第四部 第四章 第三話(終)『零』
2023 夏休み毎日投稿スペシャル3日目!!
両脇にアイダンとアリョーナを抱えた幻霊狩猟豹の人獣が、猛烈な速さで黒聖院の中を駆けている。
アイダンらの元へ戻ったヴィクトリアは、ゼロはどうしたという問いを無視して、強引に二人を抱えるとそのまま脱出の道を走ったのだ。二人には、駆けながら事情を話す。
「大丈夫。あのゼロです。彼ならきっと、後から追いかけてくるはずです。彼を信じましょう」
人に安堵を抱かせる、ヴィクトリアの柔らかな声音。けれどもその言葉を、誰よりも言った本人が信じていなかった。
仮にあのスヴェインをどうにか出来たとしても、時間がもうないのだ。既に黒聖院の中では、徐々に騒ぎが広がりつつあった。逃げるならば今この瞬間を置いて他にない。ゼロならばそれを分からぬはずがないのに、彼は囮の道を選んだ――。
ヴィクトリアが胸の奥で、締め付けられるような痛みを覚える。
しかし悔やむのなら、それはここから完全に逃げおおせてからだ。後でいくらでも、後悔に苛まれればいい。
この瞬間、何よりも優先すべきなのは助け出すべき命。
この二人を逃す事こそ、ゼロが命を賭した理由なのだから。
やがて灰の神殿から、奥殿へと抜けかけた時だった。
強烈な殺気を覚え、ヴィクトリアは人間には絶対に不可能な急停止をかける。
見れば己の進行方向の足元が、床ごとごっそりと抉られていた。瓦礫の損傷具合から、まさに今、そうなったのだと分かる。
「我々であれ侵入者であれ、灰の神殿から外に出るには、または外から神殿に入るには、ここを通るしかない。だったら、ここで待つだけでいい」
女の声。
神殿の柱から、巨体が姿をあらわす。
黒く濃い体毛を生やした、雄々しいツノを持つ人牛の術者。
だが、感知網を管理していた二人ではない。
黒灰色の特別製の鎧。手にする戦杖が、他との違いを物語っているようだった。
「神聖黒灰騎士団・十三使徒の第十使徒にして灰堂術士団の副団長。タマラよ」
その身に纏うのは、低木ジャコウウシという古代絶滅種。使徒にして術士団。それは騎士にして術者でもあるという事。
ここにきて、きわめて厄介な相手が目の前に立ち塞がっていた。
ヴィクトリアは、抱えていた二人を下に降ろし、後ろに退がるように合図する。
「ここまで忍び込んで来た事、そのお二人を攫おうとした事、どちらも不敬不遜にして邪悪ですが、よくやったものだと感心します。けれどももうおしまい。ここで私が始末しましょう」
どうする? 構っている暇などない。
けれども取るべき選択肢は―― 一つしかなかった。
※※※
ヴィクトリア達が奥に侵入してから、既に三〇分が経とうとしていた。
既に黒聖院の気配が、明らかなほど変わりつつある。寺院から距離をとった位置にいるエルンスト達にさえ、微かに声や音が聞こえてくるほど。
制限一杯。限界だった。
祈り続けるボリスに、目を固く閉じているシビル。エルンストも人獣の姿で、唇を噛む。
――もう、これ以上は……!
そこへ、体を跳ね上げて上を向くシビル=ゼイルナ。
ヨーロッパジャガーの瞳が、大きく見開かれていた。
「うわっと――! お、おい、何なんだ?!」
二人の驚きなどお構いなしに、シビルが早口に告げる。
「来た! キュクレインの反応!」
「何?! 本当か?」
「うん。伝環路が繋がっている。ボリスの術の効果が薄れたのもあるけど、近くに来ている証拠だ。で、でも――」
「でも、何だよ?」
「ヴィクトリア様の動きが止まっている。敵に阻まれているみたい。もう、気付かれたって事だ、これ。それに、反応がキュクレインしか感じない……」
「キュクレインだけって、どういう事だよ。まさか――」
「……分かんない。でも、このままじゃあヴィクトリア様もヤバいよ……!」
ボリスとエルンストが頷いた。
「出来るな、ボリス」
強く首を縦に振る、ヨーロッパピューマの人獣術士ボリス=バルクス。
「まずは俺からだ」
そう言って、エルンストが術式展開の動きを行う。
光がトリニルタイガーの体を走り、大きな呼気と共に不可視の虎となって吐き出された。
その虎が走り出した後で、ボリスも術を行う。焦りが動きに出そうになるが、いざという時こそ人の真価は出るものかもしれない。
吐き出されたピューマ達を散開させ、それの動きを特殊空間で操った。
「いいなシビル。お前の合図が頼みだぞ」
エルンストが言う。
シビルは身を固くして、「うん」と力強く返した。
この間、僅か数分にもなろうか。気の遠くなるような数分。
致命的との背中合わせの、短くも長い時間。
対峙するヴィクトリアが、意を決してタマラと刃を交わし始めたその直後だった。
ここぞとばかりにタマラが獣理術を出そうとした瞬間――
両者の間の空間に、幽けき光が吹き出したのは。
――?!
遠く離れた黒聖院の外で、シビルが叫ぶ。
「今よ、エルンスト!」
エルンストは最後の動きを見せる。
――極大獣理術〝覚醒令〟!
戦う二騎の前に割って入った光の虎が、弾けて消えた。それはタマラの方に向かい、人牛を包み込む。
「これは――!」
突如、タマラの耳に凄まじい爆音が鳴り響く。まるで鼓膜を微塵に砕き、世界を反転させるかのような死の大音量。しかしそれは、タマラの耳にのみ届いているもの。他の誰にも、何が起きたか分かっていない。
エルンストの纏う〝ゲドリア〟最大の術は、相手を機能不全にする幻聴を聞かせるというもの。これは一種の粉末による催眠なのだが、不意をつかれると防ぎようがない恐るべきものだった。
この一瞬が、タマラにとって致命的となる。
覇獣騎士団の密偵とは、あらゆる〝世の影〟の動きを求められるもの。その中には当然、暗殺もあった。つまりヴィクトリアは、暗殺者としても一流以上の技量を持つという事。
そして暗殺者の前で敵が僅かでも無防備な隙を見せるという事は、一つの意味しか持たない。
目にも止まらぬ速さで、幻のように幻霊狩猟豹が駆け抜けた。
それはまさに、光なき閃光。
キュクレインが元の位置に戻ったのと、人牛の首が地に落ちるのとが、同時だった。
深い息を吐く、ヴィクトリア。
そこへ、脳内に直接響く、掠れた声が聞こえてきた。
――主席官! ヴィクトリア主席官!
――その声、シビルね? ありがとう、貴方達に助けられたわ。
ヴィクトリアはアリョーナとアイダンを再び脇に抱え、駆け出しはじめる。
それと共に、ボリスの術式無効化の極大獣理術が、再び発動された。
※※※
左肩の防具は粉々に砕け、肩から下が動かせなくなっていた。
脇腹、足、頭部、千切れた尻尾。
傷の数など、もう数えきれない。
それでもゼロ=オルクスは、まだ立っていた。
目の前の怪物。それがいる限り、ゼロもまた屈するわけにはいかないと言わんばかりに。
コウモリの翼を背中に生やし、大型猫科猛獣の顔に、螺旋状に捻れたツノが頭部から生えた人型の異形。この世のどの種の人獣でもない、魔導士の邪智によって創り出された灰色の魔獣。
巨大フィリピンオオコウモリと初期型・角獅虎の融合した姿。
合成角獅虎〝マーリク〟。
その中にいるスヴェインが、己の纏う人獣の指先に力を込めた。
人差し指がなくなっているのは、ゼロが斬り落としたからである。が、それほどの負傷ですら、魔獣はまるで意に介していない。
「ふむふむ。動きもやっと戻ってきたか」
スヴェインはマーリクを鎧化した刹那、ヴィクトリア=キュクレインとゼロ=オルクスから超高速の不意打ちを受けた。その際、キュクレインからは鉄扇の攻撃だけを受けていたと思っていたのだが、実は捉えきれぬ一瞬で毒の獣能を打ち込まれていたのである。
そのせいで体が思うように動かせず、動きも何も不十分なまま、スヴェイン=マーリクは今まで戦っていたという事だ。そう、不完全な状態にも関わらず〝赤の一番〟のオルクスを圧倒し、嬲っていたのである。
だが、並の鎧獣騎士なら一撃で葬られるこの異能の毒も、この合成魔人獣には効かなかったらしい。耐毒性能まで怪物級という事か。
「ハァ、ん~、え~と、何だっけ? 怪盗騎士、じゃなくアクティウムの三色騎士だっけ? 君の奮闘は実に素晴らしいものだったよ。自伝にすればさぞや多くの吟遊詩人によって歌われる事だろう。でももうそろそろ、お仕舞いにしようじゃないか。私の〝マーリク〟の感覚も戻ってきたし、君の相手にも些か飽いてきたしね。大人しくそのタブレット――いや、女神の石板だね。それを渡してくれないか? そうすれば苦しまずに楽に殺してあげよう」
異形の魔人獣が、オルクスの腰にぶら下がった板に指をさした。
「……へっ、楽にね。お有難ぇ言葉だが、さっきカッコつけた手前、はいそうですかと頷くわけにはいかねえよ」
「まあそう言うだろうねぇ。難儀で面倒な事だ。君を解体す手間が増えてしまうよ」
「――が、そうだな。まあ、今更もう、命を懸けるのも馬鹿馬鹿しい話かもな」
「ほう?」
毛先が色素変種し、斑紋が赤茶色になった赤毛症の黒豹騎士が、剣先を下ろす。肩をすくめて構えを解く。
ここまできて降参なのか。それともこれも擬態なのか。スヴェインが魔獣の中で目を細めた。
どちらにせよ、〝混乱と争乱〟を司るエポスの己を惑わそうとするなど、無駄な行いでしかない。そんな余裕さえ、スヴェインにはあった。
「さすがはヘクサニアのバケモンだ。俺ごときじゃあどうにもならねえのは、自分のザマを見りゃあ分かる。いいぜ、返すよ。この石板をよ」
「ふん。強がりやハッタリならよしておきたまえ。今更君が獣能を使っても、ご自慢のヴァン流の技を出そうとも、君が敵わないのは最初から決まっていた事なんだからね」
「ああ、そうだな。最初から決まっていたよ。勝負はもう、とっくの昔についていたってな」
スヴェインが言葉の真意を読み取ろうとした瞬間だった。
合成角獅虎の巨体が前のめりに倒れるほど、巨大な爆発が起きたのは。
部屋にあったガラス状の物質や板、台座などが粉々に吹き飛び、室内が一瞬で炎に包まれる。
「な――」
再びの爆発。部屋の出入り口が瓦礫と共に崩れ去る。
「さすが覇獣騎士団特製の爆薬だなぁ。こんな威力の爆発、見た事がないぜ」
自身も爆風で体を吹き飛ばされながら、よろめくままに何とか立ち上がったゼロが呟く。
「爆薬――? 貴様、いつの間に……?!」
「石板を奪った時にだよ。その時にさりげなぁく仕掛けていたのさ。ま、こんな事もあろうかとヴィクトリアから受け取っておいて良かったぜ」
この爆薬は、ヒランダル黒聖院に侵入する前、ヴィクトリアが密かに持ち込んでいたものであった。F.L.A.G.の施設で、ゼロは目にしている。
この部屋に入る前に、ゼロはこれを受け取っていたのだ。脱出の際の大きな陽動になるだろうと判断しての仕掛けだったが、まさかこんな形になるとは――
「思ってもみなかった結果だが、上々だぜ」
スヴェインは歯軋りをする。
今ならマーリクの装甲と力があれば、自分だけはここから脱出出来るだろう。しかし石板の回収がまだだ。こうなればすぐにゼロを八つ裂きにして石板を取り返さねばと、怒りを滲ませて立ち上がった。
しかし、それを嘲笑うかのように、ゼロがスヴェイン=マーリクに向かって、腰に下げていた石板を放り投げたのだった。
――!
カラカラと音をたて、石板がマーリクの足の爪に当たる。
磨かれた鏡面。
――いや、それは鏡面のように磨かれたもの。
スヴェインの顔が、獣の中で歪む。
「……どういう事だ」
「だから渡すって言っただろ? 約束は守らねえ方だけど、その約束は守ってやったぜ」
「一体、いつ?」
「勘ってヤツさ。女神の石板を奪い返す事があるかもしれんよなぁと考えたらさ、偽物を作っておくのは常套手段じゃないか? それ、よく出来てんだろ? メルヴィグでも一番の石工に作らせたんだよ。この国に入る前にな。何、モノが単純な見た目だったから、それっぽく作るのは難しくなかったらしいぜ」
アイダンから女神の石板の話を聞いた時、まさにこれは運命だとゼロは思った。その意図に気付かぬヴィクトリアでもない。
ゼロはスヴェインが鎧化したあの瞬間、ヴィクトリアと交差して襲いかかった際に、本物の方の石板を、彼女に渡していたのだ。密かに。
「この――この私を、〝混乱と争乱〟のディユ・エポスを謀っただと?」
また爆発が起きる。
天井や壁に亀裂が走った。
ここは地下だ。もし部屋が崩れたら、いくら超常の鎧獣騎士でも、助かる術はないに等しい。
「これが貴様のやり方か。何が〝赤の一番〟だ。私を道連れにしようなど、千年早い――」
「〝天啓〟」
ゼロの号令。
ここにきて、オルクスの第二獣能が放たれる。
瞬間、魔獣の視界が歪んだかと思えば、いきなり目の前が真っ白に焼き付く。
「――ッ?!」
オルクスの異能は、どれも周波数を操るというもの。
通常の獣能は大気の周波数を操作して、任意の場所から己の声を響かせる技。そしてこの第二の異能は、周波数を更に強力に操作し、大気に集光レンズを瞬間発生させて視力を機能麻痺させるというものだった。
視界が奪われた事に、スヴェインが彼らしからぬ動揺を見せる。
咆哮をあげてよろめき、崩れた壁に足を取られて膝をつく。
例えいかなる時でも人を食ったような言動を崩さないスヴェインが、生き埋めになるかもしれないこの状況で、おそらく初めて醜態を晒していた。
「ああ、最後に訂正しておくぜ」
声が四方から谺しているように聞こえる。オルクスの異能なのか。それとも部屋が崩落寸前だからか。
「さっき俺は自分の事を〝赤の一番〟なんて言ったけどよ、ありゃウソだ」
「――?!」
「過去はどうあれ俺はもう怪盗騎士。昔の自分なんてそんなもん、とっくに忘れちまったよ。俺は徹頭徹尾、骨の髄まで大陸一の大泥棒、天下の怪盗騎士様だ」
天井が崩れ出した。
最後の爆破が終わりの振動を起こす。
「泥棒ってのはウソ付きだからよ。おめえを騙すなんざわけなかったぜ。見事に引っかかってくれたなぁ。〝赤の一番〟なんて大芝居をして、結局てめえは最初からこの俺に一度も勝てなかったんだよ」
「ふざ――ふざけるなッ」
「いいねえ。みっともない本性が剥き出しだぜ」
「ここが崩れようとも、このマーリクはこんな事でやられはせん。必ずあの覇獣騎士団もこの手で捕まえて八つ裂きにしてやる。タブレットも奪い返す。必ずだ」
「はぁ、だから言ったろ? あんたは一度も勝ててないって。俺らの目的があの石板だなんて誰が言ったよ。目的なら、完全に達成してるぜ」
これは予想でしかなかった。
しかしゼロは確信していた。アリョーナ達は、助け出されていると。
「何だと……」
「何も分からねえまま、ここで大地に埋もれな。――てめえの命をゼロに返し、てめえら全員の野望をゼロにする。俺は怪盗騎士ゼロだ」
最後の一言は、崩れる音と共に掻き消されてしまう。
ヴィクトリアとしたデートの約束を、やはり破ってしまったなと苦笑を浮かべながら、怪盗は歴史の闇に消えていった。




