第四部 第四章 第三話(1)『教都潜伏』
広場の中央にあるオプス女神像にむかって、行き交う誰もが拝礼をしていた。
美術的価値や観光的な意味でないのは言うまでもない。それは純粋な敬虔さからくるものであり、礼を行わぬ者など、ここに誰一人としているはずがなかった。当然、ごく自然な振る舞いで、ゼロも女神像を拝む。
都市の西寄りの場所に広場はあり、周囲は黒母教の教会ばかりが見えた。
居住区や市場なども当然あるのだが、ただ、一個の都市にしては教会の数があまりに多い。しかも黒母教の教会ばかりである。
それもそのはずだろう。ここはヘクサニア教国の首都。
教都ゼムンなのだから。
女神像に拝礼したのは、古物商に姿を偽った怪盗騎士ゼロである。
かつてこの国がトゥールーズ公国と呼ばれていた時代、このゼムンにこれほどの数の教会寺院があったわけではなかった。何より、その時代の黒母教の教会は一つだけである。
しかし今はその全てが黒母教の教会として再建され、しかもその数を増やしていた。
また、ゼロの拝礼した女神像もそうだが、黒母教の名の通り、教会や関連施設はどれも黒を基調としており、それだけに街の至る所で黒色の壁やら灰色のオブジェやらがあって、妙に重苦しさを与えている。
とはいえ、そんな不敬な発言を実際に口にする者などいない。ゼロとて心の中で思うだけで、態度や表情にそんな素振りは微塵も浮かばせなかった。
それは偽りの信者という事をばれないようにするためというのもあったが、それにしてはいささか過剰すぎる気の配り様にも思えた。だが、そうせざるを得ないのだ。
ゼムンに入ってから――いや、入る少し前から、ずっと張り付いている感覚。
――見張られている。
どこかで誰かが、凝っとこちらを見ている様な不快感。
己の正体が既にばれているというのだろうか。
ばれていて尚、〝敵〟から泳がされているのか。
まさか――そんなはずはない。
ないはずだ――と思う一方、神経に張り付いたこの感覚も否定出来ない。
怪盗騎士ゼロが、古物商のダンテ・ロットという偽名を使って十三使徒のグノームに近付き、共にこの教都へ入ってはや数日。そのグノームとは既に別れており、彼はもう城の中に入っていた。
一応、商い以外に黒母教信徒として巡礼に来たのが目的としているため、数日の間ここにいる事に怪訝しさはないはずだった。むしろ信徒が巡礼目的で聖地に来れば、数日間この都市で滞在するのは、ごく当たり前の事だろう。
それでも、いつまでもここに滞在するわけにはいかない。
あまりに長く居れば、いずれ周囲から怪しまれるのは必然だろうし、そもそもゼロの真の目的は、攫われた女性――シャルロッタの世話係であったアリョーナを助け出す事である。
攫ったのが教王ファウストの一行だったからこの教都に目星を着けたのだが、それとて確かな証があるわけではない。
その意味でも、確実な居場所をいち早く調べて助け出したいのだが――。
この見張られている様な感覚といい、そして主城ガムジグラード城に入る術が見つからないのもあって、どうにも手詰まりになっていたのだ。
――せめてこの妙な〝感じ〟がなけりゃあな……。
それだけで格段に動きやすくなるはずだったが、天下の大怪盗と嘯くゼロを以ってしても、その正体が何なのか皆目見当がつかないのである。
もしくは何かを切っ掛けに、この見張りの様なものの方から接触をしてくれば、それを糸口にするという考え方もあった。だから今もこうして、教都の中を巡礼するふりをしたり、商売をする恰好をとって街を歩いているのだが、成果は得られていなかった。
――いざとなればイチかバチか……。
無理を承知で、城の中に潜入する――それを辞さない覚悟もあった。ただしそれは最後の手段だ。まだその賭けに出るのは早いという、冷静さも失われてはいない。
それでも悠長な事をしていたら、攫われたアリョーナがどんな目に遭わされているか分かったものではないだろう。
焦燥感ばかりが募るが、ここは敵中真っ只中なのである。一歩間違えれば木乃伊取りが木乃伊になってしまうのは分かっているのだが――。
こうしてまた一日が無為に過ぎてしまったと後悔を抱きながら、泊まりの宿へと戻るゼロ。
明日はまだ行ってない東地区の方に足を伸ばすか――などと考えながら、自室の扉へ近付いた。
直後――。
全身に電気が走った様に、入り口の扉から一歩後退する。
気配を感じた――というより、勘に近いものだった。言葉に出来る様な明瞭なものではない。だがゼロにとって、この違和感は明らかだった。
素早く判断する。
この瞬間、この機でこの状況。
敵からの接触? はたまた協力者?
いや、ここにゼロの味方など、いるわけがない。おそらく――いや、間違いなく敵からの接触だろう。とすれば罠か。
この誘い、果たして乗るべきかそうすべきでないか。
だがこういう出方を〝敵〟がしてきたという事は、どちらにせよこちらの存在は確実にばれているという事だ。だとすれば、様子見という線は考えない方がいい。どこまでばれているのか分からないが、少なくとも〝敵〟が捕縛か抹殺かを自分に行おうとしているのは想像に難くない。
ならば離脱すべきなのが最良であった。
けど――
迷う最大の理由は、ここに己の鎧獣〝オルクス〟がいないからだった。
これほどの規模の都市であるし、何より黒母教では鎧獣の扱いがかなり他と異なっているのだ。一番安全と思われるF.L.A.G.などの獣猟団の施設に預けるのが当然だったし、それは仕方ない事だった。
おそらくオルクスの所在も、〝敵〟に掴まれているのだろう。いや、既に抑えられている可能性の方が濃厚だ。となれば自分は、身ぐるみ剥がされたのも同然に近い。今更どう足掻いたところで、どうしようもないのかもしれなかった。
ならば敢えて火中の栗を拾いにいくべきか――。
――いや。
それは一か八かの賭けではなく、投げやりな思考だろう。まだ、詰んでしまったわけではないはず。
この間、僅か数秒にも満たない思考時間だったが、瞬時にゼロは決断する。
扉から音をたてないように後じさり、気配を殺して立ち去ろうとした。
その時だった。
「動かないで」
真後ろ。ピッタリと張り付いていた。
腰の少し上、背中に固いものが当たる。尋常ではない気配だった。
「騒いでは駄目よ。動きもそのままで」
若い女のものだった。
声――覚えはなかった。
何よりも衝撃だったのが、部屋に入られた事や自分の素性がばれた事より、今この瞬間、全く気配を感じさせずに自分が背後を奪われた事だ。
油断していたのかもしれないが、それでもこんな事、人生で初めてだった。
「あんた――」
「しっ――何も言わない。黙って部屋に入って」
背中に当たっているのは刃物の類いだと推察出来る。隙などまるでなかったし、隙をこじ開ける事も許さない圧力があった。
ゼロは小さく溜め息をつくと、後ろの女の声に従う事にした。
部屋に入ると、寝台の上に腰を下ろしている別の女性が一人。
見覚えのある奇妙な形状の眼鏡をかけ、手鏡の様なものを凝っと見ていた。
「いいわ。こちらを向いて下さい、ゼロ・ゼローラ」
――おや?
入室と同時に気配が変わる。
その変化に察するものがあり、ゼロは僅かに黙考した後で、後ろを振り返った。
立っていたのは、焦茶色の髪を肩の上で短く切り揃えた、品のある顔立ちの女性。瞳も同色で、薄桃色の唇はどこか艶めいて見える―― 一言で言えば美女だった。
だが妙な事に、どうも存在感が希薄というか印象の残らない不思議な空気を纏っている。
視線を女性の腰あたりに落とし、突き出しているのが剣ではなくペンだと知ると、ゼロは自嘲するように苦笑いを浮かべた。
「剣よりもペンの方が強い――ってか? まさかそんなド定番に引っかかるとはね……。で? あんたは? ヘクサニアじゃあないみたいだけど」
「ずっと誰かに見られている――。そんな風に感じていたのではないですか?」
質問に質問で返されて面食らうも、まさにゼロの中でわだかまっていたものを言い当てられ、思わず言葉に詰まる。
「その感覚、この瞬間もまだありますか?」
言われると、ずっと張り付いて消えなかった嫌な感じが、今はなくなっている。教都に入って初めて、ほんとの意味で自由になれたように思えた。
「どういう事だ……?」
「むしろこの見張りを感じ取れる貴方の方が、凄いと言うべきでしょう。これは普通の人、それどころか腕の立つ騎士や感覚の鋭い人間でもほとんど感じないものです。――これは、このゼムンという都市全体に張り巡らされた結界のようなものが、その正体なのですから」
「結界?」
「イーリオ・ヴェクセルバルグのご友人である貴方なら、聞き覚えも見覚えもあるでしょう。これは獣使術です。複数人の理術師によって、ゼムン全体を覆う恰好で獣使術の結界を張っているのです。この街を監視するために」
獣使術というのもそうだが、それ以上にイーリオの名を出された事で、ゼロの思考は瞬時に回転する。そこから導き出される答えは――。
「あんた……もしかして、覇獣騎士団か……?」
「さすがですね。如何にもそうです。私は陸号獣隊・主席官のヴィクトリアと申します。そこの彼女は覇賢術士団の術士でシビル。ヘクサニアの術士が張っている結界を、彼女が〝術〟によって遮断させているのです。だから今この瞬間は、私たちも見張りの視線も気配も感じない」
答えを当てた事よりも、ある種、盗賊などとは不倶戴天に近いとも言うべき国家騎士団、それも隠密斥候に長けた部隊の隊長がここにいる事、何より自分に接触してきた事に、ゼロは少なくない動揺を覚える。
とはいえそれを今更聞く事の野暮というのもあるが、驚きが勝っていたのもあって、己の感じた思いをゼロはそのまま口にした。それに対し、ヴィクトリアは微笑んで返す。
「仰る通り、国を守護する国家騎士団と怪盗殿は、あまり親しみを覚える間柄ではないかもしれませんね。でも、敵の敵は味方と言うではありませんか」
「メルヴィグにとっても共通の敵ね……そりゃあ分かる。けど、あんたらの目的は何だ? 俺に接触をした事もそうだが、何をしようと考えてる?」
「先ほどから質問に質問を返して申し訳ございませんが、むしろそれは私達が貴方に尋ねたいところです。貴方がイーリオ君の元にいた、攫われた世話係の女性を助け出そうとしているのは知っています。怪盗と言えど義賊、立派な義侠心――と言いたいところですが、それにしては些か過剰に過ぎるのでは? どうしてそこまでされるのでしょう? こんな命懸けの綱渡りをしてまで助けようとするのが、どうにも腑に落ちないのですが」
「確かに質問に質問ばかりだぜ。……けどまあ、正直そりゃそうだよなぁ。妙にしか見えねえかもな。赤の他人の娘っ子一人を、こうまでして助け出そうとするなんて、普通はしねえもんだ。ましてや俺みたいな人間は特にな」
「いえ、人の良さというのなら納得のいく話ですよ」
にこりと笑みを浮かべるヴィクトリア。
人を馬鹿にしているというより、ゼロの全部を見透かしているような、それでいてそれが不愉快でない様な底知れなさを覚える。
「……あんたなら、俺が元々どういう人間だったかって事まで知ってんだろ?」
「アクティウム時代の事なら、それなりには」
「ハァ……知っての通り俺は人を斬れねえ。三色騎士なんて呼ばれてた時だ。あのマチルダ広場の騒乱で、戦いとは無関係の母子をこの手にかけちまってから、そうなった。あれ以来、俺は剣を握るとその時の情景がどうしても浮かんじまって、両手が震える。体が固まるんだ。だから俺は怪盗になった。一般庶民にゃまるで関係のねえ、雲の上のようなお宝を盗み、それを売り捌いて土地を買う。そんでそれを元手にして、戦で救われなかった人間や巻き込まれた奴らを匿う〝国〟を作ろうと思ってんだよ」
いきなりの独白とその内容に、思わずヴィクトリアが目を丸くする。
「ンだよ、その顔は。分かってるよ、夢みたいな話だってな。でも俺はな、剣を振る事が出来なくなった時に思ったんだ。剣で人を助ける事が出来ないなら、剣で傷ついた人間を救うような場所を俺の手で作ってやるってな」
「それは……それはまた、予想もしていなかった話です。壮大で――大変素敵な目標だと思いますよ」
「馬鹿にしてんだろ」
「いえ、心の底から素敵だと思います。本当に。――それで、その貴方の夢がどうなさったのですか?」
「人を救うために盗みをしてる俺が、俺のせいで友人の大事な人間を〝盗まれ〟ちまったんだ。怪盗騎士なんて名乗ってる俺がだぞ? 俺は一体何のために今まで盗みをやってきたんだって話だよ。仲間も殺され、人も盗まれ――こいつをそのままにするなら、俺は怪盗騎士なんて名乗るべきじゃねえ。盗まれたら盗み返す、それが怪盗騎士ゼロだ。――それだけだよ」
話してる間、ヴィクトリアはゼロの目を凝っと見つめていた。こちらの心奥を全部読み取ろうとするその目は、他にはない独特の鋭さがあった。
王族や貴族、庶民や下層民、騎士や盗賊など、この世のどの階層の人間であろうとも、どれも等しく見定めてしまう様な強い眼差し。
「――私達がここに潜伏しているのは、ヘクサニアの内情を探るため、そして彼らの主力兵である角獅虎について何か情報が得られないかを探るためです」
覚悟を決めたかのような告白に思えた。
ゼロは黙って耳を傾ける。
「角獅虎についての研究は本国でも行われてますが、直接的な糸口がないか、それを探るためにここに潜伏していました。それと、彼らの中枢となっているエポスという魔導士や神女ヘスティア。その者らについての情報も探っている、というのもあります」
「まあ分かる話――ではあるな。確かにヘクサニアどもに手を焼いてるのはどこも同じだろうし、ここを探るのは当然だろうよ。でも、黒母教で固められたこの国に、よくまあ入れたもんだな。そこの女の子の術とやらもあるんだろうけどよ」
「逆です。そんな場所だからこそ、まだここ止まりなのです」
「……なるほど、アンタら音に聞こえた覇獣騎士団の陸号獣隊ですら、長年時を費やして、やっと教都で潜伏するのが精一杯、って事か」
「ですからここは一つ、手を組みませんか?」
そうくるだろうとは察しがついていたが、それでもゼロの目に不審さは浮かぶ。
互いに動機も話し、目的もはっきりしている。そのためにお互いが力を貸す。
理に適った提案にも聞こえるが、そこには裏がある――そう、ゼロは判断した。
「こういうのはよ、頭数が増えると動きが鈍くなるもんだ。己の身一つだから可能だって事もある」
「大所帯ならそれもそうでしょう。けれども私と貴方ぐらいなら変わりはしない。いえ、むしろ動き易くなるもの。違いますか?」
「……」
「それに貴方は、侵入にかけては我々にも匹敵するかそれ以上でしょう。けれどもヘクサニアが張り巡らしているこの獣使術の監視網をどうにか出来る手は、貴方にはない。反対に私たちは、この監視網を潜る手立てはあるが、潜入にかけて今ひとつ決め手に欠けています。出来れば、侵入の技に腕の立つ人間がもう一人欲しい。となれば、答えは自ずと明白ではないでしょうか?」
完全に疑問が氷解したわけではなかったが、それでも筋は通っている。何より今のゼロにとって、この監視網に対処出来るという点は、何にも増して代え難かった。
「具体的にどうしろと?」
「貴方が探している彼女は、おそらくここにはいません。いるとすればこのゼムンのはずれにある黒母教の総本山ヒランダル黒聖院でしょう」
「その根拠は?」
「神聖黒灰騎士団の手の者が、若い娘を攫っている。そのような情報が我らの耳に届いています。それらの痕跡を追った先にあったのが――」
「ヒランダルって事か……」
ヴィクトリは頷いた。
「貴方は私たちとヒランダルに潜入し、最深部にいるヘスティアの状況や彼らの国家最高錬獣術師であるイーヴォ・フォッケンシュタイナーの研究記録――いえ、その核となる研究そのものを探る手伝いをして下さい。我々も貴方が救けようとしている娘さんの救出のお手伝いをします。いかがですか?」
ゼロは思考を回転させた。
このところ、誰かと組んで上手くいった試しがないというのもあったが、余計な事に関わる事で増える負担というのも懸念材料としてあった。しかしそれと天秤にかけても、まるで見当もつかない残り時間を加味すれば、出てくる答えはこれしかなかった。
「いいだろう。手を組むぜ」
その一言に、ヴィクトリアが貴族の淑女そのものの優しげな笑みを浮かべる。
差し出された手を握った後で、ゼロはふっと思う。
ずっと術をかけ続けている術者の女性にも握手すべきかどうか――。
結局ゼロは、「よろしく」と言うだけにとどめた。何となくだが、そうするべきだと思ったからだった。




