第四部 第六章 第四話(1)『天幕怒号』
ヘクサニア軍の王都襲撃を撃退した、その夜。
戦い疲れた騎士達がそれぞれの一夜で体を休める、或いは癒す一方で、むしろこの夜こそが彼らにとっての戦いだと言うべき者達もいた。
例えばそれは、錬獣術師や調整師といった者達。
彼らは鎧獣の治療や補修で一睡もせずに働いていたし、それ以外にも輜重部隊や整備部隊らも次の戦に備えて忙しなく立ち回っていた。
傍から見れば、まるで大きな催しの前夜のような騒ぎである。ただし祭りというには、あまりにも血生臭く凄惨な前夜祭と本祭ではあったが。
そんな中、その混乱にも近しい騒がしさの渦中にあって、異質な存在がいた。
連合の総指揮官であり、この王国の盟主であるレオポルト王より正式に客将と認められ、また王都の危機を救った英雄としても認知されたアルタートゥムのロッテと、団長のオリヴィアである。
彼女らは、傷付き負傷した鎧獣達を診てまわり、その都度、治療と修繕の手助けや助言をしていたのだが、それらが信じられないほど的確かつ未知の処置であったのだ。
それも、まるで実った果実を見て回る農夫のように、次から次へと目まぐるしい早さで、しかも完璧以上の指示を行なっていたのである。
あまりの手際の良さと信じられない知識量に、指示を受けた錬獣術師らがすぐに尊敬の念を抱くほど。
言動や肩書き、社会的地位でもなければ金銭でもなく、純粋な〝知〟によって彼らを心底から敬服させたのだ。
とはいえ、当の二人はそんな事すらどうでもいいという感じであったが。
「貴女がたの知識、技術、本当にどれも感動しました。まさか灰化焼けの治療にあんな方法があったなんて……。それに薬肉餌を使った部分蘇生だなんて……思いもよりませんでした。本当にすごい!」
ロッテの教え――というか一方的な指示だが――を受けた錬獣術師の一人が、感動のあまり興奮気味に感謝と感激を口にする。けれども、それを受けた当の本人は「そうか」と笑みも浮かべず返すのみ。
それでも感動の言葉はあちこちで止まなかった。
「そんな、ご謙遜を……! 貴女がたがいなければ、これほどの数を、こんなに短い時間で治せなかったでしょう」
「そうです! 貴女がたは、まるで古の三賢人のようです。いや、三賢人どころかその師である錬獣術の始祖、錬獣術の神とも言われるアウグストゥスのようだ……!」
「ああ、まさに現在のアウグストゥスだ!」
三賢人とは、古のガリアン超帝国の初代皇帝ロムルスに仕えたとされる〝最初の錬獣術師〟――アダム・ノヴァ、マルキアヌス・ゾシアス、ラシス・ハイヤーンの三人の事だ。
ちなみに三人目のラシス・ハイヤーンは、アンカラ帝国のあるユムンの地にも深い繋がりがある。帝国の皇帝であるセリムが鎧化する際に被る仮面は、そのラシスが被っていたとされるものであった。
とはいえやはりと言うか、その錬獣術師の称賛にも、ロッテはつまらなさそうに生返事をするだけ。
「それがどうした」
「どうしたなど、そんな……我々は感激しているのです! その、もしよろしければ、この戦いが終わった暁には、是非貴女様がたの教えを請い願いたく存じます」
「戦いが終わればボク様達は帰るだけだ。――それとな」
だがこの生返事ですら、彼らの予想を遥か超えたものであった――。
「三賢人の師・アウグストゥス・トリスメギストスとは、ボク様の事だからな。アウグストゥスのようだという言い様は、そもそも間違ってる。ライオンを見てあのライオンはまるでライオンのようだと言うぐらい、阿呆な発言だぞ」
「……は?」
「アダム達三人に錬獣術師を教えたのは、ボク様だよ」
言っている意味が理解出来ず、その場できょとんとなる王国の錬獣術師たち。
やがて膨大な数の治療とその指揮をあっという間に済ませた後、ロッテらは自身の鎧獣らに対しても、何かの処置をはじめていく。
この時ばかりは、皆のいる同じ処置室でも厩舎でもなく、別に与えられた個室でそれを行うようだった。
ロッテは先ほどと同じように、淡々と且つ手際良く四騎の内三騎までを診ていく。オリヴィアもそれに対して口出しはしない。ただの確認作業である事は、百も承知だったからだ。
しかしドグの駆るサーベルタイガー、大剣牙虎の〝ジルニードル〟の番になると、さっきまでとは違い、鎧装備を外して念の入った診断を行っていった。
「どうだ?」
後ろから眺めるオリヴィアが様子を尋ねる。何の様子かは言わずに。
「うん……漏洩はない。上手く〝隔離〟出来ているようだ」
「〝本番〟でもか?」
「ああ、問題ないだろう。〝スイッチ〟はお前に持たせる。しかしいいのか? 確実にお前――」
視線を後ろに巡らしてロッテが見つめるも、オリヴィアは肩をすくめるようにそれを否定した。
「今回の戦い、千年前とは何かが違う」
「何かとは?」
「それはまだ分からん。だがオレの〝魂魄〟が告げている、それをな。そしてそれが何なのか分かった時、運命を決める分岐点になるのはオレ達じゃあない」
オリヴィアの言葉に、ほんの少しだけ沈思するロッテ。
「まあいいだろう。アンタがそう言うんならな。ところでニーナの奴、〝欺瞞の橋〟はどうだと言ってた?」
「ああ、確認したと」
「で?」
「間違いない、あれは違う。星の城への位相転送装置である〝欺瞞の橋〟ではない。あれは、アート・エポスの仕込んだ――〝門〟だ」
「六つの地獄の七つ目の天国……。天国へ至る階段か。となると」
「例の女神の石板もここにあるそうだ。何でも、少し前にエポスらのいるヘクサニアの首都からかっ攫ってきたと言っていたが」
「十中八九、奴らが仕向けたな」
オリヴィアが、無言で首を縦に振る。
「しかしまだよく見えんな。奴らの目当ては座標の巫女と、この地の欺瞞の橋だったはず。しかし巫女を奪い返そうという動きもなければ、欺瞞の橋も偽物。実際は〝非個性の奏者〟では利用不可能な天国の門で、しかもそれについては奴らも知っていてわざとだという節さえある。……一体、何が狙いだ?」
ロッテの独言に、オリヴィアも考え込んだ。
「最悪のシナリオでいけば直接介入という事になるが、それは考えられん。オレの仕込みのように、抹消されて終わりだからな。だがどう考えても、ただの無茶な征服計画――なんてオチでない事だけは確かだ」
「だからこその……か。まあボク様は最後まで見届けてやるよ。ニーナも分かって行ったんだろうし、アンタだって、だからこんな事をしてる」
「頼もしいよ」
「ハッ、アンタがボク様を労うなんて、それこそ千年ぶりだろうか。それだけでも千年分のやり甲斐があるってもんだ」
皮肉めいた口調でロッテが笑い飛ばし、再びドグのジルニードルに向き直る。
だが、ここまできてどうにも不明瞭になるエポス達の目的に、一抹の不安を覚えざるを得ない二人でもあった。
※※※
「この痴れ者ッッッ!」
激しい罵倒と共に浴びせられた打擲で、呂羽は上体をよろめかす。
メルヴィグ王都より離れた盆地に宿営をするヘクサニア軍の、ここは本営内。
天幕仕立ての仮置きとは思えぬ、黒と灰色を基調とした華美な装飾が施された王の幕屋での出来事。
怒りに震え、目を血走らせているファウスト王の前には、五名の十三使徒が起立して並んでいた。エポスである者を除いた、十三使徒の総勢である。
その中で筆頭とも言える第五使徒の呂羽が、敗軍の責を問われてファウストの怒りを浴びせられていた。
彼は己でファウストに献策し、虎の子の後軍を率いて王都攻略を買って出たにも関わらず、何の戦果もあげられずに敗走したのだ。責任があるのは間違いなく呂羽だったし、非難されても言い訳のしようがないのは事実だった。
とはいえ、イーリオやアルタートゥムの参戦という予想外の出来事がなければ、ヘクサニアが勝利の祝杯をあげていたのは間違いなかっただろうし、そこまでの責めを呂羽一人が負うものなのかという疑問は拭えない。
そういった感情が残り四名の十三使徒達の顔にありありと浮かんでいたが、王の剣幕は凄まじく、誰も何も言えなくなってしまう。
それほどの王の荒れ様に、皆が戸惑った。
元々ファウストは、激昂しやすいというか感情的な性質であり、玉座に就いてしばらくはところどころにその気質があらわれていた。その事は誰もが知っている。
けれどもここしばらくは彼にも王器が備わってきたのか、二万の軍が敗れた時やそれ以外の部下の失敗にも寛容さを示してきたのだが――目の前の彼には、その欠片も伺えない。
むしろ以前よりも感情的に呂羽をなじり、打ち据えているように見受けられる。
が、打たれる呂羽の方も、頬を腫らし口の端から血の糸を垂らせようと、まるで動じた素振りを見せていない。
己の主君を見つめる目は、氷よりも冷たかった。それどころか、吠える飼い犬を冷たく見つめる飼い主のようで、無機質さすらある。
それが尚一層、ファウストの神経を逆撫でしたのは言うまでもなかった。
更なる殴打の制裁を加えようと、ファウストが拳を振り上げた時だった。
ここで唐突に、呂羽が声をあげる。
「我に責があるのはご尤も。されど一つよろしいでしょうか、我が王よ」
たじろがず、むしろ威圧しているようですらある西方出身の偉丈夫の迫力に圧されたか、思わずファウストが、挙動を止めてしまう。
「予想もしていなかった事態――そういった言い逃れを申すつもりもありませぬが、あの場はまさにそれでした。その事は陛下も重々ご承知のはず。それを無視するのは、夜空に浮かばぶのは皿で月ではないと言う様なもの。ならば、私はあの場で退散するのが最も上策であったと考えております」
「何をぬけぬけと――」
「謎の介入者は、戦力も何も未知数の敵。それだけにあのまま攻めていれば、こちらの被害も相当なものになっていたのは自明の理。幸いにも、敵が減らした我が軍の数は一万にも満たぬ数です。それだけならば、かすり傷以下も同然で済んだと申せましょうや」
「一万以下ならばいいだと……?! 被害を抑えたとほざくかっ。貴様っ、兵家とも思えぬ妄言を!」
再びファウストが呂羽を打った。
しかし呂羽は、前以上に揺るがなかった。その威圧に、打った王の方が気圧されてしまう。
「私はドン・ファン卿、それにイーヴォ師より承っております」
突然の名前に、ファウストだけでなく他の使徒も、何の事だと疑問を浮かべる。
「お忘れですか、陛下。我が軍は死者を喰らい、益々以って力を増す事を」
どういう意味だ――。
そんな目で呂羽を見たのは、他の十三使徒たちだった。
それとは別に、忌々しさを噛み殺したような表情を浮かべていたのが、ファウストである。
「角獅虎に紛れた竜人――。あれらは殺した者の命を吸い取る役目。その命が我らの尖兵になる事、私も聞き及んでおります」
魔獣の群れの中にあの不気味な怪人どもが混ざっていた事は、当然ながら他の十三使徒も知っていた。しかしその役目までは知らされていなかった。
だからこそ、何を言っているのだという声も上がる。
「他の者は知るまい。此度の進軍にあたって、陛下が補給の心配はいらないと言った理由、それがこれだ。あの竜人どもは殺した相手から命を奪い、そこから次の竜人や灰化人、それに角獅虎どもを生み出しているのだ。それは味方の死についても同じ。つまり攻めれば攻めるほど、我が軍は自動的に〝補給〟を受けるという仕組みになっているのだ」
意味を咀嚼するのに、これほど時間を要した説明もなかったであろう。
確かに角獅虎もその駆り手らも不気味で異形、得体の知れなさは尋常ではなかった。
けれどもまさかそれが、人の命を糧にして生み出されていたものだとは、想像だにしていなかった事である。
エドガー、サイモン、オリンピア、サリ――。
使徒の生き残り四人共に一癖二癖もある人物だし、全員、生粋純潔の騎士というわけではない。下手をすれば社会に爪弾きにされた者だとも言える。
だから大抵の事は呑み込めるし、騎士道だとか人倫などと言われても鼻で笑うような人間達であるのは間違いない。
しかし、死者の命を化け物に変えるなど――。
果たして許される事なのだろうか?
倫理観がどうだと言う気はないが、どうあっても超えてはいけない線というのがあるとするならば、それはこれではないのだろうか。
四人が共に、戸惑いを隠せなかった。
「前の侵攻に合わせ、此度はジェジェンを攻め落としたというのもございます。それもこのためのものでしょう。つまり単純な足し引きで考えれば、受けた被害よりも我らの得た〝戦果〟の方が圧倒的に多くなりましょう」
「その見極めが、あの時の撤退という意味か」
「御意」
本日の戦いにおいて撤退したあの時、あそこで退却していなければ引き際を見誤り、生産数より被害数の方が上回った可能性があるかもしれない――。
それを呂羽は言っているのだ。
しかし分かっていて尚、ファウストは己が退いたという現実を許せなかったのだ。そのように導いた呂羽の事も。
だがそんな王の考えや感情すら読んだ上で、呂羽はくどいように言っている。退く事が最善手だったと。
ぎりぎりと歯軋りの音が、天幕内に響いた。
ファウストの感情が漏れ出たもの。
分かっていた。ファウストもそんな事は分かっていた。
分かっていながら、誰かに矛先を向けねば怒りが収まらなかったからだ。許せなかったからだ。
撤退した引き金。
それがあの、イーリオとザイロウだったなど――。
決着はついたはず。もう二度と立ち塞がる事はなくなったはずの相手。
それが再び目の前にあらわれたのだ。
最早ファウストにとって、悪夢以上におぞましいものに見えただろう。
どれだけ己の激情を鎮めようとしても、鎮まるものではない。だから彼は言った。
「退がれ」
一瞬、誰に対しての命令であったのか、十三使徒達が戸惑う。
「全員退がれ」
今度は苛烈に、だがそれでも必死で何かを堪える様に、ファウストは言った。
幕内にいたファウストを除く全員が、慌ただしく退去する。
呂羽は殴られた己の頬をさすりながら、後ろになった天幕を一度だけ振り返った。
王からの謝罪の言葉はなし。だがそんな事はどうでも良かった。
殴られた事も、痛み同様に彼はあまり気にも留めていない。
それよりも重要なのは、今の状況だった。
こんな中にあっても十三使徒の上位階者、エポス達は誰一人として姿を見せていない。おそらくだが、今の状況は彼らも知っているだろう。にも関わらず、返事どころか何一つ反応すらないのは、完全に放置していると考えて間違いない事だった。
――見極め時だな。
呂羽の心に、暗い決断の火が灯る。
大陸中の国々を渡り歩いてきた異国の戦士の本当の目的。それを為すべき時なのかもしれないと。
またそれとは別に、半ば追い出される様に天幕を後にした四名の十三使徒も、今の話に動揺を隠せないままでいた。
果たして自分達は、神の名のもとで血生臭い善を行う者達なのか。それとも、聖なる異形を率いる悪の手先なのか。
彼らからすれば、善でも悪でもどちらでも良かったのだ。
ただ、社会に身の置き場のない自分達にも、己の価値と快楽が得られるならば、それで――。
だがそれは悪い意味において善悪のどちらでもなく、いや、それどころか善悪すらも尻込みするような忌むべき行いに加担する者になっていたのだとしたら――?
答えを見出せないまま、四名は己の天幕のある闇の中へと消えていった。




