第四部 第六章 第一話(2)『母子』
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メルヴィグ王都・レーヴェンラントの北西のはずれ。
ヘクサニアによる襲撃の爪痕が未だ色濃く残るそこに、ハーラルは導かれていた。
案内したのは、幼い頃の養母であるサリ。
「今の私は、サリ・サールバリと名乗っております」
改めて名を呼んだ時、彼女はそう答えた。
案内されたそこは、先程も述べたように区画の至る所に瓦礫が散見されるような場所。
風光明媚な王都であっても、外縁部はやはり襲撃を受ける最前線となってしまうため、どうしても復興の追いついてない場所が多くなる。それだけに、この区画には人影もまばらというよりほとんどおらず、ましてや廃墟に近いような彼らの立つ場所は、生き物の気配すら感じられないほどだった。
「ヘクサニアに行って、新たな者と一緒になったのか」
ハーラルの言葉は、再婚した事によりサールバリという姓になったのかという意味である。それは黒母教に入信し使徒となったのは、その新しい夫の影響によるものかという問いも含んでいた。
「いえ、サールバリとは私の本当の姓です。陛下と最後にお会いしてよりこの方、誰とも連れ添うてはおりませぬ」
「そうか」
ハーラルはお忍びとはいえ、貴族然とした身なりをしている上に、傍らにはゴート帝国の帝騎ティンガルボーグを連れている。目立つのもそうだが、誰がどう見ても場違いで浮いているようにしか見えない。
一方のサリは、燻んだ紅鼠色の外套で全身を包んでおり、その下は黒母教の信者らしい黒灰色の衣服が覗いていた。質素で簡素。
だがその仕立てがアムブローシュ絹である事を、ハーラルは見抜いていた。
アムブローシュ絹仕立ては、多くの騎士が身に着ける衣服である。それが意味するところは、この廃墟のどこかに彼女の鎧獣が潜んでいる可能性が高いという事でもあった。
「ならばどうして、貴女はヘクサニアの十三使徒になどなっているのだ。それとも、ヘクサニアの使徒こそ、貴女の本来の姿だったとでも言うのか?」
八年前、ハーラルはこの養母を探すため密かにメルヴィグ王国に渡り、そこで会っている。
その時の邂逅を最後に、彼は養母と過ごした幼い日々とは決別したと、心に固く決めていた。それはサリも同じく望んだ事であり、互いに分かっている。
だからもう二度と会う事はないだろうと確信していたのだ。
にも関わらず今再び、目の前にその養母がいる。
しかも何より不可解なのは、何故、騎士になどなり、あまつさえハーラルや彼の帝国とも敵対する国にいるのか。再婚が理由なら、成る程それも可能性としてはなくもないし、言いたい事はあれども理解が出来なくはないと言えただろう。
ところが彼女は、そうでないと言う。
では一体、何がどうなって今に至ったのか。
激する気持ちをかろうじて宥め、ハーラルは氷の目でサリを睨み据えていた。
「貴方様とあのイーリオ殿の運命を変えた、クロンボー城の襲撃事件。あれが切っ掛けで、私は幼い陛下を育てる事となりました。――そのように、陛下はお思いでしょう」
「――?」
イーリオ、ハーラル、両者の出生にまつわる因縁の事だ。ある意味、全ての発端はそれにこそあったとも言える事件。
だがそれは、先々代の皇帝であるゴスフレズⅢ世の狂気と陰謀が元凶であった事を、ハーラルは既に知っている。
「あれを命じたのはゴスフレズ陛下ですが、それを吹き込んだ者、そして仕組んだ人物は別にございます」
「――エッダだな」
かつてハーラルに仕えていた、高級女官。ゴート帝国で絶大な権勢を振るい、帝国を影で操ろうとした女。その正体は、魔導士集団エポスを離脱した、魔導士の一人。
ハーラルの最大の理解者であると共に、今起きている全ては、彼女が原因であると言えなくもないほど、因縁が絡みついた人物。彼にとっては、愛情と憎しみが同居する存在でもある。
「はい。エッダ様は全てを操り、画策しました。城の襲撃も、皇子の殺害も、そしてハーラル様が市井にくだり、そこで育てられるように仕組まれた事も」
「何……?!」
「私がハーラル様を拾い育てたのは、偶然? いいえ、違います。これもエッダ様がお考えになられた内の一つ。そうです。私が偶然にも貴方様をお救いし、育てたのではありません。それもこれも全部、仕組まれた事。――元より私は、宮仕えをしていた侍女などではございません。あの時の私は、エッダ様の配下にいた一人。密偵であり工作員であり、騎士だったのです」
「何だと……」
ハーラルが絶句するのは当然だろう。
蓋をしたとはいえ、彼にとっては己の根源に関わる重要で大切な〝思い出〟なのだ。
それが数奇な運命に導かれた結果ではなく、計略された作り物であったなど――。
「貴方様が帝国に戻され、その後は貴方様と二度と接触せぬよう他国に飛び、身を隠す事。そこまでがエッダ様より賜った私の務め。だから八年前、私は貴方様と会う事を拒んだのです。万が一にもその計画が漏れてはいけないと考えたから」
「待て。怪訝しいぞ。ならば何故八年前、余が貴女と会う事をエッダは止めなかった? 余が貴女を探していた事を、あいつは知っていたのだぞ。合点がいかぬ」
「それについては私も分かりません。今となってはエッダ様に真意をお聞きする事も、出来ませんから。あの方が何を思い、そう仕向けたのか。――ただ、これは私の憶測ですが、察するにあの方は貴方様を皇帝として鍛えたかった。そのために、迂遠であってもあんな方法をとったのではないかと、今は思っております」
サリの真実がどうであれ、あの時点ではそれを知らぬハーラルからすれば、紛れもなく思い出の瞼の母。
その思いの枷を、自らの手で引き千切らせようとした――。そんなところだろうか。
エッダならば考えそうな事だと、ハーラルは思った。
「そうして私は最後に貴方様と会った後、もう再び会う事のないようメルヴィグからも離れ、西へと向かいました」
「ヘクサニアか」
無言で頷くサリ。
辺りの廃墟には、彼ら以外の声もなければ気配すらない。
濃くなる闇が、その静寂に拍車をかけているようだった。
「しかしヘクサニアに居着くつもりもございませんでした。あくまでそこも道の途中。更に西の地にでも向かおうと、その時は考えていたのです。けれどもヘクサニアに入ってすぐ、私はある方より声をかけられました」
「声を? 誰にだ?」
「黒母教ナーデ派の司祭枢機卿スヴェイン様です」
その人物とはハーラルも何度か会っている。
最初は八年前。さっき言った、サリを探した時の事だ。
二回目は四年前。ゴート帝国で起きたヴォルグ六騎士ウルリクとエッダによる反乱事件の際、そのウルリクの死体を回収するため、鎧獣術士となって彼の前に姿を見せている。
最初に会った時から、どこか得体の知れない不気味な人物であったと記憶していたし、二回目に至っては反乱を幇助していたのみならず、その場で己の事を〝エポス〟だと名乗ったのだ。
どうであれ忌まわしい人物には違いなかった。
そんなヘクサニアにおける首魁の一人とも言うべき人間が、サリに何を騙ったのか?
「スヴェイン様は全てを存じていました」
「――そうか。エッダとの繋がりを知った上で、お前にヘクサニアに仕えるよう嘯いたのだな」
「半分は正解です。けれどもそれだけではありません」
「どういう意味だ」
「あの方はエッダ様との繋がりだけでなく、私の全てを知っていたのです」
サリの全て。
まだこれ以上、何かあるというのか。
「元々私は、ゴート帝国に滅ぼされたバーチャサライという小国の出身です。そこで私は騎士団の部隊長をしていましたが、帝国の侵略により国はなくなりました。その際に夫と息子も失い、私はその復讐のため、ずっと帝国に潜伏していたのです。工作員としての技などは、そこで身についたものです」
「子供が……いたのか」
「はい」
任務で命ぜられた偽りの子供としての自分ではなく、復讐のために命を賭けようとさえしたほどの、本当の息子。
かさぶたになったはずのハーラルの心の傷が、じくりと痛みを発する。
「しかしそこでエッダ様に捕まり、処刑される代わりに部下となって働くよう、持ちかけられたのです。勿論、断りました。何を言っているのか、ふざけるな、と。自分を殺せとも言いました。けれどもエッダ様はこう言ったのです。〝私に手を貸せば、ゴートの皇帝家の血筋を絶やす事が出来るぞ〟と。それは私の復讐にも繋がる事になると、あの人は囁いたのです」
ハーラルの血が、氷の冷たさを帯びていく。
皇帝家の血を絶やす――。
エッダの真意とは異なったが、結果としてそれは果たされている。彼、ハーラルに、正統な帝国皇室の血は流れていないからだ。
恐ろしいのは、思惑を複雑に隠蔽し、他者を操ったエッダであろう。しかもよくよく考えれば、エッダは何一つ嘘をついていないのだ。
ハーラルこそが皇帝になるべきと言い、大陸を支配させようとした事も。
サリに帝国への復讐を遂げさせてやると嘯いた事も。
叶ったかどうかは別として、偽りは言っていない。
それが恐ろしかった。
「……つまり己の復讐のために、お前は余を救い、育てたというのか」
サリは目を俯かせ、「はい」と答える。
「私の目論見も、復讐も、そして騎士としての過去も全て、スヴェイン様は存じておりました。おそらく、エッダ様から知ったのでしょう。その上であの方は言ったのです」
――
お前が過去から逃げる事など、出来はせん。
お前がそうしたくとも、過去というのはいつでもその姿を見せるものなのだ。
それは他でもない、お前自身が知っている事だろう。
知っているぞ。ハーラルを育てた時、お前が何を思っていたのか。
ハーラルが宮廷に連れて行かれた夜、お前が流した涙が偽りではなかった事を。
復讐心も偽りの子育てもその心も全部、お前は死ぬまで引き摺っていかねばならん。
だがそこから救われる方法もある。
それは、過去の全てと向き合う事。
逃げるのではなく、過去の全部を晒し、それを受け容れるのだ。
――
「そのために教国騎士となり、十三使徒になれとあの方は言いました。そうすればいずれ帝国とも向き合う事が出来るはずと。しかしそこから逃げれば、それは私を永遠に苦しめる呪いになるだろうとも」
「それでヘクサニアに入ったのか……」
「はい」
己の足元が、音もたてずに崩れていく――表面上はともかく、内心でハーラルはまさにそんな感覚だった。
だが事実、サリは今こうやって、己の真実をハーラルにぶつけている。
まさにスヴェインの言った通りになっているわけで、それだけに彼女の述懐を肯定も否定も出来はしなかった。
しかし――かろうじて残る理性が、彼の心が崩れ切るのを踏みとどまらせた。
サリは元工作員だ。つまりこれもヘクサニアから連合への工作の一つかもしれず、ハーラルという連合の一翼を崩そうというのが狙いなのかもしれない。ならばみすみす敵の術中に嵌まる愚を犯すべきではないのは、言うまでもない事。
いや、そうなのだろうし、そうであって欲しかった。
例えそれが、理性のふりをした願望であったとしても――。
「それで……余を呼び出したのは、そんな過去の贖罪を聞かせるためではあるまい。本当の目的は何だ」
心の古傷から膿が滲み出すような、吐き気すら覚える胸の奥の痛みが、ハーラルの内側から迫り上がってくる。それを氷壁の意思で無理矢理に凍りつかせ、年齢以上の刻苦を味わってきた若き皇帝は、暗い瞳で問いを発した。
「私の全てを話したのは、己の罪を懺悔するためでもありますが、貴方様の言う通り、ここに来た真の目的のためでもあります」
サリは俯いていた視線を、ハーラルに向ける。
そこに陰謀めいたものは感じ取れない。いや、己の弱みともいうべき過去の感情が、ハーラルの目を曇らせているのか。それは目を向けている本人にも、分からなかった。
「ハーラル陛下、どうか貴方は、このメルヴィグより退いてはくれませんか? 私もヘクサニアを抜けます。そして貴方と共に帝国に戻り、この争いから外れ、身も心も安んじられませんか。私も……いえ、何より貴方様こそ、今まで沢山傷付いて参られました。これ以上、貴方がその身を削る必要などございますまい。私も罪を償うため、己の余生を貴方と共に過ごさせていただく事をお許しくださいませ。――重ねてお願い申し上げます。どうかこの地より去り、帝国にお戻りになってください」
思わず、絶句する。
予想外の答えにであり、まさかそんな事を持ちかけられるとは思っていなかっただけに、ハーラルの心の間隙に、その言葉はするりと入ってしまった。
「何を……何を言っている」
「ヘクサニアを抜ける事、十三使徒も辞する事、全てファウスト王には許しをいただいております。あの方は激しき気性もお持ちですが、こういった個人の情にはとても理解をしてくださる人なのです。ですからよくよくお考えいただき、どうか私の言葉に頷いてはくれませんでしょうか」
「お前の贖罪のために、余に裏切り者になれと……?」
「裏切りではございますまい。友好国と言っても、遠からず滅び去るこの国に、何の義理立てがいりましょうか。帝国の安寧を第一に考える事こそが、皇帝陛下であらせられる貴方様の勤めのはず。ならば亡国となりかけている他国を見限る事は、何の人倫にもとるものではございません。そうして果たせなかった過去の清算を――本物の母子でなくとも、思い出の続きとして、共に歩ませてはくれませんか。お願いです、陛下」
氷虎帝。それがハーラルの二つ名である。
文字通り氷の如き冷徹さと厳しさを持っているのが己だと、自負もしている。
その氷の強さが、今まさに雪崩のように揺らごうとしていた。
瞼の母。
彼が心の底で求めた、本当の意味での〝母親〟。
その人が、一緒に過ごそうと言ってくれている。しかも帝国を守るという大義も添えて。
そうだ。本来、ハーラルはこんな異国の地で他者のために戦うのではなく、傷んだ帝国の国土回復に専念するのが、真っ当な判断だと言えるのだ。そうしないのは、ひとえにシャルロッタの願いもあれば、イーリオを信じての事でもある。それとて大陸を守るという、より大きな大義はあるが、しかし余人が理解するのは難しいだろう。何せ伝説まみれの、ともすれば眉唾に等しい話でもあるからだ。
ならば己が為すべきなのは、帝国に戻る事ではないのか。
捨て去ったはずの想いを掬い上げ、この養母と共に――。
「私たち母子は最初から今に至るまで、全てが偽りでした。でも、それを真実にする事だって、出来るはずです。人は道を違えても、またやり直す事が出来る。それが黒き母神オプスの教えなのですから」
偽りを、真実に――。
まるで己の足元から、大地がなくなっていくかのような感覚。
自分はどうすべきか。いや、どうしたいのか。
ハーラル自身が望む事は――。
「陛下! その者の妄言に惑わされてはいけません!」
静寂を破ってハーラルの耳に届いたのは、聞き慣れた若き女性騎士のもの。
後ろの廃墟から飛び出した彼女を見て、ハーラルはただ呆然と反射的に呟く。
「アネッテ……」
野生羊の王の鎧獣の背に跨ったのは、皇帝の命に背き、密かに尾行していたアネッテ・ヴァトネ。
彼女は両者の会話を耳にし、たまらず飛び出してきたのだった。
「その者は己で語ったように、ヘクサニアの騎士です。親子の平和と言いながら、真実は貴方様を連合から引き剥がそうとしているだけです」
「何を――」
「黙れ! もし本当に陛下との平和を望むのなら、どうして鎧獣を後ろに隠している?」
アネッテが言った事は、ハーラルも気付いていた。サリが鎧獣を潜ませていた事は。
だがそれでいけば、アネッテが尾行をしていた事も、ハーラルは知っていたのだ。知っていてそれでも臣下の行いに目を瞑っていたのは、彼なりにギオル達への配慮があったからだ。
「それに真に子を思う親であるならば、子供の為す事を止めるのではなく、その背中を後押しするもの。見守るもの!」
「……」
「私を育ててくれた人は、そうでした。それが人を育てるという事だと」
アネッテの心に浮かんでいたのは、実の両親と、もう一人の親とも呼べる叔母のマリオンの姿だった。
先のゴゥト騎士団団長にして、最前までヴォルグ六騎士の筆頭を勤めた、優しくも厳しい偉大な騎士。そして彼女の師匠。
ヘクサニアによる帝都襲撃の際、ハーラルを守るために黒騎士と戦い命を散らした事は、記憶に新しい。
アネッテの言葉からそれを思い出したハーラルもまた、マリオンの教えを思い出す。
六騎士筆頭としての任官は僅か四年であったが、疲弊した帝国四大騎士団の立て直しが出来たのは、彼女の存在が大きい。
そのマリオンが言っていた事だ。
――人に何かを教える時、人を使う時、どうしても誰もがその相手に口を出したくなるものです。あれをするな、これをしてはいけないと。けれどそれが相手への愛情や気遣いであったとしても、否定こそ、教えの中で一番してはいけない事です。
何であれ認める事。自分という存在を肯定してくれる言葉こそ、人の背中を押してくれる魔法になるものなのです――
ハーラルが、掻きむしるように己の胸を強く掴んだ。まるで芽吹きかけた温かな迷いを、無理矢理に枯れさせんとするように。
「養母上」
ハーラルの呼びかけに、サリが暗い瞳を向ける。
「前に会った時、言いました。出来るならもう一度だけ、貴女が作ってくれた干鱈の灰汁煮を食べたかったと。――しかしもうそれは叶いません」
言葉遣いが、皇帝ではなくサリの息子のものになっていた。
それは、ハーラルの剥き出しの感情。
「ハーラル……」
「私はこのティンガルボーグと絆を結びました。その結果、私にはもう、何かの味を感じる事は出来なくなったのです。私の舌は、何を食べても何の味も感じません」
ハーラルが言ったのは、ティンガルボーグと交わした証相変の事である。
証相変とは、駆り手が己の肉体の一部を捧げる事で騎獣の能力を劇的に向上させる錬獣術における禁忌のわざ。
それにより、白虎だったティンガル・ザ・コーネは、灰色虎のティンガルボーグに変わっている。
「貴女と道を戻る事は、もう出来ないという事です。そういう決断をしたからこそ、今の自分がいる。皇帝として認めてもらえた、今の自分が」
「――それで、貴方様はよろしいのですか」
「……ええ」
ハーラルがティンガルボーグを己の背後にゆっくり回らせるのと、サリが隠していた己の鎧獣を呼び寄せるのが、同じだった。
誘いは蹴られた。
ならばこの瞬間から、二人は敵同士。
相対する両者が同じ舟に乗るという故事もあるが、この場合の彼らにそれはないという事だった。
「白化」
ハーラルが人虎の騎士皇帝になれば、サリが纏うのは古代絶滅種の巨大ヒヒ・恐大狒々。
人猿の女騎士がそこに姿を見せたと思った瞬間だった。
鎧化の際に見せた煙が途切れる事なく留まったかと思えば、それがどんどんと濃密さを増していったのである。
まるで廃墟に突如濃霧があらわれ、対峙する両者を阻もうとしているように。
「アネッテ!」
ハーラルの呼びかけに、アネッテは承知しておりますと答える。彼女も既に鎧獣騎士となっていたが、この霧が敵の仕掛けた何かだと察したハーラルが、警戒をしろと叫んだのだった。
どう見ても異常な濃霧。
最早それは鎧化時に発生するものですらなくなっているのは、言うまでもない。
ハーラルとアネッテが互いの武器を構える。感知に神経を研ぎ澄ませる。
そこへ――
凄まじい羽音をたてて、ヘクサニアの飛竜もどきが煙を破って空高く舞い上がった。
その背に、人猿騎士となったサリの姿を乗せて。
「待て!」
叫び、己も異能による翼を出そうとするハーラル。しかし発動しない。いや、上手く発動出来ないと言った方が正しいか。あまりに反応が鈍かった。
「〝煙霧の守護霊〟」
もう一騎、一体どこにどうやって身を潜めていたのか、更に別の飛竜もどきがあらわれると、その背に乗る人獣騎士が、気怠げに言い放っていた。
それは巨大豹型イタチの鎧獣騎士。
手には剣と一体化した長大な長煙管を持ち、この濃霧の元となる煙を吐き出している。
「持ちかけた手前、自分で尻拭いはせんとなぁ」
「何?!」
「やらせはしないって事さ。じゃあな、痩せ我慢の裸の皇帝陛下サマ」
そのまま凄まじい速度で、人竜の二騎は飛び去っていった。
それを歯噛みしながら、ハーラルとアネッテはただ睨みつけているだけであった。
メルヴィグの王都が見えなくなるまで遠ざかった頃。
並んで飛ぶ第四使徒エヌ・ネスキオーに、サリは「申し訳ございません」と謝りの言葉を述べていた。
「構わんさ。念の為の〝ストック〟にというスヴェインの提案に乗り、こんな手を持ち出したのは俺だ。結果的にお前という貴重な戦力を失わずに済んだだけでも良かったよ」
「勿体ないお言葉です」
重ねて詫びるサリの方を見もせず、紫煙を吐くエヌは薄笑いを浮かべていた。
ファウストは完璧な〝ロムルス〟の器だが、それでも万が一というのもある。一応、候補の一人であったハーラルを懐柔させればより安心も出来るだろうというのがスヴェインことディユ・エポスがエヌに持ちかけた話である。
しかし上手くいかなくとも心理的な効果はあるだろうし、何よりこういった仕掛けをする事自体、このエヌの体になる前、かつてはヴォルグ六騎士のウルリク・ブーゲンハーゲンであった時より、エヌことヘルヴィティス・エポスが好むところでもあったのだ。
――まあ俺の〝竜〟が使えるようになるまでの退屈しのぎにはなったな。
全ては虚ろなだけのただの戯れ。
そんな黒幕の真意など知る由もなく、血の繋がらない母子二人の心は、運命の盤上で踊らされるように遠く引き剥がされ、永遠に戻らなくなっていったのだった。




