第四部 第六章 第四話(2)『霊獣王軍』
夜闇に仄かな青味が混ざり出した頃。
まだ夜ともいうべき時間だったが、ほどなくして払暁がはじまりの姿態を見せてくれるだろう。しかしそれにはまだ少し早い、そんな刻限。
そこは王都レーヴェンラントの中央、王宮の敷地内にある傷病人の看護施設。
その中の一室で、少年がうずくまって座っている。
上から毛布がかけられており、顔には泣き腫らした涙の跡が残っていた。けれども少年が治療を受けたものではない様子だった。
そこへ、男の影が立つ。
意識を失うように眠っていた少年が、気配に気付いて目を覚まし、男を見上げた。
「ギオル様……」
男はゴート帝国グリーフ騎士団団長ギオル・シュマイケル。
少年は銀月獣士団のミハイロ・ジャルマトだった。
「すまん、起こしてしまったな」
「いえ……」
体を起こし、立ち上がるミハイロ。
あれだけの激闘の後なのだ。ぎりぎりまで体を休ませてやりたいとギオルも思っていたが、そもそも今のミハイロはゆっくりと休みをとれる精神状態ではなかった。
だから助け出したガボールの病室で、寝台に横にもならず夜を過ごしていたのだ。
「もしまだ起きていたらと思ってな」
「何かございましたか……?」
「お前が休んでいる間、治療師ではなくエルンストという理術師がガボールを診たのだ」
理術師とは、術士版の鎧獣騎士、鎧獣術士を駆る者達の事である。成り手には現役の錬獣術師や元・錬獣術師らが多く、有り体に言えば錬獣術を修め、獣理術なる術を使う運動能力もある者――といったところか。
「何かお分かりになったのですか」
「植物状態の原因、記憶がない事などはお前の言ったとおり。それ以上は特にない。ただ、そのガボールがどうして我々を襲ったのか、どうしてヘクサニアの騎士になり、我々と戦ったのか――その原因が分かったらしい」
話の前半で一度は落胆の表情を見せたミハイロだったが、途中からその顔色が変わる。勢い込んで「教えてください」という彼の目からは、既に眠気など何処にもなかった。
因みに、ガボールがヘクサニアに捕えられた経緯は、以前イーリオから聞いていたので、その点はガボールもギオルも理解しての話であった。
「ヘクサニアはずっと前から奇妙な技術や怪しげなモノを用いていると聞いている。一度死んだはずの鎧獣騎士を蘇らせて動かしたり、鎧獣を狂わせたりといったものだ。おそらくだが、ガボールは自分の意思ではなく、何らかの方法で強制的に鎧化をさせられ、暴走する鎧獣の意思のみを敵側の鎧獣術士によって操り、戦わされていたのだろう……との事だ。その痕跡が、此奴の〝アーヴァンク〟から見つかった」
「ヘクサニアに、操られて……」
「そもそもガボール自体が鎧化を出来る状態ではないのは見ての通りだ。植物状態に近い人間が戦いの武装をするなど、有り得るはずがない。だがそれを無理矢理に鎧獣騎士にさせ、しかも戦場に送り込むなど……。これほど戦いを愚弄する卑劣な行いは、俺も知らん。吐き気がする」
針金のような痩身と高い鷲鼻という風貌に、傭兵団あがりの経歴から狷介だと思われがちなギオルだが、見た目とは裏腹に、彼は人一倍高潔な人物なのである。騎士道、というのは彼のためにある言葉だと言われるほどで、それだけにヘクサニアのやりように怒りを覚えていた。
「少なくともガボール・ツァラという男が、ヘクサニアの手先かどうかという疑いは、これで完全に晴れた。お前はこの者を守るためにも、少しでもいいから体をちゃんと休めろ。この男を、お前が守るためにもな」
ミハイロの肩に手を置き、ギオルが鋭くも温もりのある目で見つめる。しばしの沈黙の後、
「……はい」
と返した少年の肩は、それでも震えていた……。
やがて病室からミハイロを送り出した後、ギオルはもう一度だけガボールの眠る部屋へ戻ってくる。
そして眠り続けるガボールを凝っと見つめ、呟いた。
「お前に何があったのか、お前の事をまるで知らん俺には想像もつかん。だがそれでも、分かる事はある。お前が必死に運命に抗い、ミハイロに辿り着こうとしていた事は」
聞こえるはずもない。
仮に聞こえていても、その言葉がガボールの心に届いているとは思えない。それでも、ギオルは続けた。
「もし、まだお前にほんの少しでも心が残っているなら……お前の主の記憶が僅かでも残っているなら……主である少年の無事を、お前も祈ってくれ。出来れば……ほんの少しでもいい」
病床を見つめ続けるギオル。
物言わぬ昏睡状態のガボール。
空気は澄んで、音すらない。返ってくる言葉など、ありはしなかった。
やがてギオルが、病室から立ち去る。
その後で――
ほんの少し、虫の歩みよりも微かにだが、ガボールの指が動いた。
そしてうっすらと、瞼が開く。
誰にも、気付かれる事なく。
※※※
凛烈とした空気が肌を差し、大気すらも照らし出す陽光が、王都を染めあげた。
大地も黄橙色の大海と化す中、広大な王都を半周分、ぐるりと取り囲むのは、色彩の欠いた大軍勢。黒と灰色の魔獣一〇万騎近くを有するヘクサニア軍。
それと対峙するのは、王都に集いし大陸諸国家の大連合。もしくはこう呼ばれる。
霊獣王軍――と。
別に示し合わせたわけでもなければ、互いの動きを察知していたわけでもない。
とはいえ、一〇倍以上の兵数差があろうが、互いに大軍なのは間違いなかった。そしてこれだけの数である。それぞれの陣営の動きなど、探りを入れる必要もないのは言わずもがな。
そうしてまるで試合開始の鐘の音を待つ競技者の様に、両軍は朝まだきの中で布陣を整えていたのであった。
その霊獣王軍の中央にいるのが、彼らの旗頭にして大連合の盟主。
大陸の諸王を率いる王の王。
七代目百獣王にして霊獣王。
または銀月狼王にして月の狼の継承者。
イーリオ・ヴェクセルバルグと霊狼の〝ディザイロウ〟だった。
彼の背後には、今や霊獣王軍の旗幟となった銀月獣士団の旗が翻っている。
当然、周りにいるのは彼が率いる銀月獣士団を中心にした部隊。
そして長年の団員のような佇まいで、彼の永遠の相棒ドグと、大剣牙虎の〝ジルニードル〟も傍らにいた。
霊獣王軍は、諸王がそれぞれ自国の軍を率いる形で王都中に散会している。それは昨日と同じ。
違いは昨日の戦闘開始時にはなかった新たにして最強の援軍、古獣覇王牙団のオリヴィア、ロッテ、ニーナがいる事が一つ。
彼女らの活躍と実力は、既に連合全体に知れ渡っている。これほど心強く強力な味方もないであろう。それだけでも、昨日と状況はまるで違った。
そしてもう一つ。
イーリオがいる事もそうだが、そのイーリオのいる中央陣の奥深くには、何と人獣の騎士でもなければ人獣の術者でもない、非戦闘員にしか見えない女性――
シャルロッタもいた事だ。
彼女は昨日見せた〝加護〟の力を再び使うため、自ら戦場に立っている。
けれど何もわざわざ前線にまで出る必要はないと、散々他の者が止めようとしたのだが、シャルロッタは、戦場に立たないと分からない事もあると言い、頑なにこれを拒否。それにもし襲われるような事態になっても、己の身を守れる術ぐらいはあると言うのだ。
ここまでどうしてもと強く出られては周りも渋々応じざるをえず、一応、全体の指揮を執る軍師のブランドや、大術士長となったレレケが守りを固める事で、何とか納得した――というかせざるを得なかったのであった。
因みにイーリオはといえば、何故か彼女を、一切止めようとしなかった。
「シャルロッタがそう言うなら、大丈夫だよ」
それでいいのかとむしろ周りが呆れるくらい、心配もしていない。彼女の神秘を知っているからなのか、それとも彼にしか分からない何かがあるのか――。
とはいえ、あの強力な加護を与えてくれた〝銀の聖女〟が目に見えて前線にいる事で、霊獣王軍の士気が否応なしに上がったのも事実である。
聖女様がいる!
我らと共に戦ってくださる!
だが、これほどまでに自軍の状況が昨日と違っていても、それでも――。
連合の騎士らの目の前に広がる、長城の如き黒黒とした群れ。
それを目の前にするだけで、連合は圧倒されてしまう。いや、はっきりと恐怖の方が勝っていた。それも昨日の戦いよりも、もっと色濃く。
皆、歴戦の勇士である。
国家騎士団の精鋭も多数いる。
それにここにいる彼らは、少なくとも昨日あれらと戦い、生き延びたのだ。――いや、一度戦ったからこそ、尚の事恐ろしさに凍りつくのだろう。
恐怖そのものとも言えるあの軍勢と、また戦わねばならないのか……と。
どれほど心強さが増そうと、どれだけ鼓舞されようと、一度味わった絶対的な死と破壊の絶望には、勇ある鋼の意志すら砂で出来た城にしてしまうのだ。
神話の騎士がいるというのに――。
神の騎士団までいるというのに――。
銀の聖女もいるというのに――。
それでも勝てるのだろうか……? 王都を守りきれるのだろうか……?
そんな言い知れぬ不安が、味方の中で無言の影を落としていた。
けれども戦いは、そんな思いに配慮などしてはくれない。
両軍の戦意は、待ったもなしに徐々に膨れ上がっていく。開戦の狼煙は、いつ上がっても怪訝しくない。
そんな中、霊獣王軍の中で最前線とも言える突出した位置のイーリオ達も、味方の不安を敏感に感じ取っていた。
「お前ぇ、味方の総大将なんだろ。何か一丁ぶちかましたりしねえのか?」
イーリオの横にいるドグが、己の相棒に問う。
「僕はレオポルト陛下みたいに、強い言葉で励ましたりなんて柄じゃないからなぁ。頑張って、ぐらいしか言えないよ」
「まあ、お前はそうだろうなぁ」
「でも、僕なりのやり方なら、出来る事だってあるよ」
以前のイーリオにはなかった、何かを感じさせる瞳。
――こいつって、こんな底の見えねえ奴だったっけ?
思わずドグがまじまじと見返していた。
不意にイーリオが、ディザイロウと共に前に進み出る。
単騎で、前に。
迷いない足取りで、敵軍に向かって歩きはじめたのだ。
「何を……?」
目にしていた誰もが、イーリオの突然の行動に驚いた。だが制止の声もかけられない。
そんな迫力が、緑金の髪色をした青年から放たれていたのだ。
ハーラルやレオポルトといった諸王すら、ただ固唾を飲んで見ているだけ。
当然、敵にもその姿は見えていた。
これを目にしたファウストは、怒りのあまり額の血管から血が噴き出そうなほど、顔を歪ませている。
そして両軍の丁度中間地点に立った時――。
イーリオは片手を前に出し、招くように指を動かした。
かかってこい――。
物言わぬ挑発。
相手への、最大の侮り。
かかれ! と言ったわけではない。
誰も、ファウストですらも命令はしていない。
けれども申し合わせた様に、敵軍が一斉に突撃をした。
前に――。ただ目の前の一騎に向かって。
侮辱をしたイーリオを嬲り殺しにするべく。
弾かれたように、これを受けて霊獣王軍も突撃を開始する。
しかし一歩出遅れたのは目に見えて明らか。指揮を執る者が叫ぶ。霊獣王を守れと。だがどう考えても敵の方が早い。
鎧獣騎士である角獅虎の速度は、時速にして六二マイル(約一〇〇キロ)を軽く超えているのだ。イーリオまで、もうすぐそこ。
しかし挑発行為をした当の本人は、動じるどころか落ち着き払ったもの。
「白化」
金色混じりの白煙が、柱となって立ち昇る。
白銀の人狼騎士の出現と、数えきれない魔獣がそれを襲ったのがほぼ同時。
敵も味方も、息を呑んだ。
が、視界が歪む。
音ですら、出遅れていた。
衝撃波が津波のようになって戦場を広がった時には、数えきれぬ角獅虎の、その何倍もの数の魔人獣が吹き飛ばされた後だった。
ディザイロウは――
剣を構えていない。戦闘体勢ですらない。
何をしたのか視えていたのは、ほんの数騎のみ。
人狼が行ったのは、片手でひと薙ぎ払っただけ。
しかしそのひと薙ぎは、瞬きのような目に見えぬほどの一瞬、白銀の巨腕を出現させ、全てを打ち払ったのだ。
その結果、白銀の人狼騎士の目の前には、漠々たる景色が広がっている。
敵の死体すら、遠くに吹き飛ばされて見えもしない。
戦闘がはじまったと思った直後、全ての動きが凍りついていた。
イーリオ=ディザイロウの、あまりに計測不能な力によって。
やがて彼が、声に出して言った。
豪将の大音声でもなければ、君主の魅了する通りの良い声でもない。
普通の男性の声。
ただし戦場という異常な環境において、普通の声色こそ、むしろどんな声よりも異質なものであったのだが。
「さあ、来い。――何なら僕が全部、相手をしてもいいよ」
今度は人狼の指で、かかってこいの挑発。
けれどもすぐには敵軍も動かない。いや、動けない。
爆発したのは霊獣王軍の大歓声。
王都防衛戦の二日目が、こうして幕を開けた。




