第四部 第六章 第三話(1)『空戦領域』
陽が傾きだした、メルヴィグ王都戦。
銀の聖女と白銀の霊狼によって、絶望しかないと思われた戦況が塗り替えられていく――。
そんな中、その影響をまだそれほどに受けていない戦域もあった。
王都を囲む攻防の中、それは東西南北のどこでもない。
連合軍が苦戦を強いられているそこは――上空。
飛竜の角獅虎らが飛び交う王都の空。
これを迎え打つのは、跳躍力に抜きん出たヤギやシカ類といった鎧獣騎士が中心の部隊。
この防空戦でも、先ほどシャルロッタが連合の全騎士に施した〝神色の加護〟のお陰で、嬲られるがままという事態からは幾分かマシになっているものの、さすがに空からの攻撃を防衛するとなれば、そこまで劇的に変わる事はない。
数の不利は言うまでもないが、加えて地の利における分の悪さもある。同じ空という土俵で戦う事が出来たのならまた違ったかもしれないが、連合側はあくまで防空。頭上から攻撃を仕掛ける敵を迎撃する以上、戦場が広大であればあるほどそれは圧倒的不利でしかないのだ。
だがその中で拮抗、もしくは確実に撃退をしている騎士もいないわけではなかった。
連合の中で唯二騎、飛竜と同じく空を征く騎士。
銀月獣士団の空戦担当ミハイロ・ジャルマトと、彼の纏う古代巨大怪鳥の〝ジムルグ〟がその一騎。
もう一騎がゴート帝国の〝神速の荒鷲〟グリーフ騎士団団長ギオル・シュマイケルと、彼の古代巨大鷲〝カラドリオス〟だった。
共に極めて希少な、空を翔ける鳥類の鎧獣騎士。
二人が共闘するのは初めてだったが、まるで長年の師弟のように、互いに息の合った連携で確実に敵を切り崩している。しかも聖女の加護によって武装が強化されたため、面白いほど敵を撃墜出来ていた。まるで砂糖菓子を砕くような脆さで、当たるを幸いに次々に戦果をあげている。
が、それでも油断は大敵。
戦闘の高揚に当てられ、いささか興奮気味になりつつあったミハイロの隙を衝き、飛竜もどきがジムルグの背中に一撃を入れる。
「――ぐっっっ!」
息が詰まり、体勢を崩しそうになるミハイロ=ジムルグ。
しかし墜落する事なく持ち直し、返す刀で相手を斬り落とした。
「油断するな」
「はいっ」
ギオルからの鋭い叱咤。
空戦の経験だけでなく潜り抜いた修羅場の数でも、そして人生という険しい道においても、ミハイロにとってギオルは、偉大な尊敬すべき先達である事は間違いなかった。
しかも戦いの呼吸を合わせてくれているのはギオルの方だ。それだけに共に戦える事自体が、ミハイロにとってこの上ない学びの機会でもあった。
それとは別に今の攻防でもはっきりしたが、どうやら聖女の加護による強化は武器だけでなく武装全体、鎧装備までもが強力になっているらしい。
でなければ先ほど受けた直撃で、ジムルグは地上に墜ちていたに違いないからだ。
攻撃強化だけでなく防御においても激変したからこそ、連合軍は圧倒的不利なこの苦境で踏ん張れていると言える。
しかもイーリオらの参戦が齎した戦果によって、徐々に敵側に綻びが生まれつつあるのは明らか。それはいずれ空の戦場にも影響があるのは間違いなく、この時間を持ち堪える事さえ出来れば、希望の光は見えてくると思えた。
そんな中、乱れ飛ぶ飛竜もどきの中で、異質な動きをする者がいる。
まるでこちらを品定めでもするように、遠巻きに飛翔し襲ってくる気配がない一騎。この一帯の指揮官かとも考えたが、動きがどうにも違っているようだった。
当然、ギオルはともかくミハイロもそれには気付いていたが、それよりも舞い飛ぶ敵の数が多すぎて、その不気味な相手の対処にまで手がまわらないままであったのだ。
と、そんな中、その一騎がいつの間にか姿を消していた。
――何処へ?!
視界を巡らす古代巨大怪鳥。
一般に、猛禽類は遥か上空で小さな獲物を見つける事から高度な視力を持っていると言われているが、視力がいい事と視界が広い事は別である。
あまり知られていないのだが、猛禽類の視界は意外に狭い。事実目がいいはずなのに、例えばハゲワシなどは風車に激突する事故をたびたび起こしているというのだ。
実は猛禽類の視野は正面を向いた際、五五度より上は見えていないし、二五度より下も見えていないのだという。そのためこの事実が分かるまで、何故先述したような事故が起こるのかが不思議であるとまで言われていた。
これは遥か下の地上をピンポイントで狙うため、視力がそこに特化した結果であると考えられる。視界を広く持つ必要があるのは敵から襲われる危険性を下げるためであり、空の覇者である猛禽にとっては、そんな能力は不要であるとも言える。そのため、外敵よりも捕食対象を確実に仕留めるため、そのように進化していったのだと考えられた。
却説、ジムルグもカラドリオスも、ともに猛禽の鎧獣である。
ましてやジムルグにいたっては、超巨大なハゲワシとも言える古代巨大怪鳥なのだ。狙い定める視力はこの上なく優秀でも、全体を把握する視界はむしろ狭い。
つまり混戦に紛れた事で、不審な動きの一騎を、ミハイロもギオルも見失ってしまったのだ。
しかしそこは、空の覇者ギオル=カラドリオス。
己の直感だけで、敵の動きに反応。体当たりをするようにジムルグを突き飛ばした。
その瞬間だった。
両者の間を光の軌跡が走っていく。
――!
ギオルもミハイロも、焼かれたのは羽毛だけ。だがそれは剣閃の比喩としての光ではなく、本物の光。しかも高熱と殺傷力を有した、この世ならざる〝光〟――〝光の刃〟であった。
崩れた上体を戻し、光の飛んできた先を睨む二騎。
そこに先ほどの飛竜もどきはいたが、それよりも二人が目を剥いたのは、今の光がこの魔獣の仕業ではないという事だった。
飛竜もどきの背に跨る、鎧獣騎士。
それが、光を放った張本人だった。
「今の攻撃は――」
即座に身構えるギオルだったが、そこで若き仲間の異変に気が付く。
翼を羽ばたかせてはいるものの、明らかに安定の欠いた飛び方。
「どうした、ミハイロ?」
神速の荒鷲が問いかけようと、ミハイロからの返事はない。
ミハイロは驚愕と喜びと――それを数倍に上回る混乱で、どうしようもなく狼狽えていたからだ。
声に出して呟く。
呟きはやがて叫びに変わる。
「どうして」と。
「何があった、ミハイロ?!」
ギオル=カラドリオスが体を寄せると、ミハイロは人鳥の顔すらも歪ませるほどの動揺を受かべていた。
「ガボール……!」
「何?」
「ガボールです……! あれはガボールの〝アーヴァンク〟です! どうして、何でガボールが?!」
何事か意味が分からないギオルは、ミハイロの言動に戸惑うばかり。
何であれ取り乱すな、ときつく叱りつけるも、その言葉すらミハイロの心を上滑りするだけ。
どれだけ武技に長けた強者であろうと、心が乱れれば戦場で生き残れはしない。ましてやこの死線の中、ミハイロの状態は彼自身を非常に危うくしているだけでなく、下手をすれば味方をも巻き込んでしまいかねなかった。
そのように判断したギオルが、「ここは一旦退がれ」と強く命令する。
ところがミハイロは、それにも否と告げた。
「――出来ません」
「何だと」
「出来ません。だって……だってあれはガボールだから」
語尾が羽音に掻き消される。
蒼黒の巨鳥騎士が、一瞬で高速の疾風と化す。
凄まじい勢いの滑空。
瞬く間に飛竜もどきの背に跨る騎士へ、肉薄しようとした。
――速い!
ミハイロが感情のままに激していたとはいえ、急降下の速度にギオルですらも目を見張る。
ミハイロはまだ若い。下手をすれば幼いとさえ言える年齢だ。それだけに感情の起伏で如何様にも潜在能力的なものは変化はするだろうが、それでもこの爆発力は尋常ではなかった。
ともすればそれは、ギオルでさえも追いつけないほど。
後々になってギオルはこれを思い返し、確信する。
この少年には、空の戦いにおける天賦の才があると。
しかしミハイロの才がその萌芽を見せようとも、奇跡のような結果までも齎す事はなかった。
ミハイロ=ジムルグが、光の剣を使う人獣の目の前にまで迫る。
その直前、狙い澄ました形で、再びその剣が巨鳥を貫こうとしたからだ。
けれども今度はしっかりと視界に捉えていたのもあり、まさに紙一重でこの刺突を躱すミハイロ。
旋回し、距離を取る
「どうして――どうして僕が分からないの?! 僕だよガボール! ミハイロだ!」
人鳥の姿がいけないのか、いや、そんなはずはないと思いつつも、目の前の人獣に少年の声が届いた気配はなかった。
ミハイロはジェジェン首長国の大首長であるアールパードの養子だが、元はヘクサニアの前身であるオグール公国によって滅ぼされたトゥールーズ公国の公子である。
しかしトゥールーズが滅んだ事でジェジェンに身を寄せ、そこでアールパードが彼を養子に迎え入れたのだった。
それよりも前から――トゥールーズ時代よりミハイロに付き従ってきたのが、彼の従者であるガボール・ツァラなのだ。
幼かったミハイロを守り続け、彼の側を片時も離れなかった守護騎士の青年。
けれども五年前のアンカラ帝国の侵攻の際に二人は離れ離れとなり、以来ミハイロはずっとガボールを探し続けてきたのだった。
元々体の弱かったミハイロが騎士を目指したのも、イーリオの師事を仰ぎ銀月獣士団に入ったのも、全てはガボールを見付け出すため。ガボールに唯一接触したというイーリオならば出会う機会が訪れるかもしれないと考えたからで、その時に何が起きても一人で何とか出来るように騎士となったのだ。
そのガボールを目の前にして、為す術がない。
ミハイロが、彼との再会をどれだけ望んだか分からない。
その念願のガボールが、目の前にいるのに。
あの鎧獣騎士――古代巨大ハイエナの〝アーヴァンク〟――のままでも、ミハイロはあれがガボールだと断言出来た。いや、だからこそあれはガボールなのだ。
何故ならアーヴァンクは、旧トゥールーズ公国の公家鎧獣でありながら、公国が封印した禁忌の失敗作。誰一人扱う事の出来なかった〝狂獣〟であり、それにこの世で唯一人認められたのが、ガボールだからである。
なのにどうして、そのガボールが自分を攻撃してくるのか。
まるで分からなかった。
出会えた嬉しさよりも今の状況による混乱で、ミハイロの心は麻の様に激しく乱れる。
そこへ、不意に閃く声。
――ミハイロ! ミハイロ!
聴覚にではなく、頭の中に直接響いてくるこの感覚。
鎧獣術士の獣理術によるものだが、この声は誰よりも聞き覚えのある女性のものだった。
――ドリー……さん。
同じ銀月獣士団のドリー・ポリー。
レレケより〝フリッカ〟を受け継いだミハイロの戦友が、術によって彼に呼びかけていた。
地上に視線を落とすミハイロ=ジムルグ。
その先に、術を発動している人獣術士の姿が見えた。
――聞こえてる、ミハイロ?
――はい……。
――いい、君の目の前にいるその鎧獣騎士、その中の駆り手に声をかけても駄目なの。
――は?
――今は戦いの最中……だからはっきり言うよ。私、その中の駆り手を環重空間でさっきからずっと探ったんだけど、駄目だったの。術で守られてるとかそういうのじゃない。その中の人の心はもう……ほとんどなくなっているの。
言っている意味が分からなかった。
けれども分かった。分かりたくなくとも、何故かそれだけの説明で全部分かった気がした。
それでもミハイロは分からなかったし、分かるつもりもなかったけれど。
――敵の術によるものなのか、それとも別の理由なのかは分からない。でもどれだけ貴方が声をかけても、彼には届かないの。恐らく脳の障害か何か……心と記憶がまるで消えて、命じられた行動しか出来ない空洞のような人間になってると思う。だから……だからもう……。
やっぱり分からない。
分かったけれども分からない。
だから何だ? だから? だからやっと出会えたガボールを見捨てろとでも言うのか。
それとも敵として戦えと。
分からない。まるで分からない。
だって目の前にいるのはガボールなんだ。あのガボールなんだ。
僕とずっと一緒だったガボールなんだ。
何を言われても分からない。
「腹を括れ、ミハイロ」
唐突に割って入る声。
敵を蹴散らしながら叫んだのはギオル。彼にもドリーの思念通話は繋がっていたようだった。
「お前の思いを、俺は察する事しか出来ん。だが仮に全ての事情を知っていようとも、俺は同じ非情な事を言うだろう。――腹を括れ、ミハイロ。目の前にいるのは、〝敵〟だ」
「は……? え……? 何を……」
「お前はもう、騎士だ。ただの子供ではない。ならば騎士らしく、高潔な決断をしなければならん。それが獣を纏う我々騎士の宿命だ」
戸惑い以上に怒りや悲しみ、それらが反駁となってミハイロの口から出ようとするが、感情が暴走して声にもならなかった。
最早それは、憎しみという感情に近い激情だったかもしれない。
腹を括れと言われてそこで頷けるほど、ミハイロの想いは軽くなかった。
ましてや彼はまだ、一三歳の少年なのだ。
ただの子供ではない? いや、彼はまだ子供だった。
子供だから一途にここまで来れたのだ。子供だから折れずにいられたのだ。
その子供に、最後の最後で折れろというのは、あまりに酷であった。
酷すぎた。
この場この瞬間において、ミハイロが彼らの言葉に耳を傾ける事は、もうなかった。
〝大人〟たちの分別と冷静さが、彼をしてむしろ別方向への決断を強めてしまったのだ。
その変化に気付いたギオルがミハイロを止めようとするが、あまりに飛竜もどきの数が多くて彼の行手を阻み、それすらかなわない。
「ガボール! ガボール! お願いだ! 僕の声を聞いて! 僕だ、ミハイロだ!」
ガボール=アーヴァンクから放たれる光の剣を掻い潜り、必死に叫び続けるミハイロ。けれどもその声が届く気配はない。
いくらミハイロが巧みに躱し続けようと、敵はそのガボールだけではないのだ。
いずれ撃墜されてしまうのは時間の問題だったろうし、それだけにギオルもドリーも歯痒さと悔しさしかなかった。
どうにもならない状況――。
こんな嫌らしい手が敵軍の罠なら、見事なまでに嵌められてしまったとしか言えない。
こちらの幼い心の弱さにつけ込み、確実に戦力を削ぎ落とそうというのだから――。
だがギオルが言った様に、現実とは常に非情なのだ。
それは戦場ならば尚の事。
心の隙をつく――それも戦いの一側面。
――分かりました。では何とかしましょう。
そこへ不意に、別の声が脳裏に響いてきた。
女性の声。
聞き慣れた声。
誰よりも信頼の出来る声。
彼らにとっては――いや、彼女を知る者なら、誰しもそう思うだろう。
――お師匠様っ?!
――レレケさん?
ドリーとミハイロ、二人が同時に叫ぶ。
銀月獣士団の副団長であり、ドリーが師と仰ぐ偉大な術士。
レナーテ〝レレケ〟・フォッケンシュタイナーの声が、思念となって彼らに届いていた。




