第四部 第五章 第一話(1)『昔語』
八年前――。
イーリオの相棒だったドグは、シャルロッタ、クリスティオ、当時はクリスティオの付き人だったミケーラ、そして覇獣騎士団のヴィクトリア、マルガと共に、当時の黒母教総本山メギスティ黒聖院へ乗り込んだ。
黒母教ナーデ教団、そして灰堂騎士団に捕えられた仲間、レレケを助け出すために。
その際、十三使徒の一人であるフランコ・ロッシーニによって、ドグは殺害された――はずだった。
ちなみにこのフランコとは、覇獣騎士団のマテューとしてメルヴィグ王国に潜り込んでいた人物で、後にイーリオとカイによって倒されていた。
イーリオはドグの命が奪われた瞬間を、今でもはっきりと覚えている。
大山猫の〝カプルス〟の鎧獣騎士になっていたドグ。
腹部を剣で貫かれ、返す刀で頭部も撥ね飛ばされた。
この目で見たのだ。
思い出したくもない過去だが、紛れもなく自分自身が見た光景だった。夢や幻だと思いたいし、今でもそうであってくれと願ってしまう――そのはずだった。
なのに今、目の前にそのドグはいた。
殺されたのではなく、イーリオには知られず、密かに生きていたのだと。
ドグは言った。
「首を飛ばされた時、カプルスが強制解除をしやがったんだよ。瀕死っていうなら俺だってそうだし、どうしてそんな事をカプルスがしたのか――」
この時だけ、ドグは痛々しい表情を浮かべた。
己の半身とも言うべき鎧獣が、自分を犠牲にして己を助けたのだから、当然だろう。どれだけ時が経とうと、癒えぬ傷もある。
その気持ちは、痛すぎるほどイーリオにも分かった。つい先だって、彼も同じ経験をしていたからだ。
「どうして俺を庇えたのか、俺だけを助けてくれたのか……今となっちゃあ、いや、例えその時でも分かんなかっただろうけど、あの一瞬で俺は強制的に鎧化を解かれた。イーリオの見たっつうカプルスの頭は、そのカプルスだけのもので、俺は斬られた反動で谷底に落ちたんだよ」
メギスティ黒聖院は峻険な山の岸壁に建てられていた寺院で、イーリオ達がその時戦った場所も、崖が近くにある場所だった。確かにドグの体が崖下に落ちていくのを、イーリオは目にしている。
だがこの目ではっきりとしたドグの死体そのものは見てはいない。何よりあまりの咄嗟の事で、強制解除されたのかどうかすら、分かっていなかったのだ。
「ドテっ腹に穴を空けられて崖を落ちたんだから、それだけでも死んで当然だったんだけどよ、多分強制解除のお陰か何かでカプルスの体が俺の下敷きになってくれたみたいでさ。しかも丁度雪の上だったから、かろうじて俺だけ死ななかったんだよ」
みたい、と言うのはこの時のドグは意識を失っており、話は全て彼自身も後から聞かされたものだからだという。誰から聞かされたのかと言えば、ギルベルトからだった。
その後、ザイロウの暴走と黒騎士との対決でメギスティは崩壊するのだが、その破壊からもドグは奇跡的に難を逃れられたとの事だった。落ちた崖下の位置が良かったらしい。
そうしてかろうじて生きていたドグは、ギルベルトに助けられ、彼の治療により何とか一命を取り留めたのだと言った。
「だったら――だったら何故、すぐ僕達に会わなかったんだ」
「会えなかったんだよ。重傷だったからな。喋るだけでやっと、自分で歩く事も、食べるのすらまともに出来ねえ有り様だったんだよ」
「……」
いわゆる寝たきり状態というものらしい。全身至る箇所の骨折に加えていくつかの筋肉は千切れ、内臓の損傷も激しかったという。目すら見えなかったし耳も聞き取れない。命があるのが不思議と言える状態だった。少なくとも、この世界のいかなる医術や治療術でも、彼が元通りになるのは不可能という見立てだった。
「で、そんな俺を見てギルベルトのおっさんが提案してくれたのさ」
「……提案?」
ギルベルトは、もしも万に一つの可能性で、もう一度動ける――いや、戦えるようになれるとしたらキミはそれに賭けるかい? とドグに尋ねた。
ただしそれには、相応かそれ以上の危険を冒さなければならない。命を失う事すら生温いと思えるような、生きているのを後悔したくなるほどの苦痛と地獄を味わうかもしれない。でもその代わりに、キミは途轍もない力を手に入れるかもしれない。それこそ、この世の誰にも負けないくらいのね。どうする? キミはそれに賭けてみるかい?
ドグの答えは決まっていた。躊躇う事もなく「賭ける」と言ったのだ。
どれだけの地獄だろうが構わない。彼は誓ったのだ。イーリオの相棒で居続けると。彼の傍らで、彼と共に戦う存在になると。
しかしそれには、どのみち動けるようになるだけでは駄目だ。
イーリオは百獣王の弟子になり、既に高みへと踏み出している。けれども自分はそれに遠く及ばなかった。カプルスが愛獣だったからではない。彼自身の実力が、イーリオと並ぶに足るものではなかったからだ。
その結果、メギスティで己とカプルスを犠牲にするような代償を払う羽目になったのだとも言える。
その事を、ドグは苦しいほどに痛感していた。だから二つ返事で答えた。
例えどんな地獄だろうと、あいつの隣に並べない事に比べたら、どんなだって痛くも何ともねえ。俺はあいつの隣に並べる人間にならなきゃいけねえんだ――と。
「ちょっと待って。確かレレケは、ドグの遺体の一部を見たって言ってたよね? あれはじゃあ一体……」
以前レレケは、先ほど戦った十三使徒のグノームについてそのように答えていた。だからグノームはドグとは違う人物だと、彼女はイーリオに説明したのだ。
「えっと……その……ご免なさい……!」
「――え?」
「ドグ君が生きてるっていう事自体は、私も知って……ました。本当にご免なさい、イーリオ君!」
レレケが深々と頭を下げるのを見て、イーリオは当惑する。謝った事にではなく、自分だけが知らなかったんだという衝撃で。
「は、はぁ?! はぁぁぁ?!」
「ご免なさいぃ……」
すごく丁寧に謝罪しているものの、最後にペロリと舌を出してるあたり、どこまで本気なのやらとドグは少し呆れた。
「……じゃ、さっき泣いてたのは何なの……。レレケも僕と一緒だから感動したんだと思ってたのに……」
「あ、その、感動したのは本当ですよ。気持ちはきっと、イーリオ君と同じです。ドグ君が生きてた事は知らされてましたけど、私は一度も会えてなかったですから。つまりですね、私は結局メギスティに連れられる前、怪物が出たモンセブールの街からずっと今まで、ドグ君に会えていないんです。私にとってはイーリオ君以上の本当に久々……そうですね、九年ぶりくらいでしょうか? ――の再会なんですよ」
何故か誇らしげに言うレレケに「そういう事じゃないでしょ……」と顔を引き攣らせるイーリオだったが、これに対しドグが助け舟というか補足で説明した。
「俺が生きてるって事をイーリオに言うなってしたのは、おめえの師匠なんだよ」
「師匠? カイゼルン師匠が? ど、どうして?」
「俺もさ、自分が生きてるって事ぐらいはおめえに知らせたいって言ったんだよ。けどカイゼルンのおっさんは駄目だっつったんだ。あの時のおめえがカイゼルンの〝本当の〟弟子になるには、おめえを安心させるべきじゃない、どん底に落ちて、そっから這い上がれるかどうかでもしないと、おめえは一皮剥けない。――そんな風に言って、絶対に知らせるなって全員に禁じたんだよ」
「ん? ……全員……? 全員って、まさか……」
「全員は全員だな。リッキーの兄貴も、レオポルトの王さんも、クソいけ好かねえクリスティオもみんな、あの時おめえの事を知ってた全員、俺が生きてる事は知ってたよ」
イーリオは更に愕然となる。
そう言えばリッキーも、ドグを弟分のように可愛がっていたのに、自分ほどは悲しんでなかったようだった事を思い出す。それだけ自分にとってだけドグが特別な友人なんだと思ってたが、あれはそういう事だったのか――。
そこまでを思い出し、同時に全てに嫌な意味で合点がいった事で、イーリオは頭がクラクラとなる。
「ちょ……ちょっと待って。整理が……心の整理が追いつかない……」
そんなイーリオの姿に、ドグは笑いを堪えながら続けた。
「まあギルベルトとカイゼルンの二人のおっさんが元凶なのは、間違いないな。多分、今頃ギルベルトのおっさんも他の連中からこってり絞られてると思うぜ」
そうしてギルベルトが言った〝賭け〟というのが、天の山にドグを預ける事だったのだ。
「天の山には古獣覇王牙団がいる。ってか、天の山に封印されてるし、そこを守ってんのがアルタートゥムなんだけど、そのアルタートゥムの一人にイカれた……まあなんつうか博士みたいなのがいてよぉ、そいつが俺を治療してくれたんだ」
その治療が、地獄のようなものだったらしい。
正確には治療行為そのものではなく、治療の後遺症や、術後にくる常軌を逸した激痛などがそうだった。
気が狂いそうになる――そんな表現が生温く思えるほどの酷痛を乗り越え、やがてドグの体は、どうにかして回復を果たす。だが地獄は、それでもまだはじまりでしかなかったのだと言う。
そもそも――通常、天の山に人が足を踏み入れる事は出来ないし、何より治療などどれだけ願ってもしてくれるものではない。だがギルベルトは、ドグがアルタートゥムに入る事を条件に、治療を依頼した。
丁度アルタートゥムの側でも新しい人員を欲していた時らしく、そのお眼鏡に叶えばという事で引き受けてくれたらしい。
そして入団の試験やその後の修行を超えた拷問以上の恐ろしい日々こそが、本当の意味での地獄――筆舌に尽くしがたい年月だったのだ。
「まあ……今でもこの八年間を思い出すと、ゾっとするぜ……」
前とは全く違う、一流の騎士――いや、戦士のような物腰、風格を漂わせるようになった今のドグをして、顔を青ざめさせるような日々とは一体どんなものだったのか。声色を耳にしただけで、イーリオとレレケらの背筋もうすら寒さを覚える。
しかしそれにしても、どうしてギルベルトはドグを古獣覇王牙団に誘ったのか。その理由をイーリオが尋ねると、
「それについては俺もよく分かんねえんだよな。前任の〝最強の牙〟の死期が近かったってのはあるだろうけど、何で俺かっつうと……。俺に才能があったって事かもな?」
言った後で「そんなはずはねえけどよ」と言ってカラカラと笑うドグ。
「実際のところは、〝賭け〟だったんじゃないか、って思うよ。ギルベルトのおっさんも、俺が本当にアルタートゥムになれるかどうかなんて思ってなかったっつうか、あわよくばぐらいで俺を放り込んだ。で、結果的に俺はその賭けに勝ったってとこなんだろうな」
平然と気負いもなくドグは言うが、いくら八年の隔たりがあったとしても、先ほどの動きの凄まじさを思い出せば、それが決して気楽に勝ちの目の出る賭けではない事ぐらい、誰だって分かる。
却説、ドグがアルタートゥムに選ばれたの理由の本当のところについてだが――。
これについては、後になってギルベルトが以下のように語っている。
「ドグ君を選んだ理由? 確かにドグ君には才能なんて欠片も感じなかったし、才能ってだけならウチの団員の方がよっぽど上の人間がいただろうね。席官にもなれば余計そうだよ。ま、才能だのってのと違うのは確かだね。選ばれるための特殊な条件? そんなものぁ、ないさ。強いて言うならたった一つ。たった一つだけ、それが出来そうなら、アルタートゥムには入れる。それこそが、ドグ君を見込んだ理由だね」
ギルベルトは言った。
それは生き延びれるかどうか――。
それだけだと。
「地獄の試練――なんて言うと安っぽくなっちゃうけど、本当にそうとしか言い様がないんだよ。例えばそう、生きながら手足を捥がれて目をくり抜かれ、それでも死ねなくて戦わなきゃいけない。体が粉になっても生き続けて前に進まなきゃいけない。そんな責苦を毎日毎時間ずっと耐えなきゃいけないとしたら、出来るかい? もう嫌だ、死にたいなんて言えない。言ったら最後だ。それをずうっと続けるんだよ? 拷問なんて優しいものじゃない本当の生き地獄を、いつ終わるとも分からない時間の中で過ごす――ボクはね、ドグ君ならひょっとしてそれが出来るんじゃないかって思ったんだよ」
その確証は何なのかという問いに、ギルベルトは続けて言った。
「彼がメギスティで奇跡的に生き延びる事が出来たっていうのはある。でもその運の強さだけじゃない。彼はね、イーリオ君を信じると言ったんだ。――もしかしたらキミが試練を果たしても、イーリオ君は死んじゃってるかもしれないよ? もしくは彼が進む事を諦めちゃうかもしれないし、シャルロッタちゃんを奪われて自棄になっちゃうかもしれない。そうなったらキミの費やしたものは無駄になるんだよって聞いたんだ。そしたら彼は間髪入れずにこう言った。『そんな事には絶対ならない。あいつは、絶対に俺の前にあらわれる。最高の騎士になって』ってさ。何度聞いても譲らないの、彼。絶対、間違いないって言い続けたんだよ。――信仰っていうのとは違うかな。ああいうのを、魂の絆、なんて言うのかもしれないね」
言ってみれば、ドグの揺るぎない思いに、ギルベルトは賭けたのだとも言える。
八年という、常人ではおよそ思い続ける事すら不可能な年月を、ドグは微塵も揺るぎないままでい続けたのだ。
そんな事、現実に出来るものではない。有り得ないし、あったとすれば狂気の沙汰――誰もがそう言うだろう。
しかし現実に、彼は揺るがぬままでいる。
それが答えで、全てだった。
狂気すらとうに凌駕した信念と、情愛や友情などを遥かに超えた信頼を持ち続ける事は、可能なのだ。
※※※
これとは別に、少し後の事――。
帰路に着いた銀月団の三名に事情を説明しつつ、ギルベルトは一行を引き連れて、無事に王都へと辿り着いていた。
その一行には、今述べた銀月団の団員三名に加え、天の山から下山した元・肆号獣隊・次席官のユキヒメと彼女の妹ハナヒメも同行している。
ところが王都へ帰還した直後、意外な驚きが彼らを待っていたのである。到着したそこで出迎えたのは、ミハイロ、そしてバルバラの両名であったのだ。
二人はユンテやゾラと同じく銀月獣士団の団員であり、ゴートの帝都脱出の際に、イーリオらからはぐれてしまったのである。
帰還した獅子王宮の貴賓室で二人に出迎えられ、銀月団の全員が目に涙を浮かべながら無事を喜びあった。
「良かった……。本当に……」
ミハイロとバルバラは、それぞれ帝都の外で互いを見つけ、ここまで一緒に辿り着いたのだと言う。
「本来、僕の〝ジムルグ〟ならバルバラさんお一人ぐらい運べますし、すぐにここまで来れたはずだったんです。けど、そのジムルグが深い傷を負ってしまって回復に時間がかかってしまい、こんなに遅くなってしまいました……」
だが再会の喜びも束の間、レオポルト王へ帰着の報せをする間もなく、慌ただしい凶報が彼らの耳にも入ってくる。
彼らが到着したのとほぼ同時に、またヘクサニアが王都を襲ってきたというのだ。
少し前、ギルベルトらが王都を出立した際にも大規模な侵攻があったが、実はこの旅路の間にも、王都は度々小規模な襲撃を受けていたという。
絶え間なく、そして執拗且ついつ何処からくるかも分からない攻撃に、さすがの王都も守護をする部隊も、無視出来ぬほどの被害を受けていた。
それがまさに今、ギルベルトらの帰還と同時に起きているというのだ。
「まあったく、帰って早々にこれとはねえ。敵さんのいやらしさにはほんと参るよ」
ギルベルトがぼやくのも仕方のない事だろう。彼らとて激闘を潜り抜けた上に旅の疲労も抜けきれてないのだから、正直少しは体を横にしたいと思うところ。
しかし連日の防衛にクラウスやレオポルト王まで駆り出されていたらしく、となれば帰還した彼らもこれを座視するわけにはいかなかった。
だが、それに待ったをかける声。
「まあ待て、ギルよ」
「ユキヒメちゃん?」
覇獣騎士団の時とは違う、異風でありながら高貴な着物に身を包むユキヒメが、迎撃に出ようとする全員を押し留める。
「ぬしらもかなり疲れておろう? そんな状態で出ては無駄に怪我人を増やす事にもなりかねん」
「気遣ってくれるのは有り難いんだけどさあ、そういうワケにもいかないじゃない」
「だから待てと言うたのだ。ぬしらは全員、体を休めておくがいい。ここは私だけで、敵を迎え撃ってみせよう」
大言――それはユキヒメからは最も遠い言葉である。
その事をギルベルトは誰よりも知っていた。
だから驚いたのだ。いくらユキヒメでも、一騎や二騎ではなく複数騎の角獅虎を一人だけで相手取るなど、無謀と言うしかない。
それが以前であれば、だが。
「一騎で……?」
「ああ。任せておけ。この三年の間に天の山で得た〝力〟ぞ。比ぶものなき力。それを今から、とっくりと見せてやろう」
角獅虎を侮っているわけでもない。その危険性も知っていて尚、ユキヒメは不敵に笑っていた。
「――そっかぁ……じゃあ見せてもらおうかな。極西一の戦士の実力をさ」
ユキヒメは妹のハナヒメに後を託すと、たった一騎で前線へと赴いた。
覇獣騎士団としてではない。
環の国最強の戦士として。
彼女本来の姿となって。




