第四部 第五章 第一話(2)『由貴姫』
立ち並ぶ緋色のレンガが、粉屑と化して宙を舞う。
石畳の街路は踏み荒らされる度に砕けて抉れ、剥き出しの大地となって生々しい傷跡のように街を無惨に変えていく。同時に白い鎧の人獣騎士達も、血飛沫を撒きながら或いは肉片と成り果てて、凄惨な光景に酸鼻な彩りを加えていった。
暴虐の限りを尽くすのは、ヘクサニアの破壊の尖兵・角獅虎たち。
巨体と装甲はサイと同じ。虎の爪と牙に、ヒョウの俊敏性。レイヨウの持久力に牛のツノを持つ異形の合成獣。
そのどれもが動物のそれではなく、鎧獣騎士としての能力なのは言わずもがな。
この大陸を席巻する人獣の怪物を前に、覇獣騎士団たちは必死に抵抗していた。しかしかつては一騎、二騎だけの単体で暴れていた角獅虎が、一〇騎、二〇騎と数をなして襲ってくるのだ。強者揃いである覇獣騎士団といえど、これには手も足も出ないどころかただただ蹂躙されるのみだった。
かろうじて壱号獣隊の騎士たちだけは何とか抗い続けていたが、それでもいずれ彼らとて破られてしまうのは時間の問題に見えた。
ぐしゃり。
果実を潰すように脆く、鎧獣騎士が砕かれる。人間の持つ剣や槍すら一切通さない、この世で最高の防御を持つ鎧獣騎士が、いとも容易く血の押花となっていった。
あちらで、そしてこちらで。
怪物の形をした災害。それもとびきりのそれに対抗出来るとすれば、主席官級の騎士でなくば無理だろう。どう足掻いてもどうする事も出来ない猛威に、最早王都西地区の被害は惨憺たるものとなっていた。
騎士の誰かが叫んだ。
「もう少しだ! もう少し持ち堪えれば、必ずクラウス閣下か王陛下が来て下さる。それまで何としても被害をここで食い止めるのだ!」
敵を退けるのではなく、この場に押し留めるのが精一杯。
アンカラ帝国すら打ち破ったあの覇獣騎士団たちが、である。
角獅虎の軍隊とは、それほどまでの存在なのだ。数の論理を覆す鎧獣騎士の、その論理すら否定する数の暴力。
ゴートの帝都が破られたのも当然だと、言わざるをえなかった。
だがクラウス総騎士長もレオポルト王も、そして客将であるクリスティオやブランドとて人なのだ。
そういった角獅虎を確実に葬る事の出来る強者など、そうそういるはずもない。となれば、連日の襲撃に駆り出されるのもまた仕方がない事とはいえ、傷も疲弊も尋常以上に蓄積されるのは至極当たり前であろう。
しかし敵はこちらの事情などまるでお構いなしに、何度も襲撃を仕掛けてくるのだ。
今も騎士団員たちが瀬戸際で踏ん張っているが、刻一刻と限界は迫ってきている。
その戦場へ――
駆け寄らんとする見慣れぬ騎乗の影。
覇獣騎士団ではない。
乗騎は鎧獣のようだが、明らかに猫科猛獣ではないからだ。それどころか、そもそも捕食動物ですらなかった。
巨大な――人の背丈を超えるほどの体高を持つ、碧の体毛。
毛色も見ない色だが、それより特徴的なのが、頭部から突き出ている恐ろしいまでに巨大な四本のツノ。正確には二本なのだが、付け根のところでそれぞれ前後に分たれているため、一見すると四本に見えてしまうのである。その四つに見えるツノは、空に向かって広げた巨人の手の平か、荒々しい熊手のようにも見える雄々しいもの。
地を駆けるのは、しなやかで無駄のない曲線の四つ足。
かつて遥か西の果てで生息していたという古代絶滅種。
その種名を――ヤベオオツノジカ。
シカ類最大と言われるギガンテウスオオツノジカとほぼ同等の大きさを持つ巨大ジカである。現生ならばヘラジカと同等の体格と言えば分かり易いだろうか。
しかも〝碧〟という、この世に有り得べからざる体毛をもっている。まさに神秘の巨獣。
敵軍との距離が迫った辺りで、巨大鹿に跨るユキヒメが、騎乗から降りて己の鎧獣の前に立った。
背後の愛騎に、ほんの僅かだけ眼を細めるユキヒメ。
「お主と戦場を駆ける刻が戻ってきたぞ、〝軍荼利〟」
ニフィルヘムより遥か西の果てにある島国、環の国。
武士なる戦闘氏族が割拠するその地には、皇国の守護神である最強の〝四大明王〟なる鎧獣がいた。その内の一騎こそ、ユキヒメの生家であるウエスギ家が代々受け継いできた騎獣。
ヤベオオツノジカの鎧獣〝軍荼利〟だった。
ユキヒメは前に向き直り、チラとだけ惨状を見つめた。
暴れる角獅虎の数を見ているのだろうか。いや、敵の様子を観察したのである。
どれもこれも聞きしに勝る凶猛ぶりだが、その中で翼を広げたものはいない。つまり、飛竜に変異している人獣はいないという事。変異が出来ない個体なのか。それともまだ変異してないだけなのか。
どちらにしても空を飛ばないのであれば――
「大した苦労はいらぬな」
と、薄い笑みを浮かべるユキヒメ。
続けて彼女は号を発する。
「吾琉別当」
発音は同じだが、意味合いは異なる異国の解号。
白煙の柱と共に、武士と鎧獣が人獣の鎧獣武士となる。
グラデーションを帯びた、翡翠のような色合いの毛色に、鎧も独特のもの。
色彩は白群 (ホワイトブルー)に若芽 (ライトイエローグリーン)、瑠璃 (ブルーパープル)や千歳緑 (ダークグリーン)といった、青や緑を基調としたもの。
両肩には板のような幅広の肩当てを装着し、腰周りにも小振りな同形状のものを着けている。
だが奇妙な事に、腰に吊るされた剣が、鞘に収められていた。
鎧獣騎士の場合、武器に鞘のようなものはないのが普通だ。しかし軍荼利の腰にある刀は、どう見ても鞘に収められているように見える。
そもそも何故鎧獣騎士の持つ武装に鞘、もしくは鞘的なものがないのかというと、騎士にとって鎧化自体が戦闘開始、武装を解くようなものだからだ。いわば鎧獣そのものが武器を鞘に収めた状態で、鎧獣騎士になる事が抜刀をしたのと同義になる。
だから鎧獣騎士には鞘という概念がなかった。仮にあっても、ただ邪魔になるだけで、無意味がいいところだろう。
しかし軍荼利の刀は鞘付きなのだ。
碧と緑と青の戦士は、しずしずと敵中に向かって行った。
これを遠巻きに見ているのが、ギルベルトとハナヒメに銀月団の面々。
体を休ませておけとユキヒメに言われたものの、それでも戦いが気にはなるし、万が一というのを建前に、ハナヒメを連れて彼らも戦う一幕を見に来たのだ。ようは野次馬である。
「完成した時にも思ったけど、実に見事な鎧獣騎士だよねえ」
惚れ惚れと呟くギルベルトだったが、そこへ全く別の声が被さる。
「お前達、ここで何をしている?」
それは騎馬に跨り、レオポンの鎧獣を伴った白衣の騎士。
覇獣騎士団のクラウス総騎士長だった。
騎士団員たちが待ち望んでいたように、遅ればせながら迎撃のためにここへ来たのである。
「クラウス閣下」
ギルベルトはこんなところで戦いもせずにいる理由を手早く説明したが、尋ねたクラウスがその回答に呆れた声をあげた。そうなるのは当然だったが、「まあここはユキヒメちゃんと彼女の軍荼利を見てみましょう」と平然と返すギルベルトに、尚一層の訝しげな顔を向ける。
「貴様がそこまで言うとは、それほどなのか。その軍荼利という鎧獣は」
「さて、どうでしょうね。僕も戦いを見るのは初めてなんで実力も知らないんですけど、ただ、再生とはいえあんな鎧獣を手掛けたのも、それはそれで初めてでしたよ」
彼らが会話を交わしている間にも、王都西地区の襲撃現場へ、神秘の人獣が舞い降りていた。
どういう移動方法なのか。
駆けた素振りがまるでないのに、一瞬で距離が縮まっている。
倒壊し、瓦礫となった建物の上に立ち、暴れる魔獣たちを睥睨するオオツノジカの女武者。
角獅虎の一騎がそれに気付くと、一帯に谺する耳障りな咆哮をあげた。殺意というより、まるで本能の雄叫び。目にした悉くを破壊するという、破壊衝動の権化のような咆哮だった。
噛み砕いた敵の返り血が混じった唾液を飛ばし、新たなエサを見付けた猛獣よろしく襲いかかってくる。
速度は特級のものに等しく、破壊力は言わずもがな。
これを前に、避ける以外の選択肢をとる騎士が、この世にいるだろうか。
が、ユキヒメ=軍荼利は風の凪いだ湖面のように、静かに佇んだまま。回避どころか防御の素振りもない。
敵が凶々しい形の剣を振り下ろそうとした瞬間――
湖面に波紋が響くように、静に動の風が吹く。
清澄一閃。
光の糸が、軌跡も残さずにほんの僅かな、だがくっきりとした輪郭の音だけを響かせると、魔獣の体が斜めに分断されていった。
怪物の死体という幕の向こうに立っているのは、剣を納めたままの軍荼利。
佇む姿は、襲われる前のまま。少しだけ構えのような恰好にはなっているが、本当に斬ったのかと目を疑うほど。
遠巻きに見つめるギルベルト達が、何も言えずに言葉を失う。
「姉上の〝イアイ〟です」
声を発したのは、ユキヒメの妹であるハナヒメ。
「〝イアイ〟……? 以前からユキヒメが使っていた、環の国の剣技か?」
クラウスが驚嘆を隠そうともせずに問いかけた。
「はい。姉上は、この地でずっと私の〝真達羅〟をお使いされていましたが、本来姉上は捕食動物などに類する狩猟騎の駆り手ではなく、駆動騎の使い手なのです。ですから騎士団におられた時は、本来の実力の半分も、姉上は出せていなかったはず。しかし今や姉上は、軍荼利の主に戻られました。本来の姿となった姉上の剣に、敵う者などおりません。かつて環国最強の剣士であった我が父の剣を継いだ万夫不当の剣士に、姉上はなられたのです」
しかし――とハナヒメは続ける。
「軍荼利の真の力は、剣ではありません。剣は姉上の実力の一面。――軍荼利の真の力は、ここからです」
ゾウやサイ並みの装甲を誇り、どのような武器でも一撃では仕留め難かった角獅虎を、一刀のもとに斬り伏せたというのに、それでもまだ力の一端だというのか。
息を呑んでギルベルト達が視線を戦場の方へ戻す。
一騎がかくも容易く倒された事で、残りの角獅虎たちに緊張が走ったようだった。いかなる者でも、強者というのは言葉を要さずとも分かるもの。
そこへ、瓦礫の山の上から、ユキヒメ=軍荼利がまた瞬間移動のような動きで下に降りていた。あまりの一瞬のため、敵の角獅虎たちでさえ、ぎょっとなって取り乱すほど。
敵が取り囲む只中にあるにも関わらず、泰然としたままのオオツノジカから、詠う声が響いてくる。
獣声粛粛 万里を渡り
遼東京師 万夜の地に立つ
我が一剣 只此の時に在り
流星光底 邪智を誅さん
朗々とした美しい声が、ギルベルト達の耳にもはっきりと届いた。
何を言っているのか、言葉の意味は分からない。ただ、それがユキヒメの覚悟のようなものとだけは、耳にしたギルベルトには分かった気がした。
何をしようというのか――
そんな警戒が、角獅虎たちの中で最大水位にまで上がっているのがありありと分かる。ただの一騎なのに、もはや役者がまるで違った。
ヤベオオツノジカの腕が風の速さで横に払われると、光る星のようなものが煌めいた。
次いで放たれる、神獣の祝詞。
「〝久久能智〟」
荘厳にも思える人鹿の振る舞いに、異形の怪物達ですら気圧されていた。が、気を呑まれただけではない。
圧倒されたと思う間もなく――
地響きが、魔獣らの耳をつく。
ギルベルト達の耳にも届く。
「何だ――」
地震? 何が起きている? そんな疑問が敵味方関係なく脳裏に浮かんだ瞬間だった。
地揺れが破裂音と共に視界を覆い、裂けた大地から光の柱が天に伸びた。
その光る柱は一箇所だけではなかった。同時多発的に、敵のいる至る所で発生している。
――!
それは樹――。
光りで覆われた、いや光の粒で形作られた数多の樹々たち。
大地を割り、角獅虎たちの足場を奪う勢いで、みるみる王都の一角が光の巨木で出来た木立ちに変わってしまう。
あまりの超常現象に、その場の誰もが狼狽えざるを得ない。しかしそれも数瞬の事。
こんなものは虚仮威しだとばかりに、角獅虎たちが光の樹を切り倒そうとする。だが、魔獣の膂力を以ってしても、光の樹々はびくともしない。今度はそれに驚くが、それすら束の間――
異国の人鹿から、異風な趣きの詠が響く。
「布瑠部 由良由良止 布瑠部」
ユキヒメの唄声。
光の樹々から撒き散らされる粒子。
それは光の花粉。
輝く雪景色のように、幻想的な胞子が魔獣達に降り注いでいった――かと思ったのも須臾の一拍。
「ガッ――グ、グガッ――?!」
一体の角獅虎が全身を痙攣させて苦しみ悶えると、それが次から次に別の角獅虎にも連鎖していく。眩い樹は繁茂し、光の花粉はどんどん積もっていく中、苦痛にもがく異形達。
美しくもあり、醜くもある――。
聖と卑が混ざり合う一種異様な光景だった。
「何が起きている……?」
戦場を見つめるクラウスから、思わず声が漏れていた。
これにハナヒメが答える。
「あれが軍荼利の獣能〝久久能智〟です」
「あの樹がそうなのか」
「あれは〝霊樹〟。軍荼利は体毛から植物の種を生成します。その種は軍荼利のエネルギーを養分とし、ばら撒かれる事で発芽するのです。擬似生物を操るのが鎧獣術士なら、擬似植物を操る力、それが軍荼利の異能」
言っている意味は分かるが、理屈も何も斜め上すぎて、およそ理解の範疇を超えていた。
「〝霊樹〟は成木となり花粉を放ちます。その花粉を吸い込んだ鎧獣騎士は、姉上の詠う〝布瑠の言〟により――」
突如、全ての角獅虎たちから絶叫と破裂音が響いた。
口や目、穴がなければ腹や胸など、体のいくつもの箇所が裂け、光の樹が内側から貫いていたのだ。
「新たな樹々の苗床として霊樹を芽吹かせ、相手の息の根を止めるのです」
激しい戦闘の中で、花粉の如き微細なものを吸い込まずに戦うなど、およそ不可能だろう。それも雨霰と降り注がれては、回避も出来ない。そしてそれを少しでも吸い込めば最後。
内側から樹木が生えて殺される――。
まさに攻防一体にして無敵の結界。
一度の獣能の発動だけで、十数騎いた角獅虎が全滅していた。
何も言い出せなくなっているギルベルト達を尻目に、ハナヒメは説明を続けた。
「あの霊樹は時間と共に朽ちますのでご安心下さい。それと、霊樹の花粉は鎧獣騎士にのみ反応するもの。人や鎧獣が吸い込んでも何も起きません」
「至れり尽せりだねえ……」
ギルベルトが半ば苦笑を浮かべながらぽつりと漏らした声に、ハナヒメは笑顔で補足を付けた。
「あと、鎧獣騎士を苗床にした霊樹からはネクタルの実が生えます。これは鎧獣騎士の回復と治療にも使えますから後で収穫して下さい」
つまり敵を倒した事で回復薬の極上薬箋のようなものも得られるというのだ。もう、感心する以外の感想が、誰からも出てこなかった。
「これが我が環国の誇る〝神樹の奏者〟軍荼利と、我が姉ユキヒメ・ウエスギの真の姿で――実力です」
目を輝かせて語るハナヒメの見る先には、碧く輝く霊妙優美な人鹿。
剣は鞘に収められたまま。
光りの樹々に囲まれて佇む姿は、異国の神話絵巻そのものだと、誰もが思った。
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★ユキヒメ・ウエスギ
三〇歳。
漢字で書くと植杉由貴姫。
ニフィルヘムの遥か西方、環の国の名門武家・植杉家の姫。
〝渾沌〟呂羽が起こした政変により故国をおわれメルヴィグに流れ着く。
四年前までは覇獣騎士団・肆号獣隊の次席官だった。
が、偶然の出会いから本来の騎獣である軍荼利を得て、さらに 覇獣騎士団の上官であったギルベルトの計らいで天の山に行き修行をし、彼女も真の実力を取り戻す。
その力は本編の通り。作中でも間違いなく上位に位置するだろう。
彼女の目的は一つ。怨敵である呂羽を討つ事。
果たしてそれは叶うのか……。
☆軍荼利
ユキヒメの鎧獣。
古代絶滅種・矢部大角鹿の鎧獣。
画像は鎧獣騎士時のもの。
または騎士ではないので鎧獣武士と呼ぶべきか。
環の国最強の四大明王の一騎。別名〝新樹の奏者〟。
擬似植物を生み出し、操る異能を持つ。
非常に珍しい〝鞘持ち〟の騎獣で、刀の銘は〝布都御魂〟という。
実はかなり特殊な来歴を持つ鎧獣なのだが、おそらく本編でそれについて触れられる事はないだろう。
なお、体毛が碧という特殊な色をしているのはいわゆる証相変ではない。
これは環の国独自の技術〝玉響〟によるもの。




