦い。けれどもその数の優位を、究極的なまでに突き詰めたのが、ヘクサニアの角獅虎たち。
恐怖すらも摩耗させた魔獣の壁が、一斉に押し寄せてくる。
まるでこの世の全てを押し流さんとするかのように。
一〇万騎の巨人の如き魔人獣が、狂気の目つきとなっていた。
蹴立てる足だけで、地軸が傾くかと思える勢い。実際に王都の人間たちは、腹を揺さぶられるような地揺れを感じていたという。
〝霊獣王〟イーリオ=ディザイロウと、神の騎士団・古獣覇王牙団の参戦。〝銀の聖女〟シャルロッタの加護。それらがあろうと、破壊の意思を持ったこの雪崩を止めるなど出来はしないのかも――そんな想像が、誰しもの脳裏によぎる。
連合騎士達が、迫り来る猛威に身を固くした時だった。
戦場の一番前線にいるイーリオ=ディザイロウが、号令を放つ。
己への、力の発動を。
「千疋狼」
千体の擬似狼を出現させる、ディザイロウの異能。
多くの者が見知っている、イーリオの代名詞とでも言うべき獣能である。
だが今のそれは、当然、大狼ではなく霊狼の形。
更に驚くべき事に、夥しい数の分身体を出すのがこの獣能だが、目の前のそれは明らかに今までのものと数が違っていた。
千体の擬似狼――どころではない。
千どころか数千にものぼる数が、一瞬で出現していたのだ。
突然目の前に展開された巨狼の群れに、中央の戦場では両軍が足を鈍くする。
ところがその擬似霊狼は、敵軍に向かっていくものかと思いきや、後方や右左、味方のいる四方八方へといきなり散らばっていったのである。
それも、とんでもない速度で。
「何だ……?」
敵も味方も、何が起きようとしているのか見当もつかない。
やがて擬似霊狼らは、自軍個々の鎧獣騎士たち一体一体に向かって、突如飛びかかっていった。
さながら鎧化をする鎧獣のように――。
敵意はなく、無造作にも思える動き。
飛びかかられた騎士達はと言えば――
何もない。
いや、擬似霊狼が人獣の体に被さった途端、それは光の粒子になって弾け、そのまま鎧獣騎士の全身を光で包み込んでいたのだった。
「これは……一体?」
己の体毛から、羽ばたく蝶が鱗粉を輝かせるように光が溢れている。
同時に全身から、かつてない力が湧き上がってくるのを彼らは感じていた。
鎧獣騎士ならば、どんな相手でも撃ち倒せそうな無敵感。
鎧獣術士ならば、どの術もかつてない規模で展開出来そうな万能感。
思い込みではない。確かにそれは、共通して感じる確かな力。聖女のものとは別の加護。つまり、霊獣王からの加護。
レレケ=レンアームも光の狼に包まれた事で、計り知れぬほど湧き上がってくる力を感じていた。
――そうか、これが……!
伝環路を使っていないのに、全員との繋がりも感じる。
おそらくディザイロウを経由する事で、自動的に獣理術と同じ効果が発生しているのだろう。
彼女の傍らで、同じくシャルロッタを守りつつ指揮をとっていた連合軍師のブランドも、この現象に驚きの声をあげていた。
「これは、この湧き上がってくる力は……イーリオ様の加護……?」
正体不明のこの力、喜ばしいが戸惑いもする。それにレレケが答えた。
ブランドに対してのものだが、術を使い、全体にも聞こえるように。
「アルタートゥムの方よりお聞きしました。月の狼には、破滅の竜に対抗するための〝三つの力〟があると。これがその内の一つなのでしょう」
「それは……?」
「千疋狼と名付けられた獣能の、本来の姿。獣王の王として、竜と戦うための力――即ち〝率いる力〟」
三つの力と言ったが、正しくは〝異世界に対抗する力〟というらしい。
ただ、異世界存在や異世界の事までも話をしていないし、そもそも天の山から出た事で、具体的な内容がレレケの記憶から消されているため、説明は出来ないのだったが。
「これは月の狼・ディザイロウの力の一端を数千騎の霊体として行き渡らせるというもの。聖女であるシャルロッタさんの〝神色の加護〟と合わせれば、一騎で一〇騎の角獅虎を相手にする事さえ、不可能ではないでしょう」
「それがザイロウの……いや、ディザイロウ、月の狼の力……!」
「はい」
通信で全員に聞こえる様にしたのは、理解をしてもらうためだけではない。
ただの説明だが、これによって耳にした霊獣王軍の士気が跳ね上がったのは言うまでもなかった。
「いける……! これならもう、あいつらだって怖くない……!」
「霊獣王と聖女様のお力が、俺たちにも……!」
「戦って、生き延びる! いや、勝つんだ……!」
騎士達の昂揚は言わずもがな。やがてその士気は闘志となり、覇気へと変わっていく。
兵力に換算した場合どれほどの効果が齎されているのか。
まだ全容は掴めていないが、即座にブランドもこれに応じた指揮をとった。
一方で戦場中央では、人狼騎士の横にオレンジ色の髪の青年と、巨大な犬歯を持つ大型猫科猛獣が近付いていた。
「ドグ、まだ鎧化してないの?」
「へっ、真打ちってのは勿体ぶるもんだぜ」
危険な事この上ない状況なのに、ドグは臆するどころか侮っているとさえ思える風情である。それはどこか、イーリオの師匠であるカイゼルンの太々しさを連想させた。
「だが見せてもらったぜ。お前ぇなりのやり方ってやつをよ」
「……言葉にするのは僕のやり方じゃないからね」
「だったら、今度は俺のやり方も見せなきゃな」
不敵な笑みを浮かべるドグが、片手で前方の敵軍に指を差して告げる。
「白化」
巻き起こる白煙。あらわれる威風。
大剣牙虎の鎧獣騎士〝ジルニードル〟が大剣を携えてディザイロウに並び立つ。
「んじゃあ盛り上がってきたところで、俺達もいこうじゃねえか。なあ、イーリオ?」
「ああ」
イーリオ=ディザイロウ。
ドグ=ジルニードル。
霊狼と大剣牙虎。
神話と伝説が、同時に敵の群れへと踊り込んだ。
攻めるのは自分達ヘクサニア。目の前の人獣騎士どもは守るだけ。
そう思っていたのかどうかは分からないが、まさか反対に攻め込まれるとは思ってなかったかのように、魔獣達は狼狽えた。
ディザイロウが剣を振るえば、それだけで角獅虎が倒れていく。
背後から横から、取り囲んだ四方八方から襲っているのに、舞踊のような華麗さで全てが躱され、向かっていけばいくほど斬り倒されていく。
あの剣がとんでもないものなのか。
ディザイロウの体格からすれば細身に見える片刃の曲刀に、柄頭で対になった側には直剣に似た形状。
角獅虎の硬皮を、バターのように容易く膾にしていく様は、最早他の鎧獣騎士と同じ規格に入れることすら憚られるほど。
それでも心を完全に潰され、機械の如くただただ闇雲に襲いくる魔獣達。
どれだけ死体を山脈のように築き上げても怯みもなければ際限もない。
「それじゃあ、これはどうかな?」
ディザイロウの剣を持つ右腕から、白い炎が噴き上がる。それは剣身全体を包み込み、まるで意思を持った生き物のように蠢いた。
見た事のない現象に、角獅虎たちに躊躇いが生じる。その機を逃さず――
――〝燈蛇炎〟
イーリオ=ディザイロウが剣を振るった。
白い炎が。鞭のようにしなりながら伸びていく。
それは大蛇よりも長く伸び、広範囲に渡って軍勢を打つと――
全てを白い炎で灼いていっていった。
いわゆる千疋狼の応用、炎身罪狼を用いた技の一つだが、以前とは威力も何も桁が違う。
燈蛇炎そのものは以前に編み出した技だが、当たった時に生じた効果は、中の駆り手を灼き殺す〝炎狼剣〟のもの。それにディザイロウとなった今、以前のように炎身罪狼は使わない。いや、使う意味がなかった。
そもそもあれは、加齢によって燃費効率の悪くなったザイロウの力をより効果的に用いようとして編み出した技術である。若返り、万全以上となったディザイロウに、そんな回りくどい技を発動する必要が、全くなくなっていたのだ。
白き幻炎に灼かれる魔獣達。
その炎を乗り越え、白銀と黄金の人狼は更に敵陣の奥へと踏み込む。
それと共に白い炎の隣でも、大量の魔獣が屍となって倒れている。
旋風と化した血飛沫の渦の中心にいるのは、大剣を振るうサーベルタイガー。
大剣ではあるが、形はこちらもディザイロウのものに負けず劣らず奇妙である。
いわゆる片手剣で、見た目的には西方の刺突用短剣のように、柄ではなく握り込む形となっていた。しかし見た目だけでなく、威力もディザイロウの剣と同様に凄まじい。
違いは、イーリオ=ディザイロウの戦い方が激しくもどこか華麗さのある剣技であるなら、こちらはどこまでも荒々しく激しい。
迫り来る敵は迫る前に仕留める。敵と認識したものは敵ですらなく全て獲物。目にする前に斬り伏せ、薙ぎ倒し、肉片に変えていく。
これこそが古獣覇王牙団の一騎。
〝最強の牙〟ドグ=ジルニードルだった。
けれども何より目を剥かざるを得なかったのが、その強さではなく、激しいようで実は違う、彼の剣技である。
豪剣。
そう言わしめる様な戦い振りなのに、ジルニードルの体も鎧も、まるで綺麗なままなのだ。そう、撒かれた砂利のように血の玉を飛び散らせているにも関わらず、一滴も返り血を浴びていなかった。
真紅で濡れているのは、血の河となった大地を踏みしめる、足の裏だけ。それすらも倒した数が多すぎるからであり、本来ならば、そこも赤い雫一つ濡れていなかったに違いない。
「にしても、マジでキリがねえな」
息一つ乱れぬまま、ドグが悪態をつく。
そこへ今度は、飛竜に変異した角獅虎や、集団戦・制圧用の偽竜・角獅虎までが押し寄せてくる。
「やれやれだぜ。人混みみてえで景色が良くねえ」
空いた片手で遠くを覗くように翳した後、その手を横に広げる。
「ちょっと見晴らしを良くするぜ」
広げた手に、力を込める。
赤い気体がほんの僅か、目に見えるか見えないかの一瞬だけ、噴き上がった。
それは神の獣・サーベルタイガー達にのみ許された、神威の獣能。
「〝最強の牙〟」
己の二つ名と同じ異能。
横薙ぎにした片手から、幻のように巨大な〝牙〟が現出する。
ゾウすらも小粒に思えるほど、あまりに巨大な頭蓋骨の幻。
巨大な犬歯を携えたそれは、サーベルタイガーのドクロだった。
あまりに巨大で、何十フィートかも分からない。いや、一〇〇フィート(約三〇メートル)以上はあったかもしれない。
それが顎を開くと、新たに増えた敵軍ごと全てを呑み込み、牙を閉じる。
悲鳴――
それすらも起きなかった。
幻の如きサーベルタイガーのドクロが消えた後に残されたのは、憤血と細切れの肉塊になった魔獣が、驟雨となって大地を汚す光景のみ。
ディザイロウの力と同じ、擬似生体で相手を攻撃する異能。
それが〝最強の牙〟。
だがこれは、ディザイロウのものより更に強力――というか、タチが悪かった。
ドクロだけという通り、それは擬似生体の生成を利用して超硬質化させた巨大な骨――それも頭蓋骨のみ――を生み出し、操るというもの。だが髑髏である以上生体とも言い難く、それはただ物質を現出させたのと同じであり、それも破壊目的のものである。
巨大故、広範囲の敵を一掃出来るし、そもそも威力が桁違いなのだ。
この牙を前にした時、あらゆる防壁や軍勢は全て意味をなくす。
イーリオ=ディザイロウ。
ドグ=ジルニードル。
今この場で、この二騎に比肩出来る存在が、果たしてヘクサニア軍にあっただろうか。
そんなもの、あるはずがなかった。
ただしそれは、〝今〟――だけであったが。




