第四部 第六章 第三話(3)『魔軍撤退』
ところ変わり、今度は最も激戦区となっている王都西部。
つまり王都攻防戦全体の位置関係で言えば、中央の戦場。
ヘクサニア軍の陣容が最も厚い場所であり、だからこそセリムやヤン、ジョルトにクリスティオらといった面々もここに展開していた。
しかし先ほど届いた聖女の声と加護の恩寵もあって、勢いは明らかに連合側へ傾いている。上述した連合の諸王らの活躍も、それに更なる拍車をかけていた。
当たるを幸いに、次々に敵を蹴散らしていく彼ら強者。
そもそも聖女の加護が齎される前から、彼らだけは互角以上に角獅虎の軍と渡り合っていたのだ。そこへ銀の聖女シャルロッタの加護により武装が強化されたのである。今や、魔獣が百来ようと千来ようと、実に容易く敵を薙ぎ倒せるようになっていた。
しかしそれでも多勢に無勢。相手が動かぬ草切れならばともかく、恐ろしい生きた兵器であれば、いくら己や自軍が強力になってもどうにもならない差というのはある。
ましてやこちらの反撃が強くなった事で、むしろヘクサニア軍は自棄になったように数に任せた突撃をかけてきた。
数に呑まれる――。
軍勢という質量に潰される――。
こちらは数千。相手は一〇万。
一〇倍以上の兵力差には、言葉にする以上の圧倒的なものがある。
こちらがどれほど強化されても、数という単純さだけで押し切られれば手も足も出なくなってしまうもの。
最早それは破壊を前提とした、生きた津波とでも言えそうだった。
防御線が破られる――。
遂に連合軍が、そうなりかけた時だった。
天地が、逆転する。
戦いの天地が。
目の前の大軍が、牙が、爪が、ツノが――ありとあらゆる破壊の顎が――。
〝何か〟によって、反対に噛み殺されていたのだ。
魔獣単体ではなく魔獣の軍勢、群れのそのものが丸ごと千切られ、吹き飛ばされていた。
時が止まったように、唖然となる連合軍。
最前線にいる内の一人、クリスティオが、思わず「何だ?」と声を漏らすも、その彼の耳に囁き声。
「助けてやんぜ、キザな王子様」
思わず振り向く。しかし何もいない。
いや――急いで巡らした視線の先。敵軍の渦中、その真っ只中。
そこに白とオレンジ色の鎧が輝いていた。
――誰だ。
見慣れぬ人獣騎士。けれどもその背中の佇まいだけで分かる。
あれが味方だという事ではない。只者ではないという事が。
白とオレンジが跳躍した。
手に持つは奇妙な形状の巨剣。
それをが振るわれるたび、単騎ではなく複数騎、それも二桁単位の魔獣たちが肉片となっていく。
けれども人ならざるモノが駆る角獅虎なのだ。こんな障害など押し潰してしまえとばかりに、倍以上の数でたった一騎へ殺到した。
さながら噴火した火山口のとでも言おうか。つまりは絶対不可避の死。
ところが、間近に迫る絶体絶命を前に、白とオレンジが立ち止まった。
そこではじめてクリスティオの目に、人獣の容貌がはっきりと見えた。
それは巨大なサーベルの如き牙を持った、大型猫科猛獣のもの。
「〝最強の牙〟」
動きを止めた白とオレンジが片腕を振るう。
その動きと共に、空間に巨大な猛獣の頭蓋が現出した。
赤橙色の牙の塊。
それは巨大すぎるサーベルタイガーの髑髏。
魔獣が小鼠に思えるほどの巨大な顎が――比喩ではない、本物の顎が――目の前の大軍を、ひと息で咬み千切ってしまう。
破壊というよりまさに捕食。
後になって戦場を濡らすのは、雨と化し降り注いだ敵の血飛沫。
しかも幻出した巨大牙の咬合――その余波だけで、中央戦域の敵軍が暴風にでも出くわしたように、吹き飛ばされるほどの威力。
あまりの現実味のなさに、クリスティオは息をする事さえ忘れていた。
「今度は俺の足を引っ張んじゃねえぞ、バカ王子。……いや、今は王サマか。ま、どっちでもいいや」
白とオレンジから聞こえた声。聞き覚えのある声だと思った。
けれども目の前の鎧獣騎士を、クリスティオは見た事がない。
巨大な牙を持つ、サーベルタイガーなど――。
だが、いずれ彼も驚くだろう。一度だけ共に旅をし、共闘までした盗賊の少年が、この〝牙〟の駆り手だと知れば。
それと同じくして、ほど近い場所でも別のサーベルタイガーが百単位の敵軍を薙ぎ払い、後退させていた。
白とオレンジの騎士も化け物じみていたが、こちらのサーベルタイガーは、もうそんな言葉ですら形容しきれないほどだった。
スミロンドン・ポプラトル。
最も巨大なサーベルタイガー。
しかし種別の希少さより目を奪うのは、全身に浮かぶ光の幾何学模様。
見る人によれば、真性鎧化をしたカイゼルン=ヴィングトールを連想したかもしれない。
そして肩に担いでいる、異形の大剣。
刃は直剣にも似ているが、異質なのはその柄の部分。
本来はあるはずの柄がなく、鍔に当たる箇所から伸びているのは円形の輪。
リングのようなそれを持ち、女性型のサーベルタイガーは長髪のように伸びた首周りの短いタテガミを、風になびかせている。
そこへ怯む事なく襲ってこようとする、魔獣の群れ。
既に数えきれない角獅虎が血祭りにあげられていたが、そんな事は歯牙にもかけない様子。
魔獣とその駆り手には、どれだけ狩られても尽きる事のない凶暴さがあるのか。
けれどもサーベルタイガーは動じない。いや、構えもしない。
数を増す大群を前に、巨剣を下ろすのみ。
やがてリングの左右を両手で持ち、おもむろにそれを――開いた。
閃光。
いや、衝撃波か。
ジャキン――という断裂音が戦場に谺したかと思えば、目に見える敵軍全てが、真っ二つに裂かれていた。
サーベルタイガーの騎士が、ゆっくりと巨剣の刃を――閉じる。
それは剣ではなかった。
それは巨大な――あまりに巨大なハサミ。
巨剣にも似た、分厚く重々しい両刃のハサミで、角獅虎を群れごと斬ったのである。
あまりに異形の武器。あまりに異質な刃。
まさに神の力か。
少し前にあらわれた北部の二騎と、中央部にあらわれた合計四騎のサーベルタイガーによって、戦局は大きく変えられていった。
そこへ唯一、確実に王都を陥落せしめんとしていた空の戦場も押されはじめ、更に虎の子であり必勝の策でもって攻めた南部の後軍までもが脱兎の如く逃げ出すという報せ。
これらの報告を受けたファウストが、己の耳を疑ったのも当然の事。
たった二月ほど前も二万の大軍が破られ、今度はその五倍の数で攻め、しかも全体の指揮を自分がとっているというのにまた敗北をしてしまうというのか。
信じられないとか信じたくないとか、そんな次元ですらない。
――一体何なんだ。何が起きているのだ。ここで!
謎の人獣騎士の襲来、敵軍の急激な強化、そして後軍を敗走させた巨大な光の壁。
何か得体の知れない見えざる力が、己の未来を妨げているとしか思えない。
ならばせめて自分自身、己だけはと、まだ倒し切れてなかったハーラルとレオポルトの二騎に、殺意を向け直す。
皇帝も王も、共に鎧は煤け、全身に水脹れや火傷の痕が痛々しく散見される。むしろ未だに焼き殺されていないのが不思議とさえ言えただろう。
ティンガルボーグとリングヴルム。
氷虎帝と獅子群王。
この二騎であっても、〝赤熱の鬣〟ベリィには敵わなかった。
それどころか、傷一つも付ける事さえ出来なかったのだ。
「貴様らの首を吊し上げれば、この状況も変わる」
ファウスト=ベリィが、苦々しさを噛み殺した声で呟く。
ティンガルボーグもリングヴルムも、勿論、聖女の加護は受けている。武装は強化されているのだ。にも関わらず、ベリィの力には、その怪炎を前にしてはまるで通用しなかった。
おそらくあらゆる異能の中でも、ベリィの炎は最大の攻撃力を持つ一つであろう。あくまで地上に存在した鎧獣騎士の中ではという意味であり、異世界由来のアルタートゥムらといった存在を除いての話ではあったが。
とはいえ、強化された皇帝騎士と王騎士の二騎がかりでも、ただ嬲られるが如しだったのである。
あまりにも桁違いの存在だった。
「首だけを残してやる。あとは消し炭となれ」
ファウスト=ベリィが炎を放った。
が、それは届かない。ハーラル達の目の前で、光と共に掻き消される。
――!
眩い輝き。
何が起きたのかと思い目を凝らすと、そこには人型の光があった。
白銀と黄金の輝き。
初めて目にする姿。
けれども一目で分かる。
「イーリオ……! イーリオなのか……?!」
白銀の人狼騎士。
幻狼の百獣王。
イーリオ=ディザイロウが二騎を庇う恰好で、ファウストの前に立ち塞がっていた。
シャルロッタの声とその後の変化で、ハーラルとレオポルトもイーリオの帰還には気付いている。けれどもその姿を直接目にすれば、思いはまた変わってくるもの。
「――遅いぞ、兄上」
ハーラルからの言葉。
それに振り返り、狼頭の口吻を笑みの形にするディザイロウ。
「ご免。待たせたね」
「ああ、本当にな。待たせすぎだ」
ハーラル達にとって、これほどの希望があろうか。
けれどもそんな彼らとは真反対、抑え切れぬ激情を噴出させようとしている両の目も、ここにはいた。
――馬鹿な。何故奴がいる?
信じられない。今度は己の目まで疑いそうになるファウスト。
――あの狼は、確かに俺が灼き殺した。この手ではっきりと。俺の目の前で。
再生? そんなはずはない事も知っている。
あのザイロウは、再生の出来ぬ個体だとエポス達から聞かされていた。そうでなくとも、神之眼まで灰になるほど、燃やし尽くしたはずなのだ。
なのに何故。
しかしそんな事などどうでもよかった。
それよりも堪え切れぬ怒りが、煮え滾るマグマのようにファウストの全身から吹き出さんとしていたのだ。
「イーーーリオォォォッッッ!」
イーリオ=ディザイロウが、ファウスト=ベリィに視線を戻す。
「何故貴様がいる。その狼と! 何故だ!」
「お前の思い通りにはさせないよ、ファウスト」
「イィィィィーーーーリオォォッッッッッ!!」
憤怒と殺意が、同時に噴き出した。
予備動作なし、激情のままに放たれた、最大火力の異能の炎。
大地をも燃やし、岩をも溶かす絶対の炎球。
いかなる者も抗しえなかった、灰の王の一撃。
しかし――さっきと同じ。
人狼はまるで露払いでもするかのように、片手でそれを薙ぎ払った。
そう――薙いで、払い、消したのだ。
あの業火を。地獄の猛火を。
あまりの呆気なさに、ファウストはもとより、ハーラル達ですら言葉を失ってしまう。
「な……に……?」
最前までの激情もどこへやら、ファウストも絶句していた。
そんな馬鹿な。俺の炎が消された――だと?
それもまるで、虫を払いのけるような他愛なさで。
そこへ、ファウストの思念に割って入る男の声。ヘクサニアの術者による、獣理術の通話であった。
――陛下! 聞こえますか陛下!
だが、返事が出来ない。
今目にしたものが、信じられなかったからだ。
――そこをどいてください、陛下!
まだ返事はしなかったものの、本能による直感なのか、肉体が声に反応した。
心を消し飛ばしたまま、後ろに跳躍するベリィ。
「〝再见最后武器〟!」
直後、夥しい数の剣や槍が、横殴りの雨霰となってディザイロウを襲う。
しかし人狼は、それすらも羽虫を払いのける無造作で、全て叩き落として見せた。
同時に、着地したファウスト=ベリィの前に降り立つ、古代虎の人虎騎士。
呂羽=夜叉だった。
「陛下、ここは撤退です」
青龍偃月刀を隙なく構え、目の前に最大限の警戒を向ける第五使徒の騎士。
呆然としたままだったファウストが、今の声でやっと我に返る。当然、更なる怒りに駆り立てられて。
「撤退……? 撤退だと?! ふざけているのかっ! 呂籍羽!」
「ふざけてなどいません。このままではいけないと判断したからです。最早我が軍は軍としての体をなしておりません。後軍は我が命も聞かずに敗走。北と中央も予想外の敵の援軍で浮き足立ち、被害を増やすばかり。このままでは沼に沈む泥舟と同じです。ここは一旦撤退し、全軍を立て直してから再度攻勢に打って出るのが最良」
「それがふざけている! これほどの――これほどの――」
これほどの軍で以って、こんな屈辱などあろうか。
もし口にしてしまえば、それは敗北を認めたも同じ。
だから呑み込んだ言葉を、ファウストは吐き気を堪えるように言い出せなかった。
「今のを見たでしょう、あの狼の力を」
「そんなもの、俺の炎で――」
「聞きなさい! ――いいですか、敵にはあの狼と同じようなモノが、まだ他にもいるのです。それが今起きている事態の元凶。その意味、陛下ならお分かりいただけるはずです」
びくり、と反応するファウスト=ベリィ。
不敵な異国の戦士。不遜さを隠そうともしない最強の一騎、それが呂羽という男。
超一流の戦闘者だが知謀の士でもあり、いかなる時も冷静さを欠かないのが彼である。そんな男が感情も露わに主君を諌めるなど、想像も出来ない意外な姿だった。
その熱にあてられたからかもしれない。
もしくは現実の出来事に無理矢理焦点を合わせられた事で、曇っていた王の目を覚まさせたのかも。
――フゥゥゥ。フゥゥゥ。
猛獣の目を血走らせ荒い息を何度も吐きながら、荒れ狂う感情を必死で鎮めようとするファウスト。
分かっている、呂羽の言葉は正しい。今最も取り乱しているのは自分だ。
しかも最悪の形で。
前を睨みすえる。目に映る、白銀の人狼騎士を呪い殺さんばかりの視線で。
「き――」
ファウストが何かを口に仕掛けるが、しかしそれも呑み込んだ。
これも口にすれば、それはどうやっても負け犬の遠吠えになってしまう。そんな気がしたからだ。
だからただ一言、
「もう一度殺してやる」
それだけを絞り出した。
いずれにしても捨て台詞である事に変わりはなかったが、彼にとっては呪殺の宣言と同じようなものだったのだろう。
後悔と憎悪をべっとりと足跡に残したまま、ファウスト=ベリィは呂羽に庇われる恰好で戦場から離れていく。
一方で、主君を守る忠臣の構えを取る呂羽だったが、こちらはファウストとは別の意味で、白銀の人狼騎士を見据えていた。
それが警戒なのか、殺意なのか。もしくは別の理由なのか。人獣ごしでは分からなかったが。
「身の振り方を決める時か」
誰に対してでもなく、それだけを言い残して呂羽も去っていく。
これを潮目に、連合軍にとって絶対の窮地からはじまった王都攻防戦の一日目が、遂に終焉を迎えたのであった。
予期せぬ結果。予想だにせぬ幕引き。
奇跡というにはあまりに神がかっており、神威というにもどこか現実的すぎる。そんな騎士と術者と――巫女の介入によって齎された勝利。
そう、正しくこれは勝利なんだと実感した時、誰ともなしに歓喜の咆哮があがりはじめる。
王都を囲む、至る所で。
そして王都中で。
勝った――。
我々は勝ったんだ――。
この終わりがまだ序章にすぎない事は、誰もが薄々気付いてはいただろう。何せ敵軍は、その半数も数を減らしてはいないのだから。
けれども今この瞬間を喜ぶ事は、どうか許して欲しい――。
そんな願いもまた、連合全ての思いだったに違いない。
ただそんな中にあって、複雑な思いを抱く者もいる。
仲間の死。家族の死。それに咽び泣く者達。
それらはどうしようもなくあるもの――。
その中には、敗北と生い立ちの運命に翻弄されるハーラルや、探し続けた兄とも慕う人を救い出したミハイロなどもいた。
そしてもう一人――。
無数の亡骸を前に、連合の人獣騎士らの死体を検めている女性がいる。
背丈も見た目も少女。しかし扇情的な服装はどこか異質で、瞳には不遜さと計り知れぬ理知の輝きを備えていた。
彼女は、アルタートゥムのロッテ・ノミ。
その彼女に呼ばれて同じ戦場跡に来たのは、レレケだった。
「見ろ」
ロッテが連合騎士の死体を指す。
事切れた、無惨な姿。しかしどこか奇妙だった。
干涸びているというか、水気が失われているように、どの死体も眼窩が窪み落ち、口を開いている。
「これは……」
「分かるか。奴らが何故、兵站の常識も無視してこんな大侵攻をかけたのか。その理由が」
「竜牙病と、同じ……?」
レレケの顔が青褪める。
暗い顔で、ロッテが頷いた。
「勝った勝ったと騒いでいるが、現実はこうだ。勝った負けたどころではない。ボク様達を除いてにはなるが――こっちの大陸連合とやらは、最初からこの戦に負けているんだよ。何せこちらは、敵を何一つ削れてはいない。削られたのはこちらだけだからな」
「まさか――」
「また来るし、何度でも来る。一〇万の軍勢が。いや、それ以上の数の軍がな」
果たして勝利とは、どちらに対してのものだったのか。
連合に訪れた歓喜は束の間に見せられた幻で、目が覚めて見えるのは破滅への幕開けになるのか。
心が凍りつきそうになるレレケは、返すべき言葉を見付けられないでいた。




