第四部 第四章 第二話(3)『血盟騎士』
レオポルトが無言のまま、カイの頬に手を添える。
硬く目を閉じ、そして開いた時には、そこに何かを堪えた顔の、王がいた。
「穏やかな顔だ」
顔から手を離し、ギルベルトを見る。
「彼は苦しまなかったんだね」
「はい。マンドレイクの綿で眠ってもらい、手術を致しました。切除の跡も縫合してあります」
マンドレイクの綿とはこの世界、この時代の全身麻酔法の事である。
「イーリオ君」
突如レオポルトに名前を呼ばれ、イーリオは当惑しながら「はい」と答える。
「ボクはさっき、命を捨てる覚悟が出来ていると言ったけど、それはね――嘘なんだ」
「陛下……」
「命が惜しいとか死ぬのが嫌だとか、そういうのじゃない。ボクはキミに感謝していたんだ。ボクはこのホーエンシュタウフェン家に伝わる呪わしい伝統を、ずっと憎んでいた。どうしてこんな伝統を続けなきゃいけないんだと。だからボクは、妻をとる事さえしたくなかったんだ。だからね、キミとはじめて会った時、ボクは心の底から嬉しかったんだ。やっと――やっとこの呪いから解放してくれる者があらわれた、と。そしてボクを最後にして、この呪いから解き放たれるんだと思うと、本当に安堵した。――ボクはね、覚悟を決めて犠牲になろうとしたんじゃない。ボクは逃げたかったんだ。王家の呪いから、ボクを縛るこの戒めから。ボクは犠牲になるふりをして、ただ自分勝手な思いのために命を捧げようとした、ただの死にたがりだったんだよ」
「……」
「多分カイは、そんなボクの事を見透かしていたんだろうね。死んで逃げるなんて、許さないって」
ずっと俯いたままの顔が、上げられる。
その顔は、いつものレオポルト王のものに近かった。しかし笑顔の上に塗られた色は、いろんな感情を全て飲み込んだ者だけが放つ、とても重い色だった。
「ギルベルト」
レオポルトの声に、彼が「はっ」と反応する。
王はギルベルトを従えてイーリオに近付き、「ザイロウの神之眼は、持ってるね?」と尋ねた。
どういう事かはわからぬものの、大事なはずのザイロウの形見を、イーリオは言われるがまま差し出した。
ギルベルトはそれを受け取ると、溶液に入れていた第一物質・霊化玉をその中に入れる。
二つの結石は溶液の中でぶつかると、籠ったままの甲高い音を響かせ、僅かながら発光をしはじめる。
全員の目が、そちらに集中した。
誰もが見た事のない不思議な光景。
錬獣術に通じるレレケでさえ、どういう現象かは分からない。
「僕も初めて見る。神之眼と霊化玉の融合現象だ」
ギルベルトの説明に、どういう事かとレレケが尋ねる。
「霊化玉というのはね、分化させた魂を集めて固めた結晶体なんだ。実はあのアゾトの泉で出来るこの結石に秘密があるんじゃなく、泉の水を使う事こそが重要なんだよ。あの泉の水を人間が浴びると、〝魂の欠片〟みたいなものがその人間からごく微小に剥離していく。結石はそれの結晶体。そうして何百年に渡り泉の水が使われる事で、泉の水は純度の高い魂の結晶を溶け込ませる事になる。つまりカイ殿下やレオポルト陛下の結晶は、まさに高純度の最も望ましい魂の水で出来た結晶体って事なんだ。そうしてそれは神之眼と反応する事で、神への道を指し示す、その光になる」
光に満ちた短筒から、ギルベルトが注意深く結石を一つだけ取り出した。霊化玉だ。
それはまるでとても小さな太陽のような眩さを持ち、周囲を光で溢れさせていった。
光の中には無数の虹色の粒が踊り、さながら万華鏡の中に自分たちが放り込まれたような錯覚さえ覚える。
「これで準備は出来ました。霊化玉はザイロウの神之眼から魂の欠片を受け取り、ウルフバードに必要な〝魂の核〟となった」
ギルベルトがそれを布包みに入れると、光は革製のそれの中に封じ込められる。
あたりに薄暗さが戻った後で、ギルベルトはザイロウの神之眼と一緒に、それをイーリオに渡した。
「用意は全て完了した。――イーリオ・ヴェクセルバルグ、獣の王たちを率いる王の王よ。これより貴方を、我が古巣、天の山へと案内仕りましょう」
ギルベルトの宣言が契機になり、レオポルトとクリスティオの二人の王が、同時にイーリオの前で跪く。
またそれに倣い、クラウス、コンラート、ブランドとギルベルトも同じように跪いた。
「え? え? 何――?」
「イーリオ・ヴェクセルバルグ。そしてゴート帝国の先帝オーラヴ・ゴートにして七代目カイゼルン、七代目の百獣王を継ぐ者よ。我ら獣王の騎士は、これより貴方の王騎士となり、この地を死守致します」
「クリスティオ・フェルディナンドも右に同じ」
いきなりの行いに、イーリオも銀月団の団員らもどうしていいか分からなくなる。
そんな中、皮肉めいたように片頬に笑いを浮かべたクリスティオが、小さくイーリオに呟いた。
「これがガリアン血盟だ」
「え――国と国が協力し合うっていう――」
「違う。さっきも言っただろう、三賢紋の継承者に仕える事がそうだと。その時、国の君主という立場は全てなくなる。何故なら大陸帝国の主こそが、全土の盟主だからな。この時より俺たちは、各地を治める王位に就きながらも、お前のための騎士にもなった。獣王の騎士として王も騎士も集う事。それこそがガリアン血盟の意味だ」
「いや、でも何で僕が」
「血盟を交わした各国にはそれぞれに役割がある。例えば俺のアクティウムは、元々ガリアン帝国の血脈を受け継ぐのがその役割だった。以前の王朝であるピサーロ家は、ガリアン帝国皇帝家の血脈に連なるからな。だがそれは俺の祖父が倒した事でなくなった。同じくゴート帝国も超帝国の後継国家だから、血脈を伝えるのがその役割だった」
ここで一旦言葉を区切ったのは、今のゴート帝国にはその血脈が途絶えているという意味があったからかもしれない。続いてレオポルトが話す。
「そして我がメルヴィグ王家は、古く辿ればガリアン帝国の大貴族に連なる。その血盟における役割は――継承者の選出だ。メルヴィグ王が命を代償に選んだ者こそ、継承者として認められる。そしてキミは、真の霊化玉を受け取った事で、継承者に認められた」
「そんな――いきなり話が飛躍して、僕にどうしろと――」
「これは形式だよ」
「形式?」
「そう。とりもなおさずこんな事をするのは、ヘクサニアの脅威――ひいては古代から続く魔導士たちの陰謀を阻止するため。断言出来るが、これはメルヴィグやアクティウムだけでなく、大陸中の諸国家が共通に抱いている思いだ。そのためには各国家が力を合わせてこれに対処せねばならない。まさにガリアン超帝国のようになってね。けれどもそれには各国の君主がそれぞれ上に立っていては駄目だ。どれほどの国々が共通の思いで結集しても、まとまりがなければそれは烏合の衆になってしまうからね。だからそのために、大陸中が納得する共通の旗頭が必要になってくる。つまりキミには、ヘクサニアという脅威に対抗する象徴になってもらうというわけだ。何も本当に皇帝になって、全土を統治してくれというわけじゃないよ」
「象徴……僕が?」
「難しく考えるな。ようは偉そうにふんぞり返ってればいいのさ」
クリスティオが補足で言うも、戸惑いが捨てきれないイーリオ。彼が悩んでいる内に、その言葉に続いたのはブランドだった。
「カイ殿が私までここに呼ばれたのは、私に後を託した、そういう事なんですね?」
ギルベルトが頷いて答えた。
「ええ、そうです。ブランド・ヴァンなら、自分よりも遥かに先を見通す知恵があり、己よりも鋭い策謀を巡らし、敵の奸計を見破る頭脳がある。貴方がいれば、大丈夫――そう、カイ殿下は仰ってました」
「カイ殿以上の知恵があるなど、買い被り以外の何物でもありませんよ――と言いたいところですが、命を懸けられたカイ殿の意思に応えねば、騎士とは言えますまい。不肖、このブランド・ヴァン、皆様の、そしてイーリオ・ヴェクセルバルグ様の目となり耳となり、また立ち向かう剣となりましょう」
仮面で顔は見えず、氏素性も曖昧な男だが、その言葉には信頼出来るものが宿っていた。でなくば、カイも他国の人間に後事を託したりしないだろう。
しかしいくら説明をされたとはいえ、己よりも遥かに身分の高い王達や国の最高位にいる人間らが自分の目の前で跪くなど、どう受け容れていいものかわからない。カイの死による衝撃もさる事ながら、まだイーリオは混乱したままだった。
「イーリオ様。戸惑われるのも無理からぬ事でしょうが、一つよろしいでしょうか」
決意の言葉に続いて、ブランドが仮面の顔をイーリオに向ける。
「カイ殿はきっと、貴方が国と国を繋ぐ王たちの王に相応しいと、信じておられたはずです」
「王たちの王だなんて、そんな――」
「貴方の後ろを見てごらんなさい」
ブランドの言葉に、イーリオが振り返ると、彼を凝っと見つめるレレケやユンテやシーザーといった銀月団の皆の目があった。
「貴方が〝仲間〟と呼ぶ彼らは、貴方を慕い、貴方に率いられる事を望んで従う者達ではないですか? それは仲間でもあるが、人はそれを部下とも言うでしょう」
「みんなを部下だなんてそんな事」
思った事など一度もないとイーリオは言う。
けれども。
「私は、もう貴方は一人だけの貴方ではないとお伝えしたいのです。貴方はもうとうの昔に、誰かや何かの上に立つ人物になっているという事です。そしてそれは遠からず、もっと大きなものになる。大勢の、もっともっと沢山の人々が、貴方を敬い、貴方に従う。そんな風になるでしょうし、そうならなくてはいけない」
それは押し付けられてるのではないか――そんな言葉が喉元にまでせりあがってくるが、それを出す前にブランドが続けた。
「ただです。皆を従える――王のような存在と一口に言っても様々です。ここにおわしますレオポルト陛下のように治められる方もいらっしゃれば、ハーラル帝のような治め方もあります。アンカラのセリム聖帝のような形もありますし、我がクリスティオ陛下のような王もおられる。王と言えどもそれすら様々です。けれどもその誰もが、王たるに相応しいものを持っている。だから皆、〝上に立つ者〟になっているのです」
「王の資格……のようなものですか? 上に立つのに相応しいもの……?」
「それは――希望です」
「希望――」
「はい。例えいかなる悲痛や苦難があろうとも、絶望にその身が刻まれようとも、いついかなる時、どんな時でも、皆に希望を抱かせられる者。それこそが上に立つ者。カイ殿は、貴方ならば上に立つ王たちにすら希望を与えられる――そう確信したからこそ、自らの命を捧げたのだと、私は思います」
そんな風に聞かされても、一体自分がどうやったら希望を与えられるのかなんて分からない。
どう受け止めるのが一番なのか悩んでいると、レレケが側に近付いて告げた。
その言葉が、全てを決める。
「イーリオ君、貴方にもシャルロッタとザイロウという希望があるでしょう。それを疑いはしませんわよね? 私たちはそこに貴方も加えている。それだけなんです。貴方はそのままの貴方でいればいい。だって銀月団のみんなは、貴方だから着いてきているんですから。それが王でも民でも誰でも、きっと一緒ですよ。ね?」
彼女の後ろにいる〝仲間〟たちが頷く。
他の皆も、同様だ。
イーリオは、手に握ったザイロウの神之眼と霊化玉に目を落とした後、顔をあげて言った。
「僕は多分、王や皇帝なんて、上に立つような人間にはなれやしないと思う。だけど――」
誰かが「イーリオ」と名前を呼んだような気がした。それは気のせいだったのかもしれない。
「僕は僕のまま、やれる事をします。それでも、いいでしょうか?」
「勿論だよ」
レオポルトが優しく言った後、「それでいいさ」とクリスティオも続いた。
台座の上に横たわるカイがもしまだ息をしていたのなら、きっと彼も微笑んで頷いてくれただろう。
イーリオはそんな風に思った。
それはまた、ここにいる全員もそうだった。




