第三章 第七話(3)『人猿殺手』
カプルスの駆け出す速度は、流石に早かった。
ザイロウとジャックロックは、よく心得たもので、そのまま追おうとせず、イーリオとリッキーに付き従うが、既にカプルスの姿は影も形も見えない。
おそらく心配はなかろうと考えたリッキーは、屋敷の門番が制止しようとする声を、その風貌と、二体の鎧獣で竦み上がらせ、また、覇獣騎士団 次席官の名をもって、堂々と払いのけていった。
「な、何事ですか? こんな夜中に、一体どんな権限があって、この屋敷に入って来られるのですか?!」
口々に押しとどめようとする用人や衛兵達。だが、リッキーは意にも介さない。
「オレぁ、覇獣騎士団、弐号獣隊・次席官のリッキー・トゥンダーだ! ここにオレの連れと、トルベン卿殺害の容疑者が匿われているという情報があり、あらためさせてもらう! 文句なら、事が済んでから言え」
殺人犯がいる、という言葉に、イーリオとリッキーを除く全員が凍り付く。
「そんな! そのようなお話、我々は聞いておりません!」
その内の一人が、勇を奮って声を上げた。
「バーロー! 先に言うわきゃねーだろ、こんなハナシ。とにかく全員下がれ! 邪魔する奴ぁ、俺のジャックロックが引っ掻いてやるぞ」
ジャガーが爪を出したら、引っ掻く程度では済まないだろうと、イーリオは心中で思うも、この威嚇はその場の全員を支配するには充分な効果があった。二人を囲む人だかりが、潮が引くように道をあけていく。屋敷の中に踏み込んだイーリオ達は、手分けしてドグの行方を探す。
リッキーは一階を。イーリオは二階に、ザイロウと共に駆け上がって行った。
イーリオが、二階の部屋を片っ端から探って行くと、ある部屋の扉の前、開けようとする刹那、いきなり殺意の塊が扉を切り裂きながら、ぶち破るように、彼の喉元を掠めていった。
瞬時に仰け反ってこれを躱すと、破壊された扉の向こう、そこに広がる居間のような空間の入口に、黒い影が両肩を揺すって佇んでいる。
珍しい、猿の鎧獣騎士。
イーリオ達がマクデブルク城塞に着いたその日、砦に夜襲をしかけたという、大型チンパンジーの鎧獣騎士の事が咄嗟に脳裏をかすめる。おそらく同じ手合い。右手には授器らしき短剣を、逆手に把持している。
――なら、躊躇っちゃいけない!
鎧化する前に相手を制してしまおうとするのは、素人でもわかる鎧獣騎士戦の定石だ。すぐさま「白化」の声をあげ、ザイロウをその身にまとう。
以前、シャルロッタより、彼女の光の補助がなくとも鎧化が可能になった事を教えられている。獣能は使えぬらしいが、通常の鎧獣騎士としても、充分以上にザイロウは強い。
人猿に向かい合う、白銀の人狼騎士。
黄金の眼差しが、獲物の力量を量るように光を帯びる。
相手も初撃を躱され、鎧化を阻止出来なかったのが、驚きだったのだろう。こちらの出方を伺うように、その身を左右に揺すっていた。
間合いを見計らいつつ、己の周囲に気を配る。大丈夫。落ち着いている。氷のように、己の頭は冴えていた。それでいながら、沸々と狼の血が沸き立ってくる。今まさに、自分はザイロウという大狼の力と体を、その身で実感しつつあった。
突如、掻き消える、人猿。
だが、ザイロウの五感は、これを的確に捉えていた。
上だ。
天井を蹴って、縦に攻撃を繰り出してくる。
ウルフバードでこれを受け流すと、滾る獣性を、牙となって解放させる。
交差するほんの刹那、ザイロウは咬撃を繰り出す。まるでイーリオ自身の口蓋が、狼の口吻となったかのような錯覚。その同期による、人獣ならではの一撃。
人猿が身を捻り、ザイロウと距離をとる。だが、着地するも、たたらを踏んでよろけてしまう。それもそのはず、片足がなかった。ネクタルの光粉が混じった、鎧獣特有の血液と、おそらく騎士自身の血液が混じり、床に毒々しくも光の粒が反射する濃赤色の液だまりを形作っていく。
人猿の片足は、ザイロウが咥えていた。
すぐさまそれを横に吐き捨てると、再び身構える。
残酷で野卑な戦いのようだが、これが鎧獣騎士の戦闘の一面である。
咬む、噛み付く。
裂く、潰す、千切る。
こういった行いを野蛮すぎるというのなら、そのような人間は、騎士に向いてないといえるだろう。無論、そんな戦い方が嫌で、騎士を断念する者も多いという。血を見るだけで倒れる人間もいるというのだから、無理もない。
だが、こういった野生混じりの争闘を、自身の野生と同調して行える者でなければ、正しく騎士たるべき士にはなれなかった。
ただ、粗野で野蛮な戦い方でもいけない。
洗練された野生というべき姿。
それこそが、騎士の本質。
選ばれた人獣の騎士であった。
一方、イーリオの頭は冷静だった。
視えている。思いのほか、はっきりと。敵の急激な動きも、予備動作なしの攻撃も、はっきり感じとれている。今までは、人間である事の癖で、つい自分の視力のみで敵の姿を追っていたが、リッキーとの訓練のおかげで、自身の感覚の大部分を、ザイロウに〝合わせる〟事が出来るようになっていた。
元々、イヌ科の視力はそれほど良いわけではない。いわゆる一般に言われる視力というのは、止まっている物に対しどれだけ焦点が合って見えているかを計る〝静止視力〟を指すのだが、イヌ科の静止視力は、近眼の人間と同じ程度しかない。場合によっては、もっと悪いものさえいる。
だが、動く物体を認識する動体視力と視界の広さは、人間の比ではない。
しかし、その視覚よりももっと特筆すべきなのは、イヌ科ならではの嗅覚である。
それらイヌ科の感覚を、自身の感覚と、より同調させる事が出来るようになり、イーリオの動きは格段に良くなった。勿論、今までだって、鎧獣そのものが、感覚を閉じていたわけではない。駆り手である人間側、イーリオ側が、己の愛獣の感覚に、慣れていないだけである。中には一生慣れないままの騎士とているという。それもそうだろう。獣の感覚に慣れろといって、はいそうですかと体得出来る人間の方が少ない。
だが、錬獣術師の息子として、長年鎧獣と親しんできた経験と、リッキーの修練により、わずか数日でイーリオは、この〝感覚〟を掴みはじめていた。とはいえ、未だ初心者の身である事に変わりないイーリオであるが、それが何故にこうも鮮やかに、敵を圧倒出来ているのかというと、それはやはり、ザイロウという、規格外れの鎧獣によるところが大きかった。イーリオもそれが判っている分、己の修練の成果に手応えは感じつつも、過信せぬよう気を引き締める。
だが、片足を失った人猿の鎧獣騎士には、どう見ても勝機があるように思えなかった。それでも何かに取り憑かれてでもいるように、人猿は片足だけで跳躍をかけ、捨て身の一撃を繰り出す。
破れかぶれの玉砕だ。
イーリオは、これを冷静に見極め、一刀のもとに斬り伏せた。
時間にして、ほんの僅かな間、数瞬程度ではあったが、しばし、イーリオは斬り伏せたままの状態で気を張っていると、今度はすぐさま先ほど入ろうとした部屋へと足を踏み入れた。だが、そこには誰もいない。部屋をぐるりと見渡すと、奥の方が外階段に繋がっている。
――あそこか。
万事察したイーリオは、人狼騎士の姿のまま、外階段へと向かっていった。
階段は下へと続いており、降りた先には小狭な中庭があった。
階段の上に立ったイーリオは、そこに二つの人影を確認する。
大狼は、視力が良くなる鎧獣ではないものの、夜目は人間とは比較にならない。二つの人影が、小庭にある裏門の一つから外に出ようとしているのははっきりと視認出来た。階段の天辺から跳躍して飛び降り、「待て!」と誰何する。
立ち止まる二人。
既に門のところにその身はあった。
もし、レレケが連れ去られようとしているのであれば、当然取り返すまでだ。そう思って、重ねて問いつめる。
「お前達、そこで何をしている?」
まるで、憲兵にでもなったかのような台詞。だが、そんな気恥ずかしさを考えている余裕、イーリオにはなかった。二つの影は身じろぎして、その内一人が前に出た。
黒髪の男。スヴェインだ。
呼び止められて逃げ出すかと思いきや、予想に反してこちらに近付いてくる。
「何と……、まさかまさか! こんな所に何故?! いや、それはどうでもいい。こんな状況で、報告の〝ウルフバード〟を間近で見れようとは! 何たる僥倖か!」
興奮気味に語る声。問いつめたはずのイーリオが、思わずたじろいでしまう。何だ、この人? どうして、ウルフバードを知っている? イーリオの動揺もお構いなしに、こちらへ近付こうとするスヴェインだが、その肩をもう一つの影が掴んだ。
「司祭、いい加減にしろ。これ以上手を焼かせるな」
若い男の声。違う、レレケではない。ではレレケはここにいない?
スヴェインは恨みがましそうに、もう一人の方を振り返ると、「わかっている」と、素直に応じた。
もう一つの影が、スヴェインを下がらせ、代わりに前に出てくる。
月明かりに照らされたその相貌は、男のイーリオでも、思わず溜め息が出る程の美麗なものであった。
黒髪はスヴェインのように長く波打っておらず、たなびく黒い絹のように輝き、蒼味を帯びた黒い瞳は、まるで深海から汲みとった宝石で出来ているかのようであった。白皙無髯にして字義通りの眉目秀麗。声を聞かなければ、絶世の美女かと言われても頷いていたであろう。
だが、思わずイーリオは後じさってしまう。男の美しさに対してではない。
――何だ? この感覚は?
背筋に冷たいものが流れる。
男は確かに美しい。だがそれは、例えるなら悪魔と契約した、妖気を孕んだ美しさであり、何より男の纏う空気が、まるで氷のような冷気を漂わせていた。 氷の皇太子ハーラルの放つ雰囲気とは違う。彼のそれも、冷徹で無慈悲なものであったが、王者然とした一種の気高さがあった。ならば黒騎士か? いや、彼の放つ気も底知れず不気味であったが、この男のような妖気はなかった。
そう、妖気。
まるで獲物を睨む蛇のような、相手を凍り付かせる妖気を、男は全身から滲ませているように感じられた。
美公子は、白銀の人狼騎士を前にしても、いささかも怯む色もなく、むしろ品定めでもするかのように、しげしげと見つめている。
「お前、ここに来たという事は、もう〝シンミア七〟と〝八〟を倒したという事かな? なかなかやるな……、と言ってやりたいところだが、あれは所詮、文字通り〝消耗品〟だからな。残念だが、何匹倒したところで何の査定も出来はせんか……」
男が言ったのは、先ほどの人猿の鎧獣騎士の事だろう。それをして、〝消耗品〟とは、どういう意味か?
その声までもが蠱惑的。神を誑かす、夢魔のようだ。
「見た所、メルヴィグの鎧獣騎士ではないな。どこかの雇われ者か? いずれにしても、これ以上の騒ぎは我々も望まん。置き土産を聞かしてやるから、ここを去れ」
詰問をはじめたのはこちらなのに、いつの間にやら相手の調子に巻き込まれている。駄目だ。こいつらをここで逃がしてはいけない。イーリオはそう直感した。この男の声を聞いてはいけない。こいつらはただの犯罪者だ。だが、男の言葉は、悪魔の囁きのようにとめどなく耳に流れ込んでくる。
「我々の名は、〝灰堂騎士団〟。女神オプスの忠実な下僕にして、その先兵。いずれ我々が、この国を悪しき王より取り戻す。もし、メルヴィグの連中に会ったら、そう伝えておけ、わかったな」
悪魔の声音で、破滅の歌詞を、その男は唄うように言い放った。




